死は万物に等しく訪れる
死は絶対的な静止空間を人に与える
死は究極の無である
死は変化を観測する場となる
死は心の臓器のリズムを乱し、整える
意志を持たぬ者にとって
死は決意である
有象の世界では光の対極にあるのは闇である
白い光の対極には黒い闇がある
けれど有象無象の世界にとって
生の光の対極には死の闇がある
それは、ネガティブな意味を持つか?
いや、決してそうとは限らない
物質のエネルギーを考えたとき
マイナスの電荷を持つ「者」が
プラスの電荷を背負う陽子を含む原子核 の周りを
ぐるぐると回るのは古典物理学の時代から観察されてきた
運動している者こそネガティブなのではないか?
と問いを立てる事も出来るからである。
また、粒子加速器は粒子に運動エネルギ-を与えて速度を上げる
人々の期待を一身に{背負って}正の電極に向かうのである
男が女の周りをぐるぐる回って
恒常性を保とうとするような
天動説型の偏見解は既に壊れてしまった
かと言って地動説型をそのまま鵜呑みにするような事もできない
ニューロン細胞としての個人の目線は
今でも地球の重力に束縛された自閉症のままだからである
せめてカメラ位置くらいは、太陽系や宇宙の外側に持ってったっていいはずなのに
人は抽象的イメージよりも具体的事実を要求するからね。
地動説も天動説も信用できない。
感情と理論はあまりにも乖離し過ぎている。
僕は自分のシミュレーションした世界を信じている
人はそれを自信と呼んだりもするけれど
そんなものに根拠は無い
ただ、それでも僕はここでいうけれど
人間が頭の中で思い描ける程度のイメージなんてのは
人間に実現可能な程度でしか僕等は認識できない
何故なら僕等の認識能力はとても数学的でありデジタルで
それは過去の人類の歴史が1次元的→2次元的→3次元的→4次元的
と明らかに着実な道を辿っている事がハッキリと見えるからだ
それは昔の人たちが高さを認識できなかったという事でもあり
時間の感覚を持っていなかったという事でもある
もっと言えば、科学が興った時にはこの世界は
光と闇の1次元でしかなかったということ。
原点を認識するということは単に「我思う故に我在り」と
声に出して読むことではない。
心の中に【闇の光】と【光の闇】を併せ持つことである。
何故なら、善の悪意 と 悪の善意があるように
矛盾を受け入れ、分析する事から新しい方向が始まるからである。
僕等は、小さな小さな僕等は、とっても小さな僕等は、
子供であると同時に大人だから、
小さな巨人であり、大きな小人だから
きっと
きっときっと。
ミクロ-マクロと繋ぐ一つの橋であって
意志の力で四次元を認識できます。
相対性理論は時間と空間を疑ったと同時に
光のすごさを、素晴らしさを信じすぎた。
だから僕等の持つ現代の「わからなさ」は
あまりにも基準を見失っている。
死は絶対です。
もう一度言います。
僕は死ぬ。
だから、ここに遺書を書き残します。
でも、死ぬのはまだ明日だから。
僕等で、今日を生きよう。
そんなことを考えた。