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世界の国の親日度ランキング! 1位は98.3%が「日本を好き」と回答

2021-05-22 19:17:23 | 日記

世界の国の親日度ランキング! 1位は98.3%が「日本を好き」と回答

電通・2019発表】

4/12(月) 12:01配信

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世界の国・地域の親日度ランキング

 コロナ禍が収束のきざしを見せない現在、国際的な人の動きや物流にも、強い制限が掛かったままの状態が続いています。

当初は「落ち着いたら海外旅行にでも行きたいな」と考えていた人も多いと思いますが、まだまだそんな日はやってきそうもありません。

 今回は、電通がコロナ禍以前の2019年に発表した「ジャパンブランド調査」の中から、海外の国・地域別の「日本への好意度ランキング」をまとめてみました。

対象となったのは20の国と地域で、日本への印象を「とても好き+好き」と答えた人の割合をランキングにしています。

さっそく結果を見ていきましょう。

 (出典:日本のことが好きな国は増えている?~“日本ファン”を探る~ | ウェブ電通報)

  • 第3位:ベトナム(98.0%)

 第3位は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する「ベトナム」です。

日本のことを「とても好き+好き」と答えた人の割合は98.0%。

 国家レベルでいうと、1993年にヴォー・ヴァン・キエット首相(当時)が訪日して以降、関係緊密化が進んでおり、近年は戦略的パートナーシップを中心に関係が強化されています。

また、国民・民間レベルでの交流も盛んで、日越(「越」はベトナムのこと)外交関係樹立45周年を迎えた2018年には「日越友好音楽祭」や「NHK交響楽団ベトナム公演」など多数の記念文化事業が行われました。

  • 第1位(同率):タイ(98.3%)

 第1位は、インドシナ半島中央部とマレー半島北部に位置する「タイ」です。

日本を好きと答えた人の割合は98.3%。

 文献によれば、日本とタイとは600年以上にもわたる交流の歴史があり、当時のタイの首都であったアユタヤには日本人町が築かれていたそうです。

また、タイでは日本語教育が熱心に行われており、日本語学習者は増加傾向にあるといいます。

コロナウイルス流行前の2019年には、訪日タイ人は130万人を超えました。

  • 第1位(同率):台湾(98.3%)

 もうひとつの第1位が、日本の南西に位置している台湾です。

タイと同じく98.3%の人が日本を好きと答えており、これは2016年よりも6ポイント以上増加しているとのこと。

 日本と台湾間では、特に経済やスポーツ・文化活動などでの関係が良好です。

また、都市間や民間レベルでも交流は盛んになっています。

たとえば、コロナウイルス流行前である2019年には日台双方向での人的往来が700万人を突破。

台湾では海外旅行がブームになっていたそうですが、出国先の約3割は日本であり、台湾人が最も海外旅行先に選んだ場所にもなりました。

ねとらぼ調査隊

 


『海賊とよばれた男』

2021-05-22 18:49:58 | 日記

海賊とよばれた男』(かいぞくとよばれたおとこ)は、百田尚樹による歴史経済小説である。

出光興産創業者の出光佐三をモデルとした主人公・国岡鐡造の一生と、出光興産をモデルにした国岡商店が大企業にまで成長する過程が描かれている。

第10回本屋大賞受賞作品[1]

2016年(平成28年)12月現在、上下巻累計で420万部突破のベストセラーとなっている[2]

2016年(平成28年)12月10日映画化作品が全国公開された。

目次

あらすじ[編集]

序章

1945年(昭和20年)8月15日。

連合国と日本の戦争は終わった。

東京をはじめとした主要都市は徹底的に爆撃されて瓦礫の山となり、海外資産のすべてを失って莫大な賠償金が課せられようとしていた。

これから日本はどうなっていくのだろうかと、日本国民の誰もが途方に暮れて失意に包まれているとき、すでに老境に入っていた国岡商店の国岡鐡造店主は、わずかに残った社員を前に訓示を行う

三千年の歴史を誇る日本人としての誇りを失わぬように喝 を入れ、

さらに「ひとりの馘首もならん!」と、社員を一人も解雇せずに、日本と国岡商店の再建に挑もうとする。

第一章 朱夏(昭和20〜22年)

売るべき商品「石油」がそもそもないという現実に直面した国岡商店は、社員一丸となって新しい仕事を求め、様々な業種に取り組む。

鐡造は愛蔵の美術品を手放してでも、金銭を工面した。

やがて海軍からの人材を中心にラジオ修理を手掛け、全国の店舗の営業を再開する。

しかし、戦前から国内の同業他社と対立し、石油配給統制会社(石統)からも締め出されていた。

その石統は、日本への石油輸入再開の条件としてGHQから出された、旧海軍の燃料タンクから燃料を浚うという、非常に過酷な仕事を国岡商店にさせる。

その後も国岡商店は、販売業者指定案から除外されそうになるが、国岡商店の社員たちが必死になって働く姿が、特にGHQに強い印象を与えたことから、除外は撤回される。

販売業者指定を受けた国岡商店は、ようやく石油販売業者として再出発するのだった。

第二章 青春(昭和18〜昭和20年)

神戸高商在学中、国岡鐡造は石油の将来性に目を付け、また消費者の利益のために、問屋を介さず広範囲に直営店を展開する「大地域小売業」の夢を持つ。

大財閥鈴木商店を蹴って、神戸の酒井商店に丁稚として就職した鐡造は、ここで店主の心構えを学び、また台湾での商談を成功させたところで、神戸高商時代に知り合った資産家:日田重太郎から多額の資金援助を得て、郷里に近い門司に「国岡商店」として独立する。

国岡商店は、石油卸売業者として漁船の燃料を扱うと好評を得る。

さらなる販路拡大のため、下関と門司での住み分けを図る協定をかいくぐり、下関側の漁師に海上で燃料を売るため、従業員とともに伝馬船で海に漕ぎ出す姿は「海賊」と呼ばれた。

さらには寒冷な満州でも使用可能な、良質な機械油を南満州鉄道に売り込むことにも成功する。

こうして海外にも販路を拡大するが、一方で、同業他社からの反発も強く、さらに日本の石油政策の統制化を受けて、国岡商店は日本国内での営業が困難になる。

念願のタンカー日章丸を就航させて程なく、米国の対日石油禁輸を発端に、大東亜戦争が開戦する。

鐡造も、日本のためという一貫した姿勢を貫くが、大局の前になすすべもなく、敗戦を迎える。

第三章 白秋(昭和22年〜昭和28年)

国岡商店は次々と苦難を乗り越え、石油タンクの所有、そして二代目のタンカー日章丸建造を果たし、外国資本によらない「民族系」石油元売として順調に事業を拡大していた。

しかし欧米資本の7つの石油メジャー、通称「セブンシスターズ」の妨害により、北米からの石油輸入が困難になった。

ある日、鐡造は同じ福岡出身の実業家石橋正二郎の紹介で、米国籍のイラン人:ホスロブシャヒと知り合う。

昭和26年(1951年)、イランは石油の国営化を宣言し国際関係が不安定になっていたが、鐡造は英国との契約を反故にした経緯を快く思っておらず、イランからの石油輸入を断る。

しかし、イランが長年にわたり英国から搾取されている実態を知ると、海外渡航や保険の問題解決、そしてモサデク首相らとの交渉をまとめ上げさせ、ついに日章丸の派遣を決心する。

昭和28年(1953年)、日章丸は極秘裏にアバダン港に到着し、イラン人の大歓迎を受ける。

復路では英国東洋艦隊の海上封鎖を掻い潜る。

この「日章丸事件」は、石油自由貿易や日イラン友好の嚆矢として期待されたが、モサデクの失脚によりわずか3年でイランとの貿易は終わった

第四章 玄冬(昭和28年~昭和49年)

鐡造は石油メジャーと対決するためには、産油国から直接輸入し、自ら精製する必要を痛感する。

バンク・オブ・アメリカからの巨額の融資を受けることに成功すると、アメリカ人の懐の広さに感じ入る。

そして、昭和32年(1957年)、徳山に、自らの理念を込めた製油所を想定以上の速さで建設させた。

老齢になっても鐡造の反骨精神は、なおも健在であり、消費者や日本の利益にならないと考える生産調整や石油業法には強硬に反対した。

やがて恩人である日田との死別を経て、鐡造はついに引退を決意する。

ある時、やむを得ず離別した先妻:ユキの消息を知り、若かりし頃に思いを馳せるが、すぐその感情を打ち消す。

終章

晩年、敗戦直後に手放した美術品を買い戻していた鐡造は、昭和56年(1981年)にようやく仙厓の「双鶴画賛」を買い戻し、意味を悟る。

同年、大勢の家族と「双鶴画賛」に看取られ、95歳で生涯を終える。

登場人物[編集]

主人公とその家族[編集]

  • 国岡鐵造 - 国岡商店の創業者にして主人公。
  • モデルは出光興産創業者の出光佐三。類い稀な先見の明を持ち、人間尊重の信念を貫き、あらゆる苦境に耐えて国岡商店を経営する。
  • 店員達を家族として接し、全面的に信頼している。座右の銘は「黄金の奴隷たる勿れ」であり、他にも「士魂商才」「人間尊重」などの言葉をよく用いる。
  • 国岡徳三郎 - 父。モデルは出光藤六。鐡造に人としての生き方を教えた人物。経営していた店が潰れ、国岡商店の創業メンバーの一人となる。
  • 国岡稲子 - 母。モデルは出光千代
  • 国岡万亀男 - 兄。鐵造より三つ年上。初の海外進出である大連支店の支店長となる。
  • 国岡ミツ - 姉。鐵造より二つ年上。名前のみ登場。
  • 国岡タエ - 妹。名前のみ登場。
  • 国岡達吉 - 弟。モデルは新出光創業者の出光弘。(小説中にも新出光は「新国岡」という社名で登場する)
  • 国岡貞夫 - 弟。名前のみ登場。
  • 国岡孝義 - 弟。名前のみ登場。
  • 国岡正明 - 末弟。鐵造より十五年下。モデルは出光計助出光興産二代目社長。満鉄に入社し、戦後国岡商店に入店、鐡造を支える。
  • 国岡ユキ - 前妻。旧姓:春日。
  • 裕福な庄屋の娘で、まだ貧しかったころの国岡商店に嫁ぎ、鐵造の活力の源となる。
  • しかし子に恵まれなかったことから、自ら離別を申し出る。その後は再婚せず、働きながら密かに国岡商店の発展を見守り続けていた。
  • 国岡多津子 - 後妻。旧姓:山内。鐵造との間に一男四女を儲ける。
  • 国岡昭一 - 鐵造の長男で、長じて米国に留学する。モデルは出光昭介出光興産五代目社長

重太郎とその家族[編集]

  • 日田重太郎 - 淡路島出身の資産家で、国岡鐵造の恩人
  • 義弟の家で出会った高商時代の鐡造の考えに興味を持ち、重一の家庭教師を任せる。その後自らの家を売って会社設立の為の資金を「返済不要」の条件で援助した。
  • 日田八重 - 日田重太郎の妻。戦後に亡くなり、国岡商店の発展を見ることは叶わなかった。
  • 日田重一 - 重太郎の長男。鐡造を家庭教師に付けられる。
  • 日田重助 - 重太郎の次男。

国岡商店の関係者[編集]

  • 東雲忠司 - 国岡商店の店員。モデルは石田正賓出光興産三代目社長。(後、経団連副会長)
  • 武知甲太郎 - 国岡商店の店員。元陸軍中野学校教官で、英語も堪能。戦後、GHQから「石油業界にしがらみがなく、かつ石油産業に詳しい者」を求める依頼を受け、相応しい人物を探していた際、鐡造に出会い、両者を引き合わせる。その中で、鐡造の人柄に惚れ込んで国岡商店へ転職。国岡商店では「情報戦」のプロとして活躍する。モデルは手島治雄出光興産専務。
  • 甲賀治作 - 国岡商店の店員。抜群の記憶力で国岡を支え、戦争で焼けた店員の名簿を記憶だけを頼りに復元した。
  • 柏井耕一 - 国岡商店の店員。物覚えが悪く才気が無いが、人一倍の努力で国岡を支える。
  • 宇佐美幸吉 - 国岡商店の店員。武知の右腕。
  • 小松保男 - 国岡商店の店員。
  • 藤本壮平 - 国岡商店の店員。元海軍大佐。モデルは長井弘介。ラジオ修理事業を鐡造に持ち掛ける。
  • 重森俊雄 - 国岡商店の店員。浅瀬に作られた徳山油槽所におけるシーバース建設という難工事に挑戦する。

GHQ関係者[編集]

  • ジョン・F・アイソ - 日系2世のGHQ法務局少佐(実名のまま登場)。公職追放に抗議しに来た鐡造と対峙する。
  • アレックス・ミラー - GHQ法務局少佐。武知に石油産業にしがらみがなく、かつ石油産業に詳しい者を探すよう依頼し、鐡造の代理で来た東雲と会談する。
  • ソニー・レドモンド - GHQ法務局大尉。ミラーの部下。

その他[編集]

  • 人見孝 - 商工省石油課長。業界団体の嫌がらせで国岡商店に石油が入らなくなる所をはねのける。後、電気事業連合会副会長。(実名のまま登場)
  • 鳥川卓巳 - 国内最大手の石油会社「日邦石油」(モデルは日本石油)社長。国策企業である石油配給統制会社の社長として石油流通を統制し、国岡商店を潰しにかかる。
  • モルテザ・ホスロブシャヒ - アメリカ国籍を持つイラン人のビジネスマン。国岡商店にイランの石油購入を提案する。
  • ハシビイ - イランの議会ナンバー2の権力者。石油産業に詳しく、石油の購入条件を巡って国岡商店と交渉する。
  • エリック・デ・ベッカー - アングロイラニアン社の弁護士。日章丸の積み荷の仮処分を求めて国岡商店と争う。
  • 白石庸次郎 - 大手水産会社「山神組」(のちの日本水産)の社員。水産講習所(現東京水産大学)出身。
  • 玉置敬三 - 通商産業省の官僚。後、東京芝浦電気会長。(実名のまま登場)
  • 新田辰夫 - 日章丸の船長。(実名のまま登場)ベテランの船乗りであり、見事にイランの石油を持ち帰る。
  • カラン - バンク・オブ・アメリカ(BOA)副社長。徳山製油所建設のため一千万ドルの融資を行う。
  • バートレット - ガルフ石油の重役。国岡商店との提携を承認する。
  • 池田勇人 - 通商産業大臣。後に首相となる。(実名のまま登場)
  • 三木武夫 - 通商産業大臣。後に首相となる。(実名のまま登場)
  • 柳井恒夫 - 国際弁護士として法律面で鐵造を支える元外務官僚。(小説では触れられていないが、外務省条約局長などを歴任している。実名のまま登場)
  • 宮部 - 上海の零式艦上戦闘機の航空兵。明言されていないが、永遠の0の主人公と姓、経歴が一致する。

 


イルゼ時代は実際には幸せだったと聞きました。

2021-05-22 17:27:08 | 日記

イルゼ時代は実際には幸せだったと聞きました。

2015年、2015年、2015年 タグ:

家のフォトアルバムを見たとき、祖父が日本人と一緒に撮った写真が多かったので、初めて見たときは恥ずかしくて恥ずかしかったです。

そして、なぜ私の祖父は日本人と知り合いなのですか.たぶん、それはプロライフの人々が悪口を言っていたのではありませんでした。

だから、私の古い子供時代に、私は祖父に勇気を求めました.


なぜ彼は笑って、日本の公務員などの韓国人と知り合いになり、笑って写真を撮ったのですか。

(私は真剣に私が;)かどうか尋ねた
それから祖父は笑って、実際には朝鮮王朝が支配していた頃より日本の時代の方がずっと幸せだったと言いました。

彼は私に多くのことを教えてくれました。まず第一に、医療技術が発達し、人々を病気の痛みから解放し、長生きさせ、より多くの教育機会を得て、多くの人々が学び、裕福になるのを助けてきたと彼は言いました。私はそれ以上のことを覚えていない、^^。
学校で教えてくれたこととは違うので、もう一度「どうするつもりですか


?日本人は強制的に徴兵され、韓国人を不当に攻撃した。慰安婦もそれを作った.ドクドは良すぎます.

祖父は、韓国人の強制使用は知られているものとは異なると言いました。

彼は、彼が意志で良い男を強制し、徴兵していないと言いましたが、彼は死刑囚、暴力的な犯罪者、および他の犯罪者をジンジャーに送った。

もちろん、強力な犯罪者の人権は重要だが、当時と現在の人権は異なると述べた。

慰安婦あなたはドクドが何であるかを正確に知らない、と彼は間違いなく私たちの国の土地です。

彼は、日本と韓国の外交は、それが最善であるので、北朝鮮の利益の再利用の使用であると言いました。

そんな会話の後、最後に祖父と一緒にいた時、私の家は日本人と友好的だったのです。と尋ねました。
その後、おじいちゃん。彼は、プロライフとハヤブサは異なり、プロライフは悪いことではないと言いました。

当時、韓国国民にとって最善の方法は、自分の立場で最善を尽くし、現実と立場を認め、日本人から高度なムントを学び、自分のものにする、と語った。

また、彼らのほとんどは当時親戚であり、ほとんどの人はテレビのように独立した声明を出さなかったと言われました。

また、自ら自ら自立を否定し、韓国社会を離れ、教育機会と現代社会の融合を拒絶して独立を果たさないと述べた。

祖父は日本の中央大学法を卒業し、日本の弁護士ではなかったが、解放後の高官として働いていた。

韓国の基礎を築いた人の多くは、日本の大学で教育を受けている人たちです。


子供の頃、祖父との会話はよく分かっていましたが、友達の仕事は悪いことではないと思います。

第一次世界大戦はメディアほど凶暴ではなかったと推測される。


迫水久常内閣書記官長の終戦の日

2021-05-22 16:11:21 | 日記

迫水久常内閣書記官長の終戦の日
(機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで 

迫水久常著 1964年刊 p303-315


昭和19年11月サイパン島基地より米空軍が東京を初空襲して以来、連日にわたるB29の攻撃により国会付近も多大の損害をうけた。右方上空の飛行機はB29


迫水久常(さこみず・ひさつね)1902年生まれ。
東京大学卒業。大蔵省を経て、
首相秘書官、内閣書記官長を歴任。
戦後、参議院議員(全国区)。経済企画斤長官、
郵政大臣などを歴任。1977年7月歿

 昭和二十年八月十四日午後十一時すぎ、終戦詔書署名の閣議が散会してのち、私は、総理大臣室に入って、鈴木総理に対して、この旬日のご苦労に対してご挨拶を申しあげ、そのまま対座した。


 自然に涙が出てきてしかたがない。総理も黙々として深く物思いにふけっておられる様子であった。


 思いがけなく、扉をノックする音が聞えてふり向くと、阿南陸相が帯剣して、帽子を脇にかかえて入ってこられた。
 

私は立って少し側に寄った。
 陸相はまっすぐに総理の机の前にこられて、丁重に礼をされたのち
「終戦の議がおこりまして以来、私はいろいろと申しあげましたが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。
 ここにつつしんでお詫び申しあげます。
 私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて他意あるものではございません。
 この点どうぞご了解くださいますように」
といわれた。
 阿南陸相の頬には涙が伝わっているのを見て、私も涙が出た。
 すると総理は、うなずきながら、阿南陸相の近くに歩み寄られ、
「そのことはよく判っております。
 しかし、阿南さん、皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば、今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心におつとめになっておられますから」
といわれた。
 阿南陸相は
「私もそう信じます」
といわれて、丁寧に一礼されて静かに退出された。
 私は、玄関までお見送りをすると、総理は
阿南君は暇乞いにきたのだね
といわれた。
 このときの光景は私の終生忘れえない感激である。
 また、このときの総理の言葉は、わが皇室が二千年の長きにわたり連綿として、代々徳を積まれてこられたことを意味するものであって、まことに深遠な意味があると思う。
 阿南陸相を送って間もなく、私は総理に私邸にお帰りを願った。
 翌十五日午前零時をすぎるころ、私は、宮中の下村情報局総裁から、電話で玉音放送の録音が無事終了した旨の連絡を受け、直ちに総理に電話で報告をした。すべて一段落である。
 書記官長室の仮べッドに久しぶりに身を横たえた。
 日本の将来はどうなるか。思いは千々に乱れる。
 頭がぼっとして、考えられないような気がする。
 

そこに木原通雄君が入ってきて、彼に起草を依頼した詔書発表後発布すべき内閣告諭の原案を持ってきたので、二人で協議しながら、訂正して確定案を作りあげ、ふたたびべッドに横たわると、いつのまにかまどろんだ。
 突然機関銃の音がするので目がさめた。夜は明けていた。
 私は一瞬、敵の機銃掃射かと思った。
 隣室にやすんでいた実弟の久良が飛びこんできて、
「兄さん日本の兵隊の襲撃です」
という。
 二・二六事件の経験のある私は、とっさに、鈴木総理を私邸に帰えしておいてよかったと思った。


 私は、別段生命は惜しいとも思わなかったが、殺されたり、捕虜にされたりしては、バカらしいと思ったので、内閣官房総務課長佐藤和生君を呼んで、自分は、地下道を通って避難するから、官邸の職員はいっさい抵抗するな、彼らのなすがままにせよと命じ、念のために総理私邸に報告しておくようにいうと、佐藤君はすでに電話しましたという。


 私はそのまま実弟久良と、警護の警視庁の中村袈裟男巡査を伴って、いったん防空壕内の書記官長室に入り、非常出口の方を偵察せしめ、兵隊のいないことを確かめて、特許庁に近い道路に出た。
 私は別にあわててはいなかったと思う。現に壕内の書記官長室では、煙草に火をつけたことを覚えている。
 ところが道路に出たとき、そこにあった焼トタンを踏んでバタ、バタという音がしたとたんに急に恐くなった。
 焼跡をななめに特許庁の角を目がけて三人で走ったが、うしろから狙撃されるかもしれないと思い、久良にうしろを見て見ろとはいうものの、私自身は、首をうしろに回わすことができなかったことを覚えている。
 二・二六事件のときは、睾丸をひっぱることを思いだしたが、今度は思いださなかったから恐かったのだとあとで笑った。
 あとで聞くと襲撃部隊は、五十人ほどの兵隊と横浜高工の学生であったらしく、総理不在ときいて、官邸の玄関にガソリンを撒いて火を放って、直ちに退散したという。
 火は官邸の職員が、備付の防空用具で難なく消し止め、敷物の一部をこがした程度で大事にはいたらなかった。
 しかし、この一隊は、直ちに小石川の鈴木総理の私邸を襲い、せっかく空襲で焼け残った家に火を放ったが、総理たちは、官邸からの通報で避難しておられたから間一髪で、無事であった。

鈴木総理邸襲撃ののち、この一隊は、新宿の平沼議員邸を襲って火を放ったが、議長は身をもって免がれ無事であった。
 私は、特許庁のところから溜池の大通りに出ると、隊伍を組んだ兵隊に出会った。
 さては陸軍がまたなにかはじめたかと思い、一先ず飯倉の親友美濃部洋次君(当時総合計画局部長)の家にゆき、そこで警視庁に電話してみると、市内には別段騒動もおこっている様子もないので、直ちに徒歩で警視庁に赴き、総監室に入り、町村総監と会って事情を聞くと、昨夜午前一時ごろから宮内省の電話が不通になっているという話である。
 十五日午前五時半ごろであったと思う。私は、憲兵司令官の大城戸中将に電話をかけてみた。
 大城戸中将の話によって、四時ごろ阿南陸相が自決されたことを知った。
 そして、昨夜半、陸軍省の青年将校が、森近衛師団長を殺してにせの師団命令によって、軍隊を宮中に入れ、録音盤を奪取しようとして、宮内省に侵入したが、東部軍司令宮田中静壱大将みずからの説得によって、兵隊は退去しはじめたことが段々に判ってきた。
 下村情報局総裁以下、玉音放送の録音に奉仕した一行は、朝まで監禁されていたが、これも無事に解放されたのであった。
 私は録音盤が無事であったことを聞いて、ほんとうに安心した。
 私はこのときの町村君の頼もしさをいまも忘れない。
 午前九時ごろ、私は鈴木総理を、その避難先に訪問した。
 総理は元気に朝食をしたためておられたが、私は手短かに、いろいろの報告をした。
 阿南陸相の自決については、総理は特に深い思いにふけっておられた様子であった。
 総理は、このとき、今日の閣議で、全閣僚の辞表をとりまとめて総辞職をしたいと思っているといわれた。
 私は、率直にいって、私の人生で、このときほど、ほっとした気持になったことはない。
 私は、ほんとうに心身ともに疲れ果てていた。
 書記官長就任のころは、六十六キロほどもあった体重も、そのころには、五十八キロほどに減っていた。
 私は、その日の日程について打合わせをすませると、午前十一時から宮中で枢密院本会議が開かれるので、宮内省に参入した。
 玄関のところで、加藤総務課長に会った。肩から鞄をかけている。
 それをしっかり押えるようにして、私に、これから放送局に行くと話した。
 枢密顧問官の控室に入ってゆくと、中央に平沼議長がおられるので、そばに寄ってご挨拶申しあげると、なんだか急にたいへん年を取られたような気がするので、私は
「閣下ちょっとふけられたようですが、お体の具合はいかがですか」
と申しあげると、議長は笑いながら
「私は入歯をはずして枕もとにおいて寝る習慣なのだが、今朝襲撃されて避難するとき、入歯をそのまま置いてきてしまったが、家が焼けて、入歯がなくなってしまったせいだよ」
といわれた。
 私は枢密院本会議には列席する必要はないので、村瀬法制局長官にお願いして、首相官邸に帰った。
 やがて正午である。
 この日は早朝から、正午に重大放送がある旨繰り返し予告していたが、私は、下村情報局総裁とともに、官邸職員全部をホールに集めて、涙のうちに玉音放送を拝承した。
 そして予定にしたがって、用意してあった内閣告諭を直ちに発表した。
 いっさいが終ったので、私は、ほんとうに肩の荷がおりたという表現では、とてもいいつくせない感じを持って、書記官長室に帰った。
 じっと椅子に腰掛けているといろいろのことが思いだされる。
 そして、当面、国内治安などについて、いいようのない不安を感ずる。やがて米軍が進駐してきたときの有様を想像しても、いい予感はしなかった。
 戦争を継続して焦土になってしまったほうがかえって気が楽だったかもしれないとも思った。
 今後万事うまく経過するようにひたすら祈るほかはなかった。
 今日になって、これらの不安がまったく杞憂に終ったことを思うと、日本は幸運だったとただ天に向って感謝する気持でいっぱいである。
 午後二時ごろから閣議である。予定のとおり、辞表がとりまとめられた。
 その前に、池田総合計画局長官の発案によって、軍の保有物資について閣議の決定をした。
 その内容は、すでに乏しくなったとはいえ、軍はまだ膨大な物資を保有しているが、もう軍としては用はないし、そのまま保有しても、やがて進駐軍が処分してしまうだけだから、この際、時価で民間に急速に払い下げることをきめたものである。
 このことは民間の物資不足を若干でもうるおし、終戦で混乱した国民感情の緩和にどれだけ貢献したかわからない。
 また、軍隊の内部でも、復員する兵士にある程度の物資を交付したが、これまた軍の動揺を和らげるのに大いに役立ったと思う。
 私はこの閣議で、鈴木総理のお考えによって、貴族院議員に勅選されたが、いろいろ考えて、翌日辞表を提出して拝辞し、一ヵ月後に聴許された。
 閣議が終ってから、その夜予定されていた鈴木総理のラジオ放送の原稿を作った。
 案外時間がかかって、やっと間に合ったがこれが内閣書記官員として最終の仕事であった。
 同日、東久邇宮殿下に後継内閣組織の大命が下り、十七日新内閣が成立し、私は、緒方竹虎さん(後の内閣官房長官)に事務をひき継いだ。
 私は、五月二十五日以来八十日ほどの間、住み込み、公私の生活をした内閣書記官長室を整理して、総理官邸を退出した。
 官邸内の男女職員は上から下まで全部玄関のところに集って涙を流して別れを惜んでくれた。
 官邸警衛の警察官も同様である。みなの人たちには、ほんとうに世話になった。
 文字どおり寝食をともにし、生死をともにした人たちである。
 官邸が空襲を受けたときにはこの人が努力して官邸を救ったのである。
 夜間高等女学校(旧制)に通いながら働いている若い女子職員が、一同うち揃って、私のところにきて、
「戦争に敗けないでください、私たちはいっそう頑張ります」
と泣きながら訴えたこともあった。
 秘書官の山下謙二君、私が大蔵省時代からひき続いて私について秘書事務のいっさいを取扱ってくれた内山繁君は、いずれも官邸内に住み込んで一心同体に働いてくれたことを思うと感謝するに言葉もない。
 小林食事班長、小林、菅原両嬢など、みな忘れられない名前である。
 官邸を出た私は、まず、二重橋前で宮城を遥拝し、心のうち陛下にお礼とお詫びを申しあげ、都内を少し回ってみた。
 全く一望の焼野原である。
 この本に収録された当時の写真を見て、今日からでは想像に絶するが、ほんとうにあのとおりであった。
 しかし、町の中の人々には、一様の安堵の色が見える。極めて平穏で活気の色が見えるような気がした。
 ふと、銀座の電信柱に、大きな貼紙がしてあって
「日本のバドリオ(裏切者)を殺せ。鈴木、岡田、近衛、迫水を殺せ」
と書いてあるのを見てよい気持はしなかった。
 しかし、私には住むべき家がない。
 家内は、中風で身体の不自由な私の老母を擁して、五人の子供とともに新潟県新発田の在に疎開していた。
 一先ず、世田谷の岡田啓介大将の家に行った。
 鈴木内閣成立後、私はほとんど毎夜、ここで岳父に会って、指導を受けた。
 終戦工作の大部分は、岡田大将の指導によったものといっても過言ではない。
 ところが、私が、岡田大将の家にいることについて、世田谷警察署から苦情が出た。
 それは、岡田大将一人の警衛にも手を焼いているのに、もう一人要注意人物が加わったのでは責任を持てないから、何処かよそに行ってくれというのである。
 私は、やむなく、その夜は、木原通雄君の家に泊ったが、警視庁は、鈴木首相と私に対し、右翼や、軍の残党がねらっているから、外出しないように、また同じ所に三晩以上いないようにと懇請されるので、二人とも忠実にこれを守った。
 ある晩などは、大嵐であったが、等々力の知人の宅から、麻布の石野信一君(元大蔵次官)の家に移るため、警護の中村巡査と、もう一人たまたま来合わせた友人森口二三君(現在味の浜藤社長)と三人で木炭自動車に乗って都立大学の辺にきかかると自動車が動かなくなってしまって、とうとう、そのまま道路上で嵐の中で一夜を過ごしたこともある。
 このような生活が約一ヵ月、九月十日すぎまでつづいたが、やっと世田谷等々力に家を借りて、疎開先きから無事に老母はじめ家族を迎えて、平穏な生活に戻った。
 聞いてみると、玉音放送のあとで、村の青年たちが、家族の疎開していた家に押しかけ、石を投げ込み、日本を降伏させた裏切者の家族はこの村に置いておくことはできないから、即時退去せよと迫ったという。
 家内が応対してやっと納得してもらったという話で、私は家内をほめた。

 今は、すべてが夢であったような気がする。
 私は、どうしても阿南陸相の心事について述べておかなければならないと思う。

 阿南陸相は、最高戦争指導会議においても、閣議においても終始一貫、抗戦論を述べられた。
 そして終戦の大詔に副署した後、「一死大罪を謝す」と遺書し、
――大君の深きめぐみに浴みし身は、言い残すべきかた言もなし――
と辞世の一首を残して自決せられたのである。
 阿南大将は、果して心の底から抗戦継続を考えておられたのであろうか。
 もししかりとすれば、手段は極めて簡単であって、一片の辞表を提出することによって、鈴木内閣を倒し、あとに軍部内閣を作れば、この目的は達せられるのである。
 しかも、その機会は、自分自身の意思によっていつもこれを作りえた。
 現に、終戦のことが議に上った閣議において、陸軍大臣が胸のポケットに手を入れられると辞表を提出するのではないかと心配したと左近司国務相は語っておられる。
 のちに聞くところによると、終戦の際、陸軍はクーデターの準備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから、自分にまかせよといわれたという。
 当時の情勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。
 阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせられる天皇陛下の御心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに相違ない。
 かかるが故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するのに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クーデターの指揮をみずから引受け、一面、大詔の公布まで内閣の閣僚たる地位を保持するため中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。
 

「一死大罪を謝す」とは心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下の御心を悩したてまつった罪を謝するとともに純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心特ではなかったろうか。
 阿南大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国家は残ったのである。
 私は時に多摩墓地に大将の墓参をするたびに、大将の生死を超えた勇気を謝し、小さな墓石に抱きついてお礼を申しあげたい衝動にかられるのである。
 天皇陛下のご仁慈、鈴木総理の信念と舵取りのうまさ、米内、東郷両大臣の不屈の精神、それに阿南陸相の勇気が、わが国を救ったものである

 最後に私は、特に、昭和三十年十月十五日の「太平」第五号に(鈴木貫太郎記念太平会発行)掲載せられた当時の侍従長藤田尚徳海軍大将の一文を次に採録しておく

 昭和二十一年一月下旬、天皇陛下のご前に出てあることを奏上したとき、陛下は特に椅子をたまわって戦争につき次のような意味のご述懐をお洩(もら)しになった

 申すまでもないが、戦争はすさまじきものである。
 この戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、わたしはおよそ考えられるだけは考えつくした。
 打てる手はことごとく打ってみた
 しかし、わたしのおよぶかぎりのあらゆる努力も効をみず、遂に戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。
 このごろ世間には、戦争を終わらせえた天皇が、なぜ開戦前戦争を阻止しなかったかという疑問を抱いているものがあるようだ。
 これをもっともと聞く人もあろう。
 しかし、それはそういうことにはならない。
 立憲国の天皇は、憲法の枠の中にその言動を制約せられる。
 この枠を勝手に外して、任意の言動にでることは許されない半面、同じ憲法には国務大臣についての規定があって、大臣は平素より大なる権限を委ねられ、重い責任を負わされている。
 この大臣の憲法による権限、責任の範囲内には、天皇は勝手に容縁し、干渉することは許されない。
 それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、これを管掌する官庁において、衆智を傾けて慎重に審議したる上、この成果をわたしの前に持ってきて裁可を請うといわれた場合、合法的の手続きをつくしてここまでとり運んだ場合には、たとえそのことがわたしとしては甚だ好ましからざることであっても、裁可するのほかはない。
 立憲国の天皇の執るべき唯一の途である。
 もし、かかる場合わたしがそのときの考えで却下したとしたら、どういうことになるか。
 憲法に立脚して合法的に運んだことでも、天皇のそのときの考え一つで裁可となるか、却下せられるか判らないということでは、責任の位置にいることはできない。
 このことは、とりもなおさず天皇が憲法を破壊したということになる。
 立憲国の天皇として執るべからざる態度である。断じて許されないことである。
 しかし、終戦のときはまったく事情を異にする。
 あのときには、ポツダム宣言の諾否について両論対立して、いくら論議を重ねてもついに一本に纏まる見込みはない。
 しかし、熾烈なる爆撃、あまつさえ原子爆撃も受けて、惨禍は極めて急激に加速増大していた。
 ついに御前会議の上、鈴木はわたしに両論のいずれを採るべきやを聞いた。
 ここでわたしはいまやなんぴとの権限を犯すこともなく、またなんぴとの責任にも触れることなしに、自由にわたしの意見を発表して差し支えない機会を初めて与えられた。
 またこの場合わたしが裁決しなければ、事の結末はつかない。
 それでわたしはこの上戦争を継続することの無理と、無理な戦争の強行は、やがて皇国の滅亡を招くとの見地から、とくと内外の情勢を説いて、国民の混乱困惑、戦死者、戦病死者、その遺家族、戦災を被ったものの悲惨なる状況には衷心の同情を懐きつつも、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えるのほかなしとして、胸の張り裂けるの想いをしつつも、ついに戦争を終止すべしとの裁断をくだした。
 そして戦争は終わった。
 しかし、このことは、わたしと肝胆相許した鈴木であったから、このことができたのだった。

残り任期1年、「我執と独善」と批判される文在寅大統領の行方

2021-05-22 14:50:55 | 日記

残り任期1年、「我執と独善」と批判される文在寅大統領の行方

2021.5.22

10日、ソウルの韓国大統領府で演説する文在寅大統領(聯合=共同)

10日、ソウルの韓国大統領府で演説する文在寅大統領(聯合=共同)

 韓国は来年3月の次期大統領選まで10カ月となり、文在寅(ムン・ジェイン)政権の求心力低下が目立ち始めた。

ソウル、釜山の両市長選惨敗で人心一新を図った内閣改造は、早くも閣僚候補1人が就任辞退に追い込まれ、大統領選への出馬宣言が続々と続く与党と文大統領の間には隙間風が吹いている。

不動産問題や新型コロナウイルスのワクチン確保問題で支持率は低迷が続き、今月10日の就任4周年演説で語った自己評価は「我執と独善」(韓国紙)と不評を買った。

相次ぐ側近の不正発覚には、国民から冷たい視線が向けられている。

与党と文大統領に隙間風

 与党「共に民主党」は4月の市長選惨敗で幹部が一斉に辞職。

その後の党代表選では、宋永吉(ソン・ヨンギル)氏が文氏に近い候補を破って当選した。

宋氏は大統領と距離を置く「無派閥」の国会議員。

キャッチフレーズに「刷新」を掲げ、「党名と大統領を除いて全て変える」と主張したほどで、宋氏の党代表就任で政権与党の雰囲気は変わりつつある。

 大統領選で与党の陣頭指揮を執るのは、党代表の宋氏になる。

宋氏自身は大統領選の候補者にはならないが、与党候補を当選させればその論功で次期政権の立役者の地位が待っている。

現在、与党からは李在明(イ・ジェミョン)京畿道知事、李洛淵(イ・ナギョン)元首相、丁世均(チョン・セギュン)前首相ら5人がすでに出馬を表明しており、さらに数人が名乗りを上げるとみられている。

 「次期大統領にふさわしい人物」の世論調査でこの半年間、保守系の前検事総長、尹錫悦(ユン・ソンヨル)氏とトップを争っているのが李在明氏だ。

しかし、李在明氏と文氏は、前回の大統領予備選を戦い非難の応酬をした犬猿の仲だ。

李洛淵元首相と丁前首相は大統領に近い「文派(ムンパ)」だが、党代表と最有力候補がともに大統領と距離があるため、選挙政局は大統領府に微妙な影を落としつつある。

 文氏は14日、大統領府に与党の新指導部を招いて懇談会を開き、「任期最後になると政府と与党の間に小さな隙間が広がりもする」と述べて党、政府、大統領府の結束を要請した。

これに対し、宋氏は「これからは全ての政策に党の意見が多く反映される必要がある」と切り返して注文を付けた。

改造閣僚に不正の過去が続々

 文氏は4月の人心一新の内閣改造で、首相と5閣僚の交代を指名したが、この閣僚候補3人に相次いで過去の不正疑惑が発覚した

不正の悪質さに、与党の若手議員らが「3人のうち少なくとも1人は指名撤回を大統領府に求めるべきだ」と党幹部に要求する事態になった。

大統領府も党内からの批判や世論に抗しきれず、1人を「指名辞退」という形で身を引かせた。

 韓国は、大統領による閣僚指名後に国会聴聞会があるが、野党が反対しても大統領権限で任命が可能だ。

文氏はこれまで国会聴聞会で野党の反対を一度も聞き入れずに任命を強行してきた。

 今回も1人は身を引かせたが、残る2人は文氏が5月14日に正式任命。

この強引や手法には韓国世論の反発がいまだに収まっていない。

 「辞退」したのは海洋水産相候補に指名されていた朴俊泳(パク・ジュニョン)氏。

朴氏は海洋水産省の次官で、公使参事官として在英国大使館に勤務した際、夫人が当地でブランド品の陶磁器やアクセサリーなどを大量に購入、税関申告の必要がない外交行嚢(こうのう)を使って韓国に持ち込んだ上、転売していたという職権乱用の密輸疑惑だった。

 残る2人の疑惑も国民を怒らせる内容だ。

科学技術情報通信相となった林恵淑(イム・ヘスク)氏は政府外郭団体の理事長時代、公費での海外出張が多かったが、そのたびに2人の子供と夫を同伴し「家族旅行」をしていた。

行き先は米ハワイ、スペイン・バルセロナなど観光地ばかり。

分かっているだけで6件、費用は約415万円に上る。

林氏にはこのほか、大学教授時代の弟子の論文盗用疑惑や、マンション売買不正疑惑など12の疑惑が指摘されている。

 また、国土交通相となった盧炯旭(ノ・ヒョンウク)氏は、公務員向けの特別分譲で手に入れたマンションを高値で転売する「官舎財テク」を行っていた。

差益は日本円で2140万円に上った。

さらに息子は失業給付を不正に受け取り、妻は窃盗で逮捕されていた。

 文大統領は人事批判が高まる中、5月10日に就任4年の特別演説を行い、不満をこう述べた。

「(人事に)野党が反対するからといって失敗だとは思わない」

「人事聴聞会は能力の部分はそっちのけで、ただ欠陥についてだけ問題にし、恥をかかせるような聴聞会になった」。

自らの任命責任や当事者の不適切な行動への遺憾表明はなかった。

 演説は自らの4年間の政策についても自画自賛が目立ったため、

大手紙が軒並み、社説で「

虚空のなか独白のような文氏の自己自慢」(朝鮮日報)、

「我執と独善を捨てるべきだ」(中央日報)、

「『私と私たちの側が正しい』というドグマ」(東亜日報)と厳しく批判した。

歴代進歩政権5年目の支持率は

 過去の革新系政権の支持率を振り返ると、金大中(キム・デジュン)政権は当初の最高支持率は71%で3年目も50%台だった。

だが、末期に次男、三男が不正資金事件で逮捕され、終盤には24%までに急落した。

盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は60%台でスタートしたが、実兄の土地投機疑惑などで4年目にはレームダック(死に体)に陥り、政府与党からの離党者が相次ぎ、最低で12%となった。

 文政権は、朴槿恵(パク・クネ)前大統領の弾劾という韓国政治史初の事態を受けての発足だっただけに、就任当初は支持率83%と期待値が高かった。

だが、不動産政策の失敗が最大の原因で4年目からじりじりと支持率を下げ、今年4月には政権発足後最低の29%を記録した。

現在は30%台で5年目の支持率としては高い方ではあるが、自己正当化と独善路線という負の連鎖に陥りつつあるようだ。 (編集委員)