在日朝鮮人から見た韓国の新聞
韓国の新聞を新米帰化人の目から見て、韓国で報道されている内容の中から気になることやウラ読みについて書き綴っていきたいと思います。
新米帰化人です。
在日朝鮮人の3世として生まれ親戚に本当の日本を伝えるために
帰化を遅らせてきましたが、無事、帰化する事になりました。
南朝鮮新聞は独特のウラ読みがあります。
それを正しい歴史認識とともに帰化人の視点から書いて行きたいと思います。
時々、ハングル併記もしたいと思います。
(2017.4.22 ハンギョレ)
韓国人は日本人の墓を暴いて、墓石を土台にして家を建てた
[ルポ]旧日本人共同墓地の上につくられた釜山峨嵋洞「碑石文化村」探訪 (2017.4.22 ハンギョレ)
“
人口350万人の港湾都市釜山(プサン)は、全体面積の70%が険しい山だ。都心も郊外も、山の斜面かその間どこかに形成されている。
山が多いため、トンネルも多く、高架道路も多く、急な坂やカーブも数え切れない。中には山腹道路というものもある。
山の中腹に沿って作られた複雑で狭い道路だ。最近、釜山(プサン)の名所として浮上した段々畑の形をした山里の庶民村を繋ぐ軸となる道路だ。
日帝強制占領期(日本の植民地時代)には28万人だった釜山市の人口は、光復後36万人に増え、朝鮮戦争当時には100万人近い避難民が釜山に押し寄せたという。
山の斜面に沿って仮小屋が建てられ、避難民村が作られた。戦争が終わってから、彼らが去った一部の空家に靴や繊維、縫製工場労働者たちが住み着いた。
こうして作られた山里の庶民村が、草梁洞(チョリャンドン)・甘川洞(カムチョンドン)・峨嵋洞(アミドン)など、山腹道路一帯にそのまま残されている。
険しく狭い路地に沿って小さな家が軒を連ね、段々畑のように設けられた敷地に横に長い家(いわゆる汽車住宅)が並ぶ。華やかな港湾都市釜山の実像であり、力強く生きてきた庶民の生活が成り立っていることろだ。古く、みすぼらしかったこれらの村が今や旅行客たちが先を争って訪れる名所となった。
黙々と重ねてきた歳月からの贈り物だ。
碑石文化村の中心は峨嵋洞サン19番地だ。曲がりくねった道に沿って上っていき、展望台の役割をする道の横に立てば、高層ビルがひしめく釜山市内が見渡せる。
避難先の臨時首都だった時代、「不純分子」を見つけるための厳しい検問の手続きを経て、テント一枚を受け取った避難民たちが定住したのが、まさに峨嵋洞サン19番地、日本人共同墓地だった。
1876年の釜山開港で日本人が集まり、龍頭山(ヨンドゥサン)のふもとに日本人村が形成されたが、日本人の居住地が拡大するにつれ、龍頭山・伏兵山(ポクビョンサン)にあった共同墓地が1907年、ここに移された。
峨嵋洞には生きた人に住む場所を譲ってくれた日本人死者たちの魂を慰めるところもある。半月峠の下にあるテソン寺だ。峨嵋洞から出た碑石の一部を集めて塔のように積み上げ、毎年中元(旧暦7月15日)に慰霊祭を開いている。 (抜粋)
先に書きますが、ここは改葬などをして死者に対する礼を尽くして作られた地域ではありません。
墓石を倒し、墓を暴き、骨壺を破壊し、そして骨をばら撒き、墓石を土台として家を、石垣を作って、形成された地域です。
「生きた人に住む場所を譲って」ではなく、「死者の住む場所を略奪」したのです。
写真を見れば、ハンギョレの書いている内容と金田が言っていることのどちらが正しいか分かると思います。
今更、慰霊祭を開いて亡くなった方々の魂が戻る場所ができる訳でもなく、と言うより、ここに埋葬された遺族の少なからずが終戦時に虐殺され、強制的に無縁仏にされたのですから、それこそ私たちの考えでいうなら恨み骨髄に徹すると言っても過言ではないでしょう。
要するに、戦後、私たちは日本人から財産だけでなく、血や家系などと言った財産以上に大切なものまでも奪ったのですね。
ただ、過去の私たちが異常だ!と断罪するだけではこの記事は終わりません。その異常さは少し形を変えて、よりバケモノのような人間性へと変貌しているのです。
墓石を土台にして家を建てる。
金田もこの話しを初めて聞いたときはあり得ないと思いました。
私たちは「祖先を大切にする儒教の国の民族であり、日本人とは違い崇高な民族である」と、事あるごとに聞かされました。
大学(南朝鮮の)でも、民団の会合でもそうだったのです。
金田が若い時、ソウルで知り合った日本人が酒の場で「南朝鮮人は日本人の墓石を土台に家を作るような野蛮な奴らだ!」と言うのを聞いて、頭に血がのぼり、いわゆる火病の状態になって激論を交わしました。
恥ずかしさと、申し訳なさと、私たちの戦後史の嘘を突きつけられた感じがし、それも、南朝鮮の呪縛から解かれる切っ掛けの一つとなったのです。
あれから40年弱。
今も変わらず、日本人の墓を足に生活し続ける私たち。
戦後、日本人から奪うことだけを考え続けた私たちは、人間の尊厳というものを忘れてしまったようで、戦後70年経っても、未だに日本人を陵辱し続けています。
バケモノになったとしか言いようがないですね。
釜山が現在の活力のない状態になったのは、バケモノとなり、人としての生活が送れなくなった事によって引き起こされた、必然なのかも知れません。
韓国の新聞を新米帰化人の目から見て、韓国で報道されている内容の中から気になることやウラ読みについて書き綴っていきたいと思います。
新米帰化人です。
在日朝鮮人の3世として生まれ親戚に本当の日本を伝えるために
帰化を遅らせてきましたが、無事、帰化する事になりました。
南朝鮮新聞は独特のウラ読みがあります。
それを正しい歴史認識とともに帰化人の視点から書いて行きたいと思います。
時々、ハングル併記もしたいと思います。
(2017.4.22 ハンギョレ)
韓国人は日本人の墓を暴いて、墓石を土台にして家を建てた
[ルポ]旧日本人共同墓地の上につくられた釜山峨嵋洞「碑石文化村」探訪 (2017.4.22 ハンギョレ)
“
人口350万人の港湾都市釜山(プサン)は、全体面積の70%が険しい山だ。都心も郊外も、山の斜面かその間どこかに形成されている。
山が多いため、トンネルも多く、高架道路も多く、急な坂やカーブも数え切れない。中には山腹道路というものもある。
山の中腹に沿って作られた複雑で狭い道路だ。最近、釜山(プサン)の名所として浮上した段々畑の形をした山里の庶民村を繋ぐ軸となる道路だ。
日帝強制占領期(日本の植民地時代)には28万人だった釜山市の人口は、光復後36万人に増え、朝鮮戦争当時には100万人近い避難民が釜山に押し寄せたという。
山の斜面に沿って仮小屋が建てられ、避難民村が作られた。戦争が終わってから、彼らが去った一部の空家に靴や繊維、縫製工場労働者たちが住み着いた。
こうして作られた山里の庶民村が、草梁洞(チョリャンドン)・甘川洞(カムチョンドン)・峨嵋洞(アミドン)など、山腹道路一帯にそのまま残されている。
険しく狭い路地に沿って小さな家が軒を連ね、段々畑のように設けられた敷地に横に長い家(いわゆる汽車住宅)が並ぶ。華やかな港湾都市釜山の実像であり、力強く生きてきた庶民の生活が成り立っていることろだ。古く、みすぼらしかったこれらの村が今や旅行客たちが先を争って訪れる名所となった。
黙々と重ねてきた歳月からの贈り物だ。
碑石文化村の中心は峨嵋洞サン19番地だ。曲がりくねった道に沿って上っていき、展望台の役割をする道の横に立てば、高層ビルがひしめく釜山市内が見渡せる。
避難先の臨時首都だった時代、「不純分子」を見つけるための厳しい検問の手続きを経て、テント一枚を受け取った避難民たちが定住したのが、まさに峨嵋洞サン19番地、日本人共同墓地だった。
1876年の釜山開港で日本人が集まり、龍頭山(ヨンドゥサン)のふもとに日本人村が形成されたが、日本人の居住地が拡大するにつれ、龍頭山・伏兵山(ポクビョンサン)にあった共同墓地が1907年、ここに移された。
峨嵋洞には生きた人に住む場所を譲ってくれた日本人死者たちの魂を慰めるところもある。半月峠の下にあるテソン寺だ。峨嵋洞から出た碑石の一部を集めて塔のように積み上げ、毎年中元(旧暦7月15日)に慰霊祭を開いている。 (抜粋)
先に書きますが、ここは改葬などをして死者に対する礼を尽くして作られた地域ではありません。
墓石を倒し、墓を暴き、骨壺を破壊し、そして骨をばら撒き、墓石を土台として家を、石垣を作って、形成された地域です。
「生きた人に住む場所を譲って」ではなく、「死者の住む場所を略奪」したのです。
写真を見れば、ハンギョレの書いている内容と金田が言っていることのどちらが正しいか分かると思います。
今更、慰霊祭を開いて亡くなった方々の魂が戻る場所ができる訳でもなく、と言うより、ここに埋葬された遺族の少なからずが終戦時に虐殺され、強制的に無縁仏にされたのですから、それこそ私たちの考えでいうなら恨み骨髄に徹すると言っても過言ではないでしょう。
要するに、戦後、私たちは日本人から財産だけでなく、血や家系などと言った財産以上に大切なものまでも奪ったのですね。
ただ、過去の私たちが異常だ!と断罪するだけではこの記事は終わりません。その異常さは少し形を変えて、よりバケモノのような人間性へと変貌しているのです。
墓石を土台にして家を建てる。
金田もこの話しを初めて聞いたときはあり得ないと思いました。
私たちは「祖先を大切にする儒教の国の民族であり、日本人とは違い崇高な民族である」と、事あるごとに聞かされました。
大学(南朝鮮の)でも、民団の会合でもそうだったのです。
金田が若い時、ソウルで知り合った日本人が酒の場で「南朝鮮人は日本人の墓石を土台に家を作るような野蛮な奴らだ!」と言うのを聞いて、頭に血がのぼり、いわゆる火病の状態になって激論を交わしました。
そこで論より証拠だと言って、その日本人に連れてこられて見にきたら、実際に墓石の上に家が立っていたのです。
恥ずかしさと、申し訳なさと、私たちの戦後史の嘘を突きつけられた感じがし、それも、南朝鮮の呪縛から解かれる切っ掛けの一つとなったのです。
あれから40年弱。
今も変わらず、日本人の墓を足に生活し続ける私たち。
戦後、日本人から奪うことだけを考え続けた私たちは、人間の尊厳というものを忘れてしまったようで、戦後70年経っても、未だに日本人を陵辱し続けています。
バケモノになったとしか言いようがないですね。
釜山が現在の活力のない状態になったのは、バケモノとなり、人としての生活が送れなくなった事によって引き起こされた、必然なのかも知れません。