拙著に小浜逸郎さんの著作が大いに引用されていることからもわかるように、ぼくは小浜さんの著作に多くのインスパイアを受けています。中でも『男はどこにいるのか』は「男性論」の分野においての、古典的名著と言っていいと思います。
小浜さんは正しく(政治的な意味あいのそれではなく、字義通りの意味での)「保守」だと思います。何かの著作で彼が「普通を尊ぶ思想家」と表現されていたことからもそれは伺え、彼の鋭い舌鋒はインテリ層の中の空疎な新しがり屋たちへと、専ら向けられます。
ただ、やはり「保守」というのは当然、一方では悪しき現状をも肯定してしまい兼ねない側面があることもまた、事実でしょう。
さて、本書です。
この中の「男に純愛は可能か」を読んで、ぼくは「おやおや」と思わざるを得ませんでした。
まず、大前提として小浜さんはこう述べます。
女性は「エロスの宝」を自らの身体(ただの肉体ではない)に内蔵しており、それを男性に向かっていかにうまく表現するかによって性愛能力が試されるのであり、逆に男性はその宝をいかにうまく手に入れようとするかというところで性愛能力が試されるのである。
ヲタ的に表現するならば「男性は責め、女性は受け」ということです。
まあそもそもこんな自明なことが「コンセンサス」として定着しておらず、わざわざ特定の作家の著作から引用せねばならないこと自体が、いかに他の作家たちのレベルが低いかということなんですが。
そしてまた、小浜さんはこうも言います。では男性の方が一方的に主導権を握っていて「強い/偉い/得な」のかと言えば、それはそうではない。男を受け容れるかどうかの許諾権を専ら女が握っていることを考えれば、女の方が「強い/偉い/得な」のだと。上の引用に頷けなかったお歴々も、この部分は大いに頷かれたことと思います。後者は前者を「前提」にした上でその「意味づけ」を行っているに過ぎない言葉なのですけれどもね。
しかしここで、小浜さんはどういうわけか「女性が専ら許諾権を握っている」というこの特質の一側面のみにばかり着目しているように、ぼくには読めます。正直、(ご本人の意図するところではないでしょうが)何だか一般受けする、俗に媚びることを狙った主張であるようにすら思えます。
普通に考えれば「男性=責め/女性=受け」という性のあり方は極めて両義的であり、ある側面では男が強く、ある側面では女が強い、つまりどっちが「強いか/偉いか/得か」という答えを一概には出せない性質のモノである、というのが正解だと思うのですが(そして小浜さん自身、別な著作ではそのように主張していたはずなのですが)。
そして、小浜さんは結論するのです。
「男性の純愛」と「ストーカー」とは、実は紙一重である。
その通りです。
いいえ、正しく言い換えましょう。
イケメンが純愛でブサメンがストーカーですw(このネタ、確か『絶望先生』でもやってたような気がします)
即ち、男と女、どっちが「強いか/偉いか/得か」は一概に言えないはずなのだけれども、今は一般通念や社会のシステムが女性有利に働き過ぎているため、女性有利の側面が多過ぎる。
それが実状であろうし、そう考えれば小浜さんの主張は、取り敢えず矛盾はありません。
しかし。
小浜さんは、ぼくたち人類が未曾有の女性災害に見舞われつつある現状を正しく指摘しつつも、その現状を、お得意の「保守」派としての感覚を発揮して、「いい悪いではなく、それが宿命なのだ」と粛々と諦め、受け容れているように見えるのです。
むろん、それは一面の真実です。
いかに治安をよく保ったところで、レイプなど性犯罪の被害者に遭う女性が出てしまうことが「避けられない運命」であるのと同じ意味で、男性が女災の被害に遭うこともまた、ある程度「避けられない運命」ではあります。
しかしその「避けられなさ」は、同時に治安の悪化を放置する言い訳には決してなり得ません。
この分野ではぼくと立場を近しくする竹中英人さんが、著作『男は虐げられている』の中で
>恋愛とは、愛という宗教のもとに行われる、女による男からの搾取である。まさに恋愛は壮大な収奪システムなのだ。
と極めて的確な(『電波男』の六年前……新し過ぎます!)表現をしているのですが、小浜さんは『「男」という不安』の中でそれを「構造上の問題だからしょうがない(大意)」と切って捨てています。
もちろん、竹中さんの言う「収奪システム」、本田透さんや森永卓郎さんの言う「恋愛資本主義」、ぼくの言う「女性災害」は「根治」できるものではありません。
その意味である程度、「しょうがない」という気持ちをぼくもまた、持ちます。
そこを何とか根底から変えようとすれば、「ジェンダーフリー」「コロニー落とし」のようなヴァーチャルで空想的な方術にのめり込む以外に、手はなくなります。
しかし上に書いたように「性犯罪を根治できないこと」と「性犯罪を一件でも減らすべく努力すること」とは相矛盾するものではありません。小浜さんは、「普通」「現状維持」に傾き過ぎるあまり、そこを見ていないように思います。
ただ、小浜さんが殊更保守的なことを言うのは「ジェンダーフリー」的な「メンズリブ」に対する警戒心故のことでしょうし、それはわかりますが。
余談めきますが小浜さんは「男に純愛は可能か」において、
やや誇張して言うなら、女は、男が女を必要としているほど、男を必要としていないのだ。
とも言っています。
なるほど、女から男へのレイプなどが基本的に稀少例である(或いは女性向けの男性ヌード写真集など、思い出したように騒ぎ立てる割には一向に定着しませんよね)ことを考えるならば、現実の一側面として、そうも表現できようとは思います。
しかし、それこそ女性がいかに恋愛漫画や映画を好むか、美容やファッションに興味を持つかを考えるならば、小浜さんの指摘はあまりにも一方に偏ったものであると言わざるを得ません(同様に同論の中では「女のストーカーがあまりいない」とされていますが、それが誤謬であることは拙著にも書いた通りです)。
この小論自体は2004年に書かれたものなのですが、今となってみては婚活だ草食系男子だと異性を獲得しようと血眼になっているのは、どう見ても女性の方です。
そしてまた、この現象は「例外的な、一過性のもの」などでは決してなく、小浜さん自身が指摘する男と女の性愛の本質の「現れの違い」に過ぎないわけです。
本当に女性はそんなに「強か/偉か/得だ」ったのか。
社会システムの後押しのない女性の「強さ/偉さ/得さ」はどんなものか。
考えてみるべき時期に来ているようです。