形骸化した「平和協定」 李在明×尹錫悦、ウクライナ情勢で論戦 |
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北韓との合意、守られたことはない |
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統一日報 | |||||
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形骸化した「平和協定」 李在明×尹錫悦、ウクライナ情勢で論戦 |
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北韓との合意、守られたことはない |
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統一日報 | |||||
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68年前の昭和19年3月、日本軍は3個師団を繰り出して、連合軍の反攻の中心地であるインド・マニプル州の州都インパールを攻略する作戦を開始した。
前年から始まった連合軍の反攻を食い止め、中国・国民党政府への援助を遮断するためだった。
いったんは、連合軍にとっての拠点の一つ「コヒマ」まで進み、これを制圧、連合軍の補給ルートを遮断したかに見えたが、日本軍は前線への補給が続かず、作戦は発動から3か月あまりで失敗に終わった。
そして、撤退路の多くで、将兵が飢えと病に倒れた。
インパール作戦は、当初から無謀な作戦であると反対意見が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められ、戦闘中に師団司令官が独自に撤退を決めたり、更迭されたりするなど特異な事態が出現、戦後も長きにわたって批判された。
インパール作戦を始め、ビルマで命を落とした日本軍将兵の数は16万人におよぶ。
この作戦に参加した日本軍将兵や日本軍と戦った英軍将兵の証言、関連の番組でインパール作戦を始め、ビルマ戦線で何が起きたのかを振り返る。
ビルマの山中を行く日本軍部隊ビルマ戦線でたおれた日本軍兵士
福岡・佐賀・長崎出身者で編成された56師団の兵士たちは、昭和17年にビルマの攻略戦に投入され、中国軍を国境の外へ押し出した後、国境の守備に就いた。
しかし、米軍の支援を受けた中国軍が昭和19年の半ばから反撃に乗り出してきた。国境を越えてくる優勢な中国軍に対し、インパール作戦のために援軍をえられないまま、拉孟・騰越で守備軍は玉砕した。
陸軍第56師団の将兵
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福岡県久留米市で編成され、菊兵団と名付けられた陸軍18師団は、中国戦線、シンガポール攻略戦、ビルマ攻略戦を戦ったあと、ビルマ北部のフーコン谷地と呼ばれる密林で、昭和18年秋から重装備の連合軍と激戦を戦った。
しかし、補給のないなか装備の違いもあり、玉砕する部隊が相次ぎ、昭和19年6月までに3000人の戦死者を出した上に、撤退路で多くのが餓死者を出した。
一方、福井県の敦賀119連隊は、菊兵団の盾となって、菊兵団の生き残った将兵の「収容」のため、最前線へ派遣され、やはり重装備の連合軍の攻撃と食糧医薬品不足のため、3000人の連隊兵士の半数が命を落とした。
福井県敦賀・陸軍歩兵第119連隊
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インパール作戦に参加したのは、15師団、31師団、33師団の3個師団であった。
そのうち、31師団に所属する58連隊は、3月に出発して3000m級の山を弾薬や食料を積んだ牛を引いて越え、連合軍のインパールへの物資輸送の拠点コヒマに向かった。
いったんは、コヒマを攻略しインパールを孤立させたかに見えたが、補給と援軍を受けた英印軍の反撃が激しさを増し、5月末、31師団の佐藤師団長は、まったく補給のないことを理由に、独断で撤退を開始。
激怒した牟田口軍司令官によって師団長を更迭される。
さらに、雨季を迎えた密林の中で食糧のないまま撤退を始めた将兵たちは、病と飢えで次々に脱落、将兵の死体があふれたその撤退路は「白骨街道」とまで呼ばれるようになった。
新潟県高田・歩兵第58連隊
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京都府出身者を中心に編成された第15師団は、昭和19年3月15日にチンドウィン川を越えて、直接インパールを目指し進軍を始めた。
日本軍を引き込んでたたくという英印軍の方針もあり、部隊はインパールを見下ろす高地まで短時日でたどり着く。
しかし、人力で運べる分しか武器、弾薬、食料を持たない15師団は、ここで、豊富な砲弾と機甲部隊を持つ英印軍の激しい反撃にあい、草を食みながら白兵戦を挑むしかなくなる。
補給を訴える15師団の山内師団長も牟田口軍司令官によって解任された後、15師団は撤退を始めた。
この撤退路でも餓死、病死者が続出した。
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