嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

恥ずかしい時を過ごす為に何かを知れば。

2006年09月08日 03時08分55秒 | 駄文(詩とは呼べない)
鏡の前で、ずっと泣いている自分を見つめる

なんで泣いてるの?
とか、
どうして泣いてるの?
とか、
どうして欲しいの?
とか、

そんな言葉は。

おそらく、多くの場合に置いて、なんの役にも立たない。
答えを探して、疲れ切っている自分に向かって、
その答えは何?
と、
強く、時に弱く問いかける行為は
ほとんど役に立たないどころか、
もはや拷問に近いのだから。

少し肌寒いのであれば
暖め合う体を探せばいいのかもしれない

だけど。
少しも寒いの意味が理解出来ない僕は
淋しいって感情を
ただ「淋しい」って繰り返すことでしか
淋しいを知ることは出来ないし
さみしいって発音しても
さびしいって音とは少し違う意味が僕の中でこだまして
ますます余計にわけがわからなくなる。

たぶん、何かを知ることによってしか、
あるいは他者と何かを分かち合うことによってしか
逆説的な方法によってしか、
その漸近線としての意味を
接するかもしれない意味を、
知ることは出来ない。

だから遠く近い将来像の、その具体的なビジョンの、具体性の肉付けを持った感覚を、
ほんのすぐ側までたぐり寄せる事が出来なければ、
その、暖かみを知ろうとしなければ、
きっと僕には寒さすら訪れないだろう。

孤独だと指さされ続けても、
一人きりだと言われ続けても、
寂しい人間だと言われても、
ずっと自分だけが世界に重なってる僕は、
宇宙の果てを探すくらいしか、
やることはないんじゃないか?

100%の不在によってしか、
存在を確定出来ない僕は、
その生を確かめようと思う場合にも、
自分の死を体験せずして、
その生を抗うことによってしか、
自覚する術は無いのではないか?

君の場所には、僕が居ますか?
ただ、ありのままに、全てを受け入れて、
自分の中にある景色が、ひととともにありますか?

かつて、自分の居た場所に
自分以外の誰かが居ても
それが自分と同じ誰かであると
時を待たずして言えますか?

ありふれた景色の中で
ありふれた自分が溶け込んでいても
それが間違いなく自分であると言えますか?
そして、自分を名乗れますか?

僕は違う。

僕はダメだ。

僕は、この世界の何もかもを
確かめることも、触れることも、確認することも、
できはしない。

だから僕はどこまでも
自分の不在を証明して
自分の死を確認する。

ただ、そのために未来を思い出して
自分の死をたぐり寄せる。

だから僕は寒いって言う時も
本当は何にも寒くないって知ってる
だから僕が何かを知りたいって時も
本当は何にも知る気がないって知ってる。
いつも僕は、僕のことだけを知ってる。
どこにも居ない、僕の事だけを知ってる。

さみしいってつむやいた。
めをつむって
さびしいってつむやいた。

だから僕は確信を持って言えるけど、
『淋しい」のは、多分、いまこれを読んでいる「君』だと思う。