12月1日 アドベント第一主日、ローソクに灯がともりました。
メッセージはコヘレト11章、心にしみる礼拝でした。
JOYチャペルに神様が注いでくださっている驚くばかりの恵みを心のさらに奥にある魂に感じました。
そして長男がこの世に生を受けて52回目の誕生日となるはずの今日でした。
これからは天国の誕生日(8月15日)に心をシフトします。
まあ、天国とこの世と二つの誕生日を覚えるのも家族ならではの特権。
・・・と、ヒデミの誕生祝を口実に(笑)夕飯はお寿司屋さんで。
12月1日 アドベント第一主日、ローソクに灯がともりました。
メッセージはコヘレト11章、心にしみる礼拝でした。
JOYチャペルに神様が注いでくださっている驚くばかりの恵みを心のさらに奥にある魂に感じました。
そして長男がこの世に生を受けて52回目の誕生日となるはずの今日でした。
これからは天国の誕生日(8月15日)に心をシフトします。
まあ、天国とこの世と二つの誕生日を覚えるのも家族ならではの特権。
・・・と、ヒデミの誕生祝を口実に(笑)夕飯はお寿司屋さんで。
ヒデミの終戦記念日(病との戦いが終わった日)から早いもので1ヶ月が経ちました。
「月命日」って仏教用語と思っていたら宗教には関係なく毎月その日を覚えるのだそうです。
それでかぁ~~
昨日はくまモンのお菓子やら、お花やら、手紙やら、mailやら等々が届きました。
本当にいい歳して(今日は敬老の日)世間知らずというか自分の体調の事ばかりでお恥ずかしい。
神様のお傍で天国を笑顔で歩き回り、ギターで賛美しながら皆さんと喋り食べしている・・・
そんな情景が浮かんで「良かったねぇ、ヒデポン」と心の底から安堵している母なのです。
翌8月16日の面会で一緒に読むはずだった「やさしさの贈り物」(片柳神父著)が心にしみます。
そして、二人だけの秘密のお祈り、あれは今も有効です。天国でも祈っていてね。
光 の 中 へ
死とは、芋虫がさなぎを通って
蝶に生まれ変わるように、
一つの命が別の形に
生まれ変わるとき通過する節目。
時間に飲み込まれ、すべてが
消えてしまうような死はありません。
まばゆい光に包まれ、
新しい命に生まれ変わる。
その瞬間が死なのです。
葬送式が終わってまだまだ頭がボーっとして集中力ゼロ。
今日は次男がお休みなので死亡後の諸手続きに高津区役所へ行きました。
国民年金・国民健康保険・介護保険・障害者手帳等々、返却や解除など。
煩雑かつ分かりにくい、個人個人で受けているサービスも違うし大変です。
とは言っても私の頭はボーっとしたまま、全部次男が対応してくれました。
区役所、社会年金事務所、病院の残金支払い、これはこちら・あれはあちら。
途中でわたしは体調が悪くなり家に戻って寝るはめに。
あとは次男が一人で手続きを続行してくれました。
「老いては子に従え!」 何とも不甲斐ない事です。
今日の体重、成人初の47㎏になっちゃいました。
立っているだけでふらつく。
次男がすかさず腕を組んでくれる。
次男の優しさに感謝。
あゝ、早く元気にな~れ!! わ・た・し
2024年8月22日(木)長男の葬送式でした。
万が一の時、家族葬?小さなお葬式?場所はJOYチャペル?
連れ合いに相談しても「神様の時が来てから」と聞く耳もたず。
8月15日、とうとうその日が来てしまいました。
さてどうしよう。
長男が一番喜ぶ所と考えたらやっぱり川崎バプテスト教会でしょうか。
なにせ小学生から40歳近くまで大好きだった教会ですから。
快諾を得て場所は川崎教会、式の主体はJOYチャペルとなりました。
父親が「これが良い」と出してきた写真が遺影になりました。
遺影にしては笑いすぎと思うけど確かにどの写真を見ても笑っている。
気管切開寝たきりになってからも笑顔がコミュニケーションツールでした。
亡くなる前日の面会、最後の微笑みが忘れられません。
棺のレースカバーはわたしが介護しながら長い年月かけて編んだものです。
花のリング、何て素敵なんでしょう。マナンティアルさんの心づくしに感謝。
好きな花は?好きな色は?と聞かれて・・・・
はて??? 「何も無い。自己主張の強い子だったので変わったお花で」
ではヒマワリで、と全体を飾って下さいました。
家族を代表してご挨拶はわたし。
闘病の長男を覚えてずっと祈り続けて下さった方々に心を込めて語ります。
この祈りに支えられてここまでこれたのだと感謝が溢れました。
家族3人の生活になります。
これから神様は私たちにどんな天国への道を備えて下さるのでしょう。
長男51年の地上での生涯をピックアップしました。
葬送式会場に掲示したものです。
最後まで耳元で語り続けた聖句
「主はヒデミの牧者であってヒデミには乏しいことがない。
主はヒデミを緑の牧場に伏させ、いこいの汀に伴われる。
主はヒデミの魂を生き返らせ、み名の為に正しい道に導かれる。
たといヒデミが死の谷の陰を歩むともわざわいを恐れません。
あなたがヒデミと共におられるからです。」(詩編23編)
苦しむこともなく、気がついたら呼吸停止。
彼は微笑みを浮かべたまま天国に凱旋したのです。
今日の主日は自宅でYouTube礼拝。
長男と一緒の礼拝は今日が最後となります。
魂は既に天国にあるけれど心に刻みたいので彼の眠る横で礼拝しました。
天国ってどんな場所かわからないけれど、何たって大好きな神様がおられるから安心。
それに親しい友も知り合いも信仰の先達も今ではそこでた~くさん待っていて下さる。
なんか悲しさと寂しさにまして安堵と平安がわたしを包む。
これからは歩けなかったのに飛び跳ね、喋れなかったのに大声だして笑い、食べれなかったのにお腹いっぱい美味しいものを食べられるね。
アッ?? 天国ってお食事するのかしら。
天国って??? 行ったことないからわからないんです(笑)
長男「播種血管内凝固症候群、何処に血栓が飛ぶかわからないので急変が起こりえる。3日間何事も無ければ」と医師に言われて緊張の3日が過ぎました。
詳しいことは分かりませんが、血圧も平常にもどったようで一安心といったところでしょうか。
気にかけて下さった方から励ましの言葉と共にみ言葉が届きました。
人からのみ言葉はやがて神様からの「コトバ」になりました。
感謝して書き留めたく・・・
詩編145:17~19
「主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく、
すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。
主はおのれを恐れる者の願いを満たし、またその叫びを聞いてこれを救われます。」
長男のAOI国際病院から電話がありました。
発熱があり、CT・血液検査をしたので結果説明をするとの事でした。
聞いたことのない病名をこれまで何度告げら、何度涙したことか。
「播種性血管内凝固症候群」、原因は「誤嚥性肺炎」との診断。
早期診断と早期治療が求められる重篤な状態だそうです。
3日間もてば薬が効いたと思って、緊張して待機するよう言われました。
「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神があなた方のことを心にかけていて下さるからです。(Ⅰペトロ5:7)
終末期(看取り)医療から回復期医療に移行 とのことで、具体的な内容は分からないのですが、10分面会で気付いたことを書き留めたく。
栄養も吸収するのに体力消耗するらしく、暫くは朦朧とした日が続きました。
7/22(月)から栄養アップして「エルネオパ2、1000㎖」(在宅時よりは少ない)に変更。
注)胃ろうからの栄養が入らなくなりCVポート増設、それも使えなくなり現在はPICCから)
7/25(木)面会でばったりお会いした担当医から「リハビリを始めます」と告げられました。
また一歩前進でしょうか。
今日の長男、チョッピリ笑顔が出るようになりました。
長男、4月に「膿胸」で緊急入院し、AOI国際病院長期療養型病棟に転院して約2カ月が経ちます。
コロナの影響で「面会は週一回」という療養型病院が多い中、毎日会えるのは何と幸いなことか。
最初のうちは昏睡・小康状態で・・・
いつ天国に招かれてもと委ねつつ心の準備もしながら面会の10分間を祈りつつ過ごしました。
1ヶ月ほど前から面会時間になると目を開け身体を動かして私たちを待つようになってきました。
動く、笑う、涙する、こんな些細な変化が何と喜びか。
手足をさすり、背中に手を入れて揉むたびに痩せて骨がゴツゴツと私の手に当たる。
神様に委ねた命とはいえ、やせ細っていく姿を視続けるのはこれまた親として切ないものです。
昨日、3人で面会に行った時に担当医が今後の方針を提示してくださいました。
それも突然で耳を疑うような内容でした。
「これまでは終末(看取り)医療をしてきたけれど、回復医療に移行したいが」との事。
血液検査、胸のCT検査の結果が良好な事、膿胸のウミも抗生薬が効いて抑えられていることなどから、点滴や遺漏からの栄養等々を様子を見ながら体力をつけていく方向を試みるそうです。
肺炎や膿胸のリスクも消えたわけではないけれど、「急変」の心配は少し遠のいたようです。
「生命は神様お一人のご支配の中にある」
生死は私たち人間には知りえない事だと知識ではなく信じて心に刻みます。
神様の栄光の為に長男は再び命の息を吹き込まれました。
我が家のリビング出窓には「感謝のガラスの器」があります
「感謝の見える化」・・・感謝!と祈るごとにビー玉を1個入れるのです。
またひとつ感謝のビー玉が増えました。
主(ぬし)のいなくなった部屋。
10年間、我武者羅に過ごした思い出がいっぱい詰まっている。
恵み、奇跡、喜び、笑い、涙・・・沢山の出会いと励ましに支えられた日々。
もう戻ることは決して出来ないのに、片づけるのを躊躇する私がいる。
私を気遣ってか、同じ思いなのか、連れ合いも次男も片づけたらとは言わない。
主(ぬし)はいなくなったけれど、主(しゅ)は昨日も今日もこれからもここに居られる。