ボタンを押すと、般若心経を称えて下さいます。何故か、父が、通販で買ってました。
私、お医者様にインターネットでこんな情報を見て心配になったのですが、と相談に行くと、お医者様は、「インターネットの情報を信用してはいけません」と言われます。逆に、私も、門信徒様から、ご相談をお聞きすると、インターネットを見たら、こんなことを書いてありましたと言われます。私も同じく、「インターネットの情報を信用してはいけません」とお話をします。みんな世の中、お互い様で、インターネットを中心に回っているようです。気軽に無料で調べられて、自分にとって都合の良い情報を教えてくれるのですから、誰もが、利用するのは当たり前ですが、タダより高いものはありません。いつのまにか、不安に追い込まれ、余計なものを買うはめになったり、いかなくてもよい、医者に行くはめになったりします。時々、「私は、毎日、ご仏壇に読経をしております」という方がいらっしゃいます。私は、とても、素晴らしいと思う反面、その方は、何のために、読経しているのだろうか?と思うのです。まず考えられるのは、亡き方の追善供養です。追善ですから、善を、毎日、追加するためです。それは、とても、素晴らしいと思われるかもしれませんが、それは、大きな間違いです。なぜなら、亡き方は、救われていないから追善が必要なのです。他の理由として、自分の願い事を叶える為いう方もいらっしゃいます。願い事というのは聞こえは良いですが、分かりやすく言えば自分の欲です。世界が平和になりますようにとか、みんなが幸せになりますようにではなく、自分が病気になりませんように、自分に災難が起こらないようにとかです。また、どんなお経を勤めているのですか?とお聞きすると、般若心経と言われます。浄土真宗では、般若心経を勤めないのですが、と言いますと、びっくりされます。その理由は、インターネットを検索してみてください。多くの検索結果が出てきます。でも、お経を称えていけないなんてことはありません。とても、素晴らしい内容が説かれているので、意味をご覧になって下さい。先日、有名な稲城和上の「法蔵菩薩とは」法蔵館の本を読んでおりましたら、興味深い事が書いてありました。「私には、般若心経を称える資格があるのだろうか」と書いてありました。続いて、その本には、有名な曹洞宗の名僧良寛さまの句が紹介されていました。
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
この句を、「なるほどそうだな」と思える方は、般若心経を称える資格がある。しかし、これを、震災や大切な家族を亡くされた方の前で言えますか?稲城和上は、私は、「災難に逢う時節には災難に逢うが悪く候 死ぬ時節には死ぬが悪く候」としか、思えない、自分だけは、災難に逢いたくない、自分だけは死にたくないとしか思えない私には、称える資格がないと書かれておりました。般若とは智慧という意味、智慧とは、仏教の最も大事な言葉の一つです。ありのままを見る眼です。智慧をえたら、世の中に怖いものはありません。老いること、病気をすること、死ぬこと、これは、すべて、当たり前のことです。これを、ありのままに受け入れることが出来るのが智慧のある方です。般若心経は、この智慧の心を得ること目指す経だと私は頂いております。ですから、もの凄く、有難いのです。でも、いくら有難くても、理想が高すぎて、そんなことが出来ますか?とても、人間の努力では、成し遂げることが出来ないからこそ、阿弥陀如来がいらっしゃるのです。「そのままのあなたを救う仏」と成られたのです。私は、今まで、どうして、浄土真宗では般若心経は勤めないのだろうか?とあまり考えたこともなかかったのですが、この本を読んで、考える切っ掛けを与えて下さいました。完全には、智慧をえることは不可能でも、世の中を、ありのままに見る智慧の眼は、とても、生きる上で大切な視点です。浄土真宗の読経の意味は、仏徳讃嘆(ぶっとくさんだん)です。仏様の救いを褒め讃えるためです。いつも、救われていることにお礼をするためです。亡き方は、救われていますから、追善の必要はありません。私も、つい、願い事を時々してしまうのですが、正直、浄土真宗の読経には、願い事を叶える意味はありません。でも、考えてみると、私の願い事は、自分にとって、本当に幸せかどうかは分かりませんよ。そもそも、無病息災の人生などありえません。病気や災難や大切な方の死から、学ぶことも多いはずです。そして、人生に深みが増すのです。般若心経も称えてはいけないとは、私には言えませんが、やはり、私にも称える資格はないと判断しました。