花水木の独り言

庭の大きなハナミズキの、白い蝶のような花びらや、真紅の葉に気持ちを託して・・徒然なるままにキーを打ちました。

緑陰に鎌倉ゆかりの名刹を訪ねて

2009-08-01 | 鎌倉の四季
                          【神武寺境内の六地蔵】

鎌倉の東部に位置する東逗子は、古来鎌倉郡沼浜郷と呼ばれ「古東海道」が通り平安時代から「三浦一族の支配地」でありました。
源頼朝の父義朝の館がこの辺りにあったと言われ、交通・軍事上の要衝の地でもあり、奈良正倉院には8世紀に沼浜郷から朝廷に納められた「麻布墨書」が残っています。

【海宝院(曹洞宗)】
     
 
開基:長谷川長綱 徳川家康の代官頭。1590年家康の江戸入府で三浦郡全域の支配にあたり、後北条の影響一掃の為にこの地に移り住みました。
 
 《長谷川長綱一族の墓》
     
         
  《寺宝:銅鍾 戦場で陣鐘として使われました》 
     

海宝院の側面から裏面にかけて墓地が広がっています。
その一廓に「石原慎太郎氏」の墓地があり墓石に比して更地が多く残されていました。

【光照寺(真言宗)】
古文書焼失のため開山、開基とも不明。
もと逗子五霊神社の別当寺。
源義平(頼朝の長兄で 1159年平治の乱で平清盛の暗殺に失敗して処刑されました)の菩提寺と言われています。母は三浦氏の娘。
                   

【法勝寺(日蓮宗)】
聖武天皇の頃沼間辺りは大蛇が住み人々を苦しめていました。
行基に懇願の結果、十一面観音像を彫って舟に載せ経を読んで調伏の後は、大蛇は村人を守る守護神になりました。

この辺りに源義朝の館があり裏山一帯が沼間城址であったと言われています。   
    

【神武寺(天台宗)】
古くは神の嶽と呼ばれ山岳信仰の霊地でした。鎌倉時代以前の記録は不詳。
鎌倉時代 頼朝が文覚上人を住持とし平家追討の祈願を行う。
 
 1209年 実朝が参拝
 1507年 全山焼失 小田原後北条により復興
 1590年 秀吉勢により焼き討ち
 1591年 家康から五石朱印状にて復興

 《本堂(薬師堂)》
  

 《客殿(来迎院)》
  釈迦如来 阿弥陀如来三尊 十一面観音 絹本着色大威徳画像(鎌倉国宝官)
  智像 円仁 伝教大師 不動明王
   
 
 《客殿 本堂の拝殿を終えて坂道を下る時「宝珠」が大きく印象的》
        

 《鐘楼》
       

 《弥勒やぐら》
鶴岡八幡宮に弁才天を奉納した大唐高麗舞楽師「中原光氏の墓」。石仏光背銘に 「従五位上行中原朝臣光氏 正応三年(1290)」とあり、俗名の銘が残る唯一の 墳墓窟。
        

【東昌寺(真言宗)】
1333年 新田義貞の鎌倉攻めにより北条一族は鎌倉東勝寺に於いて滅亡。住職信海和尚が火中から本尊大日如来を運び出し、北条一門の霊を弔うためこの寺を建立。

1637年英勝寺領となり「東昌寺」に改名。
 《屋根飾りが美しい》
     
 
 《阿弥陀仏 像高259cm 三浦半島では稀な巨仏》