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3月9日に韓国大統領選が行われる。
日本総合研究所の向山英彦上席主任研究員は「与党、野党、どちらの候補も雇用創出をうたっている。
これは文在寅政権が市場原理を軽視した経済政策で雇用環境を急激に悪化させたからだ。
その影響はいまだに続いており、だれが大統領になっても、韓国経済は苦しい局面が続きそうだ」という――。
■国民の所得アップの実現を目指したはずが…
韓国の大統領選挙は現在のところ、政権与党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン、前京畿道知事)候補と最大野党「国民の力党」の尹錫悦(ユン・ソギョル、前検察総長)候補との一騎打ちになる公算が大きい。
2017年5月に発足した文在寅(ムン・ジェイン)政権は当初、家計所得を増やして成長を図る所得主導成長の実現をめざし、それに関連する政策を優先的に実施した。
しかし、最低賃金の大幅な引き上げで雇用が減少したうえ、輸出の減速で景気が悪化したため、19年に入ると、設備投資の活性化や製造業の再生、次世代成長産業の育成などに注力するようになった。
さらに、20年以降は新型コロナ対策に追われた。
政府の新型コロナ対策と輸出の持ち直しによって、韓国経済は20年のマイナス0.9%成長から21年には4.0%成長へと回復したが、足元でインフレが加速しているほか、雇用環境の悪化や住宅価格の高騰、財政赤字の拡大などの問題を抱えている。
■設備投資に支えられて経済成長した朴槿恵政権
韓国では輸出の拡大に支えられて、2000年代に年平均成長率が4.4%を記録したが、10年代は2.6%へ低下した。
中国の新常態への移行と米中対立などの影響により、輸出主導型成長が十分に機能しなくなったことによる。
13年2月に発足した朴槿恵(パク・クネ)政権は内需の拡大を図り、その一環として住宅融資規制を緩和した。
相次ぐ利下げと相まって、住宅投資を含む建設投資が増加したほか、世界的な需要拡大を背景に半導体産業で設備投資が増加したことにより、15年から17年にかけて投資が成長を下支えした(図表1)。
しかし、知人で実業家の崔順実(チェ・スンシル)による国政介入が明るみに出た結果、朴大統領は17年3月に罷免され、5月に文政権が発足した。
経済政策面から文政権のこれまでの動きをみると、
①所得主導成長に関連した政策を優先した時期、
②政策の重点を製造業の再生や次世代成長産業の育成にシフトした時期、
③新型コロナ対策に追われた時期に大別できる。
■最低賃金の急激な引き上げで起きた「人減らし」
政権発足後、所得主導成長の実現に向けた政策(公共部門を中心にした雇用創出や非正規職の正規職への転換、最低賃金や基礎老齢年金の引き上げなど)が優先的に実施された。
最低賃金は18年に前年比16.4%、19年に同10.9%引き上げられた。
しかし、この急激な引き上げに伴い、卸・小売・飲食業界を中心に人減らしの動きが広がった。
また18年に入ると、朴政権下で増加した建設投資が減少に転じ、設備投資が前年に急増した反動で落ち込んだ。
さらに米中対立の影響と半導体需要の一服により、秋口から輸出が減速し、製造業ではリストラが進められた。
景気が悪化したため、文政権は19年から所得主導成長に関連した政策の推進を抑制し、設備投資の活性化や製造業の再生、システム半導体や電気自動車・同電池などの次世代成長産業の育成に注力するようになった。
20年に入ると、新型コロナ対策に追われるようになった。
7月には、経済の立て直しと次世代成長産業の育成を目的にした「コリアンニューディール」が発表された。
①デジタルニューディール(5G ネットワークやAIの強化、デジタル化の推進など)、
②グリーンニューディール(環境に優しいモビリティやエネルギーの実現など)、
③より強固なセーフティネットの3本柱から構成され、25年までの目標と投資計画が盛り込まれた。
他方、韓国銀行も政策金利を3月、5月に引き下げ、過去最低の0.5%にした。
こうした経済対策に加えて、輸出が持ち直したことにより、実質GDP成長率は20年のマイナス0.9%から21年に4.0%へ上昇した。
主要輸出品目の半導体は、最大の輸出先である中国の景気回復とコロナ禍での世界的なデータ通信量の急増を背景に、20年後半から増勢が強まり、21年は前年比29.0%増となった。
■経済成長率も雇用者増加数も前政権以下 21年までの文政権の実績をみると、年平均成長率は前政権の3.1%を下回る2.3%、雇用者増加数(対前年)の年平均も前政権期の35万4000人より少ない17万3000人であった。 前政権の実績を下回ったのは新型コロナ感染拡大の影響(コロナショック)が大きいとはいえ、雇用に関しては最低賃金の大幅引き上げの影響もある。 18年の雇用者増加数が9万7000人と(図表2)、16年、17年を大きく下回ったのは、卸・小売・飲食業界で12万人近く減少したことによるところが大きい。なお、20年はコロナショックで減少し、21年はその反動で増加した。
文政権下ではまた、短時間(週36時間労働未満)労働者の割合が上昇した。公共部門で雇用が増加したものの、その多くが短時間雇用であったことが影響している。
若年層の就職難も続いており、総じて雇用環境は量、質ともに悪化したといえる。
■コントロールできない住宅価格の高騰
雇用環境の悪化に加えて、文政権で新たな問題が生じた。
一つは、財政赤字の拡大である。
所得主導成長に関連した政策の推進と新型コロナ対策などから、補正予算や大型予算を編成した結果、政府債務残高の対GDP比率は17年度(1~12月)の39.7%から22年度に50.2%へ急上昇する見込みである。
他国と比較して、韓国の財政は相対的に健全とはいえ、悪化ペースが速いことに注意したい。
もう一つは、住宅価格の高騰である。
朴政権期で、住宅投資の増加が成長を下支えした半面、それが住宅価格の高騰と家計債務の増加につながったため、16年頃から住宅投資を抑制する政策がとられるようになった。
文政権は格差是正の観点から住宅価格の安定化を重要な政策課題にした。
住宅価格の高騰は投資を目的にした需要によるものとの判断から、供給を増やすのではなく、住宅融資規制の強化や固定資産税率の引き上げなどを通じてその抑制を図った。
これにより、住宅価格は18年秋口から19年半ばにかけていったんは下落したものの、19年半ばに上昇に転じ、その後高騰した(図表3)。
■市場原理を読めなかった大統領側近の学者たち ソウル首都圏の価格は最近2年間に50%程度上昇した。
投資需要が規制対象外になった地域にシフトするとともに、居住を目的とした住宅購入者は少しでも安いうちに購入しようと、購入を急いだことによる。コロナ禍での利下げもその動きを後押しした。
価格の高騰に歯止めがかからないため、文政権も遅ればせながら、21年2月、25年までに全国で約83万戸の住宅を増やす計画を発表した。
所得主導成長政策の頓挫と住宅政策の失敗に共通するのは市場原理の軽視である。
生産性の上昇を伴わずに最低賃金を大幅に引き上げれば雇用にマイナスの影響を及ぼすこと、
住宅供給を増やさなければ価格の高騰をまねくことは十分に予測できた。
それができなかったのは、政権発足時の大統領府の政策室長と経済首席秘書官に、経済民主化や所得主導成長を提唱した学者を登用したことが影響したといえる。
以上のように、文政権下で雇用環境の悪化や住宅価格の高騰、財政赤字の拡大などが生じた。さらに最近、韓国経済を取り巻く環境が厳しさを増している。
■韓国経済をさらに衰退させる追加利上げのリスク
一つは、インフレである。
世界的なエネルギー・原材料価格の上昇とウォン安などにより、消費者物価上昇率が21年10月以降3%台で推移している。
韓国銀行は21年8月からすでに3回の利上げを実施した。
注意したいのは、米国でこの3月を皮切りに、年内に数回の利上げが見込まれることで、そうなれば、為替の安定化を図るために、韓国で追加利上げが行われる可能性が高い。
短期間での急激な利上げは消費と投資の鈍化、債務返済負担の増加、株価の下落などをまねくことになる。
すでに株価は長期金利の上昇と地政学的リスクの影響で、世界的に調整局面に入っている。
記事「『大卒でも就職できず借金で株式投資…』韓国の若者が文在寅政権に恨みを募らせる当然の理由」でも紹介したが、韓国では近年、住宅投資と若者による株式投資が急増したため、変動金利で融資を受けた場合の影響は大きい。
■大企業の投資先を海外から国内に向けられるか もう一つは、中国経済の減速である。
21年の韓国の対中輸出依存度は25.3%と高く、中国景気の影響を受けやすい。中国の成長率は21年に8.1%になったが(年後半は4%台)、22年はゼロコロナ対策の影響もあり、5%程度に低下するものと予想される。
こうしてみると、次期政権はインフレを抑制して安定成長を図りながら、次世代成長産業の育成や良質な雇用の創出、住宅価格の抑制などが課題になる。
良質な雇用の創出は、少子化(合計特殊出生率は21年に過去最低の0.81)に歯止めをかけるうえでも重要である。
住宅価格や教育費の上昇などの影響もあるが、若者が安定した仕事に就けないことが少子化の主因である。
良質な雇用の創出には企業の投資が欠かせないが、大企業は海外での投資を拡大している。
海外の方が国内よりも高い成長が見込めるほか、国内の規制の多さが投資の阻害要因になっているため、規制緩和が課題となる。
雇用で注目されるのは、近年第2のベンチャーブームが生じ、雇用者数でベンチャー企業が4大財閥を上回ったことである。
スタートアップに対する支援拡充に加え、第4次産業革命が進展するなかで、新たなビジネスチャンスが生まれていることが背景にある。この流れを広げることが重要である。
■世界の5大強国入りを目指す与党候補
冒頭で触れたように、次期大統領選挙は、政権与党「共に民主党」の李在明候補と最大野党「国民の力党」の尹錫悦候補との一騎打ちになる公算が大きい。
李候補は22年1月11日、「新経済ビジョン(イジェノミクス)」を発表し、科学技術、産業、教育、国土の大転換を通じて世界の5大強国入りを目指すこと、デジタルトランスフォーメーション投資によって、200万人の雇用を創出することを宣言した。
その一方、当初公約にしていたベーシックインカムの導入は、ポピュリズムとの批判を受けたこともあり、1月25日に、その対象を農漁村に限定すると表明した。
2月15日に選挙運動が正式にスタートし、
中央選挙管理委員会から各候補者の10大公約が発表された(図表4)。
■韓国の若者は誰の経済政策を評価するか
李候補は公約の2番目に世界5強の達成、3番目に経済的基本権の保障(ベーシックインカム)を掲げた。これらを除くと、両候補の公約には新型コロナ対策、住宅供給、雇用創出、科学技術の振興、デジタル化、未来人材の育成など共通するものが多い。
しかし、公約を実現させる政策の進め方では基本的な違いがある。
李候補が政府主導の投資によって成長を図り、雇用を増やすのに対して、尹候補は規制緩和や企業間のアライアンスを進めることにより民間投資を拡大する。
また、住宅政策では、供給主体(李候補が公共部門、尹候補は民間部門中心)や不動産税制(李候補が国土保有税の導入、尹候補が税負担の緩和)、再開発に向けた規制緩和(尹候補の方が積極的)などで異なる。
また、尹候補は李候補よりも財政赤字の拡大への警戒感が強い。
今回の大統領選挙では、浮動票の多い20代、30代の投票行動が鍵を握る。この世代には、公正な社会を実現できなかった上の世代(進歩・保守の両方)への反発と社会の統制を強める中国に対する否定的感情があるといわれている。
若い世代を含む有権者が、候補者の経済政策をどう評価し、誰に投票するのかが注目だ。 ----------
向山 英彦(むこうやま・ひでひこ) 日本総合研究所調査部 上席主任研究員 1957年生まれ。中央大学法学研究科博士後期課程中退、ニューヨーク大学修士、証券系経済研究所を経て、94年より日総研に勤務。専門は、韓国を中心にしたアジア経済。著書に『東アジア経済統合への途』(日本評論社)など。 ----------
日本総合研究所調査部 上席主任研究員 向山 英彦