承前。
さて、『フロン』を読んでムカついたみなさん。
本書をご覧になることをお勧めします。
といっても本書も女性向けですから、男性が見てムカつく部分がないわけでもありませんが、とはいえ先の本に比べてかなり読後感は爽快です。
渡辺由美子さんというライターさんと共著の形になっていますが、これは岡田さんのお話をライターさんが小説という形でまとめたためで、結婚問題に悩む二九才の独身女性、アリス(笑)さんが岡田さんに悩みを聞くという形式になっております。
内容は本当に、女性相手の恋愛指南書(とでも言うんでしょうか? ぼくが知らないだけでこのジャンルに冠するべきネーミングって、ありそうですが)であり、前述書のような「論」は一切ありません。女性の疑問にズバリズバリと具体的なアドバイスがなされるのみです。
岡田さんは「男はみんな『セックス付きの家政婦』がほしい」のだ(これは章タイトルにもなっています)、女は装飾品だとまで断言します。その言葉に憤るアリスちゃんですが、それについては
「……でも、女性の側も『装飾品』みたいなひどい言葉で言い換えられるようなことを、何か男に要求してるんじゃない?」
職業に限らず社会的ポジションね。学歴でも同じだけど。男の場合、社会的地位に匹敵するものが奥さんの年齢なんだ。そこらへんは公平に見ると、お互い似たようなもんでしょ、と僕は思うんだけれども」
そしてまた、「対等な友達夫婦」を理想だと言いつつも「割り勘は嫌」で「おごってほしい」というアリスちゃんのダブルスタンダードに対しては
「じゃあ、セックス付きの家政婦で我慢しな、と。はい、回答終わり」
更に家事の苦手なアリスちゃんが「家事を押しつけてくる男」の批判を始めるや、「男は女を守るべき」とか「レディーファースト」とかは(「女は家事をやれ」と同様に旧来の男女観ではあるけれども)好ましいんでしょ、とばっさり切り捨てます。
女性が結婚になかなか踏み切れないのは、結婚が「男性に幸福にしてもらおうとする」ためのツールだからだと指摘、そうした幻想についても手厳しい批判がなされます。
非常に明快で爽快です(とは言え、女性たちはこれを読んで納得できたんでしょうか? Amazonなどを見ても高評価ばかりですが……)。
続いて、岡田さんは(結婚に過度な幻想を抱かないために)自らの現状を正しく把握し、生涯結婚しないままの人生を選択したらどうなるかのシミュレートをすることを勧めます。
「一生結婚できず一人だったらどうしよう」とアリスちゃんが怯える様を見ていると*、可哀想で可哀想で「女性の皆さん、今まで小馬鹿にした発言を続けてきてすみませんでした」と謝罪したい気持ちでいっぱいになってきますw
あなた方も、「フェミニスト」という憎むべきお局様たちに人生を踏みにじられた被害者だったのですね。これからは力をあわせ、きゃつらを倒しましょう!!
*この辺りでは歳を取った女性に対する「男に好かれるためのノウハウ」がかなり具体的に書かれます。他にも岡田さんは「女は四十歳にモテキが来る(大意)」と言ったりで、どうかと思う部分も少なくはないのですが、とは言えこの辺り、女性にとっては読んで損はないんじゃないでしょうか。
ぼくは当初、本書の後半では前掲書に顕著だった「家族解体論」や「女性の社会進出論」が語られるのでは、と想像していました。同じ著者の、同じ路線の著作なのですから、それは当然、そう予想しますよね。
何だか、それじゃ『「婚活」時代』と同じだよな……とそんな悪い予感に駆られながら、ぼくはページをめくり続けました。
女性の社会進出が好ましいことなのか好ましくないことなのかは置くとして、もし女性が幸福な結婚をしたいのであれば当然、「働いている暇があったら早いうちから婚活しろ」以外の理論的な答えはあり得ません(本書のように四十からモテ出すというアクロバットを持ち出すのであれば別ですが……)。
しかし『「婚活」時代』はどういうわけか、「結婚するためには積極的な活動が必要」という正論に、まるで抱きあわせ商法のように「女はキャリアがあればモテるのだ」という自分の願望を無根拠に混ぜ込んでいます。
むろん白河さんは不況の折、男性も女性が働くことを望んでいることを根拠として挙げてはいます。しかしそれは現代の日本の状況から来る二次的なことでしかありませんし、ましてや「玉の輿に乗るための婚活」という世間の女性たちの目的意識とは全く逆ベクトルのものでしょう。
そして案の定と言うべきか、白河さんの「結婚するには自分で稼げ」との論法は「婚活」がブームとなるや忘れ去られ、「婚活」は玉の輿に乗るためのノウハウとしてマスコミを賑わすようになり、白河さん自身がどこかで苦言を呈していたと記憶します。
ぼくは必ずしも女性の社会進出を無条件で肯定するものではありませんが、白河さんの失意には、大いにシンパシーを覚えます。
そして『フロン』と本書との関係は、何だかぼくにはそんな「婚活」ブームの「予告編」のように見えてしまうのです。
……すみません、随分と話が横にずれましたが、結局本書においては、ことさら「女の自立」が声高に叫ばれることはありませんでした。
最後は「自立することこそ肝要」との結論が語られることになりますが、どっちかと言えばそれは結婚できないという可能性への覚悟、といったニュアンスが強かったように思います(つまり「稼げば結婚できる」という『「婚活」時代』の転倒した論理とは正反対の、「自由にやりたいのなら男にたかるために結婚しようなどと考えず、稼げ」という正論ですね)。
『フロン』においてぼくが感じた違和感は、岡田さんが女性たちがキャリア志向を持っていると信じている、その認識の甘さでした。
ところが本書では女性たちの男性への甘えに対して、歯に衣着せぬラディカルな批判がなされています。
男に自分の人生の全てを丸投げするのはやめて、まず「結婚しなかった自分」を想定してみろ、と彼は繰り返します。
それは、男の精の全てを食らい尽くすことを当然と考え続ける女たちへの、岡田さんのため息混じりの懇願のようにすら、見えてきます。
この作風の変化は何なのでしょうか。
ちょっと先走った想像かも知れませんが、それはこの二年の間に女性たちに取材するうちに、岡田さん自身が女性観に変化を来したためなのではないか。
それこそ白河さんの「絶望した!」を、岡田さんは先取りしてしまっていたのではないか。
それを暗示するかのように、『フロン』が2001年に出された岡田さん最初の恋愛本だったのに対し、本書は2003年に出された、(今のところ)岡田さんにとって最後の恋愛本になっています。
――話がずれたまま修正が効かなくなっていますが、ぼくの興味の焦点は本来、岡田さんの提唱する「自分の気持ち至上主義」にありました。
しかし本書には、前掲書では重要なキーワードであったその言葉が全く登場しません。
それは何故か。
それは、「自分の気持ち至上主義」がアンフェアな運用のされ方をしていることに、彼が気づいたからです。
岡田さんはその処女作『ぼくたちの洗脳社会』で、お金が一番大切な資本主義社会においてはフェアトレードこそが重要視され、泥棒は一番悪いことと見なされるのだと指摘しました。
では、「自分の気持ち至上主義」で重要視されるのは?
それは個々人が互いに相手の「自分の気持ち至上主義」を尊重し、欲望と欲望の折りあいをつけていくことでしょう。
しかし本書で明らかになったのはあからさまにアンフェアな結婚(男性への過剰な依存)を、女性たちが「当然の権利」であるかのごとく思っているという現実でした。
それは資本主義社会において、とある人種だけが泥棒を許されているかのような、極めて許容し難い事態です。
「自分の気持ち至上主義」が「女性の気持ち至上主義」へとすり替わっていっているという事態、即ち「チ/シキュウ化」です。
「自分の気持ち至上主義」社会は「身分制」という概念を導入し、例えば女性と男性との「気持ち」がぶつかりあった時は、事情を勘案することなく女性の「気持ち」を優先するのだとの、新ルールをでっち上げてしまったのです。
しかしそんなことをやっている社会はとうてい、近代国家とは呼べません。
本書は「チ/シキュウ化」した社会へと戦いを挑む、オタキングの物語であった――。
いささか恣意的な解釈ではありますが、この二つの著作を続けて読んだぼくの感想は、どうしてもそんなものになってしまうのです。
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