みんなの幼稚園

ひぶな幼稚園での子どもたちの様子
モンテッソーリ教育について紹介いたします。

『60周年記念ビデオ』

2019年12月21日 | 日常風景
おゆうぎ会で上映した『60周年記念ビデオ』について、沢山の方からお問い合わせをいただきました。

正式には、ノガミビデオさんのDVD・BLに収録されますのでそちらをご購入いただけたら幸いです。

ですが、卒園生から『卒園生のお友達にも観てもらいたい』等の嬉しい言葉を頂き、この度、試験的にYouTube(ユーチューブ)に動画を公開することにしました。

ただ、動画内で使用されている曲等の関係でいつまで公開出来るかは分かりませんので予めご了承ください。

曲を変更して作り直すことも考えましたが、

使われている曲は、

おゆうぎ会のオープニングでさくらさんが演奏した『朝ドラメドレー』の曲で園児や保護者の方にも馴染み良く、そして新しい時代という意味での今年の朝ドラ曲、

そして何より『故郷(ふるさと)』・・・『みんな幼稚園(ふるさと)』と繋げたくこだわって作成いたしましたので
今回はそのまま公開させて頂きます。

上映された動画には、写真の一般公開不可の園児さんもおりましたので今回は一部写真を変更しております。(ノガミビデオさんのDVD・BLはそのまま)

それでは、今一度おゆうぎ会を思い出しながらご家庭で楽しんで頂けたら幸いです。
そして、もしよかったらお知り合いの卒園生にご紹介いただけたらと思います。

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お誕生会12月

2019年12月20日 | お誕生会
『もういくつ寝ると~ クリスマス~♪』
なんて、ご機嫌で廊下を歩いて行く園児がおりました♪

気が付けばもう少しで令和元年が終わりますね。
本日は今年度9回目のお誕生会。
妹の御挨拶を支える微笑ましい姿も見られました。





 

おもちつき

2019年12月13日 | 日常風景
年長さんにもなればもう何回目? と張り切る園児も見受けられますが、今年入った園児さんの中には緊張気味の子も。

もち米を炊き、すりつぶし、突く!!

歳の数だけクラス皆で突いてお雑煮にして美味しく食べました♪




 

『子ども達に生かされた私の三つの青春』(8)第三の青春 ①モンテッソーリとの出会い2

2019年12月12日 | キミヱ先生
8)第三の青春 ①モンテッソーリとの出会い2

モンテッソーリ教具のもつ内容の奥の深さと素晴らしさ。
松本先生及び2人の助手の先生の見事な手順と手さばき。
無駄のない一連の洗練された動作は品格を備えることを悟らせてくれました。

息を飲む思いの3日間の講習会、松本先生のご指導を直下にいただけることは夢のまた夢、これこそ神の恵みでありました。

この講習会を機に全職員が立ち上がりました。
各自の押入れの中から贈答品の数々取り出し、日常生活の練習のために用具を揃え、一応お盆にセットしました。。
少しずつ教材が出来上がると皆で喜び合いました。

理事長先生や鈴木先生は、教具棚づくりに専念し、春休みの幼稚園は俄かに沸き立ちました。

何もなかった保育室にはヨーロッパから買い求めてきたモンテッソーリ感覚教具と、日常生活の練習のためのの家庭用品が棚に並べられて俄か作りの環境整備ではありましたが、一クラス分の子ども達が自由に関われる教材らしき物を備えたのです。

その後、全クラス分の教具づくりにただ夢中でした。
市内を2~3人で組んで歩き回り、子どもが使いやすいような茶器、お盆、バケツ、水差し等々探し求めるのも一つの楽しみでした。

お土産を頂いても中身より外箱の小さな綺麗な箱や器の方が大事に思えたのです。
職員一同が心を一つにして、その目的に向かって猛進することが出来ると言うことはかつてないことでした。
これはまさにモンテッソーリ教育のおりなす魅力に他なりません。
職員一同教師冥利に尽きました。

松本先生は、釧路での私達の講習会を最後に再びイタリア、オランダ、アメリカへ渡られ、3年間の勉強に励まれたのです。
私達にとりましてはこの講習会はまたとない貴重なチャンスで、幸運というよりほかにありません。
本当にありがたい3日間講習会でありました。

昭和50年、モンテッソーリトレーナーの資格を取得されて帰国された松本先生は、「東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンター」を創設され、所長となられました。

先生のご帰国を待ちわびていた私は、昭和52年、その3期生として入学することが出来ました。
松本先生から「入学することは出来ますが、出ることは大変ですよ」と言われました。

当時は60歳でしたが「今より若いときは無い」と思って入学を決意し1年間のトレーニングに精魂を打ち込みました。
辛い苦しい時もありましたが、何年か後になったら「あの時は若かったなぁ」と来る時が来ると思って頑張りました。

そして今、その時が来て「よくやったなあ」「やっていてよかったなぁ」とひしひしと思うのです。
同じ目的に向かって勉強した仲間達、講師陣懐かしく尊い1年間でありました。


≪写真≫ 学校から徒歩40分のところに宿を借りて。
22年後、孫の一宏先生の同じ道を通り通学することに。

 


『子ども達に生かされた私の三つの青春』(8)第三の青春①モンテッソーリとの出会い1

2019年12月11日 | キミヱ先生
(8)第三の青春 ①モンテッソーリ教育との出会い1

モンテッソーリの「子どもの家」は自由な雰囲気の中で、子どもの一人ひとりの持つ素晴らしい諸能力を引出し発達させる、子ども達が主人公の場です。

「子どもの家」にはモンテッソーリ教育の理論に基づく大変ユニークな教具や教材が整備されています。 
各教具は、子ども達の発達を系統的に促すように組まれており、これらの教具類との関わりによって、物を識別する訓練や知的判断が身に付き、更に自立する為の意志力や忍耐力が養われます。

また、3歳~6歳の縦割りクラスの編成は、子ども達にいたわりや励まし、優しさの気持ちを育て、大切な幼児期に人格の基礎を形成します。

このように「子どもの家」の特徴は、望ましい人間形成を目指し、子ども達が自立していく力を育てるために、自主的に行動出来る教育環境と言えます。

今、地球上には「モンテッソーリの学校」あるいは「子どもの家」と呼ばれる学校が沢山出来て、活発に活動していきます。

イタリア初の女性医学博士・マリア・モンテソーリがこの教育法を創ったのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、医者として精薄児の教育に携わり、子どもの特質をありのまま観察することで、普通児にも劣らない能力を発揮させる指導法を発見し、普通児にも適応して大きな効果を上げ、現在ではアメリカ・ヨーロッパを中心に一般の幼児教育にも取り入れられているというのであります。

このことを呼んだ私は、「我が意を得たり」とばかり歓喜と自信と勇気が湧き起こりました。
そんな教育法をと希っていた私は、先ず現場を見学させてもらいたいものと思っていた矢先、古田征一郎先生を団長とする全国欧州幼児教育研究視察団40名の募集が有りました。

これぞとばかり理事長共々応募してイタリアに飛びました。
昭和46年12月、冬休みのことでした。

尚、この年の10月、佐藤内閣、沖縄返還の嬉しい年でもありました。

大変ありがたいことに、ペルージアで松本静子先生の通訳のもとに、モンテッソーリの愛弟子、パオリーニ先生の説明を受けることが出来たのです。
更に附設する「子どもの家」を見学、素晴らしい教材教具と教具の持つ内容に驚嘆したのです。

整備された環境なのかで、のびのび作業している子ども達の顔は実に美しく明るく見えました。
更にスイス・フランス・西ドイツ・オランダ・イギリスに於けるモンテッソーリ教育を視察して反省させられた事は、自由と規律のバランスが上手に守られて、子ども主体の教育が行われていることでした。

教材教具は子どもサイズに、色も美しく魅力的で、自立しようとする子ども達の楽しい世界でありました。

私は、早速これの導入について考えました、
何と言っても松本先生に導入初歩の段階と、教具の基本の取り扱いをお願いしたいと思いました。
帰国途中の飛行機の中で、先生にすがる思いで釧路での講習会開催を懇願いたしました。
先生はご多忙の中を快くお引き受け下さいまして、その2か月後の卒業式直後の3日間をそれにあてて下さいました。




 
 

『子ども達に生かされた私の三つの青春』(7)第二の青春②

2019年12月10日 | キミヱ先生
(7)第二の青春②

私の両親は鹿児島人で、NHKドラマ「翔ぶが如く」に出てくる西郷家の様に典型的な薩摩隼人で、母か優しく忍耐強く、信仰心の厚い人で、何事も善意に解釈する人でした。

父は人情家で正義感にあふれ、勇猛果敢な人でしたか、北の大地に夢見て明治33年渡道したのです。
当時は交通の便も悪く、小舟で70日を要して着いた処が厚岸港だったそうです。

私はそんな両親の血を受け継いだのでしょうか、あまり苦労を苦にしませんでした。
むしろそれを乗り越える意気込みが強かったのかもしれません。

先生方も良く働いてくれました。
幼稚園は初めてと言う方ばかりでしたが、お互いに夢中で頑張り通しました。
この頃長男は大学、次男は高校、次は中学、末っ子は小学4年生でしたからもう一人前、私の両手両足になってよく働いてくれました。

昭和35年、誰もが安保改定に反対した年、岸内閣は強引に国会を通過させたのです。
社会党は浅沼稲次郎を委員長に闘争が繰り広げられ、そして人気政治家「ヌマ」さんが10月に刺殺されたのです。
第29回総選挙に備えた三党首の立会演説会の出来事でした。

強引な岸内閣は遂に総辞職、次に登場したのが池田内閣、騒然と混乱の中で、小学校内の雰囲気も複雑、疲れて帰宅した夫は、こんなことを言いました。
「母さんを見ていると実に楽しそうだなぁ 生き生きしていて水を得た魚の様だ」と、ほめたり羨ましんだりしたものです。

私は当時43歳、やりたいと思う仕事の念願が叶えられ、その喜びは疲れなど忘れさせてくれました。
私は二度目の青春を迎えて、55名の子ども達と途中(9月)からの出発でしたが、1年間のスケジュールを全部こなすことが出来ました。

そして、一回目の卒園生、23名を小学校に送る事が出来ました。
翌年から入園児は地域の方々の幼児教育に対する関心が深まり、ご理解とご支援のもとに順調に伸び、38年には2学級の増築となりました。

この頃第二次池田内閣が成立。
安保が済んで国民はともかくホッとしました。
テレビが1000万台を突破したのに対し、ラジオは1000万台を割る後退振り、豊かになるかもしれないという期待感が生まれた一方、所得倍増をスローガンの産業界は、国際競争力を増すために石炭から石油にエネルギーの転換を行い、三池労組の闘争が始めりました。

昭和38年には鶴見の電車転覆事故、三池の炭塵爆発と大事故の続いた晩秋、ケネディ大統領の暗殺の報道が世界を驚かせ、また遠い世界はテレビによって近い物になりました。

昭和39年は第18回オリンピック東京大会で明け暮れた1年、国鉄新幹線が走り、高速自動車道開通し、日本の外装は生まれ変わりました。

昭和40年秋、近代日本の様子や子ども達を視察見学のため、開園5周年記念行事の一環として職員一同上京し、5日間の研修を収めることが出来ました。

昭和43年春には、次男の大学卒業と共に、自らの希望で幼稚園勤務となり更に1学級増設し、5学級編成の認可を得るまでに成長発展することが出来ました。

この頃、テレビ視聴のあり方が問題視され、学校放送研究会などが発足し、視聴覚教育研究会が生まれ、本園でも全道大会の公開保育を行ったり、札幌、旭川へと研究発表に出かけたりしたものです。



園庭に植える「おんこの木」を運ぶ


 


『子ども達に生かされた私の三つの青春』(7)第二の青春①

2019年12月08日 | キミヱ先生

(7)第二の青春①

真新しい建材がトラックで運ばれ、土台が出来て丸太が組み立てられ、少しずつ幼稚園らしい様相になって来ました。

そんな作業場の一角に、机と椅子を置いての園児募集が始まりました。

 

『鈴木さんて度胸のいい人だ。前は湖、後は丘陵、家も建たず子どももいない。経営が成り立っていくのだろうか』と心配されました。

 

けれども私は思うのです。

大自然こそ偉大なる教育者であると。

春夏秋冬の移り変わり、自然の法則のもとに生かされている人間社会の営み。

人の力などしれたものです。

 

孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教えにもあります。

 

広い青空に白い雲、湖面にあそぶ母子の水鳥、葦草にさえずり渡る小鳥たち、湖畔を走る石炭列車、うたあり絵あり、おとぎの世界が広がります。

この自然との関わりを求めてこの地を選んだ私でしたから、他人の心配をよそに、再び第二の青春が私の全身を躍動させました。

 

9月1日、第一回入園式を行いました。

39名でしたが、その後少しずつ増えて55名となりました。

 

「ひぶなの子どもは、元気でやさしく、かしこい子ども」を目標に、知情意の調和のとれた教育を計りました。

園歌は創立の由来を大切にして、「みんなの幼稚園」と題して作りました。

 

園服は、綺麗な黄色に染めてもらい作りました。

当時園服といえば、緑か紺系といった大人の色でしたから、黄色は反響を呼びました。

また、その頃「黄色いカラス」という映画が話題を呼んだのです。

家庭に安らぎを持たない幼児が、黄色いカラスを描いたと言う内容のものでしたから、「鈴木さんはどうしてあんな色を」と驚くのも無理は有りませんでした。

が、私にはとても可愛らしく新鮮な色にうつりました。

 

それから2年後、昭和37年、交通安全色として黄色は庶民から愛される色になりました。

 

※孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教え

《「古烈女伝」母儀・鄒孟軻母から》孟子の母は、はじめ墓場のそばに住んでいたが、孟子が葬式のまねばかりしているので、市場近くに転居した。ところが今度は孟子が商人の駆け引きをまねるので、学校のそばに転居した。すると礼儀作法をまねるようになったので、これこそ教育に最適の場所だとして定住したという故事。教育には環境が大切であるという教え。また、教育熱心な母親のたとえ。三遷の教え。 

 

 

 

『子ども達に生かされた私の三つの青春』(6)ひぶな幼稚園創設にあたって (2)

2019年12月07日 | キミヱ先生

(6)ひぶな幼稚園創設にあたって (2)

★生みの苦しみ(その2)園舎の建立

さて園舎を建てたくてもお金はもう残っていません。土地を抵当に銀行の融資を受けるとしても安価な土地と実績の無い私共には大金を貸してくれるわけがありません。


これまで幼稚園の設立と言えば、寺院・協会・大手会社の附設が多く、後ろには援助の柱が有りました。

私共のように後押しの無い全くの個人立は珍しく、巨額の建築資金の調達は苦悩の至りでした。


当時、夫は朝日小学校の教頭でしたので、PTA商店街の方々のお知恵を頂き、定年退職金を抵当に入れました。

大工さんに見積もってもらいますと、湿地帯のため、土台作りに倍を要すること、それに当時、周囲の家は井戸水を使用していましたので、遠距離の水道管を通すために思いのほか費用がかかることがわかりました。


未開の土地を切り開いて行くことは、野望と言うか無謀と言うか、大変な事業でありました。

ありがたいことに、この悩みを救ってくれたのが20年前の小学校教諭時代の教え子とその保護者の方々でした。

そして又、2年余りの僅かな勤務だったにもかかわらず、明照幼稚園の園長先生をはじめ、PTAの温かいご支援が有りました。

奉加帳を作って町内を廻って下さった志家の方もいられました。

幼馴染の友人たちは無尽をこしらえ、かわるがわる落札して応援してくださったのです。


知人の中のお一人は、早くにご主人を亡くされた後、裁縫一筋に貯えた大金を、そっくりお貸しくださったのです。感激で涙が止まりませんでした。


こうして、無期限無利子の貴重な基金を頂いて、昭和35年6月1日、約束の3分の一の建設資金を大工さんに確かと手渡すことが出来たのです。


翌日、大型トラックが往来し、砂、砂利等が次々と運搬され、シャラシャラ、ジャリジャリ、ガラガラと、荷台から勢いよく降ろされた時のあの感激、私はこの時、お金の力というものをしみじみ感じたのです。

と、同時に、何も持たない私共に、海のものとも山のものともつかないこの事業に、信頼だけで大金を投じてくださった方々にお礼の言葉が見つかりませんでした。


こうして昭和35年9月1日 園舎の誕生を見たのです。


 

第60回 たのしいおゆうぎ会。

2019年12月02日 | 日常風景

第60回 たのしいおゆうぎ会。

 

今年は60周年記念としまして、最後に合唱が組み込まれました。

子ども達の歌声は、私たちの心の奥の深いところまで届くような気がいたしますね。

 

さて、、、

最初のご挨拶では大変失礼いたしました。

さくらさんの鼓隊の感動をぐっと堪えて登場したつもりが、

会場から、『おはようございます』、『どういたしまして』と返事が帰って来て、

何だか嬉しくなって緊張の糸がほぐれてほっとしてしまいました。。。。

(誰だったのかな・・・ お分かりになる方がおりましたらお知らせください♪)

 

子ども達の頑張りと皆様のご協力、そしてばなどっとの関係者様、先生たちも指導や準備にとても頑張ってくれました。

いつも陰で支えてくれるバスの運転手さん、実習の先生、

更には、開園に携わりそして60年間支えてくださった方々。

 

全ての皆様のおかげで、第60回のおゆうぎ会を迎え、無事終えたことに心から感謝申し上げたいと思います。

 

 

おゆうぎ会で流れた60周年記念の映像は、ノガミビデオさんのおゆうぎ会DVD・BLに収録予定となっております。

 

 

 

 


お誕生会11月

2019年11月29日 | お誕生会

11月のお誕生会はちょっと少な目の14名。

おゆうぎ会が終わって少し舞台慣れしたかな? 

それとこれは別でしょうか(^^)