上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

福岡市赤煉瓦文化館(2):中央区天神1

2012年07月30日 07時00分00秒 | ふるさとの風景

照明器具も当時のアールヌーボー調だそうです。



2階は3部屋に分かれています。



階段室の開放的な吹き抜け。



螺旋階段は屋上へ繋がっているのでしょうか。



一番広い会議室。


天井4墨には換気口など細かい設備もあり、当時の最先端の洋風建築です。

その横の前室。ここで医師が保険契約者の健康診断をしていたそうです。


ちなみに共同設計者の片岡氏は金沢出身ですが、日本生命副社長の婿養子だったそうで、後に同社の取締役・金沢名誉市長や大阪商工会議所会頭などを歴任した著名人です。

東側窓から中州方面が見渡せます。


外観から想像するほど内部は広くありません。

撮影:EOS5D3+EF24-105mmL IS


福岡市赤煉瓦文化館(1):中央区天神1

2012年07月28日 07時00分00秒 | ふるさとの風景

昭和44年に国の重要文化財に指定されたのを機に福岡市が買収しました。


昭和44年から47年まで歴史資料館として活用されていました。


平成4年から復元整備を行い、平成6年に「福岡市赤煉瓦文化館」として開館されました。


内部は無料見学できます。玄関ホールです。

内装の大部分も建築当時の仕様に復元されたそうです。

平成16年から修理された概要の説明があります。

次回は内部をご紹介します。

撮影:EOS5D3+EF24-105mmL IS


上海老站:貴賓食堂車で上海料理-上海アーカイブ

2012年07月27日 07時05分00秒 | 上海街角スナップ
新中国成立後は、孫文の妻で共産党副主席であった宋慶齢の外出列車として使用されていました。


彼女は故郷上海を愛し、そして今でも上海に眠っています。

車両は1919年のロシア製、1922年から中国国内で使用されていました。



庭には当時の機関車も展示してあります。



修道院だった建物内部。


歴史を感じさせる落ち着いた雰囲気ですね。

廊下の照明も当時が偲ばれますね。



修道院だった建物の外観。


上海では歴史を秘めた多くの建物が、まだまだ現役として使用されています。

撮影日:2008年11月12日
撮影機材:EOS40D+EFS18-55mmIS

旧福岡県公会堂貴賓館(2):中央区西中洲

2012年07月23日 07時00分00秒 | ふるさとの風景
当時福岡県庁の日本人土木技師が設計・監督を務めました。


階段踊り場から2階を撮影。



階段室の南側には半円形の窓があります。


北側窓よりの眺め。車寄せの陸屋根が見えます。


西寝室。化粧室が併設されています。


電熱式の暖房装置が設置してあります。


八角形の尖塔がある貴賓室。


照明も和風テイストの落ち着いたデザインですね。

平成17年の福岡県西方沖地震(震度6弱)では内部が破損しましたが、平成20年に修理が終わりました。

撮影:EOS5D3+EF24-105L


旧福岡県公会堂貴賓館(1):中央区西中洲

2012年07月21日 07時00分00秒 | ふるさとの風景
北東角の八角形の塔屋がおしゃれです。

北側が正面玄関で、玄関ポーチは車寄せとなっています。



外壁はモルタル塗りですが、目地を入れ石造りを模しています。



玄関です。



建物の図面と説明。



国の重要文化財の指定書。


次は内部をご紹介します。

撮影:EOS5D3+EF24-105L

安国寺:中央区天神3

2012年07月18日 07時00分00秒 | ふるさとの風景
安国寺の説明。


色々な伝承が歴史を感じさせます。

立派な山門があります。


楼上には木造の羅漢が19体あり、申し込めば拝観が出来るそうです。

山門を守る仁王像の内、右手は口を開いた「阿形(あぎょう)像」。


「阿」は口を開いて最初に出る言葉。

左手にある口を結んだ「吽形(うんぎょう)像」。


「吽」は最後の言葉で、「阿吽(あうん)」で万物の始まりと終わりを表し、「阿吽の呼吸」という言葉の語源にもなっているそうです。

立派な鐘突き堂があります。


盆栽のような松が、寺の年季を感じさせますね。

毎日11時に9声鐘が鳴らされるそうです。



天井には1対の龍が描かれています。



黒田藩家臣の菩提寺ともなっています。


たまたま居られた檀家らしき方の説明で、被写体に恵まれました。

撮影:EOS5D3+24-105L
     

博多祇園山笠(3):伝統771年

2012年07月15日 07時00分00秒 | ふるさとの風景
宋から帰国した聖一国師(承天寺開祖)が当時博多に流行していた疫病を憂慮。人々が担ぐ台上から祈祷水をまいて沈めたことに由来します。

八番上川端通流れはタイムレースには参加せず、飾り山をそのまま引き回します。


豪快な「追い山」の起源は1687年、土居流れと恵比須流れの若者達のささいな諍いから始まったそうです。

恵比須流れが恨みを持つ前を行く土居流れを追い越そうと走り出し、土居流れも負けずと走り出しました。


これが博多町衆の評判を呼び、翌年から前を行く山笠を追う形になったそうです。

15日の追い山が終わればそろそろ梅雨も明け、いよいよ博多の街も夏本番です。



撮影:EOS5D3+EF24-105mmL IS

博多祇園山笠(2):追い山ならし

2012年07月14日 07時00分00秒 | ふるさとの風景
15:59にスタートした1番の千代流れ。織田信長の夢を表現しています。

15日の本番では未明の4:59に1番目の山が櫛田神社を出発し、旧市街の5キロ(ならしは4キロ)の道のりを駆け抜けます。

2番の恵比須流れ。夫婦円満を現しています。

5分間隔で各流れが出発します。

3番の土居流れ。熊本城主加藤清正公です。

台上がりが赤い「鉄砲」を捧げて、東長寺住職に挨拶しています。
撮影場所は櫛田神社を出てすぐの大博通り。東長寺の住職に挨拶するためこの場所でUターンします。

こちらが山門で挨拶を受けられる東長寺住職。


東長寺は明治以前の神仏混淆時代から櫛田神社との関係が深いそうです。

4番大黒流れ。宋人の貿易商、謝国明に対する恩を表しています。

彼は鎌倉時代前期に博多に移住し、承天寺を建立し聖一国師を開山としてお迎えするなど、博多発展に尽力した博多の大恩人です。

5番東流れ。戦国武将の前田慶次です。

加賀藩前田利家の甥でしたが出奔、京都で趣味人として気ままに生活していましたが、直江兼継と出会い米沢藩に仕えました。
派手な装束で「かぶき者」とよばれましたが、世間の常識や権力には断固屈しない男気の強い生き方をした戦国武将であったとか。

各山笠の先走りが門前の住職に到着の口上を述べて走り去ります。


先走りは将来を担う少年たちが勤めます。

6番中州流れ。

標題は東北の復興を願って「仙台守護独眼竜」です。
 
最後尾の7番西流れ。神話で天岩屋をこじ開け、天照大神を引っ張り出した怪力の主「天手力男神」。

世の中に明るい光明が射すようにと願いを込められました。

撮影:EOS5D3+EF24-105mmL IS


博多祇園山笠(1):飾り山笠

2012年07月13日 07時00分05秒 | ふるさとの風景
市内各所には7月1日から14日まで、13の山笠が飾られています。

こちらはその内、博多駅前に設置された13番博多駅商店連合会流れ。


山笠は「表」と「見送り」があり、「表」は歴史的な故事が現され、両方とも毎年標題が変わります。

故事の内容。


流れによっては中国語や韓国語の説明も見られます。博多港に入港するクルーズ船の数は、今や全国一です。

「見送り」はアニメなどの子供向けの現代的な内容が表現されています。



「見送り」の説明。


人形師たちが各所で伝統の腕を競い合います。

撮影:EOS5D3+EF24-105mmL IS

スイレン:中央区城内(護国神社北)

2012年07月11日 07時00分00秒 | 
福岡城跡の舞鶴公園は2月の梅に始まり、桜、ボタン、シャクヤク、菖蒲など次々に花を楽しむことが出来ます。



緑の葉の中から顔を出す大型の睡蓮は、高貴な感じがします。



古地図を見ると、この辺りには城内へ通じる3つ目の橋、「追廻橋」がありました。



撮影:EOS5D3+EF24-105L

お堀のハス:中央区城内(上の橋)

2012年07月09日 07時00分00秒 | 
開花前のつぼみは、まるであどけない少女のほっぺたのようです。



花開けば薄化粧を施した貴婦人。




開花2日目には黄色い花芯(花托)を見ることが出来ます。




前夜の雨粒が葉の上で朝日を受け、きらめきを添えています。



泥水の中からでも、こんなに凛々しい花が咲くのですね。

落ちた花びらを引き寄せて持ち帰りたいものです。




撮影:EOS5D3+EF24-105L