上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

上海ライブ2014:汾陽路のスペイン風邸宅

2014年05月07日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.以前は税関の施設で一般人は立ち入ることができませんでしたが、今ではホテルとして運営されています。
敷地内にある洋館は上海優秀歴史建築に指定されています。

2.ホテル名は「汾陽花園酒店」。



3.入口すぐ右手にある洋館ですが、今は喫茶店として利用されています。



4.南側の庭へ回り撮影しました。



5.建物は1932年に税関の「総税務司:租界の税関長で歴代外国人が任官」の住宅とて建築されました。



6.抗日戦争勃発後は中国人副税関長「丁貴堂」の住居となりました。


彼は共産党地下組織と関係があり、組織に資金的援助もしていました。

7.彼は税関の立場を利用し、蒋介石が多くの物資を船に積み、台湾へ運ぶ際には妨害工作をしました。



8.気が付かずに通り過ぎてしまいそうですが、汾陽路側に喫茶店の目立たない入口がありました。


想像ですが、中国各地の税関建物がとても素晴らしいのは、革命に協力した彼のおかげかも知れませんね。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4L IS

上海ライブ2014:「四明村」は文化人が多く住む里弄だった

2014年05月03日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.「四明村」の北側入り口。
南北の中央の通りから両側に魚の骨のように行き止まりの路地が東西に並び、南側は「巨鹿路」へ出られます。

2.優秀歴史建築のパネル


入口前には誇らしげに優秀歴史建築のパネルが掲示されています。

3.文化名人の名簿


入口を入った右側にこの村に住んでいた文化人の名前が掲示されています。

中央2行目「徐 志摩」現代詩人。21歳で米国留学、24歳で英国留学。
作品を発表しながらいくつもの大学で教鞭をとりますが、34歳の時北京へ向かう途中飛行機事故でドラマチックな一生を終えます。
生涯3人の女性と結婚・2度の離婚をします。

18歳で最初の妻を娶ります。妻は名家の出自で夫に尽し子供を養育しますが「愛のない結婚」と離婚。
2回目の結婚。英国留学中にやはり名家出身容姿端麗、才女との誉れ高い17歳の女性と再婚。
しかし29歳で2番目の妻とも別れ、3回目の結婚をします。

相手は夫のある有名な女流画家(中央4行目の「陸小曼」)、当時は新聞紙上を沸騰させたそうです。
女流画家はアヘン常習者で浪費家。妻を愛する徐志摩は已む無くいくつもの大学を掛け持ちで働かなくてはいけませんでしたが、
その事が彼の死期を早めました。

北京へ重要な学術報告のために向かった徐志摩、旅費の節約のため搭乗した郵便飛行機が濃霧のため済南の山に接触墜落、短い生涯でした。
芸術家は自分に妥協することなく、真実の愛を追い求めたのでしょうか。

後日談。
1番目の妻は才覚があり、離婚後ビジネスで成功し銀行なども創設、56歳で再婚し天寿を全うします。
2番目の妻は別れた夫の飛行機事故の破片を一生手元に置き、文学青年のための「徐志摩基金」を創設しました。
3番目の妻は夫の「全集」出版をライフワークとし62歳まで生きました。

「詩人を愛した3人の妻」、ドラマのストーリーになりそうな話ですね。

4.少区に入れば静かな家並み。



5.10年前と違うのは自家用車の駐車が増えたことですね。



6.行き止まりの路地


一戸の入口は一つで、奥に小さな庭と水回りがあります。典型的な長屋(テラスハウス)形式ですね。

7.住宅脇の小さな緑地に植えられた樹木も枝を広げています。



8.ミシン掛け


天気の良い日は表で家事。

9.地元の診療所


地区の小さな診療所があります。

10.巨鹿路の入口


入口には一応警備員がいますが、通り抜けは自由です。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4L IS

上海一美しい建物:上海ライブ2014年ダイジェスト(22)

2014年05月02日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.「白公館」は国民党参謀部総長「白崇禧」の邸宅でした。
「白崇禧」回族。1893年広西桂林に生まれる。
1909年広西省立初級師範学校試験に2番で合格。
1914年陸軍軍官学校に第三期生として入学、卒業後桂軍第一師団に任官。
1937年抗日戦争暴発、軍事委員会参謀本部副参謀総長兼軍訓部部長等歴任。
国民党軍隊高級将校の中では知将と謳われ「小諸葛」とも呼ばれた人。
抗日戦争の桂南会戦を指揮し、国民党が初めて日本軍に勝ち、蒋介石に対抗できる力量がある人物とされた。
1946年に国民党国防部長に昇進、蒋介石の追い落としを画策した。
しかし1948年に蒋介石の反攻で国防部長を罷免され、武漢へ左遷される。
その半年後、蒋介石が下野し南京へ返り咲き共産党との和平案を唱えるが、時すでに遅く共産党が長江を渡河、1949年台湾へ逃亡。
1966年台湾で病死。

2.フランス古典主義風格の建築「白公館」。


1930年代の建築。

3.建築後、テラスをガラスで覆う改修がされたようです。


大きなガラス張りのテラスが気持ちの良いレストランです。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4L IS

上海ライブ2014:「上海市福利少年宮」は豪華宮殿だった

2014年04月30日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.旧「嘉道里公館(Kadoories公邸)」は18世紀宮殿様式の邸宅。
旧「嘉道里公館」は租界時代の上海3大ユダヤ人財閥の一人、Sir Elly Kadoories卿が1920年から建設を始めた公邸でした。

2.「上海市福利少年宮」


現在は宋慶齢が創設した静安区の少年少女の福利活動拠点として使われています。

3.豪華な邸宅


建設着手から4年後、敷地面積15,000m2に4,692m2、2階建て部屋数20の公邸が完成しました。

4.イタリアから輸入した大理石


当時世界最高の資材が使われ、建設資金は当時の金で500万ドルに相当したそうです。

5.ユダヤ人たちの社交場として使われていた公邸は、太平洋戦争が始まると旧日本軍に接収されます。


カドゥリー一族は閘北区のユダヤ人収容所に収監され、当主カドゥーリーはそこで病死します。

6.日本の敗戦後は英国人、米国人、オーストラリア人の娯楽所として使われていました。


公邸近くの小屋に幽閉されていたカドゥーリー一族の長男は香港へ移住します。

7.上海虹橋の外人墓地に眠る当主カドゥーリー。


今でも上海の外人墓地に当主カードゥーリーは、不幸なロンドンの火災で失った最愛の妻と伴に眠っていますが、
香港へ渡った息子は事業で成功し、現在では世界100位に入る大富豪となり世界的なホテルグループも運営しています。

上海外灘の「ペニンシュラーホテル」 こそ子孫カドゥリー一族が建てたホテルです。

上海の古い洋風建築には映画を見るような様々な歴史ドラマが秘められていますね。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4L IS

上海ライブ2014:「玉仏禅寺」

2014年04月14日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.大雄宝殿の仏像
玉仏寺は上海では数少ない中国を感じさせられる場所です。

2.「大雄宝殿」


暖かくなって海外からの観光客も増えてきました。

3.「読経」の声


大勢の僧侶による法要が行われていました。中央の黒い服が信徒でしょうか。

4.黄金に塗られた仏像は豪華です。



5.力強い仏像


剣を持って邪悪を撃ち払うのでしょうか。

6.上海市の優秀歴史建築にも指定されています。



撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4L IS

上海ライブ2014:旧「内外綿社員住宅」普陀区澳門路

2014年01月15日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.「澳門」は中国語で「マカオ」のことです。中国の都市名がついている場所は古くからの通りです。

2.別の目的地を探していましたが、古るそうな住宅街が有ったので思わず入ってみました。



3.ここは租界時代の日本の紡績企業の日本人社員の社宅だったのです。



4.ちょっと古ぼけていますが、今でも立派な住宅です。



5.中は拝見できませんでしたが、恐らく玄関から床が1弾高くなって、沓脱があるのでしょうね。



6.ここで生まれ育った方がご存命なら、きっと懐かしい場所でしょう。


高い塀で囲まれた住宅は社員の職位に応じ5段階のクラスがあり、中にはテニスコートやブランコなどの遊び場もあったそうです。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS



上海ライブ2013:郵便博物館もある「上海郵政大楼」(2)-虹口区北蘇州河路

2013年12月30日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.江沢民の題字。彼は上海交通大学の卒業生でもあります。

2.2階は1200m2の郵便局フロアで、今でも郵便業務が行われています。す。



床はモザイクタイルが敷き詰められ、天井の装飾は宮廷式。両側に木製受付カウンターがあり、その豪華さは当時「極東一」と賛美されました。

3.同じ2階にある博物館入口。



4.中国の古代の郵便システムから順に現代にいたるまで、郵便の歴史が展示されています。



5.甲骨に掘られた手紙。(殷の紀元前16ー11世紀)


内容は辺境の部隊から本国への現状報告文だそうです。

6.秦代(紀元前221-206年)の軍隊の符牒。


右は皇帝が持ち、左は派遣部隊長が持っていたそうで、敵味方を識別する方法だったのでしょう。

7.展示フロアを出ると、建物中心部は吹き抜けになっています。



8.屋上庭園はまだ整備中だそうで登れませんでした。


屋上の塑造や外灘の景色が撮影できなくて残念でした。

9.吹き抜け1階には郵便列車や自動車・馬車などの展示があります。



10.出口近くには清代の郵便局が再現されていました。


屋上庭園が解放されてからまた来てみましょう。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2013:郵便博物館もある「上海郵政大楼」(1)-虹口区北蘇州路

2013年12月28日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.蘇州河の南岸から見た「上海郵政大楼」。
民国3年の1914年に万国郵便連盟に加盟した中国は、租界各国が独自の郵便事業を行っていたものを統一し、
1915年に「天津駅郵政大楼」、1922年「北京天安門広場郵政大楼」を建設し、1924年3番目の「上海郵政大楼」を建設しました。
上海にある13の全国重点文物保存単位の一つで、先の2棟は現存しませんので、上海郵政大楼は秀明期の中国近代郵便の歴史を語る唯一の生き証人です。

2.南側と東側には古代ローマ様式の巨大柱が再現されています。


地上4階地下1階建て、17世紀のイタリアバロック式風格の建築で東南角には高さ30mの尖塔が聳え、正面に直径3mのローマ数字の時計が今なお時を刻んでいます。

3.重厚な木製の扉が波乱の時代を生き抜いた風格を感じさせますね。



4.北側は天潼路に面しています。



5.古風なトロリーバスが通れば良く似合う裏通りですね。



6.前回来訪した時、博物館は改装中で閉館していました。



7.開館日が水・木・土・日と変則的ですが、博物館は無料で見学できます。



8.入口を入り、すり減った床の螺旋階段を2階へ上ってみましょう。



撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2013:東洋一の豪華ホテルだった「浦江飯店」虹口区黄浦路

2013年12月25日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.「外白渡橋」を渡った交差点から撮影した「浦江飯店」。ここは全体が見渡せる撮影ポイントです。

2.黄浦公園から見た「外白渡橋」と、かつて「ブロードウェイマンション」と呼ばれたホテル「上海大厦」。



3.「外白渡橋」も優秀歴史建築の指定を受けています。


租界当時のTVドラマにも度々登場しますが、あれは上海映画村にある野外セットです。

4.「外白渡橋」を渡り交差点から右が黄浦路。



5.「浦江飯店」が掲示した優秀歴史建築のパネル。



「旧礼査飯店、上海開港以来第一の西洋式ホテル。創建は1846年、英文名はリチャードホテル、創業者のリチャード・アスター(船長)から名付けられた。
1857年に「外白渡橋」の北側の現地へ移築しアスターハウスホテルと改名した。中国名は礼査飯店のまま。
1907年に新瑞洋行の設計で一部鉄筋コンクリート造り、一部煉瓦造りの新古典式イタリアバロック建築で拡張した。
当時上海で最も豪華な西洋式ホテルで、中国いや東洋で最も著名なホテルだった。
創建後150年たってもなお当時の英国建築スタイルを残す歴史遺産で、補修をし経営している。」

手元資料では一連の船長による経営が続いたが、1860年にヘンリー・スミスに売却、彼がアスターハウスホテルと改名しました。
更に1923年には和平ホテルとともに「香港ホテル」に売却、この香港ホテルはこれを期に社名を「香港上海ホテル」と改名。
この会社はユダヤ系英国人カドゥリー家の所有会社で、彼らの末裔が現在の「ペニンシュラーホテル」のオーナーです。
初代Ellis Kadorieの墓は今でも宋園路の外人墓地に残っています。
香港上海大酒店有限公司」のHPにある「Our Histly」には「Sir Elly Kadooriey & Sons」の写真を見ることができます。

6.右手がホテルの正面入り口。


5階建てで客室は200室、5台のエレベータ設置。
発電とボイラー設備があり全館で2000個の電燈を灯し、冬は暖房、夏は扇風機が使用可能で、各部屋は24時間温水衛生設備がありました。
ダンスフロア、喫煙室、理髪室に撮影スタジオ、バーにビリヤード室などの娯楽施設があり、1913年には初めてトーキー映画を上映しました。
600人収容のレストランには30トンも貯蔵できる食品冷蔵庫も設置しており、どれをとっても20世紀初頭の最高のサービスを提供していました。

7.上海市が指定した優秀歴史建築のパネル。


ドイツ人科学者アインシュタインや喜劇王チャップリンなど、世界中の著名人が宿泊した部屋が残されています。
4階の吹き抜けホールはホテルの歴史や著名な宿泊者を紹介する展示室になっていますが、宿泊者以外でも閲覧できます。

1949年に「浦江飯店」に改名、お隣の上海大厦などとともに上海衡山集団の傘下となっています。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2013:「和平飯店のメリークリスマス」黄浦区外灘

2013年12月23日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.外灘から見た和平飯店(旧サッスーン・ハウス)。右は中国銀行、左は和平飯店南楼。

2.南京東路に面して3つの入口があり、一番右手(東側)の入口を入るとロビーとホテル・フロントがあります。



3.1階商店のショ-ウインドウには可愛らしいクリスマスの飾りがお目見えです。



4.ホテル内部より東側入り口を撮影。左がホテルカウンター、右がロビー。


内部のインテリアは壁は木目調大理石にフランス製黒大理石の縁取りが使われており、桃の芯をデザイン化したパネルが嵌められています。

5.中央の入り口から入ると中央フロアがあります。


4方に回転ドアがつけられた八角形の中央フロアにはクリスマスツリーが置かれています。

6.その吹き抜けの上には八角形の天蓋が設けられ、柔らかな太陽光が差し込んでいます。



7.中央出入口天井にもおしゃれなイタリア製シャンデリアが下がっています。



8.ホテル内部から中央入り口を撮影。和平飯店南楼の赤いレンガが見えます。


吹き抜けから見える風景は、ここがアジアだと言うことを忘れさせてしまいますね。

9.外灘側の外壁にはオーナーだったサッスーンの名前を残すプレートが掲げててあります。


1996年に国家重点文物保護単位にも指定されています。

サッスーン一族の壮大な故事

遡ること1833年、人種差別によりバクダッドを追われインドボンベイで貿易会社を起業したユダヤ人サッスーン家の第一代頭首デビット・サッスーンは、1844年に香港支店を開設し、その2年後にアヘン貿易に参入するために上海支店を設置しました。
彼は中国にアヘンと英国製綿布を輸出し、絹、お茶、銀を輸入しました。その結果、中国で消費される高質なアヘンの1/5は彼の手配する船で運ばれるまでになりました。
彼が亡くなった後、彼の長男が中国のビジネスを引き継ぎ、次男はボンベイに新サッスーン会社を興しましたが、20世紀初頭、上海サッスーンは業績が悪化し、ボンベイの新サッスーン会社がその事業を引き継いでいました。

サッスーン・ハウスを建設したビクター・サッスーンは1881年、ナポリで生まれましたが、そこは一族がバクダッドを追われインドへ来る途中両親が滞在した場所でした。
一族はインドの成功により既に英国の支配者階級の一員となっており、ビクターは英国で育ち英国の教育を受け生粋の英国人となりました。
1914年英国が第一次世界大戦に参戦すると愛国者ビクターは王立航空隊に志願しましたが、不幸にも航空事故で両足を負傷し一生2本の杖に頼って歩く体になってしまいました。
退役後1916年にボンベイの新サッスーン会社を引き継ぎ、1923年には上海サッスーン会社を再興するために4代目頭首となって上海へやっていました。
彼は上海到着後10年の内に30以上の会社を興し、一家の事業を拡大し一大帝国を築き上げました。
サッスーン・ハウス以外にも中国沿岸では最大のビル「河浜大楼」、「福州大楼」「錦江飯店北楼」「錦江飯店貴賓楼」その他中国人用住宅、商店、芸場や事務所などを建設しました。
1940年代、上海には10階建てのビルが8棟ありましたが、その内6棟がサッスーン会社の所有でした。
大小の建物1900棟以上と40万m2以上の土地を所有し、その賃貸料収入は年間350万両銀で、名実共に上海一の不動産事業者となりました。

1931年日本は満州国を建国し、次に「東洋のパリ」と呼ばれたアジア最大の金融センター上海を手に入れるためその触手を伸ばしてきましたが、ビクターが実権を握る上海租界にはまったく手を出すことができませんでした。
日本が英米に宣戦布告した1941年、彼は上海を去りボンベイに逃れ、上海の彼の資産は日本軍が接収してしまいます。
第二次世界大戦後、ビクターは国民党が崩壊する前に大半の資産を売却し資金を英国へ還元したあとバハマ諸島ナッソウへ企業の本部を移しました。
そこで自由な国際的事業を展開し1961年ににその地で亡くなりました。
78歳まで独身を通した彼は病魔に倒れ、最後にアメリカ人看護婦と結婚し、彼女が莫大な財産を相続することになりました。

サッスーン・ハウスは1952年に上海市人民政府の所有となり、1956年に改修後「和平飯店」と改名しホテル業務を再開しました。

10.ちょっと古風なイメージに仕上げました。



撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2013:旧上海四大百貨店(4)「大新公司」黄浦区南京東路

2013年12月21日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.西蔵中路の西側から見た旧「大新公司」建物。現在は上海第一百貨店が営業をしています。

2.南京東路の歩行者天国の入口北東角に立地します。



3.現在、西蔵中路の反対側には1993年に開業した「新世界商場」も営業しており、南京東路一番の好立地となっています。



4.1916年に「泥城浜」と呼ばれた運河が埋立てられ西蔵中路ができていましたが、租界の中心はまだ東だったのでしょうか正面玄関は東南の角にあります。


壁面には青島産黒色大理石が使用されているそうです。

5.現在はテナントにユニクロなども入店していますね。



6.1階は化粧品売り場などが並ぶ一般的な百貨店風景です。



7.南京東路側入り口には「大新公司」のプレートが掲示されています。



旧「大新公司」の歴史

地下一階地上九階建ての建築面積28000m2、8台の米国製エレベーターが設置されました。
四大百貨店の内、一番遅い1936年1月10日に開業しました。
開業後半月あまり、上海近郊の村々は言うに及ばす、江蘇省、浙江省の農民までが観光、ショッピングのため訪れ、門前は客で満ち溢れました。
売り場三階まである国内最初の自動エスカレーターが物珍しく、開業3日間は津波のように争って客が殺到し、止む無く金券付きの入場整理券を発行したそうです。

その頃、新聞の読者投稿欄の「大新公司の門前には<衣服ボロボロの貧民や田舎者、短いシャツやズボンの作業員や物売りは入場を制限する>と貼られている。」が発端となり、差別だと上海市民の激昂を買い問責運動にまで発展しました。
結局貼り紙を<衣服不潔、夏日に裸や裸足等の非文明、非衛生的な者の入場を規制する>と変え治まったそうです。
当時の大混乱ぶりが目に浮かびますね。

開業ほどなくして売り上げは四大百貨店の第二位に達したそうですが、新中国成立後も国内最大の百貨店の地位を保ちました。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2013:旧上海四大百貨店(3)「新新公司」黄浦区南京東路

2013年12月18日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.旧「新新公司」は「先施公司」の開店5年後、高級幹部数人が経理(社長)との利益配分で造反して資本公募で隣地に設立した百貨店でした。
開店は1926年、併設された茶室、飯店、美容院、演芸場などが人気で、特にガラス張りのラジオ放送局が話題で毎日6時間の娯楽番組やCMを放送をしていました。

1941年にラジオ放送局は火災で焼失。日中戦争勝利後に再建「凱旋電台」と呼ばれました。
新中国成立前、ラジオ放送局は新新公司内の共産党地下党員による共産党の宣伝にも利用されていたとか。
アジア地区繁華街の最先端のデパートの一つでしたが1952年に閉店。

2.第一食品は上海一の食品小売りの老舗で昨年末に店内の改装が終わり、売り場が2階にも広がり、買い物客の混雑が緩和されました。



3.第一食品の商品は安全な食品ということで、上海土産のお菓子や、地元上海人の日常の買い物にも利用されているようです。



4.1階奥に上海ブランドの土産物が売っていますので、ご覧ください。
 


5.改装後3階4階までエスカレーターが設置され、食堂街となっています。


日本の永谷園が中国の牛乳メーカーと共同出資してラーメンチェーンの経営に乗り出しました。

6.上海では日本食は人気のようで、隣に回転寿司が開店するようです。


4大百貨店の中では一番小さな建物ですが、食堂街にはちょうど良い広さかもしれませんね。

撮影:1.~4.CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS
   5.-6.CANON Powershot S100

上海ライブ2013:旧上海四大百貨店(2)「永安公司」-黄浦区南京東路

2013年12月16日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.立地的にも時期的にも「先施公司」との激烈な競争は避けられなかったようです。

2.英国古典主義様式の六階建て。



3.当時屋上に遊園地を備え、豪華なホテルも併設しました。



4.1969年に「上海市第十百貨店」と改称。



5.1987年に改装して現在の「永安公司」と改名。


現在は百聯集団の傘下となっています。

6.最上階の階段踊り場に残る永安公司「百年社訓」。


「中国で最初に西洋風経営管理を導入した」そうですが、社訓の中には「貯蓄に励み、家計は慎む」などがありました。

7.1933年、好敵手「先施公司」の屋上にそびえる摩星塔に対抗し、旧館東側に22階建ての新館を建設。


当時南京路を訪れる人々から「鶏群の一鶴:凡人たちの中で一人だけが際立って優れている」と讃えられたとか。

8.空中2か所の渡り廊下で新館と繋がっています。


1958年、上海にTV局が設立され、新館に放送局、屋上に放送アンテナが設置されました。

新旧館ともに1989年上海優秀歴史建築の指定を受けた第一級の歴史建築です。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS



上海ライブ2013:旧上海四大百貨店(1)「先施公司」-黄浦区南京東路

2013年12月14日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.西蔵中路から始まる南京東路の歩行者天国を外灘に向かって東に400mほど歩くと、浙江中路の北西角に尖塔をもった洋風建築が見えます。

2.左手に見えるのが旧「先施公司」です。



3.現在は百聯集団の傘下「上海時装商店」が衣料品中心の販売を行っています



4.7階建ての屋上には「摩星塔」と呼ばれる3階建ての尖塔があります。



5.創始者「馬応彪」が狙ったように浙江中路の交差点は毎日大勢の人出で賑わっています。



6.市内観光バスもここで一時停車します。



7. 外灘へ観光する旅行者は必ずここを通るでしょうね。



8.併設されていたホテル東亜旅社(現東亜飯店)の記念碑。現在は錦江グループのビジネスホテルとして営業しています。



旧「先施公司」の故事

辛亥革命を成功させた指導者の孫文は、世界各地の華僑に対し上海へ積極的に投資するよう働きかけましが、
孫文と同郷広州出身で豪州華僑、香港先施公司の総裁「馬応彪」はその呼びかけに応じた一人でした。

1914年、馬応彪は自ら上海に赴き上海に相応の公司を設立することを決意し、南京東路と浙江中路一帯を入念に調査した結果、
浙江中路では南から北へ向かう人の流れが多い事が分かり、南京東路の北側に店を構えることにしました。

土地の権利者である英国商人雷士徳(HenryLester)と交渉、使用料として年間銀3万両、30年間の契約で合意、約1.3haの土地を借り受け、
1915年に起工、1917年10月に7階建て、建築延床面積3万m2のバロック風建築が完成、開業しました。
特別目新しかったのは従来の商習慣にない<値切りなしの正札販売>と<女性販売員の登用>でした。

買う以外にも遊ぶ(屋上庭園)・食べる(レストラン)・見る(劇場)などの娯楽のすべて備えた百貨店で、1000人以上の従業員が勤務し、
エレベータや暖房設備もあり、約1万m2の売り場以外に、華人による国内第一の高級ホテル東亜飯店、レストランなども併設されていました。

1937年8月23日午後、先施公司は空前の大災害に遭遇しました。
白崇禧ら国民党幹部の秘密会議が開催される極秘情報を入手した日本軍は、航空機による爆撃を強行しました。
爆弾は先施公司前の路上で炸裂し、市民173人が死亡、549人が負傷、建物1階玄関と2階3階が大破し、付近10余の商店も建物に大損害を受けました。

同月13日勃発した第二次上海事変、14日には中国空軍機が誤って大世界の前へ爆弾投下、2000人以上死傷者が発生、
同月28日には日本軍機が上海南駅を爆撃、市民約250人が死亡、500人余りが負傷。

以後、時代は泥沼の状態へと突き進んで、租界も苦難の時代を耐えなければなりませんでした。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2013:虹口区「多倫路」(2)

2013年11月25日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.多倫路210号、花園住宅。

2.1920年代建築のフランス新古典主義様式。



3.南面の2階まで通る4本の飾り柱や、外壁曲面が優美です。



4.虹口区の文物保護単位にも指定されていますが、現在は診療所として使用されているようです



5.玄関上のサンルームは日当たりが良く、気持ちよさそうですね。



6.日中戦争当時の軍人「白崇禧」が住居としており、白公館と呼ばれていました。



7.白公館の正面、多倫路215号は優秀歴史建築の表示はありませんが「上海紡績老幹部活動室」です。



8.上海事変の当時、海軍陸戦隊司令官宿舎として使用されていました。


すぐ近くに陸戦隊司令部だった建物も残っています。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS