李 相哲(龍谷大学教授)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】
国際 韓国・北朝鮮 週刊新潮 2020年6月4日号掲載
李相哲教授
4月に20日間消息不明となり、一時は死亡説も取り沙汰された北朝鮮の金正恩委員長。5月1日に1度姿を現したが、その後の動静は伝えられていない。
かねて健康不安が囁かれていた金正恩に不測の事態が生じた時、北朝鮮はどうなるのか。北朝鮮研究の第一人者が分析する朝鮮半島の未来。
佐藤 日本でなら私と李先生は同じ学年になりますが、先生は中国でお生まれになった朝鮮族の2世だとうかがいました。
李 黒竜江省三江平原北部の村が故郷です。1930年代に韓国南部の慶尚道から集団で移住してできたところです。
佐藤 日本統治時代の満洲ですね。
李 当時はやっぱり満洲という場所にロマンがあって、両親はそれを追いかけて移り住んだそうです。
佐藤 その地を開拓された。
李 ええ、稲作です。それまで人の手が及ぶことのない土地でしたが、日本人が山の反対側にある松花江の水を、トンネルを掘って引っ張ってきた。
もともと肥沃な土壌でしたから、欲しいだけ米が収穫できました。ただ寒いところで、稲が実るまで100日以上かかる。そのタネは北海道産です。だから幼い頃から北海道という地名は知っていましたね。
佐藤 李先生が10代の頃、中国は文化大革命の真っ最中です。当時は北朝鮮が憧れの対象だったそうですね。
李 1976年くらいまでは、もう全中国の若者が北朝鮮に憧れていました。
だから中国東北部から10万人を超える朝鮮族の知識人が北朝鮮に渡っていきましたね。
北朝鮮は先進国だったんです。私たちには北朝鮮の映画の影響が非常に大きい。映画の登場人物が非常に魅力的でした。
佐藤 私も学生時代に北朝鮮の映画をかなり見たのですが、朝鮮戦争を扱った「崔鶴信(チェハクシン)の一家」は牧師が主人公で、北朝鮮におけるキリスト教がどういう位置づけだったのかよくわかって、興味深かったです。
李 もう50年以上前の映画ですね。私もよく覚えています。牧師はリチャードというアメリカ人で、実はCIA局員でした。朝鮮戦争が勃発して、2人の青年が韓国のある村にやってくるというシーンから始まる。
佐藤 はい、そうです。最後はB-29による空襲で教会が燃え落ちるところで終わります。
李 懐かしいですね。
佐藤 それから、私はもともとチェコスロバキアの共産党政権下の教会と国家の関係が専門だったのですが、現地で北朝鮮の教会に関して、面白い話を聞いたことがあります。平壌で世界青年学生平和友好祭をやったことがありましたね。
李 1989年です。平和友好祭は、いわば社会主義国のユニバーシアードで、北朝鮮がソウル五輪に対抗する形で開催しました。
佐藤 その時に各国からクリスチャンがたくさん来るので、カトリックとプロテスタントの教会を一つずつ作ることになった。
ところが神父も牧師もいないわけです。
そこで朝鮮労働党は、カトリックは東ドイツに、プロテスタントはチェコに留学生を派遣して学ばせることにしたのですが、彼らが言うには、内容はいいから儀式だけ教えて欲しいと。
李 北朝鮮らしいですね。
佐藤 工作員を受け入れるようなものですから、チェコスロバキアがスイスの世界教会協議会に相談すると、是非受け入れなさい、形だけでもいつかその器の中に人が入ってくる可能性があるから、と言われたそうです。それで留学生を3年ほど受け入れた。
李 日本統治下の平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれていました。
佐藤 そうですね。布教が盛んで、神学校も教会もあった。
李 金日成の父・金亨稷(キムヒョンジク)の通った崇実中学は朝鮮半島でもっとも優秀な学校でしたが、ミッションスクールです。また母・康盤石(カンバンソク)の「バンソク」という名前は聖書から採っている。
佐藤 岩の意味を持つ「ペトロ」ですね。
李 金日成の母方の祖父は教育者で、有名なキリスト教信者でした。だから金王朝の家系はキリスト教と関係が深い。
佐藤 金日成の回顧録『世紀とともに』の第1巻には、子供の頃、母と一緒に教会へ行った話や、愛の教えと主体(チュチェ)思想は非常に近いということが書いてあります。
李 実際、近いですよ。しかも金日成の著作は聖書のように扱われ、統治システムも金日成がイエス・キリスト、労働党の何々細胞委員長が教会長老の役目を果たしている。キリスト教がカルト化した感じです。
佐藤 おっしゃる通りで、昨年、同志社大学神学部の授業で北朝鮮の映画「月尾島」を見せて、キリスト教的要素がどこにあるか、と質問してみました。
学生たちは、教会が朝鮮労働党でイエスが金日成だ、と答えました。
個人の命は有限でも、教会に属しイエスのために死んでいくのが救済、という構造を映画からきちんと読み取っていました。
金正恩重体説
佐藤 その金日成体制を引き継ぐ金正恩が、4月に20日ほど姿を見せず、死亡説まで流れました。これをどのようにご覧になっていますか。
李 金日成の誕生日である4月15日の太陽節に、金日成の遺体が安置されている太陽宮殿へ参拝しなかったことからこの騒ぎが起きました。
そして4月20日から24日まで、米韓で戦略爆撃機B-1Bも参加した空軍演習が行われましたが、いつもは口汚く罵る北朝鮮が無反応でした。
佐藤 さまざまな情報が飛び交いました。
李 主に三つの説がありました。
一つ目は、心臓のステント手術をして、それが失敗した。
ステント手術はこれまでに2回受けているといわれています。本来なら手術にフランスから医師を呼びますが、コロナの影響でそれができず、北朝鮮の医師が行なった。
しかしうまくいかず、中国から医師団を呼んだというものです。
佐藤 中国からの医師団派遣はロイターが報じました。
李 4月23日に出発したとありましたが、私が情報を得たのは22日。19日あたりからまず6名の医師が行っています。
ロイターの報じた23日の50人の医師団というのは、医師団を装った政府代表団じゃないかと考えていました。
佐藤 私もその頃、脳死状態にあるのではないかという情報が中東ルートで入ってきました。
李 北朝鮮は中東でマネーロンダリングしていますからね。
二つ目は、4月14日の巡航ミサイル発射実験で事故に遭ったというものですが、彼と出歩く幹部たちが無事ですから、これはありえない。
三つ目は、金正恩が放心状態で何もしたくない状態だという説です。
佐藤 メンタルですね。
李 はい。もともと金正恩は鬱病だという話があります。
今年は経済を独自路線で立て直すはずが、頼りの中国からの観光客がコロナで来られなくなった。
自ら国境を封鎖してしまいましたからね。習近平は年間100万人の観光客を送ると約束していたんです。
それがなくなり、打つ手なしの状態でした。
佐藤 でも5月1日に順川リン酸肥料工場の竣工式に姿を現しました。
李 翌日、まずその様子がラジオで報じられ、次に写真、映像が公開されました。
映像を見ると、歩く際に左足が遅れていたり、カートで移動したりし、顔写真では顔がむくんでいます。
映像は本物だと思いますが、完全に健康不安を払拭できたかといえば、そうではない。
しかもその後の動静が伝えられていない。また、雲隠れしていた20日間、どこで何をしていたのかという疑問も解消されていません。
佐藤 何らかの異変が起きていた。
李 台湾の情報機関である国家安全局の邱国正局長が国会答弁ではっきり病気だと述べています。
金正恩が20日以上、姿を現さなかったことは5回あるとされていますが、少なくとも今回はその間、仕事ができない状況にあったのは間違いないと思います。
佐藤 金正恩重体説の第一報はアメリカのCNNでした。でも北朝鮮の情報に強いのはやはり中国とロシアではないですか。
李 今回の情報の多くは中国から出てきました。
北朝鮮ではいま、中国の諜報員2千人が活動していると聞いたことがあります。
今回は当初から健康不安を打ち消していた韓国は、昔はヒューミント(人を介した諜報)があったのですが、金大中の左派政権以降、情報網が大きく毀損され、文在寅政権では、ほとんどなくなっていると見られています。
後継者は妹・金与正
佐藤 今回、もう一つ注目されたのは、妹の金与正(キムヨジョン)でした。後継者説がずいぶん取り沙汰されました。
李 昨年の終わり頃から、金与正が兄に代わって、内外の政治に関わっていることが確認されています。
12月に「尊敬する金与正同志」と書かれた指示文書が出ていますが、「尊敬する」という敬称は、北朝鮮ではトップにしか使えません。
そしてその文書を読むと、彼女は農業にも女性兵士の生活改善にも関わっていることがわかります。
佐藤 私は外務省時代、ロシアが収集する北朝鮮情報も担当していました。
その頃、旧ソ連共産党中央委員会の朝鮮課長だったワジム・トカチェンコ氏から聞いたのですが、かつて金永南(キムヨンナム)外務大臣が訪露した際、北朝鮮大使館でレセプションがあったそうです。
そこで彼に「ダラゴイ金永南同志」と言ったら、その場が凍りつき、彼も「国に帰れなくなる」と、ものすごい勢いで怒り出したそうです。
ロシア語のダラゴイを直訳すると「尊敬する」ではなく「親愛なる」なんですけどね。
李 それでも反逆罪に問われるかもしれない。
佐藤 李先生がご著作で触れられているロシアの極東連邦管区大統領全権代表だったコンスタンチン・プリコフスキーは、金正日を個人的によく知っています。
彼の回想録には、政治的な資質があるのは金正恩と金与正だと、金正日が言っていたことが書かれていますね。
李 実質的にいま金正恩の後継者は金与正しかいません。ただ彼女の権威はまだ非常に弱い。彼女には軍の経歴がまったくありません。
佐藤 金正恩もほとんどなかったわけですが、金正日が亡くなる前に大将になっている。
李 大将になってから、軍事委員会の副委員長にも就任しています。
北朝鮮の最高権力者は軍部の最高司令官も兼ねますが、果たして軍経験のない32歳の女性に、70代、80代の将軍たちが従うのか、という問題があります。
そして何よりいまの権力序列では、金与正は30番以下です。その上に政治局委員が20名ほど、候補委員が10名以上います。
佐藤 彼女は候補委員になったところですからね。
李 そこから政治局委員、常務委員になって最高権力者になるわけです。いくら北朝鮮でも、一足飛びに最高指導者になるわけにはいきません。
佐藤 いまは金正恩がいるから、権力を笠に着ることができる。
李 また彼女が権力を受け継ぐには中国とロシアが認めるかもポイントになります。
ロシアは北朝鮮をどう見ているんでしょうか。
佐藤 金正恩になって少しマシになりましたが、プーチンは金正日をとても嫌っていました。
6カ国協議のロシア代表はアレクサンドル・ロシュコフで、私の友人です。
彼が言うには、国家元首は騙さないのが古今東西のルールだけど、金正日は違った。
彼は核開発について、やりたいけれども能力がないし貧しいからやれない、と言った。
それをアメリカに話してくれ、と頼むので、プーチン大統領が伝えたら、それは嘘で、大恥をかかされたそうです。
李 金正日はほんとうに狡猾な人で、北朝鮮は1980年代から一度たりとも核保有を諦めたことはありません。
佐藤 いまある核も絶対に手放しませんよ。
リビアでは核放棄したら、カダフィ政権は崩壊してしまったし、かつて南アフリカが大きな影響力を持っていたのは核のおかげです。
李 特に金正恩は絶対に放棄しません。彼の功績は、北朝鮮を核保有国にしたことです。
核は彼が指導者たる資格や権威とつながっていますから、手放すはずがない。
佐藤 核があるから、外交関係もないのにトランプ大統領をシンガポールに呼び出すことができるし、板門店に駆けつけさせることができます。
李 そもそも核を奪ったら、金正恩はただの36歳の青年ですよ。
佐藤 しかも生活習慣病をかなり抱えた不安定な指導者です。
李 トランプが、核を捨てたら豊かな国になりますよ、と説得しようとしましたが、金正恩はそんなことは望んでいない。
豊かになれば体制が崩壊します。
かろうじていま体制維持ができているのは、移動を制限して、適当に飢えさせ、一部の人には特権を与えて人心をコントロールしているからです。
佐藤 私も、大量消費文明が入ってきたら金体制は崩壊すると思います。
ソ連崩壊の一番の原因は、モノの流入を認めてしまったことです。
かつてロシア共産党のイリイン第2書記は、ゴルバチョフは愚か者でブレジネフは頭がよかったと話してくれました。
彼はサーティワン アイスクリームの話をするんです。
モスクワには3種類のアイスしかなかったけども、サーティワンが入ってきて31種類になった。
否、上に載せて2個にするなら31×31から900通り以上になる。すると人間はそれらをすべて食べたくなるんだと。
ブレジネフは人間の欲望がいくらでも膨れ上がることに気がついていた。だから欲望を膨れ上がらせず、昨日より明日のほうが少しだけよくなるようにしていた、と分析していました。
金正恩しか見ない韓国
李 ただ北朝鮮で体制が少しずつ緩んできている兆候はあります。
おっしゃるように社会主義国は配給によって豊かさを調整してきたわけですが、いま北朝鮮では一部のエリート層以外、配給が行き届いていない。
人民は非合法な市場で生計を営むしかありません。
市場には多くの人が集まり、情報も飛び交いますから、不満が一気に爆発する可能性がある。
また携帯電話もいま500万台以上といわれています。人口は2500万人ですから、ほぼ普及したといっていい。だから情報流通もあります。
佐藤 それは危ない状態ですね。
李 私は北朝鮮でのクーデターとか人民蜂起はあり得ないと思っていたのですが、もし金正恩に万が一のことがあれば、その可能性は高まります。
後継者は金与正しかいません。
他の幹部では、たちまち混乱に陥るでしょう。
ナンバー2の崔竜海(チェリョンへ)も、実は4月から動静がわからなくなっています。
だからとりあえず金一族と運命共同体の幹部たちが、金与正を中心に、いまの路線でいこうとするでしょうが、問題は、北朝鮮が生きていかなければならないことです。
佐藤 そのためには制裁解除が必要になってくる。
李 北朝鮮は、工場の稼働率が20%しかないし、農業も振るわない。だから外国の援助が必要です。
でも援助を受けるには、核の放棄と人権問題、日本なら拉致問題を解決しなければならない。
そこで路線闘争が起こって、クーデターや人民蜂起につながる可能性は大きいと思います。
佐藤 金正恩の息子はいま何歳ですか。
李 10歳といわれています。金正日から金正恩が後継者に指名されたのは、2009年1月です。その後、李雪主(リソルジュ)と結婚し、10カ月くらい後に長男が生まれたと推測されています。
佐藤 そうすると、金与正がその息子までの中継ぎをするのは難しいですね。
李 そんな長い期間は持たないでしょう。つまり金正恩が亡くなれば、金王朝はもう終わりです。
その後、短期間の混乱を乗り切り、南北再統一をするプランが必要ですが、いまの韓国の文在寅政権は、金正恩が永遠に生きていることを前提に物事を考えている節があります。
2032年に南北共同オリンピックをするとか。
佐藤 韓国の情報は、国民とか世界ではなく、金一族だけに向けている印象がありますね。
李 北朝鮮を支えている思想は、主体思想です。
もはやマルクス主義からはかけ離れ、人間中心の哲学などと言っていますが、つまりは、人間はバラバラだと何もできないから組織化して、それを動かす頭が要る。
それが首領様で、首領様がいるから人民がいるという考えです。
佐藤 「人民福・首領福」と言いますね。こんな人民を持った首領様は幸せで、こんな首領様を持った人民は幸せ、というわけです。
李 文在寅の哲学も「人間が先」だというものです。
「サラム(人)」と言いますが、彼は若い頃に金日成の著作を少し齧ったのかもしれません。
ただ左派政権であっても、マルクス主義も本来の金日成の哲学も本質的には理解できておらず、ただ表面的に追随している感じです。
佐藤 私は韓国の左派を見ていて、マルクス経済学の影響が薄いと感じています。
要するに労働力の商品化を脱構築するところが弱い。だからスターリニズムなんです。
国家機能を大きく強化することで再分配を行う政体で、これは国家主義というか、ファシズムに近い。
李 そこは北朝鮮に通じるところがあるかもしれない。
これからのコロナ後の世界は、米中に二分される可能性が高い。
その時、韓国は中国側につく可能性がある。
THAADを追加配備せず、「自由で開かれたインド太平洋」構想にも参加しない。アメリカを怒らせて、韓国から駐留軍を撤退させるのを望んでいる節もあります。
佐藤 その動きに北朝鮮も大きな影響を受けますから、話はややこしい。俯瞰すれば、日韓関係や北朝鮮情勢は、米中関係のいわば従属変数です。米中関係によって大きく変わってくる。
李 中国も北朝鮮問題をどうしたいのか、はっきり打ち出していません。目標がないからこうした状況になっている。
ただコロナ後には何か大きな変化があるかもしれません。
李 相哲(りそうてつ) 龍谷大学教授
1959年中国黒竜江省生まれ。
北京中央民族大学卒。82年共産党機関紙「黒龍江日報」に入社し、87年上智大学に留学、95年に同大学院で博士号取得(新聞学)。
98年に帰化し、同年龍谷大学社会学部助教授、2005年教授。
著書に『北朝鮮がつくった韓国大統領』『金正日秘録』『金正日と金正恩の正体』『朴槿恵の挑戦』など。
国際 韓国・北朝鮮 週刊新潮 2020年6月4日号掲載
李相哲教授
4月に20日間消息不明となり、一時は死亡説も取り沙汰された北朝鮮の金正恩委員長。5月1日に1度姿を現したが、その後の動静は伝えられていない。
かねて健康不安が囁かれていた金正恩に不測の事態が生じた時、北朝鮮はどうなるのか。北朝鮮研究の第一人者が分析する朝鮮半島の未来。
佐藤 日本でなら私と李先生は同じ学年になりますが、先生は中国でお生まれになった朝鮮族の2世だとうかがいました。
李 黒竜江省三江平原北部の村が故郷です。1930年代に韓国南部の慶尚道から集団で移住してできたところです。
佐藤 日本統治時代の満洲ですね。
李 当時はやっぱり満洲という場所にロマンがあって、両親はそれを追いかけて移り住んだそうです。
佐藤 その地を開拓された。
李 ええ、稲作です。それまで人の手が及ぶことのない土地でしたが、日本人が山の反対側にある松花江の水を、トンネルを掘って引っ張ってきた。
もともと肥沃な土壌でしたから、欲しいだけ米が収穫できました。ただ寒いところで、稲が実るまで100日以上かかる。そのタネは北海道産です。だから幼い頃から北海道という地名は知っていましたね。
佐藤 李先生が10代の頃、中国は文化大革命の真っ最中です。当時は北朝鮮が憧れの対象だったそうですね。
李 1976年くらいまでは、もう全中国の若者が北朝鮮に憧れていました。
だから中国東北部から10万人を超える朝鮮族の知識人が北朝鮮に渡っていきましたね。
北朝鮮は先進国だったんです。私たちには北朝鮮の映画の影響が非常に大きい。映画の登場人物が非常に魅力的でした。
佐藤 私も学生時代に北朝鮮の映画をかなり見たのですが、朝鮮戦争を扱った「崔鶴信(チェハクシン)の一家」は牧師が主人公で、北朝鮮におけるキリスト教がどういう位置づけだったのかよくわかって、興味深かったです。
李 もう50年以上前の映画ですね。私もよく覚えています。牧師はリチャードというアメリカ人で、実はCIA局員でした。朝鮮戦争が勃発して、2人の青年が韓国のある村にやってくるというシーンから始まる。
佐藤 はい、そうです。最後はB-29による空襲で教会が燃え落ちるところで終わります。
李 懐かしいですね。
佐藤 それから、私はもともとチェコスロバキアの共産党政権下の教会と国家の関係が専門だったのですが、現地で北朝鮮の教会に関して、面白い話を聞いたことがあります。平壌で世界青年学生平和友好祭をやったことがありましたね。
李 1989年です。平和友好祭は、いわば社会主義国のユニバーシアードで、北朝鮮がソウル五輪に対抗する形で開催しました。
佐藤 その時に各国からクリスチャンがたくさん来るので、カトリックとプロテスタントの教会を一つずつ作ることになった。
ところが神父も牧師もいないわけです。
そこで朝鮮労働党は、カトリックは東ドイツに、プロテスタントはチェコに留学生を派遣して学ばせることにしたのですが、彼らが言うには、内容はいいから儀式だけ教えて欲しいと。
李 北朝鮮らしいですね。
佐藤 工作員を受け入れるようなものですから、チェコスロバキアがスイスの世界教会協議会に相談すると、是非受け入れなさい、形だけでもいつかその器の中に人が入ってくる可能性があるから、と言われたそうです。それで留学生を3年ほど受け入れた。
李 日本統治下の平壌は「東洋のエルサレム」と呼ばれていました。
佐藤 そうですね。布教が盛んで、神学校も教会もあった。
李 金日成の父・金亨稷(キムヒョンジク)の通った崇実中学は朝鮮半島でもっとも優秀な学校でしたが、ミッションスクールです。また母・康盤石(カンバンソク)の「バンソク」という名前は聖書から採っている。
佐藤 岩の意味を持つ「ペトロ」ですね。
李 金日成の母方の祖父は教育者で、有名なキリスト教信者でした。だから金王朝の家系はキリスト教と関係が深い。
佐藤 金日成の回顧録『世紀とともに』の第1巻には、子供の頃、母と一緒に教会へ行った話や、愛の教えと主体(チュチェ)思想は非常に近いということが書いてあります。
李 実際、近いですよ。しかも金日成の著作は聖書のように扱われ、統治システムも金日成がイエス・キリスト、労働党の何々細胞委員長が教会長老の役目を果たしている。キリスト教がカルト化した感じです。
佐藤 おっしゃる通りで、昨年、同志社大学神学部の授業で北朝鮮の映画「月尾島」を見せて、キリスト教的要素がどこにあるか、と質問してみました。
学生たちは、教会が朝鮮労働党でイエスが金日成だ、と答えました。
個人の命は有限でも、教会に属しイエスのために死んでいくのが救済、という構造を映画からきちんと読み取っていました。
金正恩重体説
佐藤 その金日成体制を引き継ぐ金正恩が、4月に20日ほど姿を見せず、死亡説まで流れました。これをどのようにご覧になっていますか。
李 金日成の誕生日である4月15日の太陽節に、金日成の遺体が安置されている太陽宮殿へ参拝しなかったことからこの騒ぎが起きました。
そして4月20日から24日まで、米韓で戦略爆撃機B-1Bも参加した空軍演習が行われましたが、いつもは口汚く罵る北朝鮮が無反応でした。
佐藤 さまざまな情報が飛び交いました。
李 主に三つの説がありました。
一つ目は、心臓のステント手術をして、それが失敗した。
ステント手術はこれまでに2回受けているといわれています。本来なら手術にフランスから医師を呼びますが、コロナの影響でそれができず、北朝鮮の医師が行なった。
しかしうまくいかず、中国から医師団を呼んだというものです。
佐藤 中国からの医師団派遣はロイターが報じました。
李 4月23日に出発したとありましたが、私が情報を得たのは22日。19日あたりからまず6名の医師が行っています。
ロイターの報じた23日の50人の医師団というのは、医師団を装った政府代表団じゃないかと考えていました。
佐藤 私もその頃、脳死状態にあるのではないかという情報が中東ルートで入ってきました。
李 北朝鮮は中東でマネーロンダリングしていますからね。
二つ目は、4月14日の巡航ミサイル発射実験で事故に遭ったというものですが、彼と出歩く幹部たちが無事ですから、これはありえない。
三つ目は、金正恩が放心状態で何もしたくない状態だという説です。
佐藤 メンタルですね。
李 はい。もともと金正恩は鬱病だという話があります。
今年は経済を独自路線で立て直すはずが、頼りの中国からの観光客がコロナで来られなくなった。
自ら国境を封鎖してしまいましたからね。習近平は年間100万人の観光客を送ると約束していたんです。
それがなくなり、打つ手なしの状態でした。
佐藤 でも5月1日に順川リン酸肥料工場の竣工式に姿を現しました。
李 翌日、まずその様子がラジオで報じられ、次に写真、映像が公開されました。
映像を見ると、歩く際に左足が遅れていたり、カートで移動したりし、顔写真では顔がむくんでいます。
映像は本物だと思いますが、完全に健康不安を払拭できたかといえば、そうではない。
しかもその後の動静が伝えられていない。また、雲隠れしていた20日間、どこで何をしていたのかという疑問も解消されていません。
佐藤 何らかの異変が起きていた。
李 台湾の情報機関である国家安全局の邱国正局長が国会答弁ではっきり病気だと述べています。
金正恩が20日以上、姿を現さなかったことは5回あるとされていますが、少なくとも今回はその間、仕事ができない状況にあったのは間違いないと思います。
佐藤 金正恩重体説の第一報はアメリカのCNNでした。でも北朝鮮の情報に強いのはやはり中国とロシアではないですか。
李 今回の情報の多くは中国から出てきました。
北朝鮮ではいま、中国の諜報員2千人が活動していると聞いたことがあります。
今回は当初から健康不安を打ち消していた韓国は、昔はヒューミント(人を介した諜報)があったのですが、金大中の左派政権以降、情報網が大きく毀損され、文在寅政権では、ほとんどなくなっていると見られています。
後継者は妹・金与正
佐藤 今回、もう一つ注目されたのは、妹の金与正(キムヨジョン)でした。後継者説がずいぶん取り沙汰されました。
李 昨年の終わり頃から、金与正が兄に代わって、内外の政治に関わっていることが確認されています。
12月に「尊敬する金与正同志」と書かれた指示文書が出ていますが、「尊敬する」という敬称は、北朝鮮ではトップにしか使えません。
そしてその文書を読むと、彼女は農業にも女性兵士の生活改善にも関わっていることがわかります。
佐藤 私は外務省時代、ロシアが収集する北朝鮮情報も担当していました。
その頃、旧ソ連共産党中央委員会の朝鮮課長だったワジム・トカチェンコ氏から聞いたのですが、かつて金永南(キムヨンナム)外務大臣が訪露した際、北朝鮮大使館でレセプションがあったそうです。
そこで彼に「ダラゴイ金永南同志」と言ったら、その場が凍りつき、彼も「国に帰れなくなる」と、ものすごい勢いで怒り出したそうです。
ロシア語のダラゴイを直訳すると「尊敬する」ではなく「親愛なる」なんですけどね。
李 それでも反逆罪に問われるかもしれない。
佐藤 李先生がご著作で触れられているロシアの極東連邦管区大統領全権代表だったコンスタンチン・プリコフスキーは、金正日を個人的によく知っています。
彼の回想録には、政治的な資質があるのは金正恩と金与正だと、金正日が言っていたことが書かれていますね。
李 実質的にいま金正恩の後継者は金与正しかいません。ただ彼女の権威はまだ非常に弱い。彼女には軍の経歴がまったくありません。
佐藤 金正恩もほとんどなかったわけですが、金正日が亡くなる前に大将になっている。
李 大将になってから、軍事委員会の副委員長にも就任しています。
北朝鮮の最高権力者は軍部の最高司令官も兼ねますが、果たして軍経験のない32歳の女性に、70代、80代の将軍たちが従うのか、という問題があります。
そして何よりいまの権力序列では、金与正は30番以下です。その上に政治局委員が20名ほど、候補委員が10名以上います。
佐藤 彼女は候補委員になったところですからね。
李 そこから政治局委員、常務委員になって最高権力者になるわけです。いくら北朝鮮でも、一足飛びに最高指導者になるわけにはいきません。
佐藤 いまは金正恩がいるから、権力を笠に着ることができる。
李 また彼女が権力を受け継ぐには中国とロシアが認めるかもポイントになります。
ロシアは北朝鮮をどう見ているんでしょうか。
佐藤 金正恩になって少しマシになりましたが、プーチンは金正日をとても嫌っていました。
6カ国協議のロシア代表はアレクサンドル・ロシュコフで、私の友人です。
彼が言うには、国家元首は騙さないのが古今東西のルールだけど、金正日は違った。
彼は核開発について、やりたいけれども能力がないし貧しいからやれない、と言った。
それをアメリカに話してくれ、と頼むので、プーチン大統領が伝えたら、それは嘘で、大恥をかかされたそうです。
李 金正日はほんとうに狡猾な人で、北朝鮮は1980年代から一度たりとも核保有を諦めたことはありません。
佐藤 いまある核も絶対に手放しませんよ。
リビアでは核放棄したら、カダフィ政権は崩壊してしまったし、かつて南アフリカが大きな影響力を持っていたのは核のおかげです。
李 特に金正恩は絶対に放棄しません。彼の功績は、北朝鮮を核保有国にしたことです。
核は彼が指導者たる資格や権威とつながっていますから、手放すはずがない。
佐藤 核があるから、外交関係もないのにトランプ大統領をシンガポールに呼び出すことができるし、板門店に駆けつけさせることができます。
李 そもそも核を奪ったら、金正恩はただの36歳の青年ですよ。
佐藤 しかも生活習慣病をかなり抱えた不安定な指導者です。
李 トランプが、核を捨てたら豊かな国になりますよ、と説得しようとしましたが、金正恩はそんなことは望んでいない。
豊かになれば体制が崩壊します。
かろうじていま体制維持ができているのは、移動を制限して、適当に飢えさせ、一部の人には特権を与えて人心をコントロールしているからです。
佐藤 私も、大量消費文明が入ってきたら金体制は崩壊すると思います。
ソ連崩壊の一番の原因は、モノの流入を認めてしまったことです。
かつてロシア共産党のイリイン第2書記は、ゴルバチョフは愚か者でブレジネフは頭がよかったと話してくれました。
彼はサーティワン アイスクリームの話をするんです。
モスクワには3種類のアイスしかなかったけども、サーティワンが入ってきて31種類になった。
否、上に載せて2個にするなら31×31から900通り以上になる。すると人間はそれらをすべて食べたくなるんだと。
ブレジネフは人間の欲望がいくらでも膨れ上がることに気がついていた。だから欲望を膨れ上がらせず、昨日より明日のほうが少しだけよくなるようにしていた、と分析していました。
金正恩しか見ない韓国
李 ただ北朝鮮で体制が少しずつ緩んできている兆候はあります。
おっしゃるように社会主義国は配給によって豊かさを調整してきたわけですが、いま北朝鮮では一部のエリート層以外、配給が行き届いていない。
人民は非合法な市場で生計を営むしかありません。
市場には多くの人が集まり、情報も飛び交いますから、不満が一気に爆発する可能性がある。
また携帯電話もいま500万台以上といわれています。人口は2500万人ですから、ほぼ普及したといっていい。だから情報流通もあります。
佐藤 それは危ない状態ですね。
李 私は北朝鮮でのクーデターとか人民蜂起はあり得ないと思っていたのですが、もし金正恩に万が一のことがあれば、その可能性は高まります。
後継者は金与正しかいません。
他の幹部では、たちまち混乱に陥るでしょう。
ナンバー2の崔竜海(チェリョンへ)も、実は4月から動静がわからなくなっています。
だからとりあえず金一族と運命共同体の幹部たちが、金与正を中心に、いまの路線でいこうとするでしょうが、問題は、北朝鮮が生きていかなければならないことです。
佐藤 そのためには制裁解除が必要になってくる。
李 北朝鮮は、工場の稼働率が20%しかないし、農業も振るわない。だから外国の援助が必要です。
でも援助を受けるには、核の放棄と人権問題、日本なら拉致問題を解決しなければならない。
そこで路線闘争が起こって、クーデターや人民蜂起につながる可能性は大きいと思います。
佐藤 金正恩の息子はいま何歳ですか。
李 10歳といわれています。金正日から金正恩が後継者に指名されたのは、2009年1月です。その後、李雪主(リソルジュ)と結婚し、10カ月くらい後に長男が生まれたと推測されています。
佐藤 そうすると、金与正がその息子までの中継ぎをするのは難しいですね。
李 そんな長い期間は持たないでしょう。つまり金正恩が亡くなれば、金王朝はもう終わりです。
その後、短期間の混乱を乗り切り、南北再統一をするプランが必要ですが、いまの韓国の文在寅政権は、金正恩が永遠に生きていることを前提に物事を考えている節があります。
2032年に南北共同オリンピックをするとか。
佐藤 韓国の情報は、国民とか世界ではなく、金一族だけに向けている印象がありますね。
李 北朝鮮を支えている思想は、主体思想です。
もはやマルクス主義からはかけ離れ、人間中心の哲学などと言っていますが、つまりは、人間はバラバラだと何もできないから組織化して、それを動かす頭が要る。
それが首領様で、首領様がいるから人民がいるという考えです。
佐藤 「人民福・首領福」と言いますね。こんな人民を持った首領様は幸せで、こんな首領様を持った人民は幸せ、というわけです。
李 文在寅の哲学も「人間が先」だというものです。
「サラム(人)」と言いますが、彼は若い頃に金日成の著作を少し齧ったのかもしれません。
ただ左派政権であっても、マルクス主義も本来の金日成の哲学も本質的には理解できておらず、ただ表面的に追随している感じです。
佐藤 私は韓国の左派を見ていて、マルクス経済学の影響が薄いと感じています。
要するに労働力の商品化を脱構築するところが弱い。だからスターリニズムなんです。
国家機能を大きく強化することで再分配を行う政体で、これは国家主義というか、ファシズムに近い。
李 そこは北朝鮮に通じるところがあるかもしれない。
これからのコロナ後の世界は、米中に二分される可能性が高い。
その時、韓国は中国側につく可能性がある。
THAADを追加配備せず、「自由で開かれたインド太平洋」構想にも参加しない。アメリカを怒らせて、韓国から駐留軍を撤退させるのを望んでいる節もあります。
佐藤 その動きに北朝鮮も大きな影響を受けますから、話はややこしい。俯瞰すれば、日韓関係や北朝鮮情勢は、米中関係のいわば従属変数です。米中関係によって大きく変わってくる。
李 中国も北朝鮮問題をどうしたいのか、はっきり打ち出していません。目標がないからこうした状況になっている。
ただコロナ後には何か大きな変化があるかもしれません。
李 相哲(りそうてつ) 龍谷大学教授
1959年中国黒竜江省生まれ。
北京中央民族大学卒。82年共産党機関紙「黒龍江日報」に入社し、87年上智大学に留学、95年に同大学院で博士号取得(新聞学)。
98年に帰化し、同年龍谷大学社会学部助教授、2005年教授。
著書に『北朝鮮がつくった韓国大統領』『金正日秘録』『金正日と金正恩の正体』『朴槿恵の挑戦』など。