上海下町写真館2010

上海より半年ぶりに帰国しました。マイペースで故郷の風景や歴史などをご紹介します。

春節快楽!:上海ライブ2014年ダイジェスト(9)

2014年01月31日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.豫園商城の正月飾り
やはり中国は今でも太陰暦(中国語では「農歴」)の旧正月が本番です。

2.豫園商城も毎年恒例の「灯会」で華やかに輝きます。


今年の干支は馬ですが「空翔ける馬」が見られるか楽しみです。

3.精忠報国


この旗印は南宋代の名将「岳飛」(1103-1142年)です。
対「金」戦争で功績を上げましたが、徹底抗戦派の彼と宮廷内の和平派との確執で投獄され39歳の若さで一族共々処刑されます。
死後に罪を免ぜられますが今では「民族の英雄」として中国各地に廟があり、中国では三国志の関羽と同じくらい有名なようです。

「灯会」の夜景も準備中です。お楽しみに。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2014:豫園商城の夜景

2014年01月29日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.豫園商城は北側の「新北門」が主要な入口ですが、付近に地下鉄10号線「豫園駅」ができアクセスも便利になりました。

2.新北門から入り最初の交差点から南が「旧校場路」。


右手(南西角)の宝飾店。

3.左手(南東角)の有名な「上海老飯店」。



4.豫園商城のメインストリート「旧校場路」の夜景



5.「旧校場路」から北側の眺め。


右手商城の奥に「豫園」があります。

6.更に「旧校場路」を南に下がり北側の眺め。


右手の3階建て伝統建築のライトアップが一番きれいです。

7.「旧校場路」を南に下がり南側の眺め。


右手(西側)にも小さな土産物店が並んでいます。春節前なのでまだ混雑は少ないようです。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2014:宋家姐弟の生家「黄炎培故居」(2)

2014年01月27日 06時00分00秒 | 上海観光
1.「風雲家族」の源流川沙
1890年から2004年まで宋家家族はこの地で過ごしました。

2.家族写真


いつ頃の撮影でしょうか、唯一残る家族全員の写真だそうです。
1917年に長男子文と三女美齢が米国留学から帰国した直後でしょうか、父嘉樹は翌1918年に亡くなっています。

最前列の男子は1906年生まれの三男「宋子安」、1928年に米国ハーバード大を卒業。政治活動は行わなかった。

二列目左が1889年生まれの長女「宋靄齢:Ailing」。14歳でアメリカに留学、1910年帰国後孫文の秘書となる。1914年に横浜で孔祥熙と結婚。

   中央が1894年生まれの長男「宋子文」。米国留学博士号取得、1917年帰国、1923年に孫文の英文秘書、政治家、外交家、金融家、国民党政権時財政部長。

   右が1893年生まれの次女「宋慶齢」、15歳でアメリカ留学1913年に帰国。結婚した姐靄齢の後任として孫文の秘書となる。
   両親の反対を押し切り1915年に孫文と東京で結婚。新中国建国後、中央人民政府副主席。

三列目左が1866年生まれ父「宋嘉樹」、12歳で母方の伯父を頼り渡米するが16歳で家出。
   放浪の末キリスト教徒となり神学校に進学、牧師の資格を取得。
   当時、米国での中国人労働者迫害の惨状を目撃し強大な祖国が必要と痛感、民主革命思想を母国に目覚めさせるために帰国を決意したとされる。
   1886年に上海で宣教活動を始め、1897年に「倪桂珍」と結婚。

   右が母「倪桂珍」、1869年生まれ。17歳で上海裨文女子中学卒業後教師を務める。明代の大科学者、上海の地名「徐家匯」のもとともなっている徐光敬の末裔とされる。

最後列左男子が1899年生まれの次男「宋子良」。アメリカ留学後、中国国貨银行総経理などを歴任。

   右が1897年生まれ三女「宋美齢」、1910年米国留学、1917年帰国。1927年蒋介石と結婚。英語以外に六か国語を操り、ピアノの演奏も相当だった。米国で他界、享年106歳。

3.当時の宣教活動が描かれています。



4.家族が暮らした部屋。



5.壁には十字架が架けられています。


やはり、宋慶齢の展示が中心となっています。

6.思い出の写真。


左は母と三姉妹。中央は母と宋慶齢。右は中西女塾時代の宋慶齢。

7.家族が暮らした南側の2階の部屋。


幼い兄弟姉妹たちはこの窓から往来を眺めたことでしょう。

8.新川路



兄弟姉妹たちが眺めた通りも当時とはすっかり変わったでしょうね。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2014:宗家姐弟の生家「黄炎培故居」(1)

2014年01月25日 06時00分00秒 | 上海観光
1.「内史第」
黄炎培故居は川沙古鎮歴史文化風貌保護区にあります。入場は無料ですが身分証明書の提示が必要です。
「内史第」は元来清代1859年の挙人内閣中書「沈樹住宅」で、150年以上の歴史があります。

2.壁のレリーフ


建設当時、この地は江蘇省川沙庁城王前街内史第であったことからこの名で呼ばれているようです。
レリーフにはその当時のこの辺りの風景が描かれているようです。

3.入り口の楼門


1991年に大改修が行われ、1992年より一般公開され、2003年より上海市愛国主義教育基地に指定されています。

4.礼拝堂


入り口すぐ左手に小さな礼拝堂があります。
1890年、巡回伝道を終えこの地に宋嘉樹、倪桂珍夫婦が伝道師として赴任し「内史第」の南2階部分「沿街坊」を住居としました。

5.宗家三姉妹


1893年1月に次女宋慶齢、1894年12月に長男宋子文、1897年3月に三女宋美麗が生まれ、1904年まで幼少期を過ごしました。

6.黄炎培住居


黄炎培は1873年この地に生まれ22歳で科挙試験の地方の第一位である「秀才」、25歳で挙人となりこの地で教育家となり32歳以降上海や北京で政治家として活動しました。

7.清代の特徴を色濃く残す「雕花儀門」


正面梁に「華堂映日」と記され、左には「状元遊京城」、右には「状元献宝」、上には「鳳凰と牡丹」が精緻に彫られています。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS




「切磋琢磨」:上海ライブ2014年ダイジェスト(8)

2014年01月24日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.寒空の下、行商の屋台に造られた机で一心に勉強に励む子供2人、兄弟でしょうか。

2.恐らく父親でしょう、子供たちの勉強を見ています。


話は長くなりますが、
中国では戸籍の移動が認められていませんので、上海の実人口2500万人の内、上海戸籍の人口は1500万人なので、1000万人が地方からの出稼ぎ労働者になります。
(数字は中国の公式発表で出稼ぎ1000万人は居住登録者です。それ以外に居住登録をしていない出稼ぎ者がどれほどいるかは把握できないようです。)
上海戸籍がない労働者の子供は上海の学校には入学できませんので、両親が出稼ぎであれば田舎で祖父母が育てるのが普通です。

撮影日は日曜日なので、恐らくこの子たちは上海近郊に住んでいて、両親の日帰り仕事について来ているのでしょう、その合間にも特製の机で宿題に励んでいます。
同じような風景を市内の別の場所でも見たことがありますが、学歴社会の中国では貧乏から抜け出すためにも子供たちは勉強に励まなければなりません。
中国人たちの「逞しさ」の一部を見たような気がします。

撮影:CANON PowershotS100

上海ライブ2014:川沙公園の「鶴鳴楼」

2014年01月22日 06時00分00秒 | 上海観光
1.川沙公園の「鶴鳴楼」、五層七階建て。湖北省武漢の「黄鶴楼」にも似ています。

2.地下鉄駅からは南門からも入園できますが、北側に正門があります。



3.園内の清波湖は市民の憩いの場所です。



4.江南地方の運河に架かる石橋は、中央を小舟が通れるように丸くなっています。


建築的にも強度があるのでしょうが、造形的にも優美ですね。

5.寺院にある仏塔と違い、古来から軍事的な目的で建築された楼閣は力強いシルエットですね。



6.内部にも入れ、上階までも歩いて登れます。



7.武漢の「黄鶴楼」は三国時代の創建で、水軍の閲兵のために造られたそうですが、伝統的な楼閣建設技術が今に伝承されているのですね。



8.「鶴鳴楼」は鉄筋コンクリート造りで1993年の竣工です。



9.歴史的な意味合いはないようですが、地元の人たちが自慢できる川沙のシンボルですね。


この後、北へ進み「黄炎培故居」を目指します。


撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmL F4 IS

上海ライブ2014:「行列のできる焼栗店」-虹口区北海寧路

2014年01月20日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.租界時代、この辺りは日本の旅館などが軒を連ねていました。

2.今日は50人ほどの行列ができています。


売られているのは2種類だけですから回転は速いです。

3.店の中はこれから焼く栗が山積みです。


数台の窯がフル回転です。

4.売られているのは大きさの違う2種類の栗。



5.右の小さなほうが高いです。



6.左の人気のある大きな栗を買いました。



7.冷めない内に食べると柔らかくて美味しいです。



8.店のすぐ隣、呉淞路角には回族の露店が出ています。



撮影:CANON Powershot S100

上海ライブ2014:「変わりゆく下町」虹口区乍浦路

2014年01月18日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.乍浦路の中心「塘沽路」付近から南側を撮影。右手の9階建て建物は1931年に建築された旧「ピアス・アパート」、現「浦西公寓」。
建設当時は7階建てで、外国人向けの高級アパートでした。優秀歴史建築にも指定されています。

2.更に南の武昌路北東角には高層マンションが完成しました。



3.武昌路北西角はこれから取り壊しが始まるようです。


壁に書かれた赤い「拆」の文字は取り壊す建物を表します。

4.北に行った崑山路南東に建つ「254号住宅」。



5.金色のドームを持った独特のスタイルです。



6.優秀歴史建築のパネルが見えます。



7.同じ下町でも租界の下町は華界の下町と比較し、ちょっと高級そうな雰囲気です。



8.「254号住宅」の東には「宋家三姉妹」の父、「宋耀如」が牧師をしていた教会「景林堂」が見えます。。



9.崑山路交差点から東、呉淞路の眺め。


乍浦路は東の呉淞路と西の四川北路の間にある狭い通りで、再開発が遅れ租界時代の雰囲気を残しており見どころもたくさんあります。
しかし、この雰囲気が感じられるのも、そう長い時間は残されていないでしょう。

撮影:CANON PowershotS100

上海のpm2.5:上海ライブ2014年ダイジェスト(7)

2014年01月17日 06時00分00秒 | 生活
1.黄浦江の向こうに万博会場、その向こうに発電所らしい建物から白い水蒸気がたなびいています。

2.本日11時、上海のpm2.5は28で良。


中国ではpm2.5の基準を以下のように定め、全国の汚染状況を毎日ネットでも見れるようななっています。
   50以下:優
 51~100:良
101~150:軽度汚染
151~200:中度汚染
201~300:重度汚染
  301以上:厳重汚染

公正をアピールするためか「米国領事館」の所在地の汚染状況と「米国標準」での評価も見れるようになっています。
日本の基準は35以下が良でアジアで一番厳しいと言われています。

3.24時間と1週間


昨日東風が吹いて今朝は良好のようです。

4.中国全土の汚染状況


地図や都市名で調べることができます。
今日の内陸部「武漢市」の汚染度は310で「厳重汚染」となっています。

昨年一度、上海も300を超えました。
その時は少し先の交差点の信号が見えない状態でした。

南部の有名なリゾート地「海南島」も1月5日には123を記録しています。
山東省威海ではさすがに20台や30台の日が多いですが、風向きの関係でしょうか1月6日と11日に170を超えています。
チベット高原のラサでも毎日ほぼ50前後です。

世界各都市の状況はどうなのでしょうか。

撮影:(1)CANON EOS5DIII + EF24-105mmL F4 IS
   (2)(3)プリントスクリーン


上海ライブ2014:旧「内外綿社員住宅」普陀区澳門路

2014年01月15日 06時00分00秒 | 上海優秀歴史建築
1.「澳門」は中国語で「マカオ」のことです。中国の都市名がついている場所は古くからの通りです。

2.別の目的地を探していましたが、古るそうな住宅街が有ったので思わず入ってみました。



3.ここは租界時代の日本の紡績企業の日本人社員の社宅だったのです。



4.ちょっと古ぼけていますが、今でも立派な住宅です。



5.中は拝見できませんでしたが、恐らく玄関から床が1弾高くなって、沓脱があるのでしょうね。



6.ここで生まれ育った方がご存命なら、きっと懐かしい場所でしょう。


高い塀で囲まれた住宅は社員の職位に応じ5段階のクラスがあり、中にはテニスコートやブランコなどの遊び場もあったそうです。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS



上海ライブ2014:旧「薬水弄清真寺」普陀区のイスラム寺院

2014年01月13日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.長寿新村の隣にありました。現在は「濾西清真寺」となっています。

2.ドームと尖塔がイスラム寺院の特徴を表しています。



3.「濾西清真寺」の由来が詳しく書かれています。


「民国3年(1914年)前後、湖北、山東、湖南、安徽省から上海へ来たイスラム教徒が西康路一帯に多く住んでいましたが、宗教生活上必要となり、湖北省の教徒が小屋を借り臨時の礼拝所を造りました。
1921年前後、上海清真寺董事達が2000元の募金を集め、この地に10年間の借地をし、1922年7月にこの寺を建立しました。
その後、1935年と1947年に改修を行い、200人が同時に礼拝できる大殿もでき、土地の権利も取得しました。
1949年中華民国建国後も改修を行い、文化大革命終了後の1979年には宗教活動を再開しました。
1990年、上海市の区画整理に伴い普陀区政府はこの地に上海第一のイスラム寺院の建築を決定し、1992年4月に再建されました。
再建時は普陀区政府、市民委、上海市イスラム教各部門、国内外教徒の経済的支援を受けました。<中略>
現在上海には7棟のイスラム寺院があり、10万人以上の教徒が活動しています。」

4.礼拝堂の入り口。


寺院の方が熱心に説明をしてくれましたが、悲しいかな私の中国語能力ではほとんど聞き取れませんでした。
礼拝堂に入りたかったのですが、遠慮して外部から撮影しました。

5.中国が多民族国家であることがわかりますね。


中国は92%を占める漢民族と55の少数民族が共存しています。
イスラム教徒は「回族」と呼ばれますが、習慣として豚肉を食べません。三国志などにも出てくる精かんな騎馬兵の末裔でしょうか。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2014:普陀区「長寿公園」

2014年01月11日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.公園の題字もちょっと「こじゃれた」感じですね。

2.弧形に池が造られています。



3.中央が円形の舞台のようになっていて、ウッドデッキにベンチが置いてあります。



4.外周はウォーキング用に歩数表示があります。


運動と体重、節煙と塩・油の取りすぎの注意喚起が書かれています。

5.芸術的?な塑像も色々とあります。



6.入り口正面にある老夫婦の塑像。


「人は皆、黄昏を迎える時が来る。子孫に敬老の心を伝えよう」と足元に書かれています。
健康で長寿、「偕老同穴」が理想ですね。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

マンションも「ワイルドだぜぇ~」普陀区長寿路:上海ライブ2014年ダイジェスト(6)

2014年01月10日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.マンションの壁を岩山にしてしまいました。上海式「遊び心」でしょうか。

2.右端に見えるのがそのマンションですが、お正月早々「長寿路」とは何とも縁起の良い名前ですね。


この辺り、蘇州河以南は1899年に共同租界の拡張で租界内に取り込まれました。
蘇州河の水運を利用した工業地帯となり、日本資本の紡績工場が集まり多くの工場労働者が生まれ、共産党が発展する揺りかごともなりました。

3.常徳路を北にすぐ長寿新村という小地区がありました。



4.その由来について。。。


「解放前(新中国建国前)、この辺りは<薬水横丁>と呼ばれる上海最大の<貧民窟>で4000戸以上のバラックが密集していました。
解放後、上海はこの地区の環境改善に取組み一定の成果をあげましたが、1985年からこの地区の再開発に取り掛かりました。
10年後40棟の高層マンションが林立し26万m2の住宅を完成させ、緑地も増え環境良好な住宅地が誕生しました。」とさ。

5.日当たりもよく、素晴らしい住宅ですね。


上海戸籍の住民は1500万人だそうですが、その内、どれほどの人がマンションも手に入れ、車も買い、海外旅行もでき生活が豊かになったのか知りませんが、次に欲しいのはやはり健康です。
貧困を克服した長寿路ではいったいどんな生活が送れるのでしょうか。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2014:栗より美味い山薬

2014年01月08日 06時00分00秒 | 生活
1.「山薬:シャンヤオ」は中国では山芋のことを指しますが、これは上海でも珍しい丸い山芋です。

中国人の「食」に対する情熱は日本人にはかないません。
先ず、中国では食材の種類が多い。
野菜だけでも日本にはない珍しい野菜があります。
国土が南から北、乾燥地から湿潤な地方と変化に富んでいることも理由でしょう。
野菜や花卉などの多くの植物は「茶」をはじめ中国から「薬草」として日本に伝来したものも多いですね。

2.これは日本でも見かける普通の長芋。


炒め物などで熱するとシャキシャキとして比較的淡白な味ですね。

3.丸い山芋は日本では見たことがありません。



「薬」の字が当てはめられている通り、体にとても良いものなのでしょう。

4.熱すると形が崩れてしまうので、蒸して食べます。


ジャガイモよりは粘りがあり、栗に近い触感と味がある「美味」な山芋です。

皮を剥くのがとても面倒なので、「食」に対する情熱の薄い日本では受け入れられないかもしれませんが。

撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS

上海ライブ2014:消え行く下町「黄浦区外倉橋街」界隈

2014年01月06日 06時00分00秒 | 上海街角スナップ
1.この辺りではでは車がすれ違える幅の道路は「路:ルゥ」、それより狭い道は「街:ジエ」、人が通れるだけの道は「弄:ロン」と呼ばれているようです。
夕方、道の両側には反物を売る露店が並び仕入れに来る客で賑わっていますが、放課後子どもを迎えに行った親子が帰宅を急いでいます。

2.再開発は通りの東側まで住宅の取り壊しが来ています。


租界時代はこの辺りは黄浦江まで倉庫などが並んでおり、港湾に従事する人たちが住んでいたのかもしれません。

3.この写真を白黒にすると、日本の終戦直後と見間違えるかもしれませんね。



4.洗濯ものが干してあるこの家は、まだ住人がいるのでしょう。


上海市の実人口は2500万人に達したそうですが、この内1000万人が上海戸籍を持たない地方からの出稼ぎ者で、こういった場所に仮住まいをしているのかも知れません。

5.こんな場所にも日本の高級車が止まっているのが上海らしいです。



6.既に北側はこの辺りまで高層マンションが押し迫っています。



7.以前、地元TVで「上海人が初めて清掃員に就いた」と報道していましたが、上海人の生活はサービス業などのかなりの部分が地方からの出稼ぎ労働者に支えられています。



8.立派な「弄堂:ロンタン=上海風煉瓦造り住宅」ですが取り壊さずに保存されるのでしょうか。(HDR画像処理)


「新開地」に行けば、これと同じような建物で食事をすることができます。

9.数年後、ここはおしゃれな繊維街になっているかもしれませんね。



撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS