Romarin フランスの草の根となって

住み始めた時は腹がたち、住み慣れると離れがたいフランスにすみ、45年の年月がたちました。日々のことなど綴ります。

ベルリオーズ その5

2005年09月11日 | 音楽
二部作のオペラ《トロイ人 Les Troyens》(1855-58)は
上演の機会が得られないままに、老ベルリオーズはなおも
オペラ《ベアトリスとベネディクト Béatrice et Bénédict》(1862)を
書き始めます。
ハリエットの死(1854)後再婚した妻マリーの死(1862)は、
先妻との子ルイ(Louis)の死(1867)とともに彼の不健康な身に
さらに孤独感を募らせます。
リストの好意により、オーストリア、ドイツ、ロシアの演奏旅行を
行いますが、これが彼の最後の演奏旅行となりました。
一生を波乱多い戦いのうちに過ごした彼は、以後死を待つばかりのみ
となり、1869年3月8日苦悩に満ちた一生を閉じました。

彼の音楽に関して、久納慶一氏の興味深いコメントがあります。
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 標題音楽という新しいジャンルを作り出したが、彼にとっては交響曲
 とかオペラといったジャンル別はむしろ意味がなく、すべての作品が
 劇的であり、管弦楽的である。… 標題音楽の本質は音楽劇に他なら
 ないのである。音楽を進行さすものは彼にとっては形式ではなく、
 ロマン的な幻想であった。… ベルリオーズの天才はそれをはるかに
 こえ、伝統的な形式や枠を破って、音楽-音楽の持つ感情を作品の
 支配者の地位に置いたのである。
 こうしたベルリオーズの作風を側面から特徴付けるもうひとつのものは
 管弦楽法である。彼がオーケストラに求めたものは、
 微妙なリズムによる音量の幅、表現の幅でもあった。

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フランスはこの偉大な作曲家を彼の生存中には受け入れませんでした。
彼の死後数年たって、ゴティエ(Théophile Gautier)が、
彼とヴィクトル・ユゴー、ドラクロアの三人をロマン派芸術家の象徴と
してあげて以来、彼のフランス音楽における位置は定まりました。

*ここに載せた写真はベルリオーズの生家を道路側からとったものです。