ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏(中国)・日域(日本)の師釈に、遇ひがたくして今遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。
(『註釈版聖典』132頁)
今月は、親鸞聖人の誕生を祝う降誕会・永代経法要をお勤めさせて頂きました。
その法要の場で私も、冒頭に挙げましたご讃題をもとに法話をお取次ぎさせていただきました。親鸞聖人は、インド、中国、日本の高僧たちが伝えて下さった阿弥陀様の教えに出会い、聞くことが困難であるにもかかわらず、聞くことが出来たとおっしゃっています。さらに、阿弥陀様が、この世に生きる衆生すべてを、必ず救い出してくれるという教えを聞信して、阿弥陀様の有難さを知り、救いの目当てが、自分自身であったことに気づかされたことを示されています。
親鸞聖人は六角堂において、聖徳太子からの夢のお告げを受けたことから、法然上人の元へ行き、阿弥陀様の教えに出会われました。
親鸞聖人にとって法然上人が説かれた教えとは、まさに親鸞聖人が求めていた答えだったのです。
仏教は、仏さまの教えであると同時に仏さまに成ることを目指す教えです。それは、煩悩をなくすことを目指すものです。しかし、煩悩を無くすことが出来ない人は、どうすればいいのか。それが、聖人が問題とされたところなのです。
聖人は、煩悩をなくすために、比叡山延暦寺で20年間一生懸命修行されました。しかし、修行をすればするほど見えてきたものは、煩悩だらけの自分の姿でした。そんな煩悩だらけの自分が救われる道を求められ、京都の六角堂に100日間のお参りをされたのでした。お参りを始めて、95日目に上記のとおり夢のお告げにより生涯の師である法然様に出会われたのです。
ところで、煩悩がなくなるとどうなるのでしょうか。
よく、煩悩がなくなると。何かをしようという気持ちが起こらず、気が抜けてしまったような人間になるようなイメージがあるようですが、そうではありません。自己中心の心から離れられず、自分の欲望ばかりを満たそうとする心が煩悩であり、それが、自らを苦しめるのです。なぜなら、この世で、自分の欲望をすべて満たすことは出来ないからです。
しかし、自己中心の心を離れたところから出てくる何かをしたいという心は、煩悩ではありません。自分の好きな人だけを助けたいという思いは煩悩ですが、すべての人を、平等に助けたいという思いは、煩悩ではありません。仏さまは、すべての人の喜びを共に喜び、すべての人の悲しみを共に悲しむ、そんな豊かな心を持った方なのです。
そのような人を目指すのが、仏教です。私たちは、煩悩をこの世で完全になくすことは不可能ですが、少しでも近づけるように努力勤めていくことが大切です。
浄土真宗も仏教の一宗派ですから、仏に成ることを目指します、しかし、煩悩を無くすことが出来ない者でも平等に救われる教えです。さらに言えば、「私」が救われる教えです。阿弥陀如来様は、煩悩を無くすことが出来なくても、仏さまのはたらき(他力)によってお救い下さいます。阿弥陀如来様は、私が、自らの力では、どうしょうもないことを見抜き、既に、はたらいて下さいます。そうような者を、一番の救いの目当てとして下さいます、煩悩があるからこそ、救われるのです。そこに、聖人の喜びがあったのです。阿弥陀如来様のはたらきに出会うことにより、煩悩から離れられない、自分の姿に気づかされると同時に、阿弥陀如来様への感謝のお気持ちがわいてきます。それが、お念仏です。
親鸞聖人は、生涯を通して数多くの書物を書き残されております。特に、80歳を過ぎて、精力的に書かれています。それは、自身が救われた阿弥陀様の教えを、他の多くの迷える人々に伝えることで、救い出したいという思いが込められているのだと思います。
親鸞聖人が説かれた阿弥陀様の教えは、時を超えて今、この世を生きている私たちに届いているのです。かつて、親鸞聖人がインド、中国、日本の高僧たちを通じて阿弥陀様の教えに出会えたように、私たちは親鸞聖人を通じて、阿弥陀様の教えに出会うことが出来たのです。
因みに親鸞聖人の誕生日は5月21日です。法徳寺における降誕会法要は終わりましたが、皆様も是非ご自宅の仏壇や、お寺にお参りして、阿弥陀様の教えに出会うことができたことに、お念仏をお称えしていただければと思います。