昨晩も、就寝は4時であった。どうもリズムが戻らない。
千葉は大量の鰯が打ち上げられたと言うが、こちらは全くの不漁である。海の底で異変が起きているのか?落ち着かない。
落ち着かないのは、これから書くことを押さえていたせいか?
人の顔がそれぞれ違うのは前世が顔にでている現れだと読んだ事がある。
今まで何度か前世の事を書いたことがあるが、どれも厳しい。今世が最後と言われ締めくくる事となるので振り返れば、それなりに大変だった。
一番影響が強いと言われる武将、戦国時代の武将が幼少時から家の中で主導権を争ったみたいに私の子供の頃も同様であった。
世の中、嫁と姑が仲が悪い事は多い。家でも環境が余りにも違うのでとても悪かった。
未だに、私が誕生するまで6年の時がありながら何故母が離婚して帰らなかったのが不思議である。後日、聞くと「妹が帰っていたので、帰れなかった。」と言われたが、私ならば、実家に帰らなくとも家を出て違う人生を探すだろうと思う。
母の家は14代続いた家で、祖母は、幼少時に父親を亡くし、母親が実家に祖母を置いて再婚したので、大らかに開けっぴろげだった母と対照的だった。
私は母にどちらかと言えば似ていたので、祖母にかわいがられた覚えがない。あの世に行っても私の前に出てくる時は平伏して顔を上げれない。私達にした事を覚えているならば当然だ。
ワタリさんから聞くと、かわいがっていた従姉妹の前ではニコニコしてずっと出ていたと言う。
父はまるで継子扱いで、私達家族だけが家の中で孤立して他人のようだった。
そんな母が、小学校3年の時、ストレスがたまり、気管支拡張で喀血し入院した後、療養するため、妹を連れて実家に1年近く帰った。帰宅しても結核扱いで嫌がられたと言う。
その頃、私と犬猿の中だったのは一回りも違う一番下の叔母だった。その間、いじめにあったが対抗して私は負けなかったが、その都度、祖母に言い上げされ、ひどく叱られた。
「私は長女だから将来家に居るけど、あんたは嫁に出るわ。でも、家には帰らせない。」と言って悪態をついた覚えがある。
妹に言わせれば、「7,8歳の子供にそういう言葉を吐かせると言う事はよほどのことがあったのだろう。」と言った。
後年、父に「父方の姉妹とは付き合わない。」とある程度の年齢の頃から言っていた。
そんな日々であったが、よくぐれなかったと思う。それと、元来の性質かもしれないが、鼻っ柱の強さと、気の強さを磨かれた。
ノワタリさんが言われるのに、それで今まで挫けずに済んだそうだが、その事は私の中でトラウマとなり、恋愛しても他家に嫁いで同居と思えば、それだけで気が重く、出来なかった。
4年生の時呉服屋の同級生のお母さんが「ネコちゃん、良いわね。おばあちゃんが振袖を作ってくれたわよ。」と言って、遊びに行った時、見せてくれたのは従姉妹の物だった。すべてがそうであった。その着物は廻ってこなかったが、いつもお下がりだった。
高校生の時、祖父の前で 祖母にその事を言うと、「そんな事知らない。」と言ってしらばっくれる。言い争いになり、呉服屋さんに確認しようと電話したが、「そんな事ありません。」と、おばさんは冷たく子供の頃の事を否定した。
大いに傷ついたので母には「絶対あの店で買わないで。」と伝えた。
筝や三曲、お茶と着物の要るお稽古事をしたが その通り、浴衣の1枚も買う事はなかった。
祖母は高校生の時に亡くなったが、半年を近い入院中、世話をしたのは娘達でなく、母は毎日病院に通って世話をした。
祖父が80歳過ぎて、2キロ程離れた隠居に居る頃、帰宅途中に交通事故にあった。
偶然、同級会の為帰省していた一番下の叔母が、留守宅の祖父の貴重品の入ったかばんを持ち去った。
それだけでなく、4人いる叔母のうち一番上と一番下の叔母は実家のものは自分の物という考えで、祖母の生きている間甘え放題で、祖父に内緒で祖母は仕送りし、家まで買った。
その後亡くなる2,3年同居した祖父はかばんの事や土地代が支払われなかった事を、酒が入るとよくこぼした。
その後、祖父の方から遺言書を書き直すと言い出し、「すべて父に」と言ったが、父と母は動産は要らないから男の兄弟にやってくれと祖父に言い、その通りに書いた。
しかし、遺言書の内容を知らない叔父達は父と母の好意を無にして、叔母に言いくるめられ、そちらに付いた。
新しい遺言書を知らない叔母は自分が主導権を持った形で新盆の時、遺言書を出してきた。
もうそれは無効である。結局叔父達は二人で分けるはずが六人で分ける事になった。
どのように配分したかは知らないが、その株券を元に叔母は長男を証券会社に入れた。
そのような事がうまくいくはずがなく、長男は其処で同僚と結婚し、離婚した後、ヤクザの女とサラ金に借りられるだけ借りて逃げ、8年間消息不明であったという。
おばの主人はそこそこ名前の知れた会社の重役になり、関連会社の社長のポストについたが、その後始末に追われた。
数年前、妹に叔母のしてきた事を話しているのを盗み聞きした義理の叔父は私に
「あんたの言った事、全部聞いたで。」と言ったが、嘘は言ってないので「あ、そう。」と平然とした態度で言って、弁解もしなかった。その後、墓参りすら来なくなった。
その後、父を裏切り続けた一人の叔父は、事故でたんを自力で吐く事もできない状態で数年間生きて亡くなった。動けなくなった時、車のダッシュボードから、食堂のゴム印のある白紙の領収書綴りが出てきたり、満足として1ヶ月休まず出てくることは無く、自宅前によくを停めサボっていた。
これも親が甘やかした結果である、。
事故だと思っていたが、ノワタリさんが叔父が見えない力で首を絞められている事を遠隔で御祓いしている時、言われた。
今年の春、もう一人の叔父も風邪をこじらせ、入院して退職した。
後の事を困らないようにと母がチエさんに指示して保険の手続きをしてもらったが、挨拶に来た時、礼を言ったのはチエさんにだけだった。
その後、今度は不摂生がたたり老人性癲癇で入院したと言う。家には連絡がなく、「意識不明」騒いでと言って来たのは亡くなった叔父のお嫁さんだった。
それも、当人のお嫁さんから、他の姉妹間に連絡し、地元に居る先に亡くなった弟の嫁から最後に家である。
順序も逆様なら、言っている事もむちゃくちゃで、興奮状態が収まらないので安定剤で押さえているだけである。
母が「意識不明の人間がなぜ、話せるの?」と言った事で、叔母さんは聞いた話に矛盾があることに気づいた。
私は以前からあまり取り合っていなかったが、その事から母は裏切られ続けている事にやっと気づき、一時の間「鬱になりそうだ。」と言って落ち込んだ。
両親はその二人の弟を使い、退職共済金、厚生年金とできる事はすべてしたが、当たり前としかとられず、陰で悪口しか言われなかった。
高齢の父には悪いが「こんな血、私で終わりよ。良かったわね。」と、言い、母はその後開き直り、欝状態から開放された。
父も「こちらには何も知らせないのだから、取り合う必要は無い。」と、言い出した。
昨晩、Eテレでその病の事を見た母は「前兆で2.3秒意識が途切れる事がある。」と言うことを聞いた。
2年前、叔父は車止めを越え、食堂の看板に激突して、怪我はなかったものの車は大破し、廃車になった。
それはその発作だったのでは?と思う。風邪をこじらせ入院する事がなければ、京都の事故のような事が起きても仕方ない。背筋の凍る思いである。
本当に大事な所で私達は救われている事をありがたく思い、感謝した。
「良い事も悪い事も自分の行った事は亡くなるまでに味合わなければ、亡くなれない。それでもそれが大きければ、今世だけでなく、来世まで持ち越してしまう。」と、ノワタリさんは言われる。
身内の詰らない争い事と取られるかも知れないが、父の兄弟達とは縁が切れたと同時に厳しい陰謀や争いの環境を卒業できたのではと思う。反面教師として学ぶ事も多かったのかもとも思うが…。
これも2階建ての天中殺が明け、環境が変わっていく過程なのだろうか。私の人生って何?