神様お願いというグループサウンズの歌が昔あった。これを知っているのは50代半ば以上の年齢であろう。
先日、ノワタリさんが電話の向こうで嘆かれた。私の紹介者が「ノワタリさんに頼んだのに良くならない。(病気)」と不満げに言ったそうである。
その病人は私が紹介した女性がまた紹介した人である。
4月にノワタリさんが来られた時、私も出会っているが、大分よくなったものの本調子ではないらしかった。それ以前はリストカットの常習者であり、紹介された直後もその騒ぎがあったと聞いた。
そんな状態は脱したもののまだ、食事が入らないと聞いたが、また入院したそうで紹介者は何の努力もなく、良くなると思っているらしいそんなものは薄皮をはぐようにしか良くならない。なんと短絡的な事。
本人の生来持って来た因縁などもあるし、体験しなければならないこともある。それを越えなければならず、早急にという事は無い。それをしなければ、また来世、そして孫子までという事になるので根本を理解していない。神慮の試練として受け止めるべきである。
私もノワタリさんにお会いするまで多くのものを抱えていた。この10年氷山が解けていくようにじわじわと変化していったが、ここぞと言うような大事な所で助けられている事に恥ずかしながら後で気づくと言うようなものである。
お会いする数年前、更年期で先が見えず落ち込んでいる時病院の治療室のベッドに横になり医者を待っていると、壁にかけてあった家康の言葉が目に入った。
「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え
勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る
己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり」
それを読んだ時、家康と言えば、タヌキ爺であまり良いイメージを持っていなかったが考えを改め、誰もそんな思いを持って生きているのだと思い 大分心が軽くなった。
私の紹介者は水子供養や遠隔で土地の浄化をしていただいた後、劇的に変化して良くなったのでそんなものと勘違いしているのかもしれない。しかし、この場合他の相談者と違い、仕事を通じて地域に貢献すると言うお役目があると聞いた。
そんなのは例外に等しく、ほとんどの場合1,2年の間次々と問題が顕在化し、それに追われるが気づけばそれである程度の因縁の浄化は出来る。それは当面の事で、また数年後、解決できてない事が現れというふうに繰り返され収まっていくのを見て来た。
普通、次元が高ければ、高いほど神様は個人的な事よりも、社会的な事とか人類の為とかで尊大な目的があるので、そういう事にあまり関わらないとと聞いたことがある。
低級なものほどもしくは動物霊などの方が個人的な現世利益をもたらす事が多く、悪質なものは取り込んだ後、最後に突き落すようなしっぺ返しをすると聞く。
ノワタリさんのお蔭で良くなったので何もかも彼女は相談し、次々と周りの人を紹介した。
子供が医者になりたいと言ってご祈念してもらった。
本人の努力もあり、模試の結果は幾つかの私立と国立が合格圏内に入っていて、もう周りは合格気分になっていた。
本番2,3日前の夜 本人から今度は医者になりたくないとの電話があり、ノワタリさんはとても困惑された。
当然、全滅であった。学科は合格、面接で不合格と言うのもあって、私たちは首をかしげた。
ご主人が医大に勤めている従妹のノリちゃんに言うと、「ネコちゃん、面接はね医者に適しているかそうでないかを見るだけのものでほとんど落ちる事はないのよ。」と言う。
たぶん面接で何かを言っただろうと思うが、ノワタリさんは
「上が合格って言っているのにこういう結果が出たことは本人の意志かしらね。」と、ポツッと言われた。
その後も、ほかの子供の就職相談をしたが、自分の希望通りにならないと不平不満をぶつけるようになった。
それならば、聞くな!、魔法のランプでも探せ!ご祈念だけで思い通りに行くなら、誰も苦労は無く、人格の完成もないであろう。私がノワタリさんの立場であったら、もう取り合わないし、張り倒しそうだ。
「私の言葉を否定することは上を否定することになるのよね。」と言われたが、このままでは良くなっていた環境も、手を引かれてしまえば元の木阿弥である。
妹も子供の進路相談や地場の悪い所へ行ってはいけないので、いくつかの学校やマンションの候補から縁のあるものを選んで頂いたので、意味合いがちょっと違う。
それでも、私とよく似た体質の姪はマンションの10階でありながら浮遊霊がよく来てノワタリさんにお世話になった。
単に神様お願い、お願いで済むならば誰も努力もしないであろうし、悩む事もないだろうし、生きている実感も感じないだろう。