1.外灘から見た和平飯店(旧サッスーン・ハウス)。右は中国銀行、左は和平飯店南楼。
2.南京東路に面して3つの入口があり、一番右手(東側)の入口を入るとロビーとホテル・フロントがあります。
3.1階商店のショ-ウインドウには可愛らしいクリスマスの飾りがお目見えです。
4.ホテル内部より東側入り口を撮影。左がホテルカウンター、右がロビー。
内部のインテリアは壁は木目調大理石にフランス製黒大理石の縁取りが使われており、桃の芯をデザイン化したパネルが嵌められています。
5.中央の入り口から入ると中央フロアがあります。
4方に回転ドアがつけられた八角形の中央フロアにはクリスマスツリーが置かれています。
6.その吹き抜けの上には八角形の天蓋が設けられ、柔らかな太陽光が差し込んでいます。
7.中央出入口天井にもおしゃれなイタリア製シャンデリアが下がっています。
8.ホテル内部から中央入り口を撮影。和平飯店南楼の赤いレンガが見えます。
吹き抜けから見える風景は、ここがアジアだと言うことを忘れさせてしまいますね。
9.外灘側の外壁にはオーナーだったサッスーンの名前を残すプレートが掲げててあります。
1996年に国家重点文物保護単位にも指定されています。
サッスーン一族の壮大な故事
遡ること1833年、人種差別によりバクダッドを追われインドボンベイで貿易会社を起業したユダヤ人サッスーン家の第一代頭首デビット・サッスーンは、1844年に香港支店を開設し、その2年後にアヘン貿易に参入するために上海支店を設置しました。
彼は中国にアヘンと英国製綿布を輸出し、絹、お茶、銀を輸入しました。その結果、中国で消費される高質なアヘンの1/5は彼の手配する船で運ばれるまでになりました。
彼が亡くなった後、彼の長男が中国のビジネスを引き継ぎ、次男はボンベイに新サッスーン会社を興しましたが、20世紀初頭、上海サッスーンは業績が悪化し、ボンベイの新サッスーン会社がその事業を引き継いでいました。
サッスーン・ハウスを建設したビクター・サッスーンは1881年、ナポリで生まれましたが、そこは一族がバクダッドを追われインドへ来る途中両親が滞在した場所でした。
一族はインドの成功により既に英国の支配者階級の一員となっており、ビクターは英国で育ち英国の教育を受け生粋の英国人となりました。
1914年英国が第一次世界大戦に参戦すると愛国者ビクターは王立航空隊に志願しましたが、不幸にも航空事故で両足を負傷し一生2本の杖に頼って歩く体になってしまいました。
退役後1916年にボンベイの新サッスーン会社を引き継ぎ、1923年には上海サッスーン会社を再興するために4代目頭首となって上海へやっていました。
彼は上海到着後10年の内に30以上の会社を興し、一家の事業を拡大し一大帝国を築き上げました。
サッスーン・ハウス以外にも中国沿岸では最大のビル「河浜大楼」、「福州大楼」「錦江飯店北楼」「錦江飯店貴賓楼」その他中国人用住宅、商店、芸場や事務所などを建設しました。
1940年代、上海には10階建てのビルが8棟ありましたが、その内6棟がサッスーン会社の所有でした。
大小の建物1900棟以上と40万m2以上の土地を所有し、その賃貸料収入は年間350万両銀で、名実共に上海一の不動産事業者となりました。
1931年日本は満州国を建国し、次に「東洋のパリ」と呼ばれたアジア最大の金融センター上海を手に入れるためその触手を伸ばしてきましたが、ビクターが実権を握る上海租界にはまったく手を出すことができませんでした。
日本が英米に宣戦布告した1941年、彼は上海を去りボンベイに逃れ、上海の彼の資産は日本軍が接収してしまいます。
第二次世界大戦後、ビクターは国民党が崩壊する前に大半の資産を売却し資金を英国へ還元したあとバハマ諸島ナッソウへ企業の本部を移しました。
そこで自由な国際的事業を展開し1961年ににその地で亡くなりました。
78歳まで独身を通した彼は病魔に倒れ、最後にアメリカ人看護婦と結婚し、彼女が莫大な財産を相続することになりました。
サッスーン・ハウスは1952年に上海市人民政府の所有となり、1956年に改修後「和平飯店」と改名しホテル業務を再開しました。
10.ちょっと古風なイメージに仕上げました。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS