つれづれごと。

SD他、管理人葉月の日常の中で思うことを綴ります。※SDに関しては、必ず5/29「はじめに」をお読み下さい。

待降節

2006-12-03 23:13:14 | キリスト教(カトリック)
今日から待降節ですね。
落ち込みすぎて家から出る気にならなかったのですが、所用あって頑張ってミサに出ました。
…でも、こんなに行きたくない気持ちで行ったのも初めてです(苦笑)。

ミサに出ていて、神父様の言葉に触発されてーか、ふと、こんなことを考えました。
「私はあの子(うさぎ)を亡くしてこれほど辛いなら、神様はイエス様が十字架に至る刑を受けている間中、どんな思いだったのだろうか?」

不敬かもしれませんが、この思いが私に力をくれました。
重ね重ね不敬ですが、私はあの子(うさぎ)に傷1つでも付けた人間がいれば、相手を決して許さないでしょう。怒りでどこまでやり返すか、考えたくもありません。
キリスト者として不適であっても。
端から見たら、それは行き過ぎと思われようと、私にとってはそれだけ大事な子です。

そして、初めてマリア様の苦しみも理解できたような(実際は私の理解を越えていると思いますし、そんな状況に立ちたくはありませんが)気がします。
初めて、胸が痛む程その思いを感じました。

そうしたら、不思議なことですが、何となく楽になったのです。

それで、ミサが終わって、神父様にこのところの落ち込みようをお話しました。今まではお話できる程にも気力がなかったので。

神父様からは、成長の機会、離れて初めて分かることもある、役に立たないことは1つもない、といわれました。
また、小さいものの主である神は、あの子を決して見離しはしないことも。
キリスト教では、人間以外は魂を持たぬもの、としていると思っていたので、これはとても嬉しかったです。

それから、実は苦しい時には祈りは容易い、言葉数はいらない、「アッバ」と祈ればいいのだから、とも言われました。
神父様には言いませんでしたが、私が苦しくても祈れなかったのは、「生き返らせて下さい」とは祈れないー叶えて頂けないからーと思っていたからです。
そして、私が祈るとしたら、これしかありませんでした。
病気になって、容態が急変して、「助けて下さい」とずっと祈っていたのだから。
それは聞いて頂けなかった。
だから、今さら「生き返らせて下さい」と祈ったところで、それは聞いて頂けなかったでしょう。
それを、まったく祈らなかった訳ではありません。
獣医さんが心臓マッサージをしている間、ずっと祈っていましたから。

だから後は、何も祈ることがありませんでした。
自分が苦しい、と自覚したのはここ最近ですし、だからといって、それがどうにかなるとも思っていなかったので。
苦しさをなくしたいという意志もありませんでした。

あとは、「もっと苦しい人もいるのだから」(この言葉は正確ではありませんが)だったと思います。
これは、ああやっぱり言われたな、言われたくなかったけど、という感じでした。
でも、先述の思いがあったので、それほどひっかかりませんでしたが。

神父様の言われたのは、正しいのです。
が、「もっと苦しい」という言葉で表される何か、を具体的に考えられる程冷静なら、そもそも苦しんでいません。
自分の苦しみだけで手一杯で、人様のことまで考える余裕はありません。
具体例を出されても…この状況では反発するでしょうね。だって回す頭がないんですから(苦笑)。

それこそ天啓?のおかげで、その通り、と受け入れることができましたが…。いや、あの天啓がなかったらキレてたかもしれません(かなり参っていたので)。
だから今まで黙っていたのですが(絶対言われると思っていたので。実際言われたし)。

お話できたことで、かなり楽になりました(自分でも不思議です)。
…で、勢いでサンパウロと女子パウロに出かけてきました(←趣味に走ってます)。

今日から待降節ですが、やっと私も主の来臨を待ち望む精神状態になれたようです(昨日までなら何にも考えたくなかったので)。
コメント
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