大統領が侮辱罪で市民告訴、「日本の極右誌」が原因
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韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領を非難するビラをまいた男性が侮辱容疑で送検されたことが物議を醸した。侮辱罪は被害者本人の訴え出が必要なため、最高権力者が刑事告訴で国民の表現の自由を抑圧したとの批判が続出。文氏の支持層からも批判され、文氏は告訴を取り下げた。大統領府が、ひどい中傷にも耐えてきた文氏があえて告訴した理由として挙げたのは「日本の極右雑誌」の表現を引用し、国の品格を傷つけたという点だった。(ソウル 桜井紀雄)
「悪口」容認したはずが
警察が4月下旬、文氏への侮辱容疑で送検したと明らかにしたのは、保守系市民団体の代表を務める30代のキム・ジョンシク氏だ。
複数の韓国メディアによると、キム氏は2019年7月、国会近くで文氏や与党関係者の父祖にも親日派がいると揶揄(やゆ)するビラをまいたとされる。
キム氏が後日、韓国紙のインタビューに答えた内容を要約すると、与党陣営は対立勢力に「親日」のレッテルを貼って「反日」を政治的に利用しているが、自分たちの父祖にも親日疑惑があり、自らは「愛国・民主」、他人は「親日売国奴」だと二分化する行為をやめよという意図だったとしている。
キム氏は「文大統領個人を非難しようとは思っていなかった」と振り返り、告訴は予想外だったという。
取り調べでは「誰が告訴したのか」とのキム氏の質問に、警察は「皆分かっていると思う」と答えるだけで、繰り返し尋ねても「私の口から話せない」と、大統領による告訴だと認めることはなかったという。
侮辱罪は被害者本人の訴えを必要とする親告罪で、告訴人は文氏本人以外はあり得ない。だが、文氏は過去に「国民はいくらでも権力者を批判する自由がある」「大統領を侮辱するくらいは表現のカテゴリーとして容認しても構わない。大統領のことを悪く言って気が晴れるなら良いこと」などと、何度も大統領への非難は容認する考えを示してきた。
侮辱罪で告訴したなら前言を翻したことになる。
「独裁国家では犯罪」
大統領に対する侮辱容疑での送検をメディアが否定的に報じ始めると、保守系最大野党が強く批判しただけでなく、与党と同じ革新系の政党や文氏の支持母体からも厳しい意見が相次いだ。
文政権の主要支持団体の一つである「参与連帯」は今月3日に出した論評で「権力への国民の批判を侮辱罪で罰するのは文大統領が明らかにしてきた国政哲学とも合わない」として告訴の撤回を要請した。
革新系野党「青年正義党」の代表も3日、党の会議で「市民が自由に批判、非難できる存在がまさに大統領」と主張。「独裁国家では大統領への侮辱は犯罪かもしれないが、民主主義国家で大統領という地位は侮辱罪が成立してはいけない対象」だとして文氏に告訴取り下げを求めた。
世論や政界の強い反発を受けて大統領府報道官は4日、文氏が告訴取り下げを指示したことを発表した。「国民から委託され、国家を運営する大統領として侮辱的な表現に耐えるのも必要だという指摘を受け入れた」と明らかにした。
報道官は、文氏は「本人や家族への口にするのもはばかられるような表現にも、国民の表現の自由を尊重する立場から容認してきた」と指摘。今回のビラは「日本の極右週刊誌」の表現を引用するなどしたことで「国の品格や国民の名誉、南北関係など、国の未来に及ぼす弊害を考慮して対応した」と説明した。
どんな悪口にも耐えてきたが、「日本の極右雑誌」の引用は南北関係への悪影響も懸念され、許容範囲を超えていたというのだ。
文化の差と被害者意識
複数の韓国メディアによると、キム氏がまいたビラには文氏らの父祖の親日疑惑の非難のほかに「北朝鮮の犬 文在寅 真っ赤な正体」などといった日本の雑誌の見出しも印字されていた。この「犬」という表現が文氏側の怒りを買ったとされる。
確かに18年5月号で「韓国大統領 大研究」と題してこうした見出しを掲げた日本の雑誌は存在する。ただ、日本人の誰もがよく知る雑誌とはいいにくく、少なくとも「極右雑誌」だとは聞いたことがない。第一、月刊誌であり、「週刊誌」ではない。
まず、文氏側の怒りは、日韓の文化の差が大きく作用しているようだ。日本で「犬」といえば、人に忠実な「忠犬」のイメージが強く、例えば「あいつは会社の犬だ」などといわれても、そこまで強い悪口とはみなされにくい。
それに対し、韓国で「犬」は口にするのもはばかられるほどの最上級の悪口に使われる。韓国で「犬」という言葉を安易に使うとけんかの原因にもなる。
加えて、文政権とその周辺者には、日本の保守系の政治家やメディアが文氏に歴史問題で「反日」、北朝鮮問題で「親北」というレッテルを貼って必要以上におとしめているとの被害者意識があることも影響していそうだ。
文氏自身、19年に対談番組で「日本の政治指導者らが過去の歴史を国内政治問題として扱い、両国の未来志向の発展の足を引っ張っている」と批判するなど、自らが「反日」なのではなく、日本側が「嫌韓」をあおって政治的に利用しているとの認識を示していた。
金与正氏の悪口は大目に
一方、北朝鮮は19年2月に米朝首脳再会談が物別れに終わって以降、文氏の人格を攻撃するような誹謗(ひぼう)中傷を強めてきた。
日本による対韓輸出管理厳格化で韓国内で反日世論が高まった19年8月の演説で、文氏が「平和と統一へ進む道こそ、われわれが日本を追い越す道だ」と北朝鮮に協力を呼び掛けたところ、北朝鮮は罵倒で応じた。「ゆでた牛の頭も天を仰いで大笑いする」「本当に見るもまれな厚かましい人間だ」と「ゆでた牛の頭」という日本人には発想が及ばない悪口まで駆使してきた。
今年3月、北朝鮮による短距離弾道ミサイルの発射を受け、文氏が自制を求めたのに対しても、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党総書記の妹、金与正(ヨジョン)党宣伝扇動部副部長が談話で、米国の主張に追従するとの意味を込めて「米国のオウム」、「ずうずうしさの極みだ」と文氏を非難した。
こうした北朝鮮からの罵詈(ばり)雑言に対して文氏は反論せず、ただ耐え忍ぶか聞き流すかしている。
悪口の出どころが日本か、北朝鮮かで態度を変えるダブルスタンダード(二重基準)というほかなく、この二重基準は韓国内でも度々批判されてきた。
人権派弁護士出身と称される文氏に対し、韓国紙、中央日報は今月6日付の社説で「自らが弁護士であり、最高権力者である大統領が市民を告訴すること自体が民主主義に反する」と論じ、「今回の騒ぎは最初からあってはならないものだった」と強調した。
文氏は告訴を取り下げたものの、自身への自由な批判を受け入れたわけではないようだ。大統領府報道官は「外交問題に飛び火し得る」非難などについては個別に対応していく方針も明らかにしている。
ただ、南北関係だけでなく、日韓外交にも気を配るというのなら、日本から発信される批判も悪口も一緒くたにし、何でも「極右」とのレッテルを貼る文政権周辺の風潮から改めた方がよいのではないだろうか。