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二階幹事長では総選挙は戦えない 有元隆志(月刊正論発行人)

2021-07-29 17:32:00 | 日記

二階幹事長では総選挙は戦えない 有元隆志(月刊正論発行人)

 多くの国民が当時の自民党にお灸を据えるつもりで民主党に投票した平成21(2009)年の衆院選の結果、悪夢のような2年10カ月の日々が続いた。

同じ轍は踏まないと過去3回の総選挙で安倍晋三前首相率いる自民党が大勝した。

だが、この間に自民党は弛緩してしまったのか、「政治とカネ」の問題や相次ぐスキャンダル、各地の選挙区で起きている内紛、そして何よりも菅義偉政権のコロナ対策をめぐる混乱で国民の支持を失いつつある。果たして21年と同じことが繰り返されるのか。

このままなら自民大敗、菅降ろしも

最近の報道各社の世論調査をみると、菅政権には黄色信号が灯っている。

内閣支持率はNHKで33%、毎日新聞で30%と昨年9月の政権発足後最低となり、時事通信では29.3%と初めて3割を切った。

世論調査で支持率30%は一つの目安と捉えられている。

過去の政権の例からみても、30%を下回ったからと言って直ちに退陣するとは限らないが、回復力を見せないと退陣まで下がり続けることになる。

時事通信によると、平成12(2000)年4月発足の森喜朗政権以降、小泉純一郎政権を除く8政権が30%を下回る危険水域を経験し、このうち7政権が再浮上せずに退陣に至った。

例外が安倍晋三前政権で、4年前の平成29(2017)年7月に29.9%を記録したが、同年10月の衆院選で大勝した。

菅政権は安倍前政権のように回復力を見せることができるだろうか。

菅首相は東京五輪・パラリンピックをなんとか無事に終わらせ、新型コロナウイルスのワクチン接種も広がれば、国内の雰囲気も変わると期待している。

菅首相はワクチン接種の「1日100万回」の目標を掲げ、陣頭指揮をとったまではよかったが、ここにきてワクチンの供給不足に陥り、各自治体で接種予約の停止が相次ぎ、国民の間に不満がたまっている。

酒類の提供停止に応じない飲食店に対し、金融機関から順守を働きかけてもらうよう求める方針を示した西村康稔経済再生担当相に対する反発も強い。

このまま当初の予定通り9月解散、10月総選挙となれば、もともと4年前の大勝で改選数の多い自民党は大幅に議席を減らし、選挙後の自民党総裁選で菅降ろしが起きるだろう。

菅首相に残された数少ない選択肢が人事と喫緊の課題への取り組みだ。

人事以外に局面打開の道なし

安倍前首相は4年前の東京都議選で歴史的惨敗を喫した後、内閣改造で人気の高い河野太郎氏を外相に抜擢した。

側近からは「脱原発」を主張する河野氏起用に異論もあったが、安倍氏は支持率回復を優先した。

菅首相もこれに倣い、内閣改造・党役員人事を断行すべきである。いまのところ、菅首相にその気はないようだが、局面打開には人事以外にない。

なかでも代えるべき筆頭は二階俊博幹事長である。

菅首相にとっては首相の座に押し上げてくれた恩人かもしれないが、

令和元(2019)年の参院広島選挙区を舞台にした大規模買収事件での党本部資金1億5000万円の拠出問題、

山口3区や群馬1区など各地で起きている自民党同士の内紛など、二階氏のもとで自民党は統治能力を失っている。

選挙対策の責任者である山口泰明選対委員長は引退を表明した。これでは戦う態勢になっていない。

二階氏は強く抵抗するだろうが、二階幹事長では戦えないことは明白である。菅首相は決断の時だ。

合わせて、菅首相に断行してほしいことがある。

菅首相は4月の日米首脳会談後の共同声明で「自らの防衛力を強化すると決意した」と約束した。

第2次安倍政権発足以降、防衛予算は右肩上がりに上昇してきたが、「国内総生産(GDP)の1%以内」という暗黙の縛りの中で推移してきた。

すでに岸信夫防衛相、加藤勝信官房長官が表明しているように、目安としてきた1%にはこだわらずに、必要な防衛予算を確保し、防衛力の強化に取り組むべきである。

加えて安定的な皇位継承問題にも尽力すべきだ。

現在、政府の有識者会議(座長・清家篤元慶應義塾長)で、婚姻後も女性皇族が皇室に残る案と、旧宮家の男系男子の養子縁組による皇籍復帰案が検討されている。

中でも旧皇族の皇籍復帰案を早急に取りまとめ、安定的な皇位継承を実現してほしい。

民主党への政権交代が起きた平成21年当時よりも、日本を取り巻く状況ははるかに厳しくなっている。

菅首相は理念的なことよりも、目の前にある課題を処理することを得意としてきた。

防衛力の強化と安定的な皇位継承は、コロナ対策とともに最優先で取り組むべきだ。

菅首相が本気で日本が直面する課題に取り組めば、おのずと選挙でも結果はついてくる。

小手先のパフォーマンスで支持率回復を図ろうとしても、国民の心は動かない。


五輪で顕在化した韓国の非常識 放射能フリー弁当、アンチ竹島アピール、

2021-07-28 18:25:08 | 日記

デイリー新潮取材班編集

五輪で顕在化した韓国の非常識 放射能フリー弁当、アンチ竹島アピール、旭日旗アレルギ

2021年07月27日 06時01分 デイリー新潮

 

五輪で顕在化した韓国の非常識 放射能フリー弁当、アンチ竹島アピール、旭日旗アレルギー

五輪に歴史問題を持ち込んできた

■日本で調達する食材は放射性物質の検査

 コロナ禍の五輪は人類初のことであり、いつもの五輪以上にみな手を取り合って、それでも手探りで進む他ないところ、早くも韓国の非常識な振る舞いが際立っている。

放射能フリー弁当、アンチ竹島アピール、旭日旗アレルギー……。

さすがに韓国内でも指弾される蛮行について、ライター・羽田真代氏がレポートする。

 ***

 

 韓国の選手団は選手村入りするとすぐに「臣にはまだ五千万の国民の応援と支持が残っている」とハングルで書かれた横断幕をベランダ側に掲出した。

これは、文禄・慶長の役において朝鮮水軍を率いて日本軍と戦った李舜臣(イ・スンシン)の言葉を借りてきたものだ。

スポーツに戦争を持ち込むごとき不謹慎な振る舞いで、「Thank you」「心より感謝いたします」との垂れ幕を掲げたオーストラリアチームとは対照的だった。

 さらに韓国選手団は、日本の食材は放射能で汚染されている可能性があるとし、独自に給食センターを設置、“放射能フリー弁当”を自国の選手らに供給し始めた。

 会場近隣のホテルを借り切り、韓国から派遣された調理師や栄養士ら16人が1日400個以上の弁当を手がけている。

キムチなどは韓国から持ち込み、日本で調達する食材は放射性物質の検査を行っているというが、検査の仕方は極めて杜撰で、パフォーマンスが先走っている印象だ。

「福島の人々がファーストクラスの運営をしてくれた。桃は美味しかった」と話したソフトボール米国代表監督の言葉が頭をよぎる。

■わざわざ色を変更して独島表記

 23日に行われた開会式については、韓国放送局の暴走が目立った。

 MBCは、ウクライナ選手団の入場行進の際の説明でチェルノブイリ原発事故の画像を、ハイチ入場では暴動の画像をそれぞれ使っていた。

 

 韓国内ではその悪ノリと言うかナンセンスさについて、「呆れてものが言えない。

このような国家的な大恥を晒した担当者はもちろん、関係者全員処罰されなければならない。

日本に対して散々言及してきた癖に…今は全世界が韓国の悪口を言っている。

何という大恥!!!!!」と指弾するような声が圧倒的だった。

 一方、SBSでは日本選手団入場の際、紫色に塗られた日本地図の竹島部分だけを水色に変更し、わざわざ“Dok-do(独島)”表記までする手の込んだ紹介を行っていた。

「MBCと共にSBSは放送を停止すべき三流放送局」と真っ当な意見もあれば、「センスが良い」「感動した」という声も根強くある。

 選手のスポーツマンシップへの疑義も呈されることになった。

 

 2日に行われたサッカーの韓国対ニュージーランド戦終了後、ニュージーランド代表のFWクリス・ウッド選手が、韓国代表のMF李東景(イ・ドンギョン)選手の元に歩み寄って健闘を称えあうべく右手を差し伸べ握手を求めたが、李選手はNZの選手と目を合わせることすらせず、差し出された右手を軽くはたいて立ち去ってしまった。

 李選手の非常識な行為は国内外で批判され、翌日には韓国代表チームの団長が緊急会見に臨み、李選手が託したメッセージを読み上げた。

その内容は、「このような問題に発展すると分かっていたなら、もっと理性的に反応すべきだった。試合に敗れてひどく落胆していたため、そこまで気がまわらなかった。

あのときの僕は、笑みを浮かべて(握手を)断れなかった」というものだった。

 少し説明しておくと、韓国のサッカー協会からは感染防止の観点から握手を拒否すること自体は問題ないとされており、仏頂面で断ったことがよくなかったというのが彼の主張のようだ。

とはいえ他の選手は握手をしていたし、そもそもプレイ中は頻繁に接触していることに加え、他の競技でもボディタッチをしながら互いの健闘を称え合うシーンが普通に流れている以上、彼の弁明は通りづらいだろう。

■UNCTADが「先進国」に認定

 

 批判の声が殺到したのを受け、ようやく出された格好の李選手のコメントであったが、「人としてのモラルに欠けている」「サッカーの技術だけでなく、礼儀を教えてくれる人は韓国にいないのか」「早く強制帰国させて」などと、さらに批判の声が上がっていった。

「単純に防疫のためだと思うが。視聴者がバカなのか?」と擁護する意見は極めて少数で、「今後数年間はお前のせいで韓国人は肩身が狭くなる。日本はお前のせいで浮かれている」「実力もない上に、人間性もクズだ。国民の恥」と口を極めてののしるようなコメントも少なくない。

 国連貿易開発会議(UNCTAD)が、韓国を「開発途上国」から「先進国」に変更する案を議決したのは今月2日のことだ。

韓国内では正真正銘の“一流国家”になったと喜ぶ声はかまびすしいほどだった。

五輪を巡って繰り返された振る舞いが先進国にふさわしいものだったかどうか、胸に手を置いて考えるべきではないだろうか。

羽田真代(はだ・まよ)

同志社大学卒業後、日本企業にて4年間勤務。2014年に単身韓国・ソウルに渡り、日本と韓国の情勢について研究。韓国企業で勤務する傍ら、執筆活動を行っている。

 

デイリー新潮取材班編集

 

2021年7月27日 掲載


フィリピン 無残な逃避行 小寺 政男さん(兵士、男性)

2021-07-28 15:56:10 | 日記

フィリピン 無残な逃避行

小寺 政男さん(兵士、男性)

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  • 体験地:
    • フィリピン・ルソン島
  • キーワード:
    • 空襲
    • 爆撃
    • 終戦
    • 長距離行軍
  • 1941年(昭和16年)、動員召集が度々あった。特に自動車運転手が不足し、私は運転手として大阪港の構内にあった築港トラックという会社で働いた。陸軍の主計少尉と2人で、市内各所から日用品や食料品等を買い集めた。ある日、買い集めを終え港に帰ると、甲板から私の名を呼ぶ人がいた。よく見ると、知人だった。彼は「昨日から君の姿は見ていたが、遠くて声を掛けることができなかった。今日も君がこの船に来ているのが分かり、先ほどから急ぎ手紙を書いたので、直接家族に渡してほしい」、「私の他にも近くの人たちがたくさんいる。しかし家族に知らせることができず、出発のときは面会もできなかった。上官もこのようなことは初めてだと言っている」と言う。11月下旬なのに皆夏服だった。憲兵が来たので、「手紙を頼む。元気で」と船内に消えていった。それが私が彼を見た最後の姿だった。

    私たちは三島(静岡)の野戦重砲第2連隊で一期検閲後、16師団初年兵軍と同船団で、リンガエンに上陸、戦勝ムードに湧くマニラに着いた。夜中というのに多くの日本人が日の丸で迎えてくれた。後に京都野砲22連隊に転属し、第2大隊4中隊に転入した。やっと郷土部隊に入れ、多くの人たちと故郷の事など話すことができるようになり、うれしかった。

    44年9月21日、私はマニラ郊外にいた。毎日のように食料調達や物品搬送に出ていた。その日も1人で自動車部品受領のため、自動車廠(しょう)へ受けに行った。事務所に入ると係の軍曹が他の受領者に「マニラの部隊にはそれほど渡せない、レイテ島の部隊に送ってからだ」とどなっている。私の受けるタイヤも12本から6本に減らされた。他にも受け取れなかった部品があった。
    帰路、マニラ市内を走っていると、マニラ湾の上空に多くの飛行機が飛んでいるのが見えてきた。「日本も飛行機が無いと聞いていたがまだまだ大丈夫だなぁ。海軍機か、陸軍機か分からないが、航空大演習だ!」と思いながら海岸大通りに出た。その時、高射砲の弾が上空でさく裂しはじめた。沖に停泊している大型貨物船から火柱と黒煙が上った。車を止めてよく見ると、飛行機の両翼にはっきりと星のマークが見えるではないか。急いで下車した。ほかの車も止まり、人々は皆上空を見ている。誰かが「グラマンだー!」と言った。敵機はますます増えてくる。湾内の船は次々に攻撃を受け、黒煙を吹き上げる。上空では高射砲弾が昼の花火のようにさく裂する。マニラ湾の空は薄暗くなり、夕暮れのようであった。数知れない砲弾にもかかわらず、なかなか当たらないことに驚いた。1機が火を噴きながら港の方の突っ込んでいくのが見えた。
    どのくらいの時間がたったのか分からなかったが、敵機の数が少なくなったと思ったら、また湾の入り口から黒く見えるほどの大きな編隊が飛んで来るではないか! 一部は市の上空を北へ向かっていった。再び高射砲との撃ち合いが始まった。近くにいた現地人が、喜んでいるような声を出していた。
    その後も爆撃は毎日続き、マニラは死の街と化した。この一方的な爆撃は、今まで戦勝国だと思っていた私にとって大きな衝撃だった。ガダルカナル、サイパンなど南太平洋の島々が玉砕してきたのを、戦争だから小島ではそんなこともあろうかと思っていた。しかし、とうとう自分の身にも降りかかってきたのだ。

    わが隊は44年末には北部ルソンに転進(敗走)した。レイテ島の私の原隊の京都垣部隊が全滅したことを聞き、がく然とした。10月には現隊復帰するはずであった私は、戦局の悪化でレイテ島の本隊へ帰隊することができなかったのだ。そして配属されていた16師団病馬廠(後の第14軍の兵站病馬廠)に残り、共に戦うことになった。12月下旬、わが隊は山間都市バギオの奥13キロ地点へ移動を開始した。バギオは海抜1,500メートル位の高地にある避暑地で、松もあり、別荘が並び、在留日本人も多く、日本人学校もあったようだった。

    マニラから北部に伸びる国道は、長蛇のごとく車の列が続いた。バレテ峠下の中継地からマニラまで2往復の運搬を終えた。私の車は1940年製V8フォード(戦前では最後の輸入車)で力もあり、調子は快調で、途中で30分くらいの休憩と冷却水の補給ですんだ。急坂ではたくさんの車が故障し助けを求めるが、こちらも荷物が満載で精いっぱいの運行だった。故障した車は国産の日産、トヨタばかりだった。敵機は軍事施設ばかりを狙い、車の列は襲ってこなかった。
    トリニダットの新陣地に着くと、先着の人々が迎えてくれた。この隊は初めからルソン島にいたので物資が豊富だった。45年の正月は敵機の襲撃も少なく、なんとかよい正月だった。しかし正月明けには集中爆撃に遭い、乗用車など数台が燃えた。それからは毎日爆撃があり、付近の住人はいつの間にか消えてしまった。
    再びマニラに食料を取りに行く事になった。走っていると、敵機が今まで見向きもしなかったトラック群を襲ってきた。白い国道を走る車は敵機から丸見えだ。機銃掃射の音が頭上に響いたかと思えば、前方には煙の上がる車、田んぼに転覆する車…。乗務兵は近くの竹やぶに逃げ込んだ。敵機は反復せず国道に添って南へ去った。「助かったか」と顔を見合わす。遠くのやぶの中で誰かが「兵長がいない」と叫んだ。皆走って車に帰ると、兵長は頭部を後ろから撃たれ、運転台に座ったまま絶命していた。彼は新婚だった。われわれはマニラ行きを諦めて夜を待ち、引き返した。

    6月、砲撃が間近に聞こえるようになった。バレテ峠の北麓の各部隊や近隣の邦人村の人たちが敗走準備に入った。5日ごろの夕方、にわかに物資搬送の命を受け、兵器や食糧を満載し先発した。夜の国道を北上した。道はトラックでいっぱいだった。
    ラムット川(ランタップ川)の河原は橋を渡る順番待ちの人と車でいっぱいで、車両隊の将校と橋番の工兵軍曹が甲高い声でやりあっていた。車両隊は先に着いた邦人部隊より先に渡ろうとしているのだ。軍曹は応じず、大変立派だった。
    仮橋を渡り、しばらく走っていると川向こうからの敵の戦車砲弾が近くに着弾し始めた。大変疲れていたし、ライトも付けられないので、夜は走らないことにし、国道から外れたところで車を草木で完全に隠した。
    夜の国道は北へ向かう敗走者と将兵でいっぱいだった。夫を召集で取られた婦人が多く、車に乗り遅れた母親は赤ん坊を背に、右手には泣き叫ぶ子どもを引っ張り、左手にはわずかな炊事道具を下げていた。敵の追撃は早かった。砲撃と空爆が激しく、機銃掃射の音は間近い。誰もいない国道を気の狂った兵隊が1人、叫びながら走っていた。
    2人の陸兵に出会った。目はギョロっとして痩せている。衣服はボロボロだったが、武器だけはきっちり持っていた。階級証も無い。「タバコはないか、あんたら楽してるなぁ。もうあかんで。わしらはアパリ(ルソン島北端)に行く」と関西弁で話しかけてきた。タバコを渡すと、そのまま行ってしまった。
    先日渡ったラムット川の仮橋は、雨で跡形なく流れ去ってしまった。かすかに見える対岸の河原に無数の死体らしきものが見えた。言葉も出なかった。この世の地獄はこのことかと思った。歩く気力を無くした。何時までも川岸に座っていた。

    6月末、比島作戦の終了と、沖縄戦の終わったことを、初めての空からのビラで知った。とうとう敗残兵になったのかと思った。

    米軍は、昼夜問わず本格的な砲撃を浴びせるようになり、空から敵機が消えることはなかった。われわれの行動は夜間のみとなった。本隊を追う私の車は、知り合いの邦人一家族を乗せ出発した。長い峠道は一斉に動き始めた車で停滞し、なかなか進まない。至近弾の破片は車のボディに激しく当たる。一晩かけて15キロも登ることができなかった。夜明け、適当な山側に駐車し、草木をかけ偽装する。敵機の爆音が聞こえてきた。車から離れ、身を隠す。
    昼間は休むことができた。午後になると車にかけた草木が色を変え始めるので、敵機の攻撃は的確になった。撃たれて動けなくなった車が道路をふさがないか心配だった。夕方になり敵機は去った。私の車は無事だったが、10数台先の車はまだ煙が上がっていた。車体は赤茶色に燃え尽きているが、タイヤや積み荷がくすぶっている。よく見ると燃え切らない軍票がたくさんあった。私は10円紙幣を持てるだけ持った。後から見に来た連中もそうしていた。軍票はもう絶対に使用できないと分かっていても、人の心はおかしなものだ。後にこれが山中での貴重な“落とし紙”として重宝した。
    2キロほど登った所にまた山崩れがあった。爆撃で車道に崩れた土砂の下から兵士の靴が見える。谷にはトラックが2台程落ちている。後続車にはせかされる。思い切って通過するほかなかった。墜落した車の中に亡くなった人や負傷者がいても、他の部隊の人なら見捨てて進んでしまう状況になっていた。
    いよいよ車も通れなくなり、車を捨てざるを得なかった。米袋1斗、塩を靴下に1袋分、小銃と弾90発、手りゅう弾1個か2個、全部で25キロを担いで歩かなければならない。

    何千、何百という人が通過する道は毎日のように降る雨でぬかるみ、泥は軍靴を越えてスネまで届いた。弱い女性や病人、負傷者は足が抜けず、助けを求めていた。

    米の重みが肩に、手りゅう弾や焼い弾を付けたベルトが腰に食い込み、苦しいのはこの上なかった。小隊はバラバラになった。途中にあったつり橋は、我々でさえ渡るのをちゅうちょしたくらいで、女性や病兵は覚悟せねば渡ることができなかった。つり橋の手前のガレ場にはしかばねがあちこち横たわり、死体にはワンワンとハエがうなっていた。我々はもうあまり驚かないようになっていた。マラリアや病気で倒れうめいている人や、ぼう然と自失し、前方の崖ばかりを見つめている人など、目の前に広がる光景はとてもこの世のざまとは思えなかった。
    焼き畑がところどころあったが、すでに先に入った兵士らが掘り探してしまい、青葉まで少なくなっていた。たくさんのサツマイモを入れた大きな籠を持った12~3歳のイゴロット(現地住民)の少女がいた。我々が持つ物と交換してほしいようだ。私は慰問袋に海のサメよけ用の真っ赤な越中ふんどしの新品を持っていた。それを見せたところ、布は貴重品だったのでとても喜んで交換してくれた。イゴロット族の男性は、平常でも蛮刀(現地住民が持つ刀)と手やりや吹き矢を携行している。うっかり1人で寝たり、洗濯や炊事をしていて、背後から忍び寄られて首を落とされた兵士も多くいた。鮮血の中に横たわっている日本兵の首無し遺体を見たこともあった。酋長の家にこっそり入ったところ、居間の壁にたくさんの人間の頭蓋骨が飾られていた。
    砲弾が毎日休みなく撃ち込まれ、上空からはナパーム弾が落とされた。兵隊のいそうな山々は次々と焼かれていった。

    45年7月半ばごろ。食料が無くなりかけた。命がけで運んだ米は、連日の空爆とナパーム弾で次々と焼かれた。川はあっても魚はいない。何百もの小さな棚田にも1本の落穂もない。あるのは野に生えた南方春菊の葉だけとなり、栄養失調の患者が続出し、元気に動ける軍民は日に日に少なくなっていった。

    車を捨てた所に隠してきた塩を回収する命令を受けた。今度は軽装だ。空爆や砲撃にも慣れっこになったものの、急坂を下ろうとした時であった。ヒュルヒュルと音が聞こえたと同時に、すぐ近くで砲弾がさく裂した。銀紫色に光る破片がブツブツと回りに突き刺さった! 私は転げるように谷下へと走った。仲間3人とも無事だった。
    道ばたには無数のしかばねが重なるよう横たわり、1か月前に見た死体は、もう白骨化しかかっており、新しい死体の顔面はウジ虫に覆われ、衣服の中にもいっぱい湧いていた。もしこの姿を家族が見たらと思い、何とも言いようのない悲しさが込み上げてきた。
    “道路清掃隊”と称する一隊に出会った。聞けば「片づけても片づけても転がる死体にどうすることもできない」、軍医は「赤痢患者ばかりで、触れば伝染するので、我々も参ってしまう」と言っていた。いずれ進出してくる米軍に悲惨なざまを見せまいとする軍上層部の配慮だろうが、とても無理だと思った。制海空権が日本にあるなら、荼毘(だび)に付せ、内地の家族の元へ遺骨を送り、名誉の戦死が届けられるものを…。つくづく情けなかった。

    峠の下で、かわいそうな乳児と幼女に会った。母親はすでに息絶えているのに、乳児はまだ乳房にすがり、かすかな声で泣いている。5~6歳の幼女は、少しの装具を前にシクシクと泣いている…。乳児もすでに事切れかかっており、せめて幼女だけでもと思ったが、どうすることもできないまま、そこを通過していった。
    小さな教会がぽつんとあった。20坪あまりの前庭一面に死体が埋められ、上から乗せたわずかな土からウジ虫が湧き出している。中を見てまた驚いた。20畳もあろうかと思える一間に、老若男女、兵士も数人、座ったり横になったりしていた。悪臭が鼻をさす。下痢便と小便が垂れ流しの状態だ。死んでも、埋める場所も、埋めてくれる人もない。初老の男性がポツリと「教会なので空からの弾は来ないが、私らはもうこの場でこのまま死ぬしかないのです」と語った。米軍が早くここまでくれば彼らは助かる…、やがて我々にもこんな時が来るのか…。複雑な思いだった。「皆さん頑張って下さい」と言い、そこを出ていった。

    ようやく塩を隠した所に着いた。塩は残っていた。夕方まで待ち、25キロの岩塩袋を1つずつ背負って帰路に着いた。その夜は月夜だった。峠の下にはあの母親の死体と共に息絶えた乳児の姿があった。幼女はいなくなっていた。
    3日目の朝、無事に陣地まで帰り着いた。
    8月、雨はあまり降らなくなった。食料はいよいよ少なくなり、荒らされた芋畑を一日中掘り返しても、わずかな芋しかなく、食べ物を求めてだんだん遠方へ行かねばならなくなった。もう動ける人はほどんとおらず、しかばねは日に日に増えていった。

    15日朝、峰向かいの芋畑へ行く途中、いつものビラが空から落ちてきた。例の投降ビラかと思った。いつものビラには、空襲で焼け野原になった大阪や東京の写真や、負傷者や投降組が収容所で丸々と太って娯楽をしている写真などがあった。また毎週土曜日の午後は一切の攻撃を中止するので、銃の先に白旗を付け米軍の歩哨線まで来て下さいと書かれてあった。
    しかしこの日は驚いた。予想はしていたとは言え、まさかと思う記事だった。大きな字で「日本、ポツダム宣言受諾。無条件降伏する。日本兵は近く故郷へ帰郷することができる」と書かれていた。そう言えば昨夜半より砲撃はぴたりとやんで大変静かになっているではないか。大変残念だと思う心と、戦いが終わったうれしさとが入り交じった複雑な気分だった。

    ビラを分隊長に見せると、「そうか」と言ったきりだった。他の兵士は喜んで外に飛び出し、一斉にシラミ取りを始めた。今まで明るい所へ出られなかったが、今日から空は我々のものだ。敵はもう来ない。すき腹を抱えながらも冗談が出た。将校に報告すると、2~3人で顔を合わせていたが、「信用するな。司令部から連絡があるまで油断してはいけない。隊長には報告しておく」と言うが、彼らも本心はほっとしたようだっだ。
    4~5日後、終戦が全員に知らされた。
    8月末になっても何事もなかった。終戦まで生き延びながら、食料不足と病気でしかばねが増えていき、生きている者も骸骨のようになった。私も20~30キロは痩せ細っていただろう。上官の言葉遣いは以前と変わっていたが、隊ではまだ統制がとれていた。 
    9月20日ごろ下山の許可が出た。いろいろな感情が心をよぎった。1日も早く米軍陣地に収容されないと命が持たない、無事に収容所にたどり着くことができるだろうか、内地へ帰れるだろうか…。考えるのはそんなことばかりだった。
    終戦から40日目、歩ける者はグループで武装解除の地点まで行き、動けない者はその場で待機せよとの知らせがきた。目的地近くの狭い道路の両側には現地人が並び、時計やペンを食物と交換しないかと持ちかけていた。
    雑のうとベルトだけが許された武装解除。惨めな思いだった。収容所での食事は我々の体調に合わせ、薄いかゆとスープだけだったが、そのおいしさは今も忘れられない。

    47年正月、ついに懐かしのわが家に帰り着いた。家族の顔を見るなり感激の涙が止まらなかった。
    42年正月に入営してからの5年間は、さまざまな体験や多くの戦友との出会いがあった。無念の思いで散っていった何百万の若い同胞、栄養失調や飢餓また疫病で死んでいった方々を思うと、戦争はむなしく、憎く、悲しいものであったと思う。

女子55キロ級・ディアス、フィリピン史上初の金/重量挙げ

2021-07-28 15:16:01 | 日記

女子55キロ級・ディアス、フィリピン史上初の金/重量挙げ

2021/07/26 22:42

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女子55キロ級 ジャークで127キロに成功し優勝したフィリピンのディアス=東京国際フォーラム

第4日・重量挙げ(26日、東京国際フォーラム)女子55キロ級で八木かなえ(ALSOK)はスナッチ81キロ、ジャーク102キロ、トータル183キロで11位だった。

フィリピンのディアスがスナッチ97キロ、ジャーク127キロ、トータル224キロで優勝し、同国に史上初の五輪金メダルをもたらした。

女子55キロ級のディアスがフィリピンに全競技を通じて初の金メダルをもたらした。最後のジャーク3本目を成功させると「信じられない。夢がかなった」とコーチ陣と号泣しながら抱き合った。

 

世界記録保持者の廖秋雲(中国)との接戦だった。

スナッチ97キロで並んで入ったジャークは、廖秋雲が成功するたびに1キロ上回っていく展開を3度続けた。

5年前の銀メダルを上回り「パンデミックの中で頑張る全国民のおかげ。

早く家族やフィリピンの人たちと喜びをともにしたい」と金メダルを握り締めた。


<W寄稿>韓国が先進国になっただと?この一か月の間、日本や東京オリンピック関連の出来事

2021-07-28 14:05:48 | 日記

<W寄稿>韓国が先進国になっただと?この一か月の間、日本や東京オリンピック関連の出来事

7/28(水) 6:15配信

WoW!Korea

文化体育観光部(韓国の部は日本の省に該当)が7月8日に国家政策広報資料をホームページにアップした。

大きな文字で詰められた資料の内容はこうだった。

「衰退する日本、先進国へ格上げされた韓国。日本、コロナ禍への防疫失敗と景気沈滞で国力の低下継続。

 

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朝日新聞『日本政府の無能』批判(7月5日付、

『輸出規制は自殺行為…愚かな政策の極み』)。

韓国の国力は飛躍的な成長。

国際連合貿易開発会議『韓国の地位、開発途上国→先進国』変更。」

東京オリンピック開幕を控え、

韓国チームの選手村のマンションの外壁には、李舜臣語録をパロディーにした「臣には未だ五千万の国民からの応援と支持が残っております」と言うセリフが貼り付けられた。

テレビ局MBCは東京オリンピック開幕式の中継で、ウクライナ代表チームの入場の際に、チェルノブイリ原発事故の写真を使用した。

ハイチに対しては大統領暗殺関連、ルーマニアに対してはドラキュラ関連、エルサルバドルに対してはビットコイン関連の写真を使用した。

文化体育観光部は「衰退する日本」・

「防疫失敗と景気沈滞で国力の低下継続」などの表現を用いながら、日本を卑下した。

ところが日本の「衰退」・「防疫失敗」・「景気沈滞」・「国力低下」などの文言内容を裏付ける具体的資料は一つも提示しなかった。

「日本が衰退すれば良いな。防疫に失敗して景気沈滞に陥り国力が低下すれば良いな」と言う希望事項を一方的に列挙したものに違いない。

恣意(しい)的な考えや妄想は、退勤後に家に行って日記帳に記すべきだ。

「特定国家を嘲弄(ちょうろう)する表現を公式資料に書き込むのは外交的に失礼」、

「どこの国が公式広報物に他国への悪口を書くのか」、

「どのような外交的利益があるのだろうか」などと言う反応が上がって来るや否や、文化体育観光部は慌てて資料の内容を以下のように修正した。

「大韓民国の国力も2年前に比べて大きく成長。

韓国の経済規模は世界10位圏。

 

全世界の輸出シェアは7位水準。国際連合貿易開発会議(UNCTAD:United Nations Conference on Trade and Development)でも先進国へと分類変更。

今では先進国対先進国の形で日本と対等な立場が可能」と修正はしたが、内容の裏にはやはり日本に対する比較意識と劣等感がにじんでいる。

2012年のロンドン・オリンピックのサッカーでパク・ジョンウ(朴鍾佑)選手が「独島は我が領土」と言う文句が記された紙を持ってグランドを駆け回ってから、IOCから懲戒処分を受けた事件をすっかり忘れたのか。

東京オリンピックでも規定違反の行動をしてから、開幕する前にもかかわらず、制裁を受けて李舜臣語録のパロディーのセリフは撤去された。

人種差別に対する抗議や、少数民族弾圧に対する抗議のような崇高なメッセージを伝えようとしてIOCから制裁を受けたのであれば、誇りでも抱けるはずなのだが、たかだか隣国、それも主催国を嘲弄してやっつけるメッセージを持って来て貼り付けて、主催国の国民から軽蔑の視線を浴び、尻尾を巻いた格好となった。

意地を張って、雰囲気に合わない「虎が下りてくる」と言う文句が入った大型の垂れ幕をまた掲げた。

オリンピックに参加しに行ったのか、日本国民と感情的な喧嘩をしに行ったのか分からない。

テレビ局MBCは常識外れな放送によって世界から非難され嘲弄された。

韓国に居住するあるロシア人は「大韓民国の選手が入場する際、セウォル号の写真を使ったらいかが?

何故使わないの?

米国には9・11のテロの写真を使って。

一体全体どれほど無知で無学であれば、爆発事故のあった原発の写真を使うの?」と言う非難文でMBCを嘲弄した。

MBCは事態の深刻さを把握したのか、7月26日、社長が国民に対する謝罪文を発表した。

国際連合貿易開発会議など、国際社会からの「先進国待遇」に韓国人が鼓舞されたようだ。

ところがこのような先進国分類は、主に国家のGDPや一人当たりのGDPなどの外形的な経済規模が反映された結果だ。

国民性など、目に見えない内面的な要素は排除される。

真の先進国になろうとすれば、外形に見合う内面的要素をきちんと整えて備えるべきだ。

中国のGDPが日本、ドイツ、英国、フランス、イタリア、カナダなどを大きく上回るが、世界中のどこの誰もが中国を指して「先進国」だとは呼ばない。

インドのGDPもまたフランス、イタリア、カナダより高いが、未だ「先進国」と呼ばない。

ウィグルなど、少数民族に対する人権弾圧のような反文明的な行動と態度を続ける限り、中国は先進国だとの評価は得られない。

インドもやはり悪習のようなもの(身分制など)を完全に断ち切らない限り、同様だ。

韓国は内面的な側面で、中国やインドより、特別にマシな点があるのか?

このような事件(文化体育観光部、オリンピック規定違反、テレビ局MBC)は未だ一か月も経過しない間に発生した。

ところが韓国のこのような事件は、インドは勿論、中国でさえ大抵犯さないくらい低レベルな行動だ。

更に見てみよう。戦時でもないのに、韓国人の相当数は長期間常に隣国日本に対するプロパガンダ活動に血眼となっている。

世界中の至る所に慰安婦像を建立し、旭日旗を戦犯旗だと追い込み、日本企業の資産を差し押さえた。

ところがこんな風な一方的な行為は、一世紀前だったら未だ相手国に対する宣戦布告に相当する。

相手国が嫌だという意思を明らかにしたにも拘らず、敢えて銅像(慰安婦像)を建立する行為は事実上「名誉棄損犯罪」に相違ない。

全ての国が認める合法的な旭日旗に対して、

10年余り前から突然、詭弁(きべん)を動員して戦犯旗だと追い立てる行為もまた、事実上「虚偽告訴罪」に相違ない。

半導体分野で韓国が成功して、日本が落ち込んでいるのを契機として、今日の韓国人は日本に追いついたかの如く考える。

しかし現実は未だ韓国のGDPは日本のGDPの三分の一に過ぎない。

日帝時代を経験した崔基鎬氏(1923年生まれ)の証言は韓国人と日本人の相違点をよく見せてくれる。

「私は京城(現在のソウル)に住んでいました。当時の韓国人は日本人よりはるかに日本的でした。映画館に行けば映画が始まる前に戦争に関するニュースが流れました。

例えば『ニューギニアで日本軍が勝利を収めた』と言うニュースが流れれば、映画館内は割れるような拍手の音と万歳の声で興奮のるつぼとなりました。

私は東京にも行ってみて、そこでも映画館に行ってみました。

同じようなニュースが流れるものの、日本人たちは冷静な姿で振舞っていました。

日本人は冷静で、韓国人がむしろ喜び興奮するのが当時のありふれた姿でした」

少しでも優越的な位置に立てば、有頂天になって偉そうに振舞い、アピールする性向をあらわにする韓国人が確実に存在する。

日本との経済的な格差が縮小するほど、むしろ反日が猛威を振るう今日の現象も、このような韓国人の性向と無関係でないようだ。

「日本の婦人は中国とは違い、知識に優れ、芸能と文学にも造詣が深い」。

 ‐ペリー(米国の提督、1794~1858年)

「日本国民と比べ、常に英国国民が劣らないことを望む。ところが残念ながらも、実際にはそうでない」

 ‐イザベラ・バード・ビショップ(英国の女性旅行家、1831~1904年)

「日本と比べれば、西欧は野蛮だとしか見られない」

 ‐ラフカディオ・ハーン(英国の作家、1850~1904年) 百年以上も前に日本は既に世界からこのように評価されていた。

ころで21世紀(2021年)に、韓国の政府(文化体育観光部)、オリンピック代表チーム、メディア(地上波の放送局MBC)などが見せた姿はどうか。

19世紀の日本の姿にも全く及ばないレベルだ。

結局、内面的な側面で韓国と日本の間の格差が「雲泥の差」となったという評価を聞いても、取り立てて語るべき言葉が無くなった。

このような面で、今日の韓国はお金を少し稼いだと、有頂天になる教養の無い成金の姿の以外の何物でもない。

国民性の改造水準において身を削る努力が伴わない限り、韓国の内面は永遠に「三流国家」の水準でうろつくほかない。

この記事は韓国の保守論客ファンドビルダーさんの寄稿文を日本語に翻訳したものです。韓国メディアには既に韓国語版が公開されています。翻訳の正確さに対する責任は当社にあります。

 

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