さて、タイトルを変えてみましたが、引き続き『まんが極道』です。『まんが家総進撃』はその続編……というよりは改題されただけの同作品です。
今回も(のっけからショッキングな)ネタバレ全開です。実際に漫画を読んでみたい方は、そこのところをお含み置きいただきますよう。
さて、『極道』の第1巻には「センス オブ ワンダーくん」という作品があります。「俺のことをわかってくれるSF好きの女性を彼女にしたいが、そんな女、いるはずがない!」と嘆くSFマニアの新人漫画家、ゾル山浩が主役になっています。
彼は担当のつくプロ作家ではあるものの、今時SF漫画など流行らず、描きたいものが描けずにいます。彼の友人たちも「ダース・ベイダー」だの「アヤナミ」だの軟弱なことを言うのみで、彼を理解しようとはしません(既に『スター・ウォーズ』自体が三十五年前、『エヴァ』ですら二十年前ですが、堅物のハードSFマニアにとってはこれらすら「真のSF」とは呼べぬまがい物のようです)。
しかしそんなゾル山の下に彼の大ファンである美少女がやってきて、全てを理解してくれるように……恋愛や結婚に頑なな態度を取っていた彼の心も解れ、またとうとう担当に自作を理解させて連載を勝ち取り、彼女とも結婚――あぁ、夢じゃないか! あ、夢か!
本当の本当に、主人公が夢から醒めるところで本作は終わります。
漫画家のダークサイドを描く本作とは言え、この冷酷な突き放しっぷりは異彩を放っています。
本作、オタク男子にとっては非常に身につまされる話です。「SF好きの女などほとんどいない」と嘆くゾル山の姿はぼくたちの姿そのままです。しかしそれって、「男女のジェンダー差がある」という男女観が前提されてはいないでしょうか。それって現代社会では絶対に許されぬ、仮にMSのAIが表明したりしたらそのAIの破壊が義務づけられているような、危険思想なのではないでしょうか。
以前、オタク界の正義の味方たちは「『ガンダム』に女性ファンは少なかった」と言った(という彼らの脳内現実を根拠に)兵頭新児に嫌がらせとデマコギーによる風評被害拡散の限りを尽くしました。ISISにも負けぬ正義っぷりと申さねばなりません(実は少し前、またツイッターで蒸し返していた連中がおり、感心させられました)。
この「ガンダム事変」の本質は「男女のジェンダー差はない、ジェンダー差はないとすることが正義である」とのイデオロギーに「乗っかる」ことでオタクとしてのアイデンティティを守りたい人たちの正義の振る舞い、というものでした。言わば、永遠に夢から醒めずにいるゾル山です。
しかし、それならば、当然、彼らにとって「夢から醒めて」終わる上の作品は許せぬものであるはず。
……ところが、一体全体どうしたことか、どういうわけか彼ら正義の味方たちが唐沢なをきさんを叩いているのは見たことがありません。
彼らの「正義の刃」は発言力のない弱者にだけ向けられることはもう、皆さんにもおわかりのことかと思います。
(むろん、漫画であるとか文学であるとかは、「正義の味方」の目をくらます役割を往々にして果たすものではありますが。また、フェミニズムが男性文学者を縦横無尽にバッシングしているのに比べると、オタク左派は比較的自分たちの「弾」として使える漫画作品などについては都合の悪い点について口をつぐむ傾向にある、とは言えますが)。
さて、というわけでひとまず今回、本作に絡めてワタクシの申し上げたかったことは、「ホモソーシャル」という概念の不毛さであります。
なをさんは少なくともそうした論者に比べれば遙かに鋭く男女の現実を見据えており、そしてまた、本シリーズでは以降もそうした価値観を前提としたエピソードが描かれていくことになるのです。
例えば3巻の「サークル」。
時代設定は「十年と少し前」とされ、世を挙げた『オバンデスヨン』(言うまでもなく『エヴァンゲリオン』の読み替えですね)ブームの渦中にある「創作系」オタクサークルの姿が描かれます。
一口に説明しにくいのですが、この「創作系」というのは何かのパロディではなく、あくまで元ネタのないオリジナルの漫画で勝負する人々を指し、ある意味では「意識高い系」ではありますが、方や美少女系の二次創作同人誌と比較するといささか地味な存在でもあります。同人界を舞台にしたギャルゲー、『こみっくパーティー』でも「創作系」である長谷部彩は「実力はあるが、描くものにはいささか華が欠けている」と設定されていました。ましてや『エヴァ』ブーム(これはオタク界では同時に『エヴァ』同人誌ブームでもありました)の頃は余計にそうだったでしょう。
さて、本作のヒロイン、蓑竹ヨブコはそんなサークルの紅一点として地味に真面目にやっていた、地味で真面目な女性だったのですが……何かの間違いでギャルっぽい女の子、小路町鱮がサークルに入ってきて、イベントでは『オバンデスヨン』のヒロインのコスプレをして同人誌は完売。サークルの男性たちの心は彼女に掴まれてしまいます。
そして――鱮自身もまた男性たちと関係を持ち、将来性のありそうな男を査定していたのです(メンバーをルックス、セックスの相性、男性器、将来性で査定したノートを作っている!)。
最終的には鱮の行状がバレ、サークルはクラッシュしてお終い。
そう、この頃、「サークルクラッシャー」、略して「サークラ」ということが盛んに言われておりました*1。要するに「ホモソーシャル()」なオタクサークルに女性が入ってくると、生態系が崩れてサークルがクラッシュしてしまう、ということですね。男性を破壊することが絶対の正義であると信ずる瀬川深が、こうしたサークラを絶賛していたことも懐かしいトピックスです。そこでは「ホモソーシャル」が女性を不当に利益から遠ざける許されぬ悪なのか、それとも「女性の性的魅力によってクラッシュすることが大前提の、彼ら彼女らの優越感、破壊衝動を満足させるためのデク人形」なのかが曖昧模糊としたまま議論が進んでいきました。
が、ここではまず、「男女は全く別な生き物であり、関わることで様々な緊張が発生し、それには悪い面もあるよね」という自明な真理が、まずなをさんの中で前提されているということを、ぼくたちは確認しておきましょう。そうした真理を否定するフェミニズムという邪教に入信した者が、なをさんの漫画を読んでも、その意味はさっぱり理解できないのである、ということも。
*1 この「サークラ」という概念はその意味で「ホモソーシャリティ()」そのものが「ない」ことの証明でもあります。が、次第にこの言葉は(この言葉の前提概念であるところの)「オタサー姫」という概念へとすり替わって語られるようになっていきました。言うまでもなく「オタサー姫」は「オタクサークルの紅一点で姫のように振る舞っている者」のことであり、本来は「オタクというリア充に比べて劣った業界で威張っている二軍落ちの女性」といったネガティビティをも内包していたはずが、昨今では純粋に女性のハーレム願望を叶えるためだけの言葉として機能しているようです。オタサー姫を描いた『私がモテてどーすんだ』の略称は『わたモテ』であり、喪女を描いた本家を「乗っ取って」しまった辺り、大変に象徴的と言わねばなりません。
そうしたことに対してさっぱり考えの及ばない、「ジェンダーフリー」とやらに理解ありげな上の正義の味方たちは、丁度、上の漫画のサークルの男性たち同様、「オタサーの姫」を持ち上げるチンポ騎士に他ならないということも、こうして見るとわかって来るのではないでしょうか。
『総進撃』の3巻「新担当」には、そのことが描かれています。
痛い非モテ漫画家である佐藤ゲルピンに若くて可愛い女性の担当がついた、というお話ですが、「痛い非モテ」というと、例えば前回にご紹介した「女総屑くん」や、『極道』6巻「アシの条件」に出て来るアシスタントの話が思い出されます。後者のアシはオタク的コミュ障として描かれ、新しく入った可愛い女子のアシスタントを「こういうのに限って非処女だ、非処女がウチの漫画を描くのは許せぬ」と難じ、彼女のポーチから盗み出した口紅をちんちんに塗り出すという描写があります。
これらはいわゆる「童貞こじらせたミソジニー」的描写なのですが、その一方でこの佐藤は若い女性の担当がついたことで浮かれ、(身だしなみに気を遣うなどすると共に)その担当者に「ぼくの作品の本質は男性優位社会を批判することにあり云々」などとぶち始めるのです。
一方、佐藤はその振る舞いが「痛い」ことを自覚し、後悔する常識も持ちあわせており、その意味で見ていて可哀想なのですが、結局は調子に乗って、漫画の主人公とその恋人に自分と担当の名前をつけるという暴挙に出てしまい、最終的には「ぼくのことをわかってくれなかった」担当に切れて刃傷沙汰を起こし……揉みあった挙げ句、自分のおちんちんを切り落としてしまう、というオチ。これ、敬愛するフェミニストたちに裏切られ、「まなざし村」と名づけて攻撃し始めている人たちと同様です。
先の「男性優位社会云々」という演説では「(クソオタどもと違って)女性を理解した漫画を描きたい、ついてはあなたの意見を聞かせてほしい」と言っており、なをさんは「ミソジニスト」とやらと「女性の理解者」とやらは両者全くいっしょなんじゃないの、とでも言いたいのでは、と勘繰りたくなってきます。
そして……本話はちんちんを切った佐藤の連載にジェンダーフリーな魅力が加わり、「奇跡の大ヒット」となった、(そして今度は男の担当に色目を使い出す)というオチで終わっています。
そう、なをさんの「自らの業」に対する視線は極めて冷静です。当たり前ですが彼の中にも「女性に媚びたい/女性は疎ましい」という感情はあり、そこを見つめているからこそ、こんな漫画が描けるのでしょうから。
しかし彼の視線は同時に、女性に対しても冷徹です。前回の夢脳ララァは「オタサーの姫」になれない女性でしたが、4巻「漫画家の妻」はオタサーの姫を真正面から捉えた話です。
ここで描かれるのは人気漫画家の妻、閂タイコ。
旦那が取材を受けていると、それに乗じてインタビューでも写真撮影でも必ず割り込んできて「でね! でね! 私はね!」と一方的に捲し立てる。漫画に何ら関係のない、地獄のようにつまらない単なる日常の出来事を開陳するだけのダラダラしゃべりが、大きな大きな吹き出しに詰め込まれた長い長いネームによって表現されるのがまた、見事です*2。
旦那が甘々なのをいいことに、アシスタントの前でも女王様のように振る舞い、コラムニストだの漫画評論家だのの肩書きの名刺を作り、ばらまき始めます。その名刺に描かれている似顔絵が、なをさんの妻であるよし子さんであるのがまた、すごい自虐ギャグなのですが、信頼感あればこそであり、またきついお話なので予防線を張っての処置でもあったのでしょう(『仮面ライダー』のプロデューサーさんは、お話の中で怪人に殺される人物などの名前が取引先のエラい人と被らないよう、率先して自分の名前を使っていたと言います)。
キリなしに逆上せ上がり続けるタイコですが、クライマックスでは大物少女漫画家、迷中マリ(パーティに幸子フルなものすごいスタイルで出現する)に「亭主の威を借りる糞女房」と的確に罵られ、また同時に旦那の漫画の人気がなくなり、あっと言う間に落ちぶれるところでおしまい。
富野由悠季監督が何かの雑誌で漫画家志望の少年に相談を受けた時、「『まんが極道』を読みなさい。あれば全部実話です」と答えたといいます。そう、本シリーズは漫画的ディフォルメはあるし、当然固有名詞などは変えてはいるものの、恐らくどれもこれも実話が元だろうと想像できる、リアルな話ばかりです。
タイコは本当に実在します。
タイコのような人物は、本当によくいるのです。
ただし、本作においてはアシスタントたちが内心ではタイコを疎ましく思っており、また、最後は旦那とも離婚したとナレーションが入って終わるのですが、実在するタイコは「本当に、周囲に溺愛されている」ことが多いように思います。
何か重篤な勘違いによるカルト的カリスマ性を獲得したオタサー姫というのは、この業界には本当に多い。こういう人々は正常な人間性を持っていれば間違ってもしないような低俗で下劣で卑怯で完全に狂った振る舞いを平然と行い、周囲もまたそれを、格好のいい行為であると信じきって賞賛し続ける、というのが特徴です。ISISにも負けぬ正義っぷりと申さねばなりません。
こういうのは、(単純に大物作家の妻という人もいるのでしょうが)出版社、出版業界そのものを「亭主」にしているとでも形容した方がいいように思います。内田春菊に端を発する「性を描く」ことを売りに出て来た(内容のないつまらぬ)女流作家って、そういう感じですよね。こういう人たちは亭主が落ちぶれることがないため、余計にしぶとく、タチが悪いんですな。
*2 もう一つ言うと、彼女は「夫の受け売りでよく理解しないまま、他の漫画家に対する批評」を並べ立てては酒の席で「タイコさんの毒舌にはまいっちゃうなぁ」と言われています。この業界、とにかく女性、特に「男前」と称して下品な振る舞いをする女性に弱い人々が多く、舌を巻くほどリアルな描写です。
――さて、ちょっと遠回りになりましたが、再び「蓑竹ヨブコ」についてです。
前回、彼女について、「夢脳ララァ」と対になっていると申し上げました。
彼女の名はまさに「夢脳」の対極の「身の丈」。
先に挙げたエピソードで、ヨブコは「オタサーの姫」にオタサーを追われました。
その後*3、中堅漫画家の亀島洞洞のアシを務める話があり、この亀島は女性アシスタントを愛人としてハーレムを形成していたキャラクターなのですが、そこからも(ハーレムに加わらないまま)ドロップアウトし、6巻「ステキな人だから」では再び主演を務めます。
彼女は上のエピソードを見ても「マジメだが生硬」、「技術はそこそこだがプロとしては今一歩及ばず」といった描かれ方をされてきたのですが、ここへ来てそれなりの作画力を得て(事実、絵が下手に描かれていたのが、このエピソードでは上達しています)、連載を持つも打ち切り、というのが話の発端になります。
プロとして一皮むけるには……と悩んでいるところをバーで知りあった男と関係を持ち、そうした経験が作品にもいい意味で反映され、編集者にも評価されるように。
で、まあ、本作のカラーを知ってる方なら何となく想像がつくと思うのですが、その男がタチの悪い人物で、騙されて企画物AVに出る羽目に。しかしそうした男性経験を肥やしにして、彼女自身も一皮むけたことを暗示して話は終わります。
一方、ラストの一コマで「男性関係を肥やしにできないタイプの女」としてララァが(同じ男に引っかかっているシーンが)登場するのも示唆的です。
つまりある種の熱血根性物として、ノブコはいい女、格好いい女として描かれているわけですね。
何故、ヨブコは格好いいのか。
それは「男みたいだから」格好いいのではなく「女である自分から逃げてない」から格好いいのです。
もっと言えば、ヨブコをララァやタイコと対比させていくと、各々が「女から逃げていない女」と「女に逃げた女」という好対照であるとわかります。
リベラル君には「男みたいだから格好いい女」であると捉えられているフェミが、どこまでも「女に逃げた女」であるということはもはや、語るまでもないでしょう。
だから、彼女らは格好悪い。
ヨブコは男に頼ることなく、女から逃げることもなく向きあい続け、一人で泥にまみれ、そして格好いい女になったのです。
*3 実は上に挙げた「サークル」の次のお話もまた、「駄目サークル」というヨブコの主演話で、ここでは一転して(エロ)同人誌サークルとして活動はしているものの、およそ非生産的なオタ話ばかりしているサークルが舞台になっていました。そのサークルに関わってしまい、切れるヨブコ、というお話なのですが、このエピソード自体は特にサークルクラッシュが描かれることもなく、終わってしまいます*4。
*4 このお話のラストでは、ヨブコが「マジメにやれ」と切れたことにサークルの中のインテリ君が逆切れして刃物を振り回し、死人が出るところで終わっています。その時点で話がバッサリと終了し、以降が描かれていないために「サークルクラッシュが描かれない」と解釈しましたが、考えればこの展開は前作「サークル」と全く同一なので、本作においても「サークルはクラッシュして終わった」と解釈すべきかも知れません。ここでは専らこの女性慣れしていないインテリ君が悪いのですが、善悪はおくとして、女性が加わることで男性の共同体には緊張が生まれるよな(だからやっぱ「ホモソーシャル」なんて概念はバカげてるよな)、という当たり前のことこそが、ここでは描破されていると考えるべきかも知れません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます