日垣隆さんが「週刊現代」で上野千鶴子先生の「おひとりさま」論を「無知と偏見に満ちた」「単細胞的男性蔑視論」と斬って捨てていたのがちょっと意外でした。というのも、日垣さんは比較的フェミニスト(イデオロギーとしてのそれではなく「女を大切にする男」の意)だという印象があったからです。
いわゆる世間一般の「女性はいたわろう」というコンセンサスに乗っかる形で世に浸透したフェミニズムですが、しかしそういったフェミニスト(イデオロギーとしてのそれではなく「女を大切にする男」の意)たちもいざフェミニスト(「女を大切にする男」の意ではなくイデオロギーとしてのそれ)たちの著作を一読すれば、そのおかしさには違和を感じずにはおかない、ということなのでしょう。
さて、ぼくは本書の前作である『おひとりさまの老後』を自著において、「多くの女性たちを「ゆりかごから墓場まで」自分たちの陣地に引きずり込み、不幸にすることには、見事に成功した」「フェミニズムの勝利宣言の書」と表現しました。
となればその次に彼女が敵陣への攻撃を仕掛けてくることは、容易に想像できたことです。では、果たして男性への攻撃たる本書の内容はどのようなものだったでしょうか。
結論から言ってしまうと、上野さんの「攻撃」は見事に的を外してしまっているように、ぼくには思われました。
本書の論旨は要するに
・「結婚するな。婚活中の高齢男おひとりさま、あきらめろ」
・「女は友人を大勢持って幸福なおひとりさまライフを満喫している。孤独な男おひとりさま、せいぜい女たちに学べm9(^Д^)プゲラ」
この二点に集約できるかと思います。
とは言え、フェミニストがとにもかくにも結婚や家族をおぞましいものとして退けたがるのは当たり前のことなので、そこは今更です。
また、フェミニストたちは女同士のつながりを、「シスターフッド」「レズビアン共同体」などと称してとかく清く気高く尊いものであると持ち上げる傾向があります。一方(本書にも書かれていることですが)男同士のつながりは全て「会社社会の中だけで通用する偽物」であると短絡的に断ずる傾向があり、それらはホモソーシャルなけしからぬものであるそうです。どうしてそこまでけしからんのかは、読んでいてわかった試しがありませんが。
確かに、「男より女の方がつるみたがるよな」というイメージはぼくにもあります。でもそれは逆に言えば女よりも男の方が孤独にも強い(或いは好む)ということであり、しかし上野さんがそういった男女の「性差」についてどこまで自覚的かが、ぼくには極めて疑問です。
更に言えば上野さんのこの主張は『「女縁」が世の中を変える』という著書があることが示すように、かねてよりなされてきたものです。
が、「会社人間で他に人脈や楽しみのない男」という男性観自体が、日垣さんに指摘されるまでもなく古過ぎるものであり、オタク世代の男からすれば鼻で笑うしかないような代物でしかありません。
そして読み進めるに従い、上野さんが主張する尊い女同士の友情にすら、疑問を抱かざるを得なくなってくるのです。
上野さんは他の著者の「無二の親友より10人の“ユル友”」という言葉を紹介します。
しょっちゅう食事やお酒をともにする友人には、思想信条についての議論はふっかけないほうがいいし、まったり時間を過ごしたい相手に知的刺激を求めるのは、おかどちがい。
思えば、魂の友だっていつかは先立つ。その親友を失ったからといって、だれかがそのひとの代わりを務めてくれるわけではない。
だから家族や親友などといったかけがえのない関係など要らない、というのが上野さんの主張なのです!
――清く気高く尊いものであるらしい女と女の「レズビアン共同体」の実質は、厨房のつるみみたいなもののようです。
彼女たちの使う「ホモソーシャル」という(全く理解不能な)用語のでどころは『男同士の絆』という著作なのですが、イギリス文学オタクの腐女子が文学作品の男性キャラを取り挙げては「○○クンは受けよ~~~!!」と萌えまくってるような本です。そう考えるとこの「ホモソーシャル」という「攻撃呪文」の本質も見えてきそうな気がします。
即ち、五秒おきにケータイを確認しなければいじめにあう「友だち地獄」レベルの「レズビアン共同体」しか持ち得なかった人々の、男同士の友情への羨望なのではないか、と。