上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

飢人地蔵:平尾ウォーキング(3)

2011年11月30日 06時39分44秒 | ふるさとの風景
桜坂からのコースでは、動物園西門の少し手前から東側へ山道を上っていきます。



山道を登るとすぐ左手に案内板があります。



尾根道を北へ進みます。



森の開けたところに飢人地蔵尊が祭ってあります。



由来が詳しく掲示されています。



大きな地蔵尊は平成22年に新しく建立されたものです。



並んでいる石碑は「文政13年100回忌」の文字が読み取れます。


1枚目の小さな地蔵は当時の物でしょうか、ユーモラスな表情が悲惨な歴史の悲しみを覆い隠しています。

野村望東尼山荘跡:平尾ウォーキング(2)

2011年11月28日 06時11分21秒 | ふるさとの風景
500mほど下った右側の緑地に山荘跡があります。

幕末の女流歌人、勤皇家。山県狂介と共に高杉晋作の最期に立ち会ったと伝えられています。

きれいに整備された藁葺き屋根の民家が大切そうに保存されています。


福岡藩士だった夫が隠居後、ここで二人仲良く歌を詠みながら余生を送るのが夢だったのでしょうか。

ここに長州を追われた高杉晋作を匿ったという物語もあるようですが、史実は「空き家だった庵に高杉が潜伏した」ようです。


望東庵も福岡藩姫島の獄に繋がれますが、長州藩士らに救出された後長州に庇護され、病気療養中の高杉とも面談しました。
その後、病気の高杉を世話し看取ることになりますが、まもなく本人も長州で息を引き取ります。

庵は隣家の管理人の方が毎日開錠されているようです。


一般に高杉の辞世の句とされ歌碑までも残されている「おもしろき事もなき世・・・」は、実は望東庵の作でした。

南側には山水を集めたのでしょうか、井戸のような跡がありました。


夫婦で仲良くこしらえた「雨待ちの滝」でしょうか。

春さきには梅も開くそうですが、紅葉ももうすぐ見られそうです。


糸島市姫島の流刑地は訪ねましたが、赤坂には生誕地の碑があるそうで、次回尋ねてみたいものです。

その時代、女性が歴史の表舞台に出ることなど稀有なことでした。
54歳で未亡人となり出家し、同じ歌人の夫の私家集出版のため京都へ出かけます。
そこで文学的刺激を受け作家を志望しますが、その文才がゆえに彼女の人生は歴史の変革と共に激しく波打ちます。
自身の長き闘病や家族の度重なる不幸なども乗り越え、幕末の変革期に数奇な運命をたどった同郷女性の人生に興味が尽きません。

南公園の孫文記念碑:平尾ウォーキング(1)

2011年11月26日 06時22分22秒 | ふるさとの風景
今日は地元中央区「平尾ウォーキングマップ」を参考に、ご近所を歩いてみました。

中央区桜坂の交差点にあるコンビにから南側へ坂道を登っていくと、立派な教会が建っています。


車道を外れ、教会の左手を更に進むと道は舗装も切れ山道になって行き、南公園の展望台へ登ることができます。



展望台下の広場に「中山(孫文)記念碑」が建っています。(中国語「紀念:jinian」は日本語の「記念」)


中国辛亥革命を主導した孫文は世界中を遊説して廻り各地華僑から革命資金援助を受けましたが、日本へも9度尋ねて福岡にも滞在したそうです。
実は妻の宋慶齢とは1915年に東京で結婚式を挙げています。
西日本新聞のHPには、1913年に孫文が来博し、九州帝大で講演した模様(孫文紀行8)が詳しく記載されています。

記念碑は昭和40年、彼の生誕100年を記念し、地元の架橋や有志によって建てられたようです。


中国語の碑文は建築当時の中国長崎領事によるものでした。

孫文は革命活動中清国政府に追われていましたので、日本滞在中には「中山:なかやま」の偽名を手紙などに使っていました。
それが今でも中国各地の公園や道路の名前に残っています。


本日はご近所に意外なものを発見しましたが、次の目的地「野村望東庵山荘跡」に向かって動物園正門方面へ降りていきます。


秋の城址公園(1):東御門跡

2011年11月19日 06時56分40秒 | ふるさとの風景
公園は梅や桜の名所でもありますが、秋の斜光が影を落とす苔むした石垣に、過ぎ去った遠い過去が静かに偲ばれます。

石垣を巡ると、青い空に黄色の葉が輝いていました。

秋はその豊富な色彩で訪れる人々の目を和ませてくれます。

かつて路面電車の駅名にその名を残していた「上の橋」と「下の橋」の地名も、今はもうありません。


明治以降城跡は旧陸軍の歩兵連隊が駐屯地としていましたが、その敷地の広さは戦後野球場と陸上競技場、更に裁判所や中学校も収まる広さです。
現在でも野球場で発見された鴻臚館跡の発掘調査が継続されています。

沖濱稲荷―川上音二郎生誕碑:博多区古門戸町

2011年11月14日 06時04分08秒 | ふるさとの風景
由来によると、806年唐より帰朝した弘法大師(空海)が、上陸し船旅の疲れを癒した場所との伝承があるとか。


かつて境内には「大師衣掛けの松」があり、町内で代々守ってきました。



筑前風土記によれば1777年に町内の酒屋に隕石が落ち、宝珠石として神社のご神体として信奉されていたそうです。



近くを路面電車が通っていた頃は「対馬小路」の停留所がありました。



また、境内には新派劇の創設者として知られ、明治大正期に活躍した川上音二郎生誕碑があります。



彼は東京へ出て福澤諭吉の書生をしながら慶応義塾に学び、反政府の自由党壮士としても活動していたとか。


行動的だった彼は、後にアメリカやヨーロッパでも興行を行っています。

大阪の帝国座を開場し、同時に帝国女優養成所も創設しました。


1985年のNHK大河ドラマで、妻の川上貞奴を描いた「春の波濤」が主演松坂慶子、音二郎役中村雅敏で放映されています。

豊国神社-神谷宗湛屋敷跡:博多区奈良屋町界隈(2)

2011年11月12日 06時40分41秒 | ふるさとの風景
戦国時代の合戦による戦火で、博多の町は度々火災にあい荒廃しました。


1587年、島津氏を平定し九州統一を果たした豊臣秀吉が帰途に箱崎に立ち寄り、荒廃した博多の「町割り」を命じ、経済復興のため商業保護の方針を打ち出しました。



その後筑前国を与えられた小早川隆景のもと、博多再興が本格的に進められました。


秀吉の子飼い石田三成が当時の博多代官だったそうです。

中世博多の商人は自治権を与えられ、大いに町を発展させました。


博多三大豪商の一人神谷宗湛が、屋敷内に博多の恩人である秀吉を祭ったものが豊国神社でした。
博多町割りに使用した長さ6尺6寸の間杖が奉納されていたそうですが、惜しくも戦災で消失しました。

石塁遺構展示室:博多区奈良屋町界隈(1)

2011年11月09日 06時11分36秒 | ふるさとの風景
奈良屋公民館の入り口をくぐり、正面に見える立派な建物が博多小学校です。


公民館入り口すぐにガラス張りの石塁遺構展示室入り口があります。土曜日のみの開館です。



ガラス扉を開け、地下へ降りていきます。



元(モンゴル帝国)の2度目の来襲(弘安の役:1281年)に備え鎌倉幕府は九州各地の御家人に命じ、博多湾沿岸に分担させ20kmにわたる石塁を築かせました。



JR博多駅より海側の那珂川と御笠川に挟まれた範囲を「博多遺跡群」と呼ぶそうで、ここは111箇所目の発掘調査に当たるとのことです。



防塁跡だけではなく、数々の遺物が出土し、博多と世界との交流の歴史が明らかになったそうです。



元寇の絵巻も展示されています。



ジオラマは博多の漁村風景でしょうか。



博多の町や福岡城ができる前の古地図ですが、内容文を読むと大内家や秀吉の朝鮮出兵時、黒田藩の出来事などが書かれています。


福岡市内には950ヵ所あまりの遺跡が分布しているそうで、考古学ファンは退屈しない街ですね。

秋の雲:南公園西展望台

2011年11月07日 11時17分13秒 | ふるさとの風景
立派な展望台があり、市街地のほぼ全容が見渡せます。

駐車場もあり楽に来ることもできます。

南側は観光牧場などもある市民の森「油山」が見えます。



西側、はるか中央に小さく見える「おにぎり」のような山が以前住んでいた糸島市の「可也山:かやさん」です。


福岡方面からは富士山のような形に見え、地元では「小富士」と呼ばれています。

北側にはヤフードーム、海の中には志賀島も見えます。



東側は動物園の観覧車が見えます。


天気の良い日には夕日撮影も期待できるポイントですね。

綱敷天満宮:博多区綱場町界隈

2011年11月05日 06時18分57秒 | ふるさとの風景
その「綱場町」の語源がこの綱敷天満宮だったのですね。


お祭りしてあるのは天神にある「水鏡天満宮」と同じ菅原道真公です。



道真公が大宰府に左遷されたのは平安時代の西暦901年ですが、


博多の町には1000年前の出来事が大切に守り続けられているのですね。

ビルが立ち並ぶ新しい町並なのですが、近所にまだ横丁が残っているのが嬉しいですね。


博多に残る4つ目の天神様をご紹介しました。

亀山上皇銅像:博多区東公園界隈(3)

2011年11月02日 06時54分59秒 | ふるさとの風景
同じく日蓮銅像も建立された明治37年は、日本が列強を目指した日露戦争勃発の時期です。


北方を見つめる像の台座には「敵国降伏」と刻まれています。


公園の中心に位置する銅像。


日露戦争という国家的な国難に際し、国民的戦意高揚を目的としてこの銅像建立のために東公園は造営されたのでしょう。

開発が進んだ現在、彼が見つめる前方には白砂青松の千代の松原はなく、立派な福岡県庁舎が建っています。


現在日本の抱える国難を彼はどのように憂いているでしょうか。