つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

湖上を歩く

2005-08-05 16:12:44 | キリスト教(カトリック)
昨日の聖書研究会で読んだところです。
今週の土日に読まれる箇所、マタイ14章22~33節。

実はここ、イエスが何をもってペトロに「信仰薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われたのか疑問だったのです。
…まぁ、確かに先生と仰ぐイエスが湖上を歩いてきたらたまげるのも当然ですが、顔見て声聞いたらイエスかどうかはわかりそうなものです(だから「幽霊だ」と最初騒いだのかもしれませんが)。
で、ペトロが「主よ、あなたでしたら…」と言って側まで歩いていこうとするが、風の強さに恐ろしくなって沈みかけ、「主よ、助けて下さい」と叫ぶと、イエスが手を掴んで下さり、「信仰薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言う。
そして船に戻ると、船にいた人びとは「本当にあなたは神の子です」といった、という話ですが、ペトロは「何」を疑ったのでしょう?

候補は二つ。
1.湖上を歩いていたのがイエスであるかどうか。
2.イエスを信頼して歩き始めたにもかかわらず、風におびえたこと。

神父様のお話では、初期教会について例えた話だとのことで、船は教会、人びとは初期のキリスト者だそう。
で、この場合は1にあたる、とのこと(とはいえ、正確にはどっちだかわからない、とおっしゃっていましたが)。
ただ、イエスが刑にあったあと、墓にイエスがいないと探したマグダラのマリアにイエスが現れたことと比べて、ペトロのことを話しておいででした。
…確かにマグダラのマリアとペトロとでは、マグダラのマリアの方が信じにくい場面です。

ところが、今日、サンパウロのHPを見たら、解答が2に。
雨に気をとられず、イエスだけを見なければならないと。
…神父様によって、解釈もちがうものなんでしょうか??

まぁ、歴史書の場合も、学者によって意見が割れるものですが…。

結局、自分自身はどっちの解釈がすっきりするかというと…しいていえば1でしょうか。
2もわかりやすいのは確かなんですが…湖上を歩く、なんて普通では絶対できないことをしている上に、揺れたら怖いだろうなとペトロに同情してしまうので。
それなのに先生に「なぜ疑ったのか」と叱られたら…私ならショックだから(苦笑)。

…しかしこんな私でキリスト者としていいものなんでしょうか。
ちょっと悩みます。
コメント (2)
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