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すべてを肯定して生きる①

2018-02-16 08:40:48 | お話
すべてを肯定して生きる①


私は7歳の時から実父と継母から虐待を受けるようになり、

中学2年生で児童養護施設に保護されるまで、2度も命を落としかけました。

中学1年生の時には自ら命を断とうとしたこともあります。

それでもいま、私はこうして生きていて、児童虐待防止活動に取り組んでいることを思うと、

過去に起きたことは、すべて現在の活動のための出来事だったのではないかという気がしています。

ただ、辛い体験を乗り越えてきたと言う思いはありません。

「忘れたと」も違い、「横に置いてきた」と表現するのがふさわしいかもしれません。

先日、3年ぶりに自伝を読み返しましたが、それは「妙子ちゃん」の物語で、

自分自身のことではないような不思議な感覚でした。

私は講演などでよく、

「目の前のことを否定するのではなく、

すべて、いったん肯定して、受け入れる」

とお話ししています。

過去を否定しても、何も変わりません。

私自身、昨日までのことはもういいので、

今日から幸せになって行こうと、すべてを肯定し、受け入れながら生きてきました。

現在、児童虐待防止活動の他にも、日本アンガーマネジメント協会認定のコンサルタントも務め、

「自分の感情に責任を持つ」

ことの大切さを伝えています。

人間である限り怒りが生ずるのは当たり前で、大事なことはそれにどう対処するかです。

アンガマネジメントでは自分の感情を上手にコントロールするコツを学びます。

その代表例が「6秒ルール」です。

怒りが沸点に達すると、脳からアドレナリンが大量に分泌され暴力的になります。

その時に、深呼吸をしたり、たった6秒間待つだけで、

アドレナリン分泌がおさまり、冷静さを取り戻せるのです。

こうした誰でも簡単にできる知識を多くの人に広めることで、

被害者を救うだけどなく、加害者となって苦しんでいる人を救いたいと思い活動しています。

2010年から開始し、今では全国各地で年間100回以上講演するようになりました。


私の原点を探ると、4歳まで遡ります。

その年に両親が離婚し、私と2人の兄(大兄、小兄)は児童養護施設に預けられることになりました。

父は一緒に暮らす方法をずっと模索してくれたようで、

私が7歳のときに再婚すると、家族揃って暮らせるようになりました。

当時、継母は22歳。

最初は優しい人でしたが、お腹に父との子供を身ごもると次第に余裕を失い、

自分が産んだわけでもなく、年子で手のかかる年齢の私たちの世話が億劫になったのでしょう。

その年の冬、溜まりに溜まったストレスが爆発しました。

突然、継母が靴べらで私の二の腕を叩いたのです。

驚きのあまり声も出ず、叩かれたところをさすると、さする指をさらに力いっぱい叩かれ、出血しました。

理由が分からない上に、継母の顔つきがいつもと違うことが、ただ恐ろしく、私は涙が止まりませんでした。

後年聞いたところによると、継母は最初は謝ろうと思っていたようです。

しかし、私と目が合った瞬間、ビクッとしたのでしょう。

やっていけないことをやってしまった惨さや情けなさから、

継母の口から出てきたのは「ごめん」と言う一言ではなく、

「なんや、その目は!」

という自分を正当化させる言葉でした。

心が崩壊した瞬間です。

その日から、継母は毎日私たちを叩くようになりました。

そして必ず、「これは躾やで」と言い続けるようになりました。

食器を洗っていたら後から蹴飛ばされたり、

真冬でも自分たちの洗濯物を洗濯板で洗うのは当たり前。

一晩中寝かせてもらえない、食事を抜かれるというのはましなほうで、

タバコの火やアイロンの熱で何度も全身をあぶられました。

父と継母は絶えず喧嘩するようになり、

父の顔は次第に鬼の形相に変わって酒量も増えました。

そして継母からの「躾」が始まった1ヶ月後、

父からも暴力を受けるようになったのです。

包丁を握った父に追いかけられ命からがら逃げたこと、湯船に沈められて死にかけたことなどもあります。

それでも父の優しかった頃を知っているので、

いつか優しい父に戻ってくれるのではないかという願いと希望だけで耐え抜きました。

その思いがあったので、誰かに助けを求めることもしませんでした。

一軒家のベランダに裸で放り出されたり、常に大きな物音がしていたので、周囲の家には気づかれていたと思います。

しかし、当時はまだ虐待という言葉すらなく、通報する習慣もありませんでした。

そんな辛い日々の中で唯一支えとなったのは、小兄でした。

1人で虐待を受けていたら、とっくに死んでいたと思います。

何度も家出しましたし、中学1年生のときには自殺未遂もしました。

でもそれは、辛いから死ぬのではありません。

私が死んだら、親はやっと気づくのではないか。

見せしめのために遺書を書いて死んでやろう。

そういった気持ちです。

そんな私に小兄は、

「あと2年で中学を卒業し、家を出れるやんか」

と叱り、自殺を止めてくれました。

その頃の状況というのは、3人で親を殺すか、自分たちが死ぬか。

毎日どちらかの選択を迫られるが如く、生き地獄の日々でした。


転機が訪れたのは中学2年生の時。

マッハ先生というあだ名の27歳の若い女性が担任になり、

私の痣(あざ)や傷を心配し、常に注意して見てくださるようになったのです。

私はもう大人を信用していませんでしたので、絶対に何もしゃべらないと固く心に決め込んでいました。

それでも先生は

「何かあったら電話してくるんやで」

と、10円玉をくれるなど、見守ってくれました。

そんな5月のある日、事件は起こりました。

泥酔し帰宅した父に、私は初めて首を絞められ、意識を失いかけました。

大兄が父を突き飛ばして助けてくれたのですが、

それにカチンときた父は、そばにあったガラスの灰皿を持って大兄の頭を思いっきり殴ったのです。

大兄の頭からは血が溢れ出ていました。

暴力が表沙汰になることを恐れた父は、何と自宅にあった普通の針と木綿糸で、麻酔もなしに大兄の頭を縫い始めたのです。

父は完全に理性を失っていました。

その日の晩、大兄は父と継母の寝室の前で金属バット握りしめ、震えながら泣いていました。

大兄はもう中学を卒業していたので、次の日家を出ると、二度と戻ってくることはありませんでした。

私も小兄もこんな生活が嫌で嫌で仕方ありませんでしたが、

何事もなかったかのように学校に行くしかありません。

でも、その時はもう限界だったのでしょう。

私は絶対に誰も頼らないつもりでしたが、

学校から帰宅すると以前もらった10円玉を使って、マッハ先生に電話し打ち明けました。

学校に呼び出された父と継母は、虐待について饒舌に言い訳するばかり。

するとマッハ先生が、

「子供に暴力振ってるやろう!

言い訳は絶対に許さない。

親子で、もやったらあかんもんは、あかんのや!」

とはっきり言ってくださったのです。

生きるか死ぬか、そんな状況の中で、マッハ先生と出逢えたことは本当に奇跡でした。

その後、私は児童養護施設に保護されました。

中学2年生の5月から卒業までの2年間、そこで過ごせたことは本当にありがたいことでした。

今みたいに心のケアをしてくれるような環境は整っていませんでしたが、

布団で寝られる、ご飯が三食食べられる、

そして何よりも暴力を振るわれない。

普通の生活を送ることができる幸せを噛み締めました。


(つづく)

(「致知」3月号 島田妙子さんより)

体に語りかける③

2018-02-15 08:54:43 | 自分でできる健康維持
体に語りかける③


定年退職を機に、スポーツなどに執着して体をこわす人がいます。

とくに、その傾向が顕著に見られるのが男性です。

クリニックにも、リタイア後のスポーツにより体の不調を訴えてお越しになる方々も多いのです。

彼らに共通することは "ストレス" などないと思っていることです。

私が「何か気になることはないですか?

悩んでいる事はないですか?」

とたずねると、

「ストレスなんて、今は何もないですよ。

昔は仕事でストレスだらけでしたけどね。

今は毎日が日曜日ですよ」

と明るくおっしゃいます。

しかし、本当は何もないことが1番のストレスなのかもしれません。

無意識のうちに他人の目を気にして

「定年後も運動を続けて、元気で若々しいと思われたい」

年寄りはお荷物だと思われたくない」

などという気持ちから、運動などにがんばりすぎてしまうこともあるようです。


あるとき、70歳を過ぎたばかりの男性が、左股関節に痛みがあるといってやってきました。

階段を上り下りすると痛みが出るというのです。

話を聞くと、この男性は定年後、エイジシュート(自分の年齢よりも低いスコアを出すこと)を目的に、

毎日のようにゴルフ練習場に通いつめていました。

しかし、運動のしすぎか左股関節の痛みが出はじめ、

鍼灸治療で痛みを抑えながら調子がよくなると、またゴルフ練習に取り組んでいたのです。

披露骨折もしくは関節唇の損傷の疑いもあったのでMRIを撮ってみたところ、

左股関節の前方にある滑液(かつえき)を含む袋に炎症が起きていることがわかりました。

この症状は無理な力が加わるときに炎症が起こるものですが、医学的には悪いものではありません。

穿刺(せんし)で水を抜くこともできますが、

特に耐えられないほどの痛みでなければ、

とりあえず安静をとるという意味で、少しゴルフを休んではどうでしょうか、と提案しました。

私はひと通り医学的なことを話ししたあと、この男性にたずねました。

「ところで、どうして、そんなにいいスコアを出そうとがんばるのですか?

ご自分でもゴルフのしすぎで痛みが出ていることはわかっていますよね。

でも私は、この症状を引き起こしたのはゴルフではないと思っていますよ」

すると、男性は小さくうなずきながら、仕事をやめたいいま、自分にとっての生きがいはゴルフしかないこと、

痛みが出るのはわかっていても、ゴルフをしないといられないい言うことを話してくれました。

男性にとって、エイジシュートを出すという目的がなくなったら、

自分はどうやって生きていけばいいのか、生きる指針を失ってしまう気がして怖かったのでしょう。

だからこそ、切羽詰まって練習をしていたのです。

このように、とくに、ビジネスマンとして一線でバリバリと仕事をしてきた男性は、

いい数字を出して結果を残すことにこだわりたくなってしまう人がとても多いです。

ゴルフでもなんでも、本当は体を動かすことや、人とコミニケーションをとることに喜びを感じながら、楽しく行えばいいのですが、

それでは物足りなさを感じてしまい、

仕事をしていたときはストレスに感じていた数字を追いかけるということを、定年後も違う世界で繰り返してしまうのです。

私は男性にそのことを伝えると、

「いや〜、本当だ。先生のいうとおりですよ。

これからは、自分のコンディションを一番に、楽しみながらゴルフをするようにしますよ。

好きなゴルフで体をこわしたら本末転倒ですもんね」

といわれ、その日は帰られました。

翌日もリハビリのために来院されたので、

「痛みはどうですか?」とたずねると、

「」まだちょっと痛いけど、昨日ほど気にならないです。

だいぶよくなっているように思います」

と笑顔で答えてくれました。

私たちは、他人から評価されることが当たり前だった世界から、

急に自分主体で生きる世界に放り出されても、うまく対応できません。

たとえストレスになろうと、今までの慣れたやり方を踏襲してしまうものです。

しかし、

「それはホントの自分が望んでいるものではないよ」

と伝えるために、体に痛みが出ているのです。

ダメな自分、できない自分も含め、ありのままの自分を受け入れて、

「これでいいんだ」と自分にね自分でOKを出せるような生き方を心がけていきましょう。

他人にどう思われようと、自分らしく生きる。

そう思えたとき、真の健康を手に入れることができるのだと思うのです。


(「体に語りかけると病気は治る」 長田夏哉さんより)

体に語りかける②

2018-02-14 08:17:21 | 自分でできる健康維持
体に語りかける②


英語で「病気」は「disease」と書きます。

「dis-ease」つまり、楽(easy)ではない(dis)状態です。

体が普通に動いていても、

心穏やかでない状態が長く続いていれば病気です。

怒りをため込んだり、自分を無力だと嘆いたり、

どうしようもない悲しみを引きずっていたりなど、

感情的なことがらに長く執着していると、

病名はつかなくとも、楽な状態ではありませんから、

「病気の状態にある」といえるでしょう。

実際、こうした状態が長く続くと、生命エネルギーがよどみ、自律神経のバランスが崩れ、体に病気を呼び込みます。

「今の自分の心の状態を見つめて」

と体がメッセージを送るようになるのです。

では、私たちは病気やケガをして何をしているのかというと、本当の自分を知ろうとしているのです。

本当の自分を知らないから病気になる。

病気になって、本当の自分を知ることで治る。

しばらく経つと、また違った本当の自分を知る必要が出てきて、
病気になる… 。

この繰り返しなのです。

病気と健康は両極端にあるように思いがちですが、

そうではありません。

生命エネルギーの滞りを解消するために人は病気になり、

自分本来の「楽な状態」に生命エネルギーの流れを戻すために、

体がサインを出しているのです。

つまり、アンバランスになった生命エネルギーを元の状態に戻そうとする体のプロセスこそ、病気の本質です。


「私はなぜ不安になっているんだろう?」

「なぜこんなに心配ばかりしているんだろう」

と、今ある心の詰まりに気づいて、

自分を楽な状態にしてあげる必要があるのです。


そういう私は、とても心配性な性分です。

心配の種をそのままにしておくと、自分が楽な状態ではなくなることがわかっているので、

その状態を取り除くために、勤務医時代は早朝6時には病棟に行って、まだ誰も出勤していないなか、

1日の準備をしたり、回診をしたりしていました。

「長田は熱心だ」

という人もいましたが、私にいわせれば、ただ自分の心配や不安をなくすためにしていた行動です。

私たちは生きている限り、さまざまな感情が生まれます。

そのなかには、不安、心配、怒り、悲しみ…など、目を背けたくなる感情もあるでしょう。

しかし、自分のネガティブな感情に気づいて、そこに目を向ける。

そんな日々の積み重ねが、

自分らしく、心を解放して生きることにつながり、

病気の状態(楽ではない状態)から脱することにつながるのです。


あなたは、「体の声」を聞いたことはありますか?

私は、いつも患者さんたちに次のように問いかけます。

「痛い理由を、腰に聞いてみましたか?」

「膝はどんなふうにいっていますか?」

「体はなんといってますか?」

まさかそんなこといわれると思っていなかった患者さんは、

「えっ?」

とけげんな顔をされます。

こう問いかけるのは、繰り返しになりますが、

体にあらわれている症状は、本当の気持ちを、痛みや病気という形であらわしていることが、ほとんどだからです。

たとえば、腰痛がひどくて会社に行けないから何とかしてほしい、と訴える患者さんが来た場合、

薬でその痛みを抑えることができるかもしれません。

けれども、それは本当の意味での解決にはなりません。

「では、腰痛が治らば、あなた、本当に幸せですか?」

そう聞くと、またけげんな顔をされるのですが、

そこを問いかけていくと、

本当の「答え」にたどりつきます。

「まもなく腰痛が治りますから、来週から会社に行けますね。

さぁ、これで幸せですね」

ちょっとしつこいくらいに問いかけます。

すると、

「実はね、会社に行きたくないんですよね。

また、あの上司と顔を合わせると思うとゆうつで…」

などと、患者さんはポツリポツリと話し始めます。

「なぜ会社に行きたくないのですか?」

とお聞きすると、

「売り上げだけで評価されて、日々のがんばりは考慮されないから」

とか

「何をいっても否定的な答えしか返ってこない」

「そんな毎日のなかで自分に自信が持てない」。

そんなふうに、本質的な "痛み" に気づきはじめるのです。


つまり、体は、心の中に閉じ込められていた本当の「つらさ」を、腰痛という体の痛みを引き起こすことで代弁してくれていたのです。

体はいつも「本当のつらさに気づいて!」と声をあげているのです。

体が私たちに与えてくれる計らいはそれだけではありません。

「腰痛がひどいから会社に行けない」という口実をつくって、

会社に行きたくない、という望みまでもかなえさせてくれているのです。

ですから、なぜ痛みが出ているのか、という本質的なことを知ろうとしないまま、

ただ薬で痛みをなくすという「もぐらたたき」のようなことをしていると、

今度は違うところに、その「つらさ」があらわれます。


実際、私が医者になってから、地方の総合病院に勤務していたときにこんなことがありました。

半年ほど前に骨折をして治療に来ていた患者さんを、他の科の待合室で見かけたのです。

私は、患者さんに、

「どうしたんですか? どこか具合でもよろしくないのですか?」

と話しかけました。

それと、

「先生のおかげで骨折は治りましたが、今度は腎臓の病気が見つかって…」

といわれます。

骨折は治ったものの、今度は別の病気で再び病院通いをしているというのです。

私の知る限り、そんな方は意外にも多かったのです。

なぜだろう。

せっかく骨折が治って健康に暮らせるはずだったのに、どうしてだろう。

不思議に思っていました。

今なら、それは心が語りかけている「本質のつらさ」を理解していないため、

体からのメッセージとして症状が繰り返されているということがわかります。

しかし、当時の私は、日々湧き出てくる違和感や疑問は、

自分の医師としての未熟さのため、と思い、

現代医学の知識を積み重ね、

より多くの経験を積み、技術を磨くことで、

きっと答えは見つかると思っていました。

現代の医療の世界では、医者も患者も双方ともが、体の声を聞かずに、無視しているのが現状です。

今では、毎日たくさんの患者さんと向き合うたびに、

体ほど正直なものはないと痛感します。

どのケースも、心の声を体であらわしていることを実感させられる毎日です。


(「体に語りかけると病気は治る」 長田夏哉さんより)

体に語りかける①、はじめに

2018-02-13 07:46:35 | 自分でできる健康維持
体に語りかける①、はじめに


ちょっとした不調で病院へ行った時、持病の通院で医者のもとを訪れたとき、診療室であなたはどんなことを話しますか?

「病気の状況を説明するに決まっているじゃない」

そういわれるかもしれません。

「風邪をひいたようで咳が止まりません」

「最近もとくに変わりません」

と。


私は、東京大田区にある田園調布という場所で、医師である妻とともに「田園調布長田整形外科」というクリニックを開業しています。

保険診療を行ういたって普通のクリニックですが、

診療室での会話が、ちょっと変わっているといわれます。

というのも、診療室で語られるのは、

仕事の悩みや子育ての迷い、夫や妻えの、人に話せない不満をはじめ、

姑の愚痴やいさかいの話、心にひっかかっていること…。

体の症状にとどまらず日常生活の多岐にわたることばかりです。

「体はなんといっていますか」

そう問いかけた私に、はじめは

「いやだ、先生。そんな冗談みたいなことを」

とおっしゃる方も、

別の話をしていたり、リハビリを受けていたりする間に

「そういえばね、先生あのね…」

とさまざまな話をしてくださります。

涙を流したり、大笑いしたり、そしてときには憮然としたり、

なかには怒って部屋を出ていかれたり、、

そんな診療室の様子を見て、私のクリニックを「生き方クリニック」と呼ぶ人もいます。

なぜ、そんな人生相談のようなことを診療室で行うのか。

先にお話ししたように、私のクリニックは保険診療ですから、自由診療としてのカウンセリングといった意味合いで人生相談のような診察をしているのではありません。

それは、口を開いてポツリポツリと語ってくださる胸のうち、

そこに病気やケガの根本の原因があるからです。

体にあらわれる痛みや不調、その原因を探そうと、「体」を見てもそこに答えはありません。

痛みの原因を知ろうとX線写真を撮ったり、検査を受けたりする人も多いでしょう。

それを否定するつもりはありませんが、

痛みや不調、病気の本当の原因というのは、「X線写真」にも検査結果にも出てきません。

「体の状態」にはないのです。

それでは、原因はいったいどこにあるのか。

それは、

「あなた自身」

「あなた自身のあり方」

です。

あなた自身の中にある抑圧された感情や葛藤、不安、考え方のクセ。

それらが、あなたに気づいてほしくて、病気やケガを導いているのです。

病気やケガは、あなた自身が「気づいてよ」と語りかけている、ウェイクアップコールとも言えます。

目覚まし時計も、普通の音量で起きる人もいれば、

いくつもの目覚まし時計を置いても起きない人、

目覚まし時計は鳴りっぱなし、お母さんに布団をはぎ取られないと起きない人などさまざまです。

あなた自身が目覚めない限り、

消しても消しても、何度でも、この目覚まし時計は鳴り響きます。

小さな不調を繰り返したり、腰痛がだんだんひどくなったりして、動けなくなるまでになったり、

小さなケガの末に、大きなケガをしたりすることもありますし、

ケガを治したと思ったのも束の間、内臓の病気を発症する人もいます。


もっと早くに、自分の語りかける声に耳をかたむけ、自分で目覚めたならば、ちゃんとを時計をオフにできるのに、

目覚めないから、何度でも続くのです。


病気や不調は、あなたに語りかけています。

本当の自分に気づいて、と声をあげています。

しかし、そもそも、病気や不調があなたに語りかけるのは、

あなたが体に語りかけることをしていなかったから。

もし自ら体に語りかけていたならば、

あなたが自分自身の本当の気持ちとつながっていたならば、

病気や不調は、あらわれる必要がないのです。

病気でいる必要も、ケガをする必要もなくなるのです。

あなたはどれくらい、体に語りかけているでしょうか。

「私は今、こういう思いを感じているんだね」

「つらいよね」

そう自分に語りかけることは、

自分とつながり、健康になることに直結しているということを、

私は日々の診療で確信しております。


おかげさまで、クリニックは人が人を呼び、毎日200人ほどの患者さんが訪れます。

なかには、いろいろな病院を回ってみたけれど満足できる答えをもらえなかった、

ずっと治療を続けていたけれど一向によくならなくて、

といってお越しになる方も多くいらっしゃいます。

診察室であれこれと悩みを話し

「本当は自分がこうしたかったんだ」

「実はこれに向き合うこと自分は恐れていたんだ」

などと自分自身が語りかけていた声に気づくだけで、

体に出ている不快な症状はみるみる改善していきます。

それだけではありません。

本当の自分に気づくと、最初に診療に訪れたときにあった患者さんの不安感やイライラなどが消え、

健康で幸せに満ちた笑顔を見せてくれるようになるのです。


一時的に体に出ている症状を抑え込んだとしても、自分の声を聞き、自分とつながらない限り、

また別の症状としてあなたにあらわれます。

「病気になりたくない」

「いつまでも健康でいたい」

と思うなら、

心を曇らせるような信念体系が、病気やケガを引き寄せるのだと知り、

本当の自分の内面に向き合って、体の語る声を聞き、

あなた自身も体に語りかけることが必要です。

体は、あなたに病気やケガをもたらすことで、あなたに語りかけています。

その声を聞くことをきっかけにして、

自分とつながることができたなら、人は健康になります。


だから、本来病気というものは憎むべきものではなく、愛すべきものなのだともいえそうです。

「見て見ぬふりしてきた自分に、そろそろ気づいてくださいよ」

と教えてくれる、体からのありがたいメッセージ。

そんなふうに思えた瞬間に、体は快方に向かうのです。

この本では、心のあり方が体の痛みや病気とどのように影響しあい、どのような結果をもたらすのか、

さまざまな例をあげながら、ひもといていきたいと思います。

病気は体からの贈り物、、、

体に症状が出たときは、そう考えてみてください。

自分に語りかける体の声に耳をかたむけ、

「腰が痛くてつらいのは、心のつらさを体が表現してくれているんだね」

と、自ら体に語りかけることができたとき、

不調や痛みから解放され、

心から幸せを感じられるようになるでしょう。

さぁ、心地よくのびやかなあなた自身を生きる旅に、一緒にでかけませんか。


(「体に語りかけると病気は治る」田園調布長田整形外科 院長 長田夏哉さんより)

🍀🍀『なぜ日本に、長寿企業が圧倒的に多いのか?』🍀🍀

2018-02-12 10:39:32 | 新しい考え方
🍀🍀『なぜ日本に、長寿企業が圧倒的に多いのか?』🍀🍀


100年以上続いている企業は「老舗」、200年以上続いている企業は「長寿企業」と呼ばれるそうです。

では世界に「長寿企業」はどのくらいあるのでしょうか。

経済学者・後藤俊夫教授によると、8916社(2011年時点)だそうです。

では、それらの企業はどこの国に多いのでしょうか。

実はなんと日本です。日本にほぼその半分があり、しかも2番目に多いドイツの倍以上です。

つまり、圧倒的に日本に多いことが分かったのです。

なぜ日本に多いのか。その経営にはどのような特徴があるか。それについて西洋の経営学では解き明かされていません。


私は長寿企業の研究者でもあるのですが、240年以上続いている「美々卯(みみう)(大阪本店)」を調査したことがあります。すると二つの大きな特徴がありました。

一つは、料亭なのでフロアの女性たちはとても素晴らしいおもてなしを顧客にします。

と同時に、そのおもてなしを板前さんにも経営者にも同僚にもするのです。

そして経営者は、女性たちがいずれ家庭に入るかもしれないので、出汁(だし)のとり方を板前さんから教えてもらえるよう計らいます。

つまり経営者と従業員は、単に労使の関係ではなく、まるで家族のように互いに思い合い、

「SHIEN学」でいうところの、「してもらったり」「してあげたり」を自然に交換していたのです。


もう一つの特徴は「見えないもの(関係性や心)を、見えるもの(利益や形)以上に大切に考える」ということです。

「給料を払っているんだからとにかく働け」ではなく、互いに思い合う気持ちが先にあり、その上で仕事があるのです。

その序列意識が持続性につながっていきます。

たとえば、大豆を扱うある老舗があります。

ダイエットブームがやってきて、全国チェーンを持つ大手スーパーから、

「売上げ7倍、利益14倍を保証します。弊社で御社の大豆を扱わせてもらえませんか」と提案が来ました。

この会社の経営者はこう答えました。

「まったく興味がございません、どうぞお帰りください」と。

私は不思議に思い、理由を尋ねました。

「ブームに乗れば、きっと利益は上がるのでしょう。でもブームは必ず去ります。

その時、増やした設備は遊ばせればいいけど、雇った方々はどうするか。リストラみたいなことは絶対できません」というお答えでした。

岩手県にある老舗の「酔仙酒造」は東日本大震災の時、設備の全てと7人の従業員を失いました。

しかしライバル店である「岩手銘醸」に製造設備を貸してもらい、土地と建物を借りながら見事に再スタートを果たしました。

このような思い合う経営こそが日本に「長寿企業」が多い一つの理由なのではないかと思っています。

そして私は、これこそがこれから世界に広げていくべき経営の一つのあり方だと思うのです。

昨今、大企業が不祥事を起こしたり、行うべきプロセスを省略したりすることが問題になっていますが、

これはこうした「思い合う経営」が見失われている影響ではないかと私は思っているんですね。


(「みやざき中央新聞」H30.2.5 静岡大学大学院教授 舘岡康雄さんより)