浄土真宗本願寺派 法徳寺ブログ

神奈川県厚木市にある浄土真宗本願寺派(西)のお寺です。
永代供養墓10万より受付中です。

天空のポピー

2016-05-23 18:47:17 | 日記




今日は、友引でご葬儀が発生しないため、前々から計画していた、秩父の天空のポピーに行って来ました。とても綺麗でした。



和銅遺跡と銭神様にお参りしてきました。

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今日は誕生日

2016-05-21 12:59:59 | 法要

煩悩にまなこさへられて
  摂取の光明みざれども
  大悲ものうきことなくて
  つねにわが身をてらすなり

本日は、親鸞聖人のお誕生日です。築地本願寺にて降誕会法要がお勤めされています。降誕会とは、お浄土より降りてこられ、誕生されたという意味です。親鸞聖人は、人間として、この世にお生まれになりましたが、それは、阿弥陀如来様が、親鸞様という姿をとり、降りてこられ、この世に生まれたということです。そのことから、浄土真宗では、親鸞聖人を、聖の人とお書きしております。親鸞聖人は、日本の仏教界で初めて、公然と家庭を持たれた方です。妻である恵信尼様は、夫である聖人を観音様のようなお人でありましたと書かれています。その当時、僧侶の妻という立場は、世間の非難を浴びたかもしれませんが、聖人は、宗教者としてだけでなく、家庭を大事にされ、妻子を命がけで守られた方だったのです。今回、頂きましたご和讃の意味を申し上げます、『私の煩悩によって心の眼が閉じられた状態でありますから、如来の光明を見ることは出来ません。しかし、阿弥陀如来様の必ず救うという、大悲のお心は、私が気づかなくても、諦めたり、見捨てたりすることはなく、常に、私に注がれ、照らして下さっています』皆様の愛する方も、仏様と成って、いつも、皆様のそばにいて下さるのですが、私の煩悩によって、姿は見えないのです。しかし、いつも身近にいらっしゃいますので、亡き方は、寂しい思いなどしておりません。

 先日、一時停止違反で、警察のお世話になってしまいました。そんな時も、罪の意識よりも、運が悪かったとか、何で、こんなところで取り締まりをしているのだと腹が立ち、自分中心の煩悩の深さを思い知らされました。しかし、よく考えてみますと、阿弥陀如来様が、大きな事故を起さないようにと、取り締まってくれたのかなと思いました。私は、誰も見ていないだろうと、一時停止を怠ってしまったのですが、阿弥陀如来様は、いつも、私を心配し見ておられるのだろうなと思います。私も、仏様に対して、出来るだけ心配かけぬよう、日々精進しなければならないと思います。仏の教えのカレンダーには、『世に不運はない 全て試練である』と書いてありました。不運と腹を立てるよりも、試練と受け止め、自分が試されている、そして、そのご縁を、更に、よりよく生きるための練習と受け止めることが大切であるというお言葉です。起こったことは、同じでも、不運とするのか試練と受け止めるのではまったく違います。

人生を生きる上で、大切なのは、不安がない悩みがないということです。病気になったらどうしようとか、お金が無くなったらどうしようとか、子供の将来が不安と悩みは尽きませんし、不安感は、どんどん、膨らむものです。先日、仏教の本を読んでいると、「今、この瞬間を大切に生きる」とありました。今も、何か、心配な事を考えている方は、今を生きていないというのです。今というこの瞬間に、いつも集中して生きられれば、不安感はなくなります。しかし、それは、簡単ではありません、ちょっと気を許すと、直ぐに、まだ起きてもいないことを、心配するのが私たちです。明日という字は、明るい日と書きますが、常に心配事を抱えて生きていては、明日は、明るい日になりません。それには、私は、親鸞聖人の教えをいただくことが一番だと思います。見えないけれども、大きなはたらきに支えられているを意識することで、必ず、生きる力となると示されています。宗教というのは、日頃、元気で心配事がない時には、求めることはありません。しかし、何か問題が起きたとき、人は、苦しみ、自分の不運をなげきます。どうか、そんな時は、試練であり、どんなことがあっても見捨てることがない阿弥陀如来のお救いを思い出して下さい。

 


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法施

2016-05-17 19:59:05 | 日記

僧侶の役目は、頂いたお布施のお返しとして、皆様に、法施をしなければならないのであります。法施とは、仏さまの教えを皆様に、施すことです。よく、お寺にお布施をとられたということを言う方がおられます、お布施に対して見返りがない、対価がないのであれば、とられたといわれても仕方がありません。法施には、少しでも本堂などの施設を良くして、快適にお参り出来るようにしたりすることも含まれます。頂いたお布施は、僧侶のポケットマネーではなく、宗教法人のお金です。私も毎月、宗教法人よりお給料を頂いております。これからも、出来るだけの法施をさせて頂きたいと思っております。


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お花とお供え

2016-05-16 17:28:42 | お知らせ

今回は、ご質問の多い、お花とお供物に関して書かせて頂きます。お寺の本堂でのご法事の持ち物につきまして、お写真、お遺骨(納骨がまだの方)、白木の位牌(こちらも納骨がまだの方)、本位牌または過去帳などが主なものです。ここまでは、必ず持って来てほしいものです。その他、お花や御供物となりますが、こちらはご自由になります、今は、何もお持ちにならないお宅も多いので気にしないでください。お花に関してですが、本堂では、1m丈くらいの花束を一対(二本)を飾ることが多いのです。お花をお持ち頂いても、そのまま、お持ち帰ることが出来ますので、どうぞ、遠慮なく申し付け下さい。お寺で、ご用意することも出来ます、一対5000円です。こちらも、お持ちかえることが出来ます。お花は、必ず、持ってこなければならないものではありません。御供物に関しては、果物やお菓子が一般的ですが、何でも良いのです。こちらも、お持ちかえることが出来ます。お寺では、6000円でご用意していますが、こちらもお持ちかえってもらっています。仏さまに御供えしたものは、お寺に置いていかなければならいことはありません。でも、これは、法徳寺のルールですので、他のお寺さんは、どうかわかりませんので、ご了承下さい。


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如来様の願い

2016-05-11 20:35:55 | 法話

浄土宗と浄土真宗

浄土宗と浄土真宗の念仏の違いについて、「南無阿弥陀仏を称えて極楽浄土へ往生するのが浄土宗」、浄土宗の念仏は、極楽浄土へ生まれるための手段(行)です。そして、「阿弥陀様の人々を、極楽浄土へ往生させる願いを信じるのが浄土真宗」、浄土真宗は阿弥陀様への感謝の念仏。浄土宗は、「どうか、浄土へお救いください」、浄土真宗は、「阿弥陀様、お救い下さいましてありがとうございます」となります。ここで大きな違いは、浄土宗では、浄土へ生まれたいと願うのは、私たちです。しかし、浄土真宗では、浄土へ生まれさせたいと阿弥陀様が、先に願っていてくださっているのです。

 先手の救い

阿弥陀様は、私が、お願いしたわけでもないのに、阿弥陀様の方から、先に、「どうか、浄土へ生まれると信じてほしい、私に任せてほしいと願われております。」なぜなら、私には、浄土へうまれたいという気持ちは起こらないからです。私は、浄土がどんなに素晴らしい世界であると聞かされても、たとえ、苦しみ多き、娑婆の世界であっても、いつまでも、生きていたいし、愛する人と離れたくないのです。しかし、その願いは、空しく、誰も、願いどおりに人生はいきません、永遠に生きることは出来ないのです。その私も、明日どうなるのか分からないのです。私の本当の姿を、既に、よくよく、存知て下さって、「どうか、安心なさい」とはたらいてくださる如来様がいてくださるからこそ、安心して生きていけます。浄土へ生まれたいという願いを持たなくてもよい、悪人であってもよい、そのままで、救うから、どうか、私に任せて下さいとはたらいてくださいます、仏様を阿弥陀様と申します。その救いを、私たちに教えて下さった方が、親鸞聖人さまなのです。浄土真宗では、阿弥陀様の先手の救いにお任せすることが救いです。それには、まずは、阿弥陀様の教えを聴聞する場に座らせて頂くことが大事であります。私の思う、本当の幸せとは、安心して、我が命をお任せ出来る、仏様との出会いだと思います。


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