退職女のアメリカ便り

オーストラリアンシェパード、ジュンタのマミーのアメリカ、セントルイス生活

#2080: 私事ですが聞いてくださいな。 

2024-06-27 11:21:53 | アメリカ便り
日本から帰ってきてからずーと30度越えの暑さです。
典型的なアメリカ中西部の夏です。
おかげで犬たちとの散歩も非常に短いものになっています。
と言うことで以前ちょっとだけ(2,3回程度)やっていたダンスエクササイズをやろうかと思って❝簡単、辛くない、短い❞と言う3原則の元、ユーチューブのサイトを探してみました。
そして私にぴったりの❝シニア―、12分、誰にでもできる❞と言うのがあったのでしばらく試してみることにします。
今日はユーチューブで身障者、認知症等の家族を介護する家族のことを見てました。
❝イヤー、タイへン❞の一言。
私自身二人の健康な子供に恵まれ、両親は介護をせずに亡くなったし、主人の両親は義母が施設でコロナになり亡くなり、義父は97才で施設のお世話になっています。
と言うことで私は幸運にも、❝自分のやりたいこともできず時間を削って介護❞と言う生活を送ったことがほとんどありません。
2,3度、母がおかしくなったので日本に帰って短い期間介護をしたことはありましたが。
一度は電話をしていて(当時は毎日電話をしていました)、日を増すごとにおかしくなっていくのが明らかとなっていきました。
週3回家事をしてくれる介護の人が来てくれていたんですが。
実家に帰ってみると、母は座ることもできなくなっていました。
床にすわらせようと思ってその体制をとらすと、ずるずるっと滑ってあおむけ状態になってしまう。
週末に来て食事を作って近くに住む叔父との会話を楽しんでいた兄はこの変化がわからなかったんかしら?、週3回来てくれていたケアーは食事を作るだけなの?、と疑問は募るばかり。
と言っても一番介護をしなくてはいけないはずの娘の私が面倒を見ていないので他人を責めるわけにはいかないし。
兎に角当時の母の状態はひどかったです。
夜には素っ裸になり車庫の中をよたよたと徘徊し始めるし。
食べ物はかむけど飲み込まないで口から出してしまう。
と言うことで一応精神科に連れて行ったけど、当たり前の診断結果。
ビタミンやタンパク質とは程遠い食生活を送っていたんではないかと思い、まずはアメリカから持参した栄養ある食べ物を食べさせることにした。
野菜やらフルーツやらタンパク質などをとにかく食べさせ始めた。
私も限られた日本滞在時間だったので、栄養のあるものは何でも食べさせた、と言うか口に突っ込んだ。
それが功を奏してか、母の症状は少しずつ良くなってきた。
1か月もするとほぼ以前の状態に近くなった気がした。
でももう一人で暮らすことはできないと思い、すぐさま兄と施設を探し始めた。
入居費1000万円なんて言うところも見てみたが、❝1000万円何のために払わなくちゃいけないの❓❞と馬鹿らしく思い、最終的には小規模のショートステイを近くで見つけ、ショートステイを何とか融通を利かして長期ステイにしてもらい、毎週末には兄が母を家に連れ帰って来ることで話がついた。
私が日本を去る日には、母は❝私を姥捨て山に連れて行くのかい❞と嫌味を言うまでに症状は回復していた。
施設に入ってからはちゃんと食事をするようになったので、今回のようにおかしくなることはありませんでした。
でも一度、家に何かを取りに来た際、施設のヘルパーさんを泥棒と間違えたかなんかして殴ったとのことで、即精神科に入れられてしまったことがありました。
この時、どうしてこんなに即精神科行きを決めてしまったのかわからなっかったけど。
毎日母の状態を見ていた施設の人だったら、母が無害なのはわかっているだろうにと思いました。
知り合いが、当時施設は込み入っていて人出は足りなかったようだ、と言ってましたが。
そして、そんな話を聞いた私はまたまた日本行きをしましたが、その時私を迎えに来ようとしていた兄が職場のトイレでハートアタックで倒れてしまったんです。
今度は兄と母が病院へ入ってしまった。
兄は重病でICUで2,3週間お世話になり、私がアメリカへ帰る頃には何とか会話もできるようになりリハビリに頑張れるようになりました。
母の方は3日後ぐらいに退院させ、その後3週間ばかり実家で面倒を見て、アメリカへ帰る前にまた元のところへ入居させてもらいました。

私の帰国はいつも楽しいことばかりとは限ったものではなかったですが、両親も兄も亡くなった今、大変だった時期が懐かしく感じられます。

ハブグレジュンタのマミー