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阿川弘之さんをしのぶ

2015年11月25日 | 歴史日誌

▲阿川弘之さんを「しのぶ会」(Youtube)





今年8月に94歳でお亡くなりになった小説家

阿川弘之さんを「しのぶ会」が

11月24日(火)に

東京帝国ホテルで営まれました。



「日本李登輝友の会」のホームページによると

会の正式名称は

阿川弘之氏お別れの会

とのこと。

その案内を以下にリンクしました。



▼日本李登輝友の会(Link)







ウィキペディアから

阿川さんの経歴を一部引用します。


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1942年(昭和17年)9月海軍予備学生として海軍に入隊する。
1943年(昭和18年)8月に海軍少尉任官、軍令部勤務を命ぜられた。大学在学中に中国語の単位を取ったことでわずかだが中国語ができたため、特務班の中でも対中国の諜報作業担当であるC班に配属される。中尉に進級した直後の1944年(昭和19年)8月「支那方面艦隊司令部附」の辞令が出る。
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経歴の中で

諜報作業担当

とありますがこれは主に

暗号の解読にあたる職務だったようです。



その際

中国の暗号のほとんどは

解読されていたものの

アメリカの情報については

不明なものが多かったようです。




しかしながら

アメリカ軍の爆撃情報の詳細は掴んでいたらしく

爆撃機B-29の機体識別番号や

それに伴う作戦情報は

海軍で把握していたそうです。



ところが

その機体識別番号の中で

不明なものが

3機

存在していました。




そのうちの1機は

広島に原爆を投下した

エノラゲイ

だったのです。




つまり

その作戦内容は不明なままでしたが

当時の海軍は

不明機が何らかの作戦行動に使用されることを

事前に掴んでいたということになります。







焼け野原になった地元の広島に戻り

その破壊力の凄まじさに

あらためて戦争の悲惨さを感じます。

焼け落ちた

白島九軒町(はくしまくけんちょう)

の実家から京橋川を隔てた隣町の牛田で

戦後のしばらくを過ごされました。




さて

阿川氏は

先の大戦でともに戦い

亡くなった同世代に対する思いが

とても深かったように感じます。



したがって

戦後の

“戦没者は無駄死”

とする風潮に強く反発されました。

そのことが

戦争を題材にした作品執筆の

原動力となったのでしょう。




海軍大将を描いた

「山本五十六」
「米内光政」
「井上成美」


の提督3部作は

伝記としても小説としても

読み応えのある作品です。




ちなみに

小説「米内光政」については

過去ブログ「ジパング2」で

紹介させていただきました。


▼過去ブログ「ジパング2」(Link)






「私は右翼も左翼も嫌い」と語り

イデオロギーに囚われない

中庸のバランス感覚と

ユーモアを愛した人。





日本人は今



なぜ戦争に突き進み

敗戦に至ったか


戦後の復興とは何であったか


祖国とは何か



など

一個人として考えなければならない命題を

阿川さんの作品から

突きつけられていると思います。




ご冥福をお祈りいたします。







◎合掌

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