上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

瀬戸内紀行(7):源平の古戦場「屋島」を観光する

2010年10月31日 06時47分40秒 | 国内旅行

頂上には四国八十八箇所の一つ「屋島寺」があります。

頂上が平らなので駐車場からは楽に周遊できます。

お遍路さんも見かけました。


八十四番札所の屋島寺です。

鑑真和尚が基を開いたと伝えられています。

お稲荷さん前には狐ではなく狸が居ました。



鎌倉時代に建立された重要文化財「本堂」です。

約350年前と昭和32年に解体大改修が行われたそうです。

お寺を通り抜けると、高松市内が見えてきます。


今日は瀬戸内の島々もよく見えます。

正面が鬼が島伝説の島で、右の小さな島が「ひょっこりひょうたん島」のモデルになった島です。

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瀬戸内紀行(6):高松「わら屋」で讃岐うどんを食す

2010年10月29日 06時45分26秒 | 国内旅行
店の前には小さな水車小屋がありました。

江戸時代末期に建てられた農家を改造したそうです。

日曜日なので駐車場も一杯で、店の前には10名ほどの行列ができていました。

店内は広く、あまり待たずにすぐに席に付けました。


店内の中央には大きなお釜の上に神社があります。


4人分で8玉の釜揚げうどんです。


いりこ出汁の付け麺で戴きます。

麺の腰があっていくらでも行けそうです。

お昼の後は源平の古戦場「屋島」観光です。

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瀬戸内紀行(5):瀬戸中央道を四国に渡る

2010年10月27日 06時40分53秒 | 国内旅行
瀬戸内海に浮かぶ島々を結ぶ6本の橋が約22kmの海道を形作っています。橋の車道下にはJR瀬戸大橋線も走っています。

陸続きとなった四国の経済的発展に、橋の果たした役割は大きいですね。

広島からも日帰り観光コースとなりました。

瀬戸内海沿岸を回遊し、一つの観光地とする構想があるそうです。


中央の与島にはPAがあります。


第一駐車場から四国側を望みます。


第二駐車場から岡山県側を望みます。観覧車が建つのは鷲羽山でしょう。

坂出では高速を降りず、坂出JCTから高松自動車道で高松へ本場「讃岐うどん」を食べに行きました。

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瀬戸内紀行(4):世界文化遺産「広島原爆ドーム」に祈りを捧げる

2010年10月25日 06時50分18秒 | 国内旅行
平和公園の北端から東側、元安川の対岸に原爆ドームはあります。

「平和公園」と同じく世界遺産に登録された「宮島」との間を遊覧船が片道50分で運航されています。


原爆ドームは大正4年に広島県物産陳列館として広島県が建設しました。

設計者は現在のチェコ出身の建築家ヤン・レツルです。
レンガ(一部鉄筋コンクリート)モルタル仕上げ、玄関部分は石造りで地上3階一部5階建て、地下1階のセセッション様式と呼ばれる建築物で曲面を多用しているのが特徴です。

原爆の投下により、建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼、中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられています。

爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらしました。
そして、占領が明けた頃にはその形から「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めました。

ドームの保存については、「原爆による惨禍の証人として保存する」という意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取り壊す」という意見が対立しましたが、昭和41年に永久保存を決定しました。

広く募金を呼びかけ、これまで3度の保存工事が行われました。

人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして平成8年に「世界遺産条約」に基づきユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。


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瀬戸内紀行(3):「広島平和記念公園」を散策する

2010年10月23日 06時46分24秒 | 国内旅行
「原爆死没者慰霊碑」

1952年に建立されました。碑文には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれています。

「平和の灯」

水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するために1964年に建設されました。
全国12宗派から寄せられた「宗教の火」と、全国の工業地帯から寄せられた「産業の火」が昭和20年生まれの広島の乙女により点火されました。
この火は、1964年(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。

「原爆の子の像」

「広島平和をきずく児童・生徒の会」が全国に呼びかけ、全国の子供達とイギリスなど9カ国の募金により1958年に建立しました。
碑文には「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」とあります。

「千羽鶴」

日本および各国から千羽鶴が寄せられています。

「平和の鐘」

「原爆被災者広島悲願結晶の会」が1964年に建立しました。
鐘の周りの池にはハスが植えられていますが、被爆当時、ハスの葉で傷を覆い、火傷の痛みをしのいだという被爆者の霊を慰めたものです。

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瀬戸内紀行(2):「広島平和記念資料館」を参観する

2010年10月21日 06時02分07秒 | 国内旅行
原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分で止まった懐中時計(実物)が展示してあります。

原爆投下前の爆心地近く(中島地区:現在の平和公園)の模型です。左手の丸いドームを持った建物が世界遺産に登録されている原爆ドームです。

広島は江戸時代には城下町として栄え、明治以後陸軍の施設が集中し「軍都」としても栄えたそうで、被爆当時の人口は35万人だったそうです。

原爆投下後、廃墟となった爆心地付近の模型です。

木造住宅は一瞬の内に全て消滅してしまいました。原爆の破壊力の凄さが痛ましいです。

東館には縮小された原爆ドームが展示されています。

ドームの下の壁には核実験に対する広島市の抗議文が貼付されています。

投下された原爆の模型です。
広島以外にもいくつかの標的都市があり、アメリカ軍は原爆の威力を計測するために、意図的に事前には空爆を行わなかったそうです。

それらの標的都市には訓練のため、予め模擬爆弾が投下されました。周到な準備がなされていたのですね。

「伸ちゃんの三輪車」

当時3歳11ヶ月の伸一ちゃんは、爆心地から1500m離れた自宅前で三輪車に乗って遊んでいる時に被爆し、その夜に死亡しました。
父親の信男さんは遺体を焼く気になれず、一緒に遊んでいた近所の女の子と手を繋がせ、焼け焦げた三輪車と一緒に庭に埋葬しました。
その後、被爆40年目に墓所に移す決心をして堀り起こし、葬式を行ったそうです。

会場内では市民ボランティアの方が丁寧に説明してくれます。

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瀬戸内紀行(1):関門海峡を望む

2010年10月19日 06時08分17秒 | 国内旅行
九州自動車道の和布刈(めかり)トンネルを抜けるとすぐに「めかりPA」です。


関門橋を間近に見ることができます。


こちら側は北九州市門司区、関門海峡を挟んで本州側の下関市が見えます。


関門橋の説明です。


門司港地区にも沢山の見所があります。

次回は市内観光をしてみたいものです。

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読書の秋:「上海の顔役たち」

2010年10月13日 08時30分53秒 | 読書
この本は、もともと上海の夕刊紙「新民晩報」に連載され、人気を博して1987年に単行本となった<大亨>(大親分)をテキストとして翻訳されたものです。
上海の租界成立から辛亥革命、国民党と軍閥や共産党との抗争、日中戦争と汪精衛傀儡政権の樹立、日本敗戦後の国民党政権の樹立そして中華人民共和国成立まで。
中国激動の近代史の裏を生きた上海のゴッドファーザー物語です。

1.主な登場人物

○黄金栄(1868~1953)
上海南市三牌楼の茶館の長男として誕生。フランス租界警察に入る(20歳)
数々の自作自演の犯罪を解決し、警察内の地位を上げていくが、密告により一時警察署を辞任し蘇州へ隠遁(31歳)。
手腕を買われ租界警察に復職(33歳)
辛亥革命後、各地の軍閥が覇権を争う不安定な政情の時代、
フランス租界を基盤に表はフランス租界警察の刑事部長、裏は密輸麻薬の強奪や政敵の暗殺を請け負うなど、
手荒い裏家業で英国租界にも勢力を拡大していく。
この頃、不遇の蒋介石を門下に入れ援助する。
山東省で発生した上海天主教のフランス人司教拉致事件を裏社会の繋がりで見事解決し、上海人の大喝采を浴びる。
租界当局は孫文の上海訪問を阻止しようとしたが、警察署の部下や暗黒街の手下を使って上海滞在中の孫文を護衛した。
晩年は組織を杜月笙に任せ、中華人民共和国成立後も上海に残り85歳で病没した。

フランス租界警察を退職し、晩年(63歳)の黄金栄が創設者黄楚九の死後手に入れた大世界。

「娯楽の殿堂」は麻薬や売春の温床となり「悪の殿堂」と化す。

○杜月笙(1888~1951)
父親は楊樹浦の小さな米屋を商っていたが5歳のとき死別。
母親も2歳の時に死別しており、父親の死後、浦東の高橋鎮で母方の祖母に養育される。
上海に出て伯父の果物屋で働く(13歳)
青幇に入門、黄金栄の門下に入る(20歳)。
黄金栄の桂生夫人に目をかけられて、黄金栄の片腕となるまで組織内を成り上がっていく。
民族主義が台頭し、多発する外国企業と労働者の争議を解決し、市民の喝采を浴びる。
1927年、共産党が組織した上海労働者の武装蜂起に対し、武装部隊を組織し蒋介石クーデターに協力。
日中戦争勃発後は香港に逃亡したが、上海の組織を使い汪精衛傀儡政権と日本との秘密協定を暴露。
太平洋戦争終結後上海に戻り上海市長になることを夢見ていたが、蒋介石国民党政権に裏切られる。
中華人民共和国成立前に再び香港へ逃亡し、その後上海へ帰れる日を待ちわびながら64歳の誕生日に病没。

杜月笙が設立した旧「中匯銀行」

現在は北京銀行が営業しており、優秀歴史建築にも指定されている。

○張嘯林(1877~1940)
江蘇省慈渓に大工の子として生まれる。地元で騒ぎを起こし上海へ逃げ出る(23歳)
40歳の時、黄金栄の門下に入るり、軍閥の威信を背景にのし上がって行く。
旧日本軍上海占拠後樹立された汪精衛傀儡政権に協力し、対立する蒋介石国民党に暗殺される。(63歳)

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夏の終わり(2):彼岸花

2010年10月09日 06時33分01秒 | ふるさとの風景
福岡県西部のこの辺りは、南側の背振山脈の峠の向こうは佐賀県となります。写真の一番奥の島は「姫島」ですが、黒田藩の女人流刑の島でした。高杉晋作をかくまった野村望東庵が流されたことで有名です。

佐賀県には有名な温泉もいくつかありますが、近くの山村には補助金で建てられた立派な日帰り温泉が何箇所もあり、時々利用させて頂いています。

帰りには産直店で野菜などを買って帰るのが「スローライフ」の恒例となっています。

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夏の終わり(1):花火大会

2010年10月07日 06時29分46秒 | ふるさとの風景
今住んでいる家は母親の生家で、100年以上も前に建てられたそうです。

南側の狭い道の前がもう海で、湾の対岸には唐津街道が見えます。

毎年10月初旬には旧市の花火大会が開催されていましたが、今年は1市2町が合併して新しく市ができ、花火大会は恒例となって続くようです。

昨年までは隣の市の花火大会でしたが、市町村合併のお陰で私も市民となり、市立図書館の貸し出し数が3冊から5冊に増えました。

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我愛上海、我愛佳能。

2010年10月05日 07時48分33秒 | 上海街角スナップ
ここは万博2号門に近い地下鉄西蔵南路のコンコース。
広告スペースは、全て香港の世界的映画スター「成龍:ジャッキー・チェン」の貸切です。

2010年夏、上海滞在中の撮影枚数は少なく、2ヶ月で約2000枚。
まったく残念でしたが、猛暑で外出が困難だったのがその理由の一つです。(もう一つの理由は、7Dの充電器を日本に置き忘れたこと。)
年末には又上海へ戻り越冬の予定ですので、上海のご紹介はそれまで一時休止させていただきます。
また暫く、田舎での「スローライフ」を送っています。

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中華料理のメニュー:上海レストラン事情(2)

2010年10月04日 06時34分20秒 | グルメ
特にフカヒレは1杯お値段が5万円位のスープも一流店ではメニューに載っています。

基本的に宴会料理ですから、1テーブル10名程度で頂きます。

数年前は1テーブルで料理だけで1000元位の予算が宴会の標準でした。

同じ「煮物」料理にも色々と種類があり、正確に翻訳し記載されています。
最近の新しい高級店のメニューは日本語表記のレベルも向上しましたね。

以前ネットで調理法を調べたら、四川料理が一番多く4000種類で、中国10大料理合計で10000種類ほどありました。
大勢でいろいろな種類を注文すれば、安くて美味しくいただけます。

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試験管デザート:上海レストラン事情(1)

2010年10月03日 06時19分41秒 | グルメ
デザートに出てくる野菜ジュース。理科の実験で使った試験管を思い出させますね。(笑)

万博会場などで食事をされた方の仲にはサービスが日本水準に程遠く、ご不満だったと耳にします。
私も会場内のセルフサービスの店でピザを食しましたが、お向かいの席の方中国のグループは「スパゲッッティを生まれて初めて食べたが、美味しくない。」と仰っていました。(中国語ではスパゲッティは「イタリー麺」と訳されています。)

お客さんと同じように、一般の店でサービスを提供する方も地方出身者がほとんどです。農村では住居や生活様式も日本とはかなり違いますので、サービスの解釈も日本人の期待とは程遠いでしょう。
例えば農村でも一般家庭に「冷蔵庫」くらいは有るでしょうが、恐らく川で洗濯していれば「電気洗濯機」は必要なく、土間で生活しているほとんどの家庭では「電気掃除機」などは見たこともないと思います。

貧富の差と同じように、サービス業のレベルも値段により差がはっきりしています。

日本レベルのサービスがお望みであれば、やはりテーブルクロスとナプキンのあるお店を利用するしかないようですね。

このお店では、従業員が歩行が困難な高齢者の手を引いて、エレベーターまで送ってくれます。

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上海歴史散歩(7):申報館の天井レリーフ

2010年10月02日 06時42分50秒 | 上海優秀歴史建築
茶商人だった英国人アーネスト・メジャーとその兄のドリックは字林報館の<上海新報>の人気を見て、中文の隔日新聞<申報>を発刊しましたが、すぐに日刊となりました。

兄弟は中国語にも精通していたとか。

1907年、<申報>は中国人経理が買い取り、日本製の印刷機を購入する改革を行い、ますます購読部数を伸ばしました。

1918年には現存の5階建ての新社屋を建築しました。この辺り(山東中路)は大小の新聞社が軒を並べ、毎日朝晩、新聞販売店の売り子達でにぎわっていたとか。

建物は現在、香港系の中華レストランが使用していますが、1階ホールは2階まで吹抜けとなっており、見事な天井のレリーフがのこっています。

<申報>は歴史が清国、北洋政府、国民党と混乱する中でも終始民衆の立場で報道したとか。

日華事変時、上海陥落後は旧日本軍の制限を受け武漢へ逃れましたが、1938年に上海でアメリカ人商人が復刊。しかし太平洋戦争中は旧日本海軍報道部に接収されました。
太平洋戦争終結後は国民党中央宣伝部が管理、事実上国民党機関紙となりましたが、1949年、共産党の上海解放とともに廃刊、建物は解放日報社が使用しました。

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上海のビフォー・アフター(5):リニューアル「外灘」

2010年10月01日 06時43分34秒 | 上海街角スナップ
2009年夏の上海市内は何処も彼処も工事中。

とても観光どころではありません。


同じ場所も、1年後にはこんなに綺麗になりました。

歩道も広くなり、木陰のベンチも沢山造られています。

車道の一部が地下化され、車線は減少しましたが、信号や横断歩道も沢山作られました。

以前は、反対側に渡るには地下道をくぐる必要があり、休日には身動きもできないほどの混雑でした。

上海の顔はすっかりお化粧が終わりました。

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