宇宙戦艦ヤマトと私
今日はゴジラとは関係のない話です。
昨年劇場作品として久しぶりに復活したり、もうすぐ実写版が公開されるとあって注目される事が多くなってきた「ヤマト」。
先日、生みの親の一人でもある西崎義展氏がなくなりました。驚きました。
私は第一作本放送で「ヤマト」でファンになり、ブームの頃はど真ん中にいた世代です。ゴジラで言うとちょうど『メカゴジラの逆襲』と『(84)ゴジラ』の間。気がついたらいつの間にか頭の中はゴジラからヤマトへシフトされていました。もしこの間、ゴジラが作り続けられていたら、こんなにヤマトにはまっていなかったかもしれません。
高校生の時、同人サークルを作り、それ以降たくさんの同人誌を作りました。サークルで知り合ったたくさんの友人、知人、関係者の方々とは今でも交流があります。ヤマトをきっかけに、多くのアニメにも興味を示し、同人誌活動以外にもイベントを主催したり、上映会をしたりと、無我夢中の10代後半から20代前半でした。
幅広く活動していたおかげで「ヤマト」制作会社(オフィスアカデミー~ウエストケープコーポレーション。それぞれ当時)運営のオフィシャルフャンクラブ本部(最盛期には何万人もの会員がいたそうです。以下FC本部)の方々と仲良くさせていただき、たくさんお世話になりました。イベントの際は、各作品の上映フィルムの貸し出しはもちろん(当時門外不出のパイロットフィルムや予告フィルムを上映できた同人サークルはウチだけでした)、たくさんの景品を提供して下さったり、西崎氏からその日だけのための録音メッセージをいただいたり、「完結編」の前には来場していただき情報を話していただいたり、シークレットだったものを含めて、数え上げればキリがありません。
25歳の時に前職を辞めて先の事を考えていた時に、後に勤める某デザイン事務所を紹介していただいたのが、FC本部の方。その事務所は外注でFC本部から定期的に発行されている機関誌のデザイン・レイアウトを担当していました。FC本部とも親しいしヤマトにも詳しいという事で、入社してすぐ私が担当するようになります。それからFC本部が終了するまでの4年間のほとんどの機関誌のデザインは私が担当していました。
担当してすぐ、いつのまにか企画、編集、イラストまでするようになり、気がついたら陰の編集長と言われました。まさか仕事でウエストケープコーポレーション(当時)に頻繁に出入りするようになるとは思いませんでした。「完結編」後でしたから、一番悩ませたのは企画です。オフィシャルな情報がない時期ばかりでしたから、ファンの皆さんの投稿頼りだったのが一番の思い出です。
西崎氏とお仕事させていただく時は、機関誌用にコメントをいただく時だけでしたが、場所はいつも社員の方も滅多に入らない社長室。貴重なものもたくさんあって、ついそちらの方に目が行ってしまったのを今でも覚えています。
作品として「ヤマト」各シリーズには思いが多々ありますが、仕事として機関誌の最終号の制作は感慨深いものがありました。貴重な経験をさせていただいたと今でも思っております。
機関誌の最終号が発行されて少しして、最終号用に描いた私のイラストパネル(セピア調にメインキャラクターの集合)を「これはオレがもらっていく」と西崎氏が持って帰ったというのを後から聞いて、「いろいろあったけど、仕事としてヤマトに関われてよかった」と実感したものです。
FC本部が終了して15年以上たちますが、その間仕事としてはヤマトからは離れています(マーミットさんの商品のお手伝いを少しだけしたぐらいです)。
仲間と作った同人サークルも解散はしていないけど、ずっと長年休止状態。
イラスト、デザイン等ヤマト絡みの事を公私共にしばらく何もしていなかったので、今はヤマトと聞くと懐かしい気持ちが先にきます。
暇ができたらまた古代進やヤマトを描いてみたいものです。
西崎氏のご冥福を心よりお祈りいたします。
ありがとうございました。
今日はゴジラとは関係のない話です。
昨年劇場作品として久しぶりに復活したり、もうすぐ実写版が公開されるとあって注目される事が多くなってきた「ヤマト」。
先日、生みの親の一人でもある西崎義展氏がなくなりました。驚きました。
私は第一作本放送で「ヤマト」でファンになり、ブームの頃はど真ん中にいた世代です。ゴジラで言うとちょうど『メカゴジラの逆襲』と『(84)ゴジラ』の間。気がついたらいつの間にか頭の中はゴジラからヤマトへシフトされていました。もしこの間、ゴジラが作り続けられていたら、こんなにヤマトにはまっていなかったかもしれません。
高校生の時、同人サークルを作り、それ以降たくさんの同人誌を作りました。サークルで知り合ったたくさんの友人、知人、関係者の方々とは今でも交流があります。ヤマトをきっかけに、多くのアニメにも興味を示し、同人誌活動以外にもイベントを主催したり、上映会をしたりと、無我夢中の10代後半から20代前半でした。
幅広く活動していたおかげで「ヤマト」制作会社(オフィスアカデミー~ウエストケープコーポレーション。それぞれ当時)運営のオフィシャルフャンクラブ本部(最盛期には何万人もの会員がいたそうです。以下FC本部)の方々と仲良くさせていただき、たくさんお世話になりました。イベントの際は、各作品の上映フィルムの貸し出しはもちろん(当時門外不出のパイロットフィルムや予告フィルムを上映できた同人サークルはウチだけでした)、たくさんの景品を提供して下さったり、西崎氏からその日だけのための録音メッセージをいただいたり、「完結編」の前には来場していただき情報を話していただいたり、シークレットだったものを含めて、数え上げればキリがありません。
25歳の時に前職を辞めて先の事を考えていた時に、後に勤める某デザイン事務所を紹介していただいたのが、FC本部の方。その事務所は外注でFC本部から定期的に発行されている機関誌のデザイン・レイアウトを担当していました。FC本部とも親しいしヤマトにも詳しいという事で、入社してすぐ私が担当するようになります。それからFC本部が終了するまでの4年間のほとんどの機関誌のデザインは私が担当していました。
担当してすぐ、いつのまにか企画、編集、イラストまでするようになり、気がついたら陰の編集長と言われました。まさか仕事でウエストケープコーポレーション(当時)に頻繁に出入りするようになるとは思いませんでした。「完結編」後でしたから、一番悩ませたのは企画です。オフィシャルな情報がない時期ばかりでしたから、ファンの皆さんの投稿頼りだったのが一番の思い出です。
西崎氏とお仕事させていただく時は、機関誌用にコメントをいただく時だけでしたが、場所はいつも社員の方も滅多に入らない社長室。貴重なものもたくさんあって、ついそちらの方に目が行ってしまったのを今でも覚えています。
作品として「ヤマト」各シリーズには思いが多々ありますが、仕事として機関誌の最終号の制作は感慨深いものがありました。貴重な経験をさせていただいたと今でも思っております。
機関誌の最終号が発行されて少しして、最終号用に描いた私のイラストパネル(セピア調にメインキャラクターの集合)を「これはオレがもらっていく」と西崎氏が持って帰ったというのを後から聞いて、「いろいろあったけど、仕事としてヤマトに関われてよかった」と実感したものです。
FC本部が終了して15年以上たちますが、その間仕事としてはヤマトからは離れています(マーミットさんの商品のお手伝いを少しだけしたぐらいです)。
仲間と作った同人サークルも解散はしていないけど、ずっと長年休止状態。
イラスト、デザイン等ヤマト絡みの事を公私共にしばらく何もしていなかったので、今はヤマトと聞くと懐かしい気持ちが先にきます。
暇ができたらまた古代進やヤマトを描いてみたいものです。
西崎氏のご冥福を心よりお祈りいたします。
ありがとうございました。