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『自分の命を安売りするのは小さな命たちに失礼です』

2018-02-20 08:41:39 | お話
『自分の命を安売りするのは小さな命たちに失礼です』


たとえば「今日は忙しいから晩ご飯は98円のインスタントラーメンで」と思ったとします。

夜8時にそれを食べ、翌朝6時まで何も食べないとすると、

その人は10時間をその98円のインスタントラーメンで生きたことになります。

1時間あたりで表現すると「980銭の命」ということです。

私はそれは、とんでもない「安売りの人生」だと思います。

そんな食生活ばかりしていると、「自分はこの程度だ」
と思って、いい出会いはできません。

自分の命を安売りするようなことはしてはいけません。


食べる時の雰囲気も大事です。

たとえば大嫌いな人を前に、裸電球1個の薄暗い、変な匂いのする地下室で、

器もテーブルクロスも汚れ、BGMはレクイエム(鎮魂歌)。

とても快適とはいえないそんな雰囲気では、

どんなに最高のお米や野菜を食べても、おいしさは感じられないでしょう。

逆に、とても景色がよく、素敵な香りやおしゃれなテーブルクロスや器に囲まれ、

憧れの人や愛する人と一緒に食事ができたら、

誰もが最高の幸せを感じることができるでしょう。

「あ~幸せ」

「あ~おいしい」

と感謝しながら食べる。

それが健康にとって、とても大事なのです。


皆さんが赤身のマグロを3切れ食べたとします。

そのマグロは、この世に存在するために、エサであるイワシを1000匹食べます。

そのイワシ1000匹がこの世に存在するために食べるアミエビは5億匹。

その5億匹のアミエビがこの世に存在するために食べるプランクトンは50兆。

さらにそのプランクトンが存在するために、

たくさんの海水や太陽、空気が関わっています。

でもその3切れのマグロを食べることで、皆さんが生きることができる時間は、

栄養学的に言えば、たったの20分です。

言い換えれば、自然界はそれらを通して私たちが生きることを許してくれているのです。

私たちがちゃんと生きられるよう、多くのイワシやアミエビ、プランクトン、

雨さん、風さん、土さん、

みんなが応援して「私」を生かしているのです。

それはなぜかというと、

「私」がこの世に存在しなきゃいけない、

かけがえのない大切な存在だからです。

だから、それぞれが自分たちの命を投げ出し、

「私」を生かしてくれているのです。

それなのに、皆さん自身が

「どうせ自分なんて」

と安売りしてしまうのは、

自然に対して、とても失礼だと思います。

命を投げ出してくれた小さな命に対して
失礼のないように調理し、
失礼のないように食べ、
失礼のないように生きる。

これが、私たちが食べるということ、生きるということだと私は思っているんですね。


(「みやざき中央新聞」H30.2.12 自然食料理人 船越康弘さんより)

🍀遠くへ行きたいなら🍀

2018-02-19 08:43:51 | お話
🍀遠くへ行きたいなら🍀


アフリカのある国の諺に、

「早く行きたいなら1人で行け。遠くへ行きたいなら一緒に行け」

という言葉があります。

急ぐ時には、数人で連れ立って行くよりも、

1人でサッサと歩いた方が早く着き、

遠くへ行くには、自然環境が厳しいアフリカでは、皆で助け合ったほうが確実に目的地へ着くことがでたのでしょう。

仕事を進める際にも、同じことがいえます。

会社や団体の方針に則って年度目標を策定し、そこを目指す場合、

皆で協力し、能力や個性を補い合いながら進むことで、

より確実に成果を上げることができます。

反対に、急いで対処しなければならない事態に直面すれば、

皆の意見をまとめるより、責任者の判断で切り抜けなければならないこともあります。

1人で行うか、協力して行うか、どちらが良いかというのは、

その時その場に応じて変化するものです。

職場におけるリーダーには、常にその見極めが求められると心得ておきましょう。


(「職場の教養」3月号より)

🌸ビューティ可理子プロデュース🌸12(番外編)

2018-02-18 13:50:42 | ダイエット
🌸ビューティ可理子プロデュース🌸12(番外編)


タバコの効果🌸

ガンのことは、普通に知っとると思うけど、

その他で、知らんかったら、マズイと思うことがあるので、

教えておきます。😊🎵


タバコは、霊的な成長を遅らせます。
(「高次元科学」という本📖に書いてある)

斎藤ひとりさんは、神ごと(神様のお手伝い)をやる人は、
タバコをやめてくださいと、いっています。😊

また、

タバコ🚬を吸うことは、昔はカッコよかった。

でも、今は、吸わない方が、

クールでカッコいい。😊💕


以上です。

🌸🌸ラグビー🏉の神様に導かれて🌸🌸

2018-02-18 10:32:44 | お話
🌸🌸ラグビー🏉の神様に導かれて🌸🌸


(坂田さんは現役時代、「世界のサカタ」「空飛ぶウイング」の異名を取り、2012年に東洋人として初めてラグビー殿堂入りを果たされましたね)

坂田、ラグビーと共に人生を歩んできた私にとって殿堂入りは大変名誉なことであり、心から感謝しています。

実は最初、IRB(国際ラグビーボード)の方からメールがきたんですけど、その時は、よく分からなかったんです。

で、読んでいくと「Hall of Fame」と書いてある。

そこで初めてラグビー殿堂というものがあることを知りました。

歴史を調べたら、びっくりしましたよ。

ラグビーの考案者であるウィリアム・ウェッブ・エリスと、ラグビーが生まれたパブリックスクールのラグビー校が第一号で、

その次は近代オリンピックの創設者でラグビーのレフリーだったピエール・ド・クーベルタン。

(錚々(そうそう)たる人たちが名を連ねていたと)

坂田、私は51人目の殿堂入りだったんですけど、

そもそも東洋の国の選手が選ばれるというのは考えられないことで、

ワールドカップ最多優勝のニュージーランドをはじめオーストラリア、南アフリカ共和国、イングランドなどの競合と違って、

選考の土俵にさえ乗らないと思っていました。

でも、非常に平等に見てくれて、

私が1969年版ニュージーランドラグビー年鑑で

「ファイブプレイヤーズ・オブ・ザ・イヤー」に輝いたことや、

ニュージーランドで最も強いカンタベリー州代表に選出されたことなど、

その活躍をきちんと評価してくれたっていうのはありがたかったですね。


(来年はいよいよ日本で初めてワールドカップが開催されますが、坂田さんは日本ラグビーフットボール協会の副会長として、どんなことに力を注いでいますか?)

坂田、当然ワールドカップ自体を成功させたいと思っていますけど、
大事なのはレガシー(遺産)、
ワールドカップが終わった後に何を残すか。

試合の結果だけ残しても、2〜3年経てば風化してしまう。

そうではなくて、日本ラグビーの発展に寄与し続けるものを残していかならければならない。

(遠くを慮(おもんばか)りを持たれている)

坂田、そういう観点で私は1番願っているのは、日本にラグビー場を増やすことです。

今回のワールドカップは全国12会場で試合をするんですけど、

そのうちラグビー場は3ヶ所で、あとはサッカー日韓ワールドカップの時につくられた会場を借りてやるんですね。

2015年にイングランドで開催されたワールドカップで、日本が南アフリカに勝利して話題を呼んだでしょう。

あの後、ブームが起こりまして、ラグビーを始める子供たちが増えました。

2019年は全国各地で試合をしますから、あの時以上にラグビー人口が増えると思うんです。

ところが、それを受ける場所がなかったら、ラグビーをやりたくても他のスポーツに流れてしまう。

ですから、今は環境整備を一生懸命進めているところです。


(ラグビーの出逢いについて教えてください)

坂田、私は中学まで柔道に打ち込んでいて、京都府大会で個人戦準優勝と結構強かったんです。

いろいろな高校からスカウトを受け、普通だったらそのまま柔道続けていたと思うんですけど、

高校の合格発表の日に初めてラグビーを見たことがすべての始まりでした。

限られたスペースでやる柔道とは異なり、青空の下で広々とした校庭を思いっきり走って楕円球を追いかけている。

私は一瞬にしてラグビーの虜になり、その場で入部を申し出ました。

(合格発表の日にラグビー部に入ると決めた)

坂田、ええ。入部して1週間後に、先生から「明日試合をするぞ」って言われましてね(笑)。

ラグビーのルールも全く分からなかったんですけど、

「ボールを持ったら走る」

「ボールを持っている選手がいたら捕まえて倒す」、

この2つだけ教わって(笑)、そのとおりにやったんです。

相手は強豪の同志社大学の2軍でした。

いまも鮮明に覚えていますけど、試合中、味方の蹴ったボールが私のところにちょうど来たんですね。

で、とにかくボールを持って走りました。

そして、インゴールエリアにボールをタッチしたんです。

これが初めてのトライでした。

(忘れがたき人生初トライですね)

坂田、168センチと小柄だったものの、子供の頃から足が速く、

柔道のおかげで足腰を鍛えられていたので、向いていたのかもしれませんね。

そこからラグビー漬けの日々を過ごし、

洛北高校時代は京都府代表として3年連続全国大会と国体に出場しました。

同志社大学でも1年生からレギュラーを獲得し、

NHK杯(日本選手権の前身)で社会人王者の近鉄を下して日本一、3年生の時も同じく近鉄を破って日本選手権で優勝。

また、2年生の時から日本代表に選出されたんです。


(上達するためにどんなことを心がけてきましたか?)

坂田、大学時代は厳しい全体練習が毎日2〜3時間ほどあったんですけど、

2時間なら2時間、3時間から3時間を全力でやる。

終わった後、走るエネルギーも余っていないくらい全力を出し切る。

1日1日の練習をそうやって取り組んでいました。

それからもう一つ心がけていたのは、

練習を終えて帰宅する時に必ず玄関前でウェイトトレーニングをしてから家に入りましたね。

鉄棒にセメントを巻いてつくった30キロのバーベルを20回あげたり、

バーベルを背負ったままでうさぎ跳びを100回したり。

(プラスアルファの努力をされていたのですね)

坂田、グラウンドで精一杯力を出し切って、さらに自宅でウエートトレーニングをする。

これは誰に言われたわけでもなく、自分でやると決めて毎日欠かさず4年間継続しました。

また、後に世界と渡り合う上で大きな武器となるイン・アンド・アウトという技術を身につけたのも、この時期です。

(詳しくお聞かせください)

坂田、1年生の夏合宿で練習試合をした時、4年生のキャプテンをかわしながら突き飛ばしてトライしたんですね。

褒められてもらえるだろうと思ったら、監督に

「坂田、ウィングは真っ直ぐ走れって言ったやろう」

と怒られましてね。

普通に考えたら、そんなの不可能ですよ。

相手が次々と捕まえにきますから。

最初は「この監督、何を考えているんや」って思いました。

でも、監督のひと言を受けて、真っ直ぐ走ってトライするにはどうしたらいいかということを4年間考え続けたんです。

(自分自身の課題になった)

坂田、それで試行錯誤を重ねた末、3年生の時に、真っ直ぐ全速力で走っていきながらも、

相手と正面衝突する直前に、一瞬グッと内側に入ると見せかけて、

その反動で外側に一気に抜き去る技を編み出しました。

最終的には、もし相手が刀を持っていたら、

触れられるというのは斬られることだと思い、

相手に触れさせないで抜き切る技を習得したんです。

とにかく「ラグビーを極めたい」という強烈な思いを常に心に抱いていました。

小さい頃から読書が結構好きで、ラグビーを始めてからは吉川英治の『宮本武蔵』を何回も読みました。

宮本武蔵は剣の道を極めた達人じゃないですか。

なので、そこに共感したんでしょうね。

苦労をどう乗り切っていったのか、
弱点をどう克服していったのか、

ということが書いてあるので、壁にぶつかった時に読み返すと必ず解答がありました。

(その中で特に心に残っている言葉はありますか?)

坂田、例えば「寒流月を帯びて澄めること鏡の如し」。

吉岡一門との因縁の決闘に向かう時、もう自分はやれるだけのことはやったから恐れることはないと。

あと、「神仏を尊び神仏に頼らず」、自分を信じて戦うのみだと。

やるべきことをやり切った者だけが平常心、不動心で戦いに臨むことができるのであって、

やり残したことがあるとこういう心境には至れない。

人生のあらゆる戦いの場に通じる教えだと思います。

(大学卒業後は近鉄に入社されたそうですね)

坂田、10年間、近鉄ラクビー部に所属し、4度の日本一を味わい、

ラグビー王国ニュージーランドでもプレーしました。

日本代表の海外遠征でニュージーランドを訪れたのは1968年、25歳の時です。

強豪チームは超一流ホテルに泊まり、地元の警察が誘導してグランドに向かう一方で、

当時の日本代表はホテルすらあてがわれず、ホームステイでした(笑)。

それくらい差がったんですね。

全部で10試合組まれていたんですけど、

4連敗の後に連勝して迎えた第7戦、相手はオールブラックスJr (ニュージーランドUー23代表)。

世界最強のチームに、平均身長172センチ、平均体重72.5キロの小さなチームが挑んだわけです。

観客はもとより、ニュージーランド中の人がオールブラックスJrが負けるはずがないと思っていたでしょう。

ところが、なんと日本が勝ったんです。

(歴史的勝利を収めた)

坂田、私はその試合で4トライをあげたんですけど、

三つ目のトライのことは忘れもしません。

先ほどお話ししたイン・アンド・アウトで、相手に指一本触れさせることなく見事に抜き去ったんです。

普通はトライしたら歓声が湧くんですけど、その時はしーんと水を打ったように静まり返った。

で、自分のポジションまで戻ってひと息ついた途端、

うわーっと大歓声が湧き、がわき、スタンディングオベーションが起こったんです。


(ラグビー王国のファンも感動するほどのトライだったのですね)

坂田、それを含めて2試合で9トライ決めたことが評価され、冒頭申し上げたように、ニュージーランドの年間最優秀選手の1人になったんです。

本場で自分の力を試したいとの思いから、

翌年、半年間の無給休暇をとってニュージーランドの大学に単身留学しました。

(武者修行はいかがでしたか?)

坂田、やっぱり日本人として恥をかきたくないという思いが根底にありましたね。

言葉が通じない、話し相手が誰もいないストレスから夜中に時々胃痙攣を起こしたりもしましたが、

最終的には1シーズン27試合で30トライの新記録を叩き出し、

カンタベリー州代表に選ばれたんです。

そこで技術レベルはもちろん、人格的にも尊敬できるオールブラックスの選手たちと共に過ごせたことは、かけがえのない財産です。


現役を引退して2年ほど社会の業務に専念していましたが、

大阪体育大学からお誘いをいただきまして、1977年4月にラグビー部監督に就任しました。

以来、36年間もの長きにわだって選手と向き合い、

関西大学リーグを5回制覇しましたけど、行き着いた結論は、

「選手がいて監督がいる」ということですね。

(選手がいて監督がいる)

坂田、つまり、プレーする選手がいなかったら監督なんか必要ないわけで、監督は決して偉くない。

だから、目線は選手と一緒じゃなきゃいけない。

とはいえ、最初は監督がいてこそチームがあると思って、選手を抑さえつけるところからスタートしましたけど(笑)。

(何か天気があったのですか?)

坂田、あれは5年目でした。試合中にうちの選手がグランドで頭から血を流して倒れた時、

「放り出せ」って言ったんですね。

それは選手を入れ替えるという意味で、

当時は当たり前のように使われていて、私も全く違和感なく使っていました。

それを横で聞いていた親しい新聞記者が怒こったんです。

「自分のチームの選手が倒れているのに、なんてこと言うんや」

って。

最初は何を言われているのか分からなかったんですけど、

ちょうど同じ頃、比叡山の千日回峰行を満行された光永澄道阿闍梨がこうおっしゃったんです。

「坂田さん、私はこの頃、掃除の仕方を忘れました。

時々掃除をしないとだめですね」

位の高いお坊さんも小僧の時は自分で掃除をしていた。

それが偉くなるにつれて自分ではやらなくなる。

しかし、自分でやってみて初めてわかることがたくさんあるから、

初心に帰らなければならないと。

その時に、自分の現役時代を思い出して、2つの言葉が同じ意味だとわかりました。

(新聞記者の方と光永阿闍梨の言葉が重なり合ったのですね)

坂田、「ああ、そうや。やっているのは選手や。

痛いのも苦しいのも選手だ。
その気持ちを指導者が理解しないとあかん」。

そこから私の指導法や言葉遣いは変わり、チームも変わっていきましたね。

それまでは、「ああせい、こうせい」って選手に押しつけてきたんですけど、

「自分たちでメニューを立てるように」

と言うようになりました。

同じ練習メニューをやるにしても、やらされてやるのと、自分たちで決めてやるのとでは、天と地ほど大きな違いでしたね。

(やらされている意識ではどんなに練習しても成長せず、主体的に取り組んでこそ飛躍すると)

坂田、その結果、9年目の年に、当時関西大学リーグ戦71連勝、大学選手権3連覇を記録していた同志社大学に勝利し、初のリーグ優勝に輝きました。

実はこの時、同志社を崩せるはずがないと思っていたんです。

無理して戦わなくても、3位に入れば大学選手権の資格が得られるから2位を目指そうと。

ところが、選手たちが「勝たなあかん」と言い始めたんです。

で、迎えた試合当日、2年生のある選手が下級生に自分の顔写真を撮らせている。

その理由を聞いて、私は衝撃を受けました。

「きょうこの試合で自分が死ぬか分からない。これは形見の写真です」

と。

(鬼気迫る覚悟を感じます)

坂田、彼だけではなく、みんながそういう気持ちだったと思います。

私はただひと言、「行け!」と言って選手を送り出しました。

終わってみれば、34対8の圧勝です。

これはやっぱり5年目の転機がもたらした結果ですね。

監督の言うとおりに動くロボットをつくってもダメで、自ら本気で向かっていく選手を育てなければならない。

それには指導者の心が非常に大事だと思います。

(指導者の心が問われる)

坂田、選手は監督を見ています。

その監督が適当だったら絶対に弱いチームになりますよ。

監督はタバコを吸いながら、あるいは、腕を組んで高いところから見下ろしながら、

「ああせい、こうせい」

と言ったって、絶対に選手は信用しませんし、本気にはなりません。

だから、指導者に1番求められるのは「謙虚であれ」ということだと思います。


(監督として選手によく伝えていた言葉はありますか?)

坂田、その時々でいろいろな話をしましたけど、

よく言っていたのは

「Better than before」、

前よりもよくなろうということですね。

昨日よりもきょう、1分前よりもいま、

練習のたびに進歩しよう。

もし1日練習して、終わった時に何も進歩しなかったら、時間が無駄になってしまいますからね。

そのためには

「きょうはこういうプレーを上手になりたい」

という目標を持って取り組むことが大事だと伝えていました。

そういうことをグラウンドに集まった時、100人なら100人に同じことを言うわけですけど、

その言葉を受け止めるかどうかは最終的には本人次第です。

(そこが伸びる人と伸びない人の分かれ目であると)

坂田、そうですね。一つひとつの言葉を噛み砕いて自分のものにするのか、聞き流してしまうのか、その差ですね。


(これまでの坂田さんのお話を伺ってきて、まさにラグビーを我が使命として歩み続けてこられた人生ではないかと感じました)

坂田、使命だとかそういうことは何も意識してこなかったですけど、

いま振り返ると、高校の合格発表のあの日、もし雨が降っていたら校庭でラグビーを見ることはなく、そのまま柔道続けていたわけでしょう。

そう思うとラグビーの神様が導いてくださったのかもしれません。

(ああ、ラグビーの神様のお導きだと)

坂田、15歳の春にラグビーと出逢い、そこからただ一筋にラグビーをやってきてちょうど60年が経ちました。

選手としても監督としても活躍でき、ラグビー殿堂に顕彰されたのは、

やはりこの道を極めようという思いで1つのことに集中して打ち込んできたからでしょう。

何か別のことに3つも4つも手を出していたら、いずれも中途半端なまま終わっていたと思います。


私はラグビーのことしか知りませんが、ラクビーから多くのことを学びました。

「天 我が材を生ずる 必ず用あり」


というテーマをいただきましたけど、

私にとって「材」とはラグビーであり、「用」とは自分がラグビーを通じて得た指導哲学や、生きるヒントを、若い人たちに伝えていくとこと。

これからも、その用を果たすべく、精一杯力を出し切っていきたいですね。


(「致知」3月号 坂田好弘さんより)

すべてを肯定して生きる②

2018-02-17 07:11:43 | お話
すべてを肯定して生きる②


私の施設に入った直後、父と継母は離婚し、父はマンションに1人で暮らすようになりました。

それから1年半後のこと。

ちょうどクリスマスイブの1週間前、養護施設に父から電話がかかってきました。

しかし、長いこと親子の会話をしていないので、どうやって電話に出たらいいのかさえ分からないのです。

ものすごく緊張しながら受話器を握りましたが、

「もしもし」のひと言が言えません。

少し咳払いをすると、父も緊張したいたのか咳払いをし、話し始めました。

「悪かった。

許してもらおうとか、そんなんで電話したんじゃないねん。

ただ、ほんまに悪かったって、それだけ伝えたかったんや」

そういうと電話を切りました。

そして、その1週間後、父はお酒と強力な洗浄剤を一気に飲み自殺を図りました。

連絡を受け急いで病院に駆けつけるも、そこにいたのは私の知ってる父ではありませんでした。

ガリガリにやせ細り、全身管だらけ。

それから八ヶ月は生きましたが、42歳で最期を迎えました。

「何やってんねん。

ちゃんと名誉挽回して、あたしらに罪償いしてから死ななあかんやろ」

私は無責任にな父に腹が立って仕方ありませんでした。

一方、継母は父と離婚後、実の息子と2人で生活していました。

私は義弟が大好きで、何度か会いに行っていたため、その後も交流がありました。

ところが、義弟が結婚し家を出ると、継母の生活は再び荒れ、

お酒やパチンコに夢中になり、私や義弟に何度もお金を無心するようになったのです。

ある時、お酒を飲んでいた兄が許しを乞うてきたことがあります。

私は、

「過去のことは水に流して、若いんだから頑張らんと」

と元気づけましたが、暴力や虐待というのは、やられたほうよりも、やったほうが心に残り続けるのでしょう。

結局、継母は52歳で自宅の一室で孤独死していました。

私が37歳の時でした。


話は戻りますが、私が中学を卒業すると、全寮制食品工場に正社員として雇っていただき、社会人生活をスタートしました。

22歳で結婚し、4年間で3人の子供を授かりました。

1番下の長男はアスペルガー症候群という自閉症を抱え、小学校高学年頃まで、

いったんパニックになると手がつけられず、落ち着くまでに2時間はかかるような状態が続きました。

そんな中、主人の両親が要介護になり、主人の実家で暮らすことになったのです。

お舅は87歳で重度のアルツハイマー性。

日に何度も家を抜け出して迷子になり、迎えに行かなければなりませんでした。

80歳のお姑は腰を悪くして車椅子生活。

手術後の後遺症で自分で排尿できないので、私が毎回導尿しなければなりません。

しかし、口は達者で思ったことをすべて喋るため、介護生活は非常に大変でした。

みんなの朝食作りから1日が始まり、息子の送り迎えや家事をしながら2人の介護もする。

ストレスが溜まるばかりで、次第に私の顔から笑顔が消えていきました。

その頃、私は重度の「くれない病」に罹っていたのだと思います。

子供が言うことを聞いてくれない。

旦那は手伝ってくれない。

誰も分かってくれない。

本当はそんなことないのに、悲観的になると、すべてがマイナスになってしまうのです。

そして、くれない病の1番恐ろしいところは、感謝力が低下してしまうことです。

以前であれば素直に「ありがとう」と言っていたことでさえ、感謝できなくなってしまいました。

そんな状態の私に畳みかけるように災難は続きました。

いつものように徘徊していた舅がお昼過ぎに警察に発見されたので、

私は慌てて迎えに行きましたが、手続きに手間がかかり、

息子の迎えの時間に少し遅れてしまったのです。

息子は授業が終わり、玄関に降りてきたときに私がいないと大パニックを起こしてしまいますが、

その時も同様で、帰宅後も暴れ続けました。


加えて、その日は朝の洗い物も流しに山積みで、2回目の洗濯機は回したまま。

買い出しに行けてないのにもう夕方で、

私も精神的に参ってしまいました。

そこに、息子の喚き声に対して我慢の限界に達したお姑の一言です。

「いい加減にしろ! この子の口をどうにかせい!」

その瞬間、私の何かが壊れました。

泣き叫ぶ息子の鼻と口を押さえてしまったのです。

静かにして! という一心で、別に殺そうと思ったわけではありません。

でも、その時の息子は殺人犯でも見るような顔をしていました。

私はハッと我に返り、すぐに手を離しましたが、

もう耐えられませんでした。

夕食をつくらなければいけない時刻でしたが、

寝室に行き、布団を被って大声を出して泣きました。

泣けるだけ泣いて武長ないで、十分ほど泣き寝入りをしてしまったのだと思います。

気がつくと、長女が起こしにきてくれました。

本当は家から出て行ってしまいたい気持ちでしたが、

要介護の義父母と息子を置いて逃げるわけにもいかない。

そう思い、リビングに戻って私が真っ先にしたことは、

テーブルの下に隠れて震えていた息子を抱きかかえて、心から

「ごめんね」

と伝えることでした。


謝るという行為がどれほど威力を持っているのか、この時ほど痛感したことありません。

「ごめん」という一言に、息子よりも私自身がホッとしました。

もしこの一言が言えず、

「何か文句あるんか!」

と言ってしまっていたら、今の私はいないでしょう。

その時に学びました。

人は誰でも感情のコントロールが制御不能になり、

加害者になる可能性を持っているということを。

そこで本当に大事なのは、

心から謝罪して、許してもらうことです。


父や継母は、「ごめん」という、たった一言が言えず、

散々モノに当たり、

私たち子供にあたり、

そして最後は、自分に当たり散らして生涯を終えてしまいました。

人間ですからイライラすることもあります。

しんどくなる時もあります。

人に当たりたくなってしまうこともあるでしょう。

そんな時、これは神様が自分に何かを気づかせるために用意した出来事だと思い、

自分の感情を受けることが大事なのです。


2010年に私が児童虐待防止活動を始めたきっかけは、

いつでも心の支えだった小兄が白血病を患い、2年間の闘病の末に40歳で亡くなったことでした。

小兄は喋れる間に遺言をいっぱい残しました。

中でも、もし病気が治ったら、ボランティアでもいいから虐待に関する活動がしたいとの願いは特に覚えています。

入院中にテレビを見る度に、こんなにも豊かな時代に、親が子、子が親を殺す事件が後を絶たないことに心を痛めていたというのです。

小兄は思いを伝えきると、1週間後に亡くなりました。

私は号泣もできず、魂が抜けたような状態でしたが、小兄の

「虐待に関わる活動がしたい」

という思いが、私を立ち直らせ、亡骸に向かって「私がやるよ」と宣言していました。

私自身が親になり誰もが加害者になってしまう恐ろしさに気づかされたこともあって、

虐待までは至らなくても、日常のささいなイライラを軽減させたり、

感情をコントロールするお手伝いができないか。

そうした思いを基に、冒頭で紹介したアンガマネジメントの資格を始め、

様々な勉強して、講演活動を開始しました。


過去に起こった出来事は変えられませんが、

自分が今この活動するために起こったと思うと、辛い過去も財産になるでしょう。

虐待を生き抜いた私だから伝えられることを、全国を回ってお話ししています。

「何でそんなに明るいのですか」

と最近よく聞かれます。

過去の自分のよかったことを1つだけ挙げるとすれば、

立ち上がる力があったことだと思います。

私は自分のことをタンポポだと思っていますが、

踏まれて踏まれて、落ち込んだとしても、

何度でも立ち上がる。

人生には嫌なこと、悲しいこと、

腹が立つことなど、いくらでもあります。

その度に凹んでいてはダメ。

1番悲しい思いをしても、立ち上がる。

なにくそと自分を奮い立たせる。

その連続が人生です。

私は中卒ですから「学」はありません。

しかし、自信があります。

生きてきたという自信です。

よい学校に行くことだけが幸せではなく、

お天道様に堂々と胸を張って生きられることが1番幸せな人生だと思っています。

ですから私はいま最高に幸せです。

死ぬまでに、こんなにも生きている実感や、役に立つっているという感動を得られる仕事ができている人は、そう多くはないと思います。

私は父や継母、小兄など多くの人の死に直面し、

自分自身も死にそうになりながらも、いま生きています。

この二度とない人生、

天から与えられた命を大切にし過ぎて挑戦しない生き方は、もったいないと思います。


私は「命を使う」と表現していますが、

いつ死ぬかは誰にもわからない中で、自分の命を使って仕事する。

私の場合、自分の体験談をお話しすることで1人でも多くの人を笑顔にしようと活動してきました。

講演会の僅か1時間の出逢いでも、

「生きていく元気をもらえました」

「きょうから変わります」

といった感想を、毎回寄せていただいています。

それを読む度に、私は本当に使命を果たしながら生かされているのだと感謝の念が溢れ出てくるのです。

過去や現在に、どんなに辛いことがあったとしても、

未来には素晴らしい世界が広がっていることを、1人でも多くの方にお伝えしたい。

そのためにも、天が私に与えてくれた材を生かして、

自分の使命を果たし切りたいと思います。


(おわり)

(「致知」3月号 島田妙子さんより)