正式には、ノガミビデオさんのDVD・BLに収録されますのでそちらをご購入いただけたら幸いです。
ですが、卒園生から『卒園生のお友達にも観てもらいたい』等の嬉しい言葉を頂き、この度、試験的にYouTube(ユーチューブ)に動画を公開することにしました。
ただ、動画内で使用されている曲等の関係でいつまで公開出来るかは分かりませんので予めご了承ください。
曲を変更して作り直すことも考えましたが、
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(7)第二の青春①
真新しい建材がトラックで運ばれ、土台が出来て丸太が組み立てられ、少しずつ幼稚園らしい様相になって来ました。
そんな作業場の一角に、机と椅子を置いての園児募集が始まりました。
『鈴木さんて度胸のいい人だ。前は湖、後は丘陵、家も建たず子どももいない。経営が成り立っていくのだろうか』と心配されました。
けれども私は思うのです。
大自然こそ偉大なる教育者であると。
春夏秋冬の移り変わり、自然の法則のもとに生かされている人間社会の営み。
人の力などしれたものです。
孟母(もうぼ)三遷(さんせん)の教えにもあります。
広い青空に白い雲、湖面にあそぶ母子の水鳥、葦草にさえずり渡る小鳥たち、湖畔を走る石炭列車、うたあり絵あり、おとぎの世界が広がります。
この自然との関わりを求めてこの地を選んだ私でしたから、他人の心配をよそに、再び第二の青春が私の全身を躍動させました。
9月1日、第一回入園式を行いました。
39名でしたが、その後少しずつ増えて55名となりました。
「ひぶなの子どもは、元気でやさしく、かしこい子ども」を目標に、知情意の調和のとれた教育を計りました。
園歌は創立の由来を大切にして、「みんなの幼稚園」と題して作りました。
園服は、綺麗な黄色に染めてもらい作りました。
当時園服といえば、緑か紺系といった大人の色でしたから、黄色は反響を呼びました。
また、その頃「黄色いカラス」という映画が話題を呼んだのです。
家庭に安らぎを持たない幼児が、黄色いカラスを描いたと言う内容のものでしたから、「鈴木さんはどうしてあんな色を」と驚くのも無理は有りませんでした。
が、私にはとても可愛らしく新鮮な色にうつりました。
それから2年後、昭和37年、交通安全色として黄色は庶民から愛される色になりました。
《「古烈女伝」母儀・鄒孟軻母から》孟子の母は、はじめ墓場のそばに住んでいたが、孟子が葬式のまねばかりしているので、市場近くに転居した。ところが今度は孟子が商人の駆け引きをまねるので、学校のそばに転居した。すると礼儀作法をまねるようになったので、これこそ教育に最適の場所だとして定住したという故事。教育には環境が大切であるという教え。また、教育熱心な母親のたとえ。三遷の教え。
(6)ひぶな幼稚園創設にあたって (2)
★生みの苦しみ(その2)園舎の建立
さて園舎を建てたくてもお金はもう残っていません。土地を抵当に銀行の融資を受けるとしても安価な土地と実績の無い私共には大金を貸してくれるわけがありません。
これまで幼稚園の設立と言えば、寺院・協会・大手会社の附設が多く、後ろには援助の柱が有りました。
私共のように後押しの無い全くの個人立は珍しく、巨額の建築資金の調達は苦悩の至りでした。
当時、夫は朝日小学校の教頭でしたので、PTA商店街の方々のお知恵を頂き、定年退職金を抵当に入れました。
大工さんに見積もってもらいますと、湿地帯のため、土台作りに倍を要すること、それに当時、周囲の家は井戸水を使用していましたので、遠距離の水道管を通すために思いのほか費用がかかることがわかりました。
未開の土地を切り開いて行くことは、野望と言うか無謀と言うか、大変な事業でありました。
ありがたいことに、この悩みを救ってくれたのが20年前の小学校教諭時代の教え子とその保護者の方々でした。
そして又、2年余りの僅かな勤務だったにもかかわらず、明照幼稚園の園長先生をはじめ、PTAの温かいご支援が有りました。
奉加帳を作って町内を廻って下さった篤志家の方もいられました。
幼馴染の友人たちは無尽をこしらえ、かわるがわる落札して応援してくださったのです。
知人の中のお一人は、早くにご主人を亡くされた後、裁縫一筋に貯えた大金を、そっくりお貸しくださったのです。感激で涙が止まりませんでした。
こうして、無期限無利子の貴重な基金を頂いて、昭和35年6月1日、約束の3分の一の建設資金を大工さんに確かと手渡すことが出来たのです。
翌日、大型トラックが往来し、砂、砂利等が次々と運搬され、シャラシャラ、ジャリジャリ、ガラガラと、荷台から勢いよく降ろされた時のあの感激、私はこの時、お金の力というものをしみじみ感じたのです。
と、同時に、何も持たない私共に、海のものとも山のものともつかないこの事業に、信頼だけで大金を投じてくださった方々にお礼の言葉が見つかりませんでした。
こうして昭和35年9月1日 園舎の誕生を見たのです。
第60回 たのしいおゆうぎ会。
今年は60周年記念としまして、最後に合唱が組み込まれました。
子ども達の歌声は、私たちの心の奥の深いところまで届くような気がいたしますね。
さて、、、
最初のご挨拶では大変失礼いたしました。
さくらさんの鼓隊の感動をぐっと堪えて登場したつもりが、
会場から、『おはようございます』、『どういたしまして』と返事が帰って来て、
何だか嬉しくなって緊張の糸がほぐれてほっとしてしまいました。。。。
(誰だったのかな・・・ お分かりになる方がおりましたらお知らせください♪)
子ども達の頑張りと皆様のご協力、そしてばなどっとの関係者様、先生たちも指導や準備にとても頑張ってくれました。
いつも陰で支えてくれるバスの運転手さん、実習の先生、
更には、開園に携わりそして60年間支えてくださった方々。
全ての皆様のおかげで、第60回のおゆうぎ会を迎え、無事終えたことに心から感謝申し上げたいと思います。
おゆうぎ会で流れた60周年記念の映像は、ノガミビデオさんのおゆうぎ会DVD・BLに収録予定となっております。