上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

引っ越しました。

2014年09月17日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
お知らせ

2010年よりスタートした「上海下町写真館2010」は、画像ファイルが制限を超えてしまいましたので新しいアドレスへ引っ越しました。

9月19日より「上海下町写真館2014」で継続しますので、お手数ですがブックマークの変更をお願いします。

引き続き宜しくお願いします。

堀川用水と朝倉水車群:朝倉市

2014年09月16日 06時00分00秒 | 国内旅行
下記お知らせをお読みください。

1.南側から見た三連水車
江戸初期の寛文2-3年(1662-1663年)に起きた干ばつを契機に、筑後川から水を引くための大工事が行われ、翌年には水田を潤す「堀川用水」が完成しました。

2.国指定史跡


平成二年に「堀川用水路水車群」として国の史跡文化財に指定されました。

3.三連水車と堀川用水


しかし、堀川用水の北側の農地は勾配があり、そのままでは山側の農地には水を送ることができませんでした。
より多くの農地を水田にするため、堀川用水の水を高く持ち上げ送るために水車が考案されました。

4.北側から見た三連水車


1780年代にはすでに稼働していたそうです。当初、水車は2連でしたが、1789年に一基が追加されたとの記録が残っています。
一番大きな水車は直径が4.8mあるそうで、三蓮水車のみで毎分約6トンの水を汲み上げています。

5.揚水の取水口


組み上げられた揚水はここから取水され水田に送られます。

6.日本疎水百選


堀川は日本疎水百選に指定されています。

7.二連水車


三連水車ののすぐ下流には二連水車も稼働していますが、二連水車がもう一基あり、付近には合計で三ヶ所あるようです。

8.日本でただ一つ


農業用水の揚水のための水車が現存・稼働しているのはここだけだそうです。

9.5年に一度


松・竹・樫・杉など良質な木材で制作されていますが耐久性が短く、5年に一度架け替えられるそうです。
地元には水車の制作や保守の技術が受け継がれているようです。

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今後とも弊ブログを宜しくお願いします。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS

「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(4):金屋町・横町 

2014年09月14日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
下記お知らせをお読みください。

1.上金屋町の大師堂
空海の木造立像がご本尊だそうです。
福岡大空襲では道路を挟んだ東側は罹災を免れました。戦後の復興事業で西側は道路(ふれあい通り)の拡幅で町は更に狭くなりました。

2.大師堂前にある上金屋町の碑




3.十三仏が見えます。



4.顎無地蔵尊


大きな仏像は「顎無地蔵尊」でしょうか。歯痛にご利益があるそうです。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS

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今後ともよろしくお願いします。

「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(3):中竪町・下竪町 

2014年09月12日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
下記お知らせをお読みください。

1.中竪町
終戦直後、引揚者たちは苦しかった逃避行を終えやっと博多へ上陸、懐つかしい祖国の土を踏みしめそれぞれの故郷へ旅だちました。

2.最高裁判所長官輩出



3.恵比須通り


最初の角を右に曲がると恵比須神社があります。

4.漁師町だった


「袖の港」の入り江があり大漁祈願で恵比須様を祀ったのが始まりでした。横には享保の大飢饉の犠牲者を弔う地蔵尊があります。

5.下竪町の遠藤邸 


この辺りは昭和20年5月19日の「福岡大空襲」では消失を免れました。

6.下竪町の碑



7.高橋邸



8.国登録有形文化財となった高橋邸


大学や公益法人が使用しているようです。

9.旧柳町


二つ目の交差点を右に曲がった辺りが旧柳町の遊郭でしたが、今では高校とマンションが建っています。

10.高杉晋作潜伏する。



11.高杉さん、博多柳町へまたどうぞ。


幕末の博多の歴史一齣です。

撮影:CANON Powershot S100

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「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(2):官内町・上竪町 

2014年09月09日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
1.浄土宗「選擇寺:せんちゃくじ」
旧蓮池町があった明治通りから竪町筋を北に進み、石堂橋へ続く一つ目の角を右に曲がるとすぐに「選擇寺」があります。
天正二年(1574年)、行誓覚公和尚が創建開山しました。

2.選擇寺ご本尊の説明


門前にご本尊の説明があります。
奈良時代の名僧行基の作と言われる阿弥陀三尊と五大力士像(金剛、竜王、無畏十力、雷電、無量力)を持つ菩薩です。

五大力には次のような謂れがあります。
慶長11年(1606年)1月13日、博多店屋町に住む渡辺九平宅に見知らぬ老人が来て、久平に五大力士像を渡して立ち去りました。
久平は自宅で像を祀っていましたが、夢枕に「選擇寺の阿弥陀三尊は同じ行基の作ゆえ五大力も一緒に祀れ」とのお告げがあり、選擇寺に奉納しました。
以後、毎年1月13日は博多商人が一年の安泰と盗難除けを願い、五大力護符受けに参詣して賑わったそうです。

3.本堂左手の墓地


近くには明治中期まで遊郭柳町がありましたので、遊郭の旦那寺となり寺の過去帳には墓のない580人もの遊女の戒名が残っているそうです。
遊女たちが亡くなっても肉親は貧しく墓も建ててやれず、楼主にも墓を建てるような慈悲心はなかったそうです。

4.唯一残る遊女の墓


雪友は柳町の妓楼「角屋」のお抱え遊女でした。
墓標右「観月智光信女」は雪友の母で、左「香誉貞薫信女」が雪友となっています。

雪友が母の永代祠堂金十両を収めて供養したので、4年後後を追うように亡くなった雪友は同じ墓に埋葬されたそうです。
雪友享年19歳、柳川生まれで本名は阿和喜と言いました。

毎年雪友の命日である6月27日頃、墓の周囲は紫陽花が咲き「紫陽花忌」として多くの遊女たちの供養が行われます。

5.「旧管内町」の碑


選擇寺へ曲がる交差点の角に「旧管内町」の碑があり、東へ進めば御笠川に架かる石堂橋があります。

6.正定寺(しょうじょうじ)


創建は建暦2年(1212年)と古く、博多奈良屋町に移りりましたが、黒田入国後に現在の地に移転しました。
福岡大空襲の火災を免れた本堂は元禄年間(1688-1704)の建築ですが、いろいろな逸話の多い寺です。

7.名島引けの「切腹の間」


黒田家が筑前に入府した際、当初は前任者小早川隆景の居城だった名島城に入城しましたが、その後福岡に新城を築き移りました。
名島城は解体され遺構は福博に運ばれ利用されましたが、これは「名島引け」と呼ばれました。

正定寺には書院が移されましたが、これが「切腹の間」だったそうです。
これは実際に切腹に使われたのではなく城には普通にこの名の部屋があり、建築様式からそう呼ばれたそうです。
天井の桟が床の間に対し平行ではなく、床の間を突き刺すように直角に作られています。

8.肥後浪人「浅野彦五郎」の墓


肥後浪人浅野彦五郎は藩主忠之の佩刀を盗んだ罪で石堂河原で斬首されましたが、川沿いの正定寺裏に首が流れ着きました。
彼の無実を信じる住職は丁重に葬り石碑を建てたそうです。

9.魚屋「八丁へ」の墓


8/22の当ブログ記事「博多カメラ散歩:古渓和尚の面影「古渓水」-博多区奈良屋町」でご紹介した魚屋「八丁へ」の墓です。

西頭徳蔵は博多古渓町の魚問屋で、商号「西浜屋」の主人でしたが、徳蔵70歳の時、御供所崇福寺の仙和尚80歳に初めて出会いました。
徳蔵は仙和尚に住居を聞かれ「東長寺近く八丁長さの塀に囲まれたところに住み、人から八丁兵衛と呼ばれて言います」と答えたところ、
仙和尚に「八丁兵衛はお前には過ぎた名だ。八丁屁でちょうどよい」と茶化されました。

徳蔵はその名が気に入り仙和尚に「八丁へ」と揮毫してもらって石碑にし、紅白餅を配り盛大に生前葬ならぬ除幕式を開催しました。
江戸から歌舞伎役者が来て来演した時には自宅に緋緞子座布団や夜具を新調し、豪勢な料理で接待を行いました。

こんな破天荒な散財で家業は傾き、広い敷地も人手に渡ったそうですが、博多商人のやせ我慢や反骨精神を地で生き、享年88歳でした。
臨終間際の言葉が「死んでから千部万部のお経より、息ある内に一分くれ」。

10.「旧上竪町」の碑


竪町筋と昭和通りの角に「旧上竪町」の碑が建っています。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 L IS

参考文献「福岡歴史探訪博多区編」


「博多旧町名歴史散歩」第9章-蓮池界隈(1):竪町筋を下る

2014年09月07日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
1.竪町筋
現在の中呉服町から下呉服町の東側は御笠川左岸に沿って寺が多く残っていますが、江戸期に黒田藩が東側の防衛ラインとして寺を集めたためとされています。

明治通りの南北はかつて聖福寺の蓮池があったことから「蓮池町」と呼ばれていました。
江戸期には蓮池町には8つの寺がありましたが、中央を東西に明治通りが開かれ市内電車が通ったため、2つの寺が移転し蓮池町は二分されてしまいました。

2.妙典寺


明治通りのすぐ北、堅町筋の東側に日蓮宗妙典寺があります。

3.木製の山門が歴史を感じさせます。



4.1381年の開山


筑後柳川に創建されましたが、慶長年間(1596年 - 1615年)現在の場所に移築されました。

5.キリスト教と仏教の宗教問答開催


慶長8年(1603年)4月、京都妙覚寺の僧「日忠」が九州布教の折、この寺でキリスト教のイルマン(宣教師)旧沢や安都と宗教論争を行ないました。

当日は博多の切支丹200名が寺に押しかけ、これを聞いた仏教徒も大挙してやって来ました。
藩では不測の事態を恐れ、警備の武士も出すという殺気立った中、日忠がイルマンを論破し勝利しました。
これを聞いた藩主「黒田長政」はたいそう喜び、橋口町(現在の須崎)にあった切支丹の寺の土地を召上げ日蓮宗の寺「勝立寺」を建ててやったそうです。

「勝立寺」は明治10年の西南戦争時には大本営が置かれたそうですが、現在勝立寺は天神4丁目の日銀福岡支店の東側にあります。

6.日蓮宗起雲山「本興寺」


16世紀始め怡土郡高租(現在の前原市)に創建されましたが、秀吉の九州征伐により高租の原田氏が没落すると姪の浜に移りました。
江戸期に更に古門戸町に移り、その後1653年に現在の位置、妙典寺の向かいに建っています。。

7.神屋宗湛と大黒天


天正10年6月1日織田信長が京の本能寺に宿泊した際、神屋宗湛と島井宗室も茶会に招かれ同宿していました。
島井宗室は戦乱に紛れて弘法大師直筆の「千字文」を持って逃げたと言われています。

その「千字文」は東長寺に現存するそうです。

8.大黒堂


宗湛の夢枕に出たその大黒天は、現在も「本興寺」に安置されています。
もともと「本興寺」は神屋家代々の菩提寺で、この大黒天をたいそう尊崇していたそうです。

撮影:CANON 5DIII + EF24-105mmIS L

博多カメラ散歩:菅原道真上陸の地「綱敷天満宮」-博多区綱場町 

2014年09月05日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
1.古くは「綱輪天神」と呼ばれていたために「つなわ」が「綱場」となったようです。
現在の本殿は南向きですが、200年前の博多図では参道は西側にあり、「下土井町」に含まれていました。

天満宮のすぐ北側には「大水道」と呼ばれる運河が走っており、
東の御笠川から西に街中を抜け博多川まで繋がっていましたが、「入り海跡」だったようです。

2.綱敷天満宮の説明


「漁師が網を輪にして敷き物にした」そうですが、恐らく海水に濡れないためか、砂浜が歩きにくかったからかもしれませんね。

3.901年に大宰府へ遷任


道真は903年に大宰府で逝去し、その地に葬られました。

4.御神灯がともる。


今でも学問の神様として、氏子による厚い信仰が保たれているようですね。

5.昭和41年の「町界町名整理事業」では133の旧町が24に整理統合され、付近一帯が綱場町になりました。


運河があったためでしょうか、現綱場町の昭和通り辺りは江戸期から「蔵本町」と呼ばれる倉庫街でした。
商圏が天神に移る前までは「綱場町商店街」も栄えていたそうです。

撮影:CANON Powershot S100

博多カメラ散歩:「萬四郎神社」と悲劇の豪商伊藤小左衛門-博多区呉服町界隈 

2014年09月02日 06時00分00秒 | ふるさとの風景
1.萬四郎神社
1667年6月、長崎警備のため長崎へ赴任した福岡藩三代藩主黒田光之は、長崎奉行から「藩御用商人の二代目伊藤小左衛門が朝鮮と密貿易(武具や馬具の私的交易)を行っている」との訴えがあったと伝えられました。
訴えたのは柳川と平戸に住むの商人の下人たちでした。

2.万四郎神社の説明


この事件の結果、長崎では小左衛門以下関係者37人が処刑、博多柳町浜の刑場では長男の勘十郎以下一族18名が処刑、更に手代ら奉公人ら20余名が那珂郡比恵河原で磔になった他、100名以上が流罪となりました。
博多にいた小左衛門の妻や妾と家人、事件に関係のない11人の船子は死罪を免れました。

3.処刑された幼い兄弟たち


御供所町の妙楽寺には伊藤家一族の墓所があり、二代目小左衛門の死後その母が建立した開山堂があります。
二代目小左衛門夫婦の墓のそばには嫡男と次男市三郎、三男小四郎、四男万之助の墓もあり、幼い男児の墓は石地蔵の姿だそうです。

4.伊藤家の断絶を防げなかった三代藩主光之


徳川幕府としては横行する私的交易を取り締まる必要があり、小左衛門がその見せしめとなりました。
当時の黒田藩は先代目藩主忠行が起こしたお家騒動(栗山大膳事件)の直後で、
三代目藩主光之は幕府への恭順を第一義とせねばならず、このような厳しいお仕置きとなったようです。

5.鄭成功と小左衛門との関係。


国際的な貿易商品「イマリの」輸出最盛期であった1650年から1682年の間、長崎のオランダ商館経由と中国への輸出量の合計は400万個を超えると言われています。
また「イマリ」の誕生には鄭氏一族による技術・原料・販路の組織的管理が重要な役割を果たしており、当時来航する中国船はほとんどが鄭氏関連する貿易船でした。
当然「イマリ」交易の利益は鄭成功の清国抵抗運動の軍資金ともなっていたのでした。

長崎代官の末次平蔵は組織的に鄭氏の清国抵抗運動に協力し、秘かに武器を送っていたといわれています。
当時の幕府も鄭氏の援兵要請に内々清への出兵計画まで立てていたそうで、平蔵の罪名は軽減され隠岐への流罪となりました。
平蔵も博多出身で、小左衛門とは血縁関係にあり、平蔵に頼まれ小佐衛門は鄭氏一族の抗清運動に加わったと言われています。

事件発覚後の7月、幕府老中より長崎奉行に対し朝鮮への武器密輸に関する刑罰が出され、11月に小佐衛門一族は処刑されました。
処刑された70数名の出身地の内訳は博多29名、長崎18名、対馬16名、柳川11名、大阪11名、島原4名、佐賀2名、唐津と久留米が1名と、
西日本の外様大名を震撼させた大事件でした。

6.浜口公園にある伊藤家邸宅跡の碑


浜口公園の北東に伊藤家の栄枯盛衰を物語る小さな石碑が夏草におおわれていました。

撮影:CANON Powershot S100