さて、前回のエントリ、ひょっとするとですが混乱した方がいらっしゃるかも知れません。
途中まで「なるほど」と思って読んでいたのに、オチのどんでん返しが意味不明だ、そんな感想があったかも知れません。
そのどんでん返しこそが、ぼくの言いたかったことなのですけれど。
「フェミニズムはチャージマン研である」をあわせて読むと、少しわかりやすいかも知れません。
ぼくが言いたかったことは、要は違う時代に作られた物語を現代の価値観をそのまま適用して評価を云々することはバカらしい、ということですね。そしてその時重要なのは、必ずしも(それは例えば当時の特撮技術の低さを割り引いて考えようとするように)「当時の価値観を、寛大に割り引いてあげる」ばかりではなく、当時の作品を観ることで、「現代の価値観そのものが絶対性を持つものなのか」にも思いを馳せてみる柔軟さなのだ、ということになるかと思います。
さて、前回のエントリでも「チャージマン」においても、ぼくは「敵をやっつけるか/受け容れるか」の対立項の中で、話を進めてきました。
といっても、それはあくまでネタに選んだ作品のテーマに話を準えていたからであって、ここをもう少し「リアル系」な作品をネタに考え直してみるとどうでしょう。
そう、例えば『ガンダム』を素材にしたとしたら。
……と意味ありげに書いておいて何ですが、実はぼくは、『ガンダム』について詳しくありません。以下に偉そうなことをずらずら書き並べ立てますが、まず最初に、それが『スパロボ』基準の知識であるということをお含み置きください。
ここでしてみたいのはファースト『ガンダム』と『SEED』との対比です。
言うまでもなくファースト『ガンダム』は富野由悠季監督の作り上げた、日本のアニメの金字塔とも言うべき作品です。『マジンガーZ』に代表される勧善懲悪のアクション活劇であったスーパーロボット物アニメを言わば戦争ドラマとして換骨奪胎し、正義対悪の単純明快な世界観を否定、そしてまた「正義の味方」であることを保証され、敵と戦うことに何ら迷いを見せない熱血漢の主人公を思春期独特の迷いを持つナイーブな少年へと置き換え、人間ドラマを描きました(ただし、この『マジンガー』との対比は永井豪の暴力的な世界観に負うところも大きく、円谷作品にはかつてから地球側の正義に懐疑的な作品もあり、また70年代の特撮ヒーロー物には結構、戦うことに屈折した感情を抱くヒーローが多かったこともお断りしておきます)。
アニメ界に「思春期」をもたらしたとも言うべき『ガンダム』は登場後、そのエピゴーネンを乱発させ、今に至るまで続編の作られる人気作品となりました。
さて、そして今世紀を迎え、言わばファースト『ガンダム』のリメイクとも言うべき形で作られたのが『ガンダムSEED』です。これはファーストとは世界観を異にし、また監督もファーストとは異なる、言わば新世紀版のファーストを目指して制作された、「アナザーガンダム」とも言うべき作品でした。
そしてまた、本作は昔からの『ガンダム』ファンに、殊更に評判の悪い作品でもあります。ある意味では平成『仮面ライダー』同様、あまりにも腐女子に媚びたイケメン重視のキャラクターが煙たがられている面もあるようですが、必ずしもそればかりではなく、ストーリー展開や演出などにもかなりまずい点があったようです。そのため、『スパロボ』に『SEED』参戦が決まった時には、ファンのブーイングの嵐になりました。
ところが。
いざプレイしてみると――すみません、あくまでゲーム、『第3次スーパーロボット大戦α』をプレイした限りの感想ですが――『SEED』のシナリオ、ぼくはなかなか面白いと感じたのです。
上にも書いたように『SEED』はファーストのリメイクであり、本家のモチーフを多分に継承しています。地球連邦とコロニーとの戦争といったモチーフもそうであり、そしてまた作中に「新人類」とも言うべき「コーディネーター」という存在が登場することもそうでしょう。
ところが、この設定はファーストにおける「新人類」、即ち「ニュータイプ」とは全く意味あいが違うのです。
ファースト、そしてその正統な続編である『Z』『ZZ』などといった作品のキーとなる「ニュータイプ」とは、他人と交感する能力を持つ、「古い地球人」とは異なる優れた新人類です。その能力はエゴイズムやレイシズムを乗り越え、人と人とを繋ぐ希望とも言うべきものであったはずが、しかしロボットのパイロットとしても有効利用ができるため、軍にまるで兵器のように利用されるという、両義的な存在。
しかしここに、ぼくはちょっとした引っかかりを、覚えないでもないのです。
リアル系の元祖であり、「勧善懲悪を廃した」と評される『ガンダム』ですが、しかし「ニュータイプ」という概念は、実のところ無批判に聖性を持った善なる者、ある種、わかりやすい「善なる被害者」「聖なるマイノリティ」として描かれているのです。作中ではニュータイプ能力に目覚めていない「古い地球人」は「オールドタイプ」と呼ばれ、ここからは明らかに「ニューエイジ」思想の影響が見て取れます。
そして、富野監督自身ではなく若い世代のクリエイターたちがこのファーストの世界観(宇宙世紀)に則った作品を描くと、皮肉なことに決まって「ニュータイプ/オールドタイプ」の違いなど意味はない、俺たちは同じ人間だ、みたいなオチがつくことが多いように思えます(あれ? 『ZZ』もそうだっけ?)。
ここには、イデオロギーや国家と言った文脈での善悪を否定しつつ、しかし実のところ「マイノリティは、弱者は無批判に善なる者なのだ」という、言ってみれば「今風の善悪基準」が取り入れられている、考えようによっては「安易な善悪二元論」が、見て取れなくもないのです。
ところが、『SEED』はそうではありません。
「コーディネーター」というのはDNAを操作することによって人為的に作られた、優れた能力を持った新人類です。DNA操作を行われない旧人類は、対比して「ナチュラル」と呼ばれています。『SEED』において描かれるのは、「コーディネーター」と「ナチュラル」の世代間闘争であり、人種間戦争です(この両義性がニュータイプ/オールドタイプと同様であることに留意)。
しかし本作において、「コーディネーター」は「優れた能力を持つが、それ故に差別と偏見に晒される聖者」であると同時に、「優れた能力を鼻にかけ、旧人類を見下す悪者」としても描かれるのです。同様に「ナチュラル」も「強者に虐げられる被害者」であると同時に、「マイノリティである新人類を気持ちの悪い異物として排除しようとする差別者」でもあります。
いや、ぼくの乏しい知識では何とも言い難いのですが、マジョリティ/マイノリティをそのまま強者/弱者へとスライドさせる幼稚な二元論をここまでストレートに廃して見せた作品って珍しいのではないでしょうか。
この一点をもって、ぼくはある意味、『SEED』が極めて優れた、ある意味ではファースト『ガンダム』を超えた構造を持ち得た作品であるように思うのです。
むろん、これはあくまでアニメ作品の一要素についてのみの評価であり、ぼくはそもそもアニメそのものを観たことがないわけですから、ここで『SEED』がファースト『ガンダム』よりも全面的に優れているのだ、と主張したいわけではありません。ただ、『SEED』の方が「より先を行った人間観」をこの一点においては持っているのだ、と言いたいのです。
(ちょっと混乱があるかも知れませんので、ここで簡単に補足。旧ドラと新ドラについては、ぼくは両者の「タカ派の世界観」も「ハト派の世界観」もどちらも否定できないものであると考えています。ただ、ファーストと『SEED』についてはその「マイノリティ」観のみをすくい取ってみれば、明らかに後者が優れていると、ぼくは考えます)
さて、ではどうしてここまで『SEED』は優れた作品たり得たのでしょう?
やや乱暴ですが、ぼくには「ラウ・ル・クルーゼ」がその謎を解く鍵を持っているような気がするのです。
さて、以下はラウ・ル・クルーゼについてのネタバレになります。今時いらっしゃらないとは思うのですが、知りたくない方はお読みにならないように。
このラウ・ル・クルーゼは言ってみればコーディネーター側のボスキャラです。明らかにシャアを意識した仮面をつけており、初めて見た時は何だかパチモンキャラのように思え、意味もなく笑ってしまいましたが。しかし彼はコーディネーター第一号であり、優れた能力を与えられて生まれてきたものの、プロトタイプであったがため肉体は急速に老化し、寿命が異常に短いという宿命を背負っていました。そのため、彼は全てを憎むようになったのです。『スパロボ』のクルーゼ戦において、「世界を滅ぼす権利が、私にはあるのだよ!」という特殊ゼリフを叫びながら攻撃してくる様は圧巻でした。
即ち、冷戦時代には「大きな物語」が生きていた。だから悪者は「何か、ナチスの手先」「何か、共産圏っぽい全体主義国家」にしておけば、こと足りた。
しかし「大きな物語が終焉」を迎え、ある種、悪者は個人的なルサンチマンで動かざるを得なくなった(シャアはまだしも大義名分を信じていたと思いますが、やはり若手のクリエイターの作り出した『クロスボーンガンダム』でも、ラスボスが大義名分をかなぐり捨て、個人としての呪詛を吐き出す場面があり、象徴的に感じました)。
即ち公から個の時代に向かうにつれ、創作の世界でも専ら人間の内面へとカメラアイが向かうようになったわけです。敵と戦う理由の見つからないシンジ君の話はその最たるものでした。
しかしそうなると悪者の行動の源泉も内面に求められざるを得ない。そこで(それこそ「貧困」などにはリアリティを感じられない以上)虐げられた者の疎外感、それ故のルサンチマンといったものが悪者のモチベーションとして選択されることはある種、必然でした。何となれば、今の世の中で一番、価値を持っていることは「平等」、なのですから、そこから外されることが一番非人道的な扱いである、というのが今の世の中のルールだからです。
即ち、『SEED』を例に採るとするならば、その悪役側の設定は以下のような経緯で作られたことが想像できるのです。
1.悪者のモチベーションを「マイノリティとしてのルサンチマン」というものにしよう。
↓
2.でも、黒人などの「ホンモノのマイノリティ」って出せないよな。
↓
3.登場するマイノリティはコーディネーターなどといったSF的な創作物にするしかない。言わば、架空の「非実在弱者」「人工弱者」を生み出さざるを得ない。
↓
4.更に、カメラアイが個人の感情へと向かう以上、「非実在弱者」の口を突いて語られるルサンチマンも必然的に作り手の主観を反映させた、ある種のリアリティを持ったものになる。それこそ「寿命の短い人間として生み出された」といった設定上は非現実的なものであれど、そこで吐露される感情それ自体は「もっと生きたい」であるとか「(マイノリティではなく)みんなと同じ存在になりたい」とかいった、ある種、「了解可能な感情」に、必然的になってしまう。
これは、誤解を恐れずに言ってしまえば「マイノリティの、マイノリティ性のチャラ化」「マイノリティ性の平等化」です。
つまりこうした創作物は必然的に、「マイノリティの苦悩、苦しみは時に『悪』を生み出す。しかしその内面は、ぼくたちマジョリティである人々にも了解可能なものだよ」とのメッセージを、発することになってしまったわけです。
これは大変なことだと、ぼくは思います。
マイノリティの聖化は、まさにマイノリティの不可侵性、マイノリティのマイノリティ故の特権性に依ったものだからです。
だからマイノリティの弱者性をイデオロギーに利用しようとする者は、口先では「マイノリティも我々と何ら変わることのない、同じ人間だ」と主張しますが、実はそんなことは、全く信じてはいません。
これが例えばですが、実在弱者を取り扱った小説であればどうでしょう。白人が黒人問題を扱った小説を書くとしたらかなり神経質にならざるを得ず、一歩退いたものにならざるを得ないのではないでしょうか。女性が書いた小説は、まさに「女性が書いたこと」自体がある程度その価値を保証していることは、みなさんが実はお気づきになっている通りです。
ここでオタク文化はSFやファンタジーと言った手法をもって、言わばそうした人権ファシズムを打破したのだ――とか言い出したら、言い過ぎでしょうか?
前回、ぼくはとある漫画家さんの劇場版『ドラえもん』評に対して大いに噛みつきました。それは「評論」という「世間のお約束に添った言葉」を語ることがいかに作品の持つ生命力を殺していくかを実感し、憤懣やる方なかったからです。
しかし今回ここでぼくが提示した『SEED』の例は、仮に作品としての完成度そのものは高くなくとも、そして仮に作り手が意識していなくとも、創作というのは時として、現代の硬直した「お約束」をいとも簡単に打破する力を見せるのだという一例と言っていいかと思うわけです。
さて、今回も結論部分はいささか駆け足になってしまいました。
正直、ここを詳しく書くのは大変なので、どうしても「ちょっとずつ」になってしまうと思うのですが、今回はこの辺で。
>>「ニュータイプ」という概念は、実のところ無批判に聖性を
>>持った善なる者、ある種、わかりやすい「善なる被害者」
>>「聖なるマイノリティ」として描かれている
大変恐縮ながら、極めて偏った見方だなぁと感じました。
ぶっちゃけ、シャアばかり見て出てきた言葉に思えます。
というか、いわゆるジオニズムだけを見ているような。
平たく言えば、オールドタイプ=連邦軍のエラいさん、と。
アムロとシャアが描かれる時、必ず描かれるもう一人──
ブライト・ノアという人物をちゃんと組み込んで考えれば
「ファーストはSEED以下」なんていう結論は出ないと思うのですが。
むしろ、ブライト・ノアの存在とその描かれ方がある限り、
SEEDは“現代の硬直した「お約束」をいとも簡単に打破”なんて
できてないのではないでしょうか。
少なくとも、SEEDの監督も脚本家も、ブライト・ノアのような
ポジショニングの意味に気づいていないと思われます。
はい、偏った見方です。
何しろまずぼくは『スパロボ』でしか『ガンダム』を知らないし、そもそもこのエントリは作品論として書かれたのでもないですし。
ただ、もしガンダムファンであるpochi_mk2さんの気分を害してしまったのであれば、申し訳ありません。
しかしおっしゃることは今一、よくわかりません。ブライトってニュータイプじゃありませんよね?
もしよろしければその辺りをご教示ください。
そうです。それでいて、アムロとシャアが描かれる時、
必ずそこにブライトも描かれるのです。必ず。
3人はセットと言っても過言ではありません。
なぜオールドタイプであるブライトも必ず描くのか、どのように描くのか。
そこを読み解かれた上での、「ニュータイプ」は「聖なるマイノリティ」として
描かれている、というファーストについてのジャッジであるというのなら、
オールドタイプについては連邦という組織を、ニュータイプについては
個々人を見るという誤謬が発生しているのではないでしょうか。
あるいは、ニュータイプ論として“シャアの演説”と“カミーユの悲劇”
あたりだけを見ているか。
逆に、読み解いていない状態=本当にスパロボしか知らない状態で
ありながら、両“物語”作品の根幹部分(に“なってしまった”)、
ニュータイプ論およびコーディネイター論を持ち出してくるのは、
詰まるところ「伝聞」に基づく論理展開となります。
その点から、「オタク文化はSFやファンタジーと言った手法をもって、
言わばそうした人権ファシズムを打破した」という事を記すための
論拠にするべきではないと考えます。
ぶっちゃけ、「マイノリティ性の平等化」についてだけを述べるなら、
ファーストで既に実現していて、逆襲のシャアで完成しています。
だからこそ富野氏自身、その後のF91/V/∀では、ニュータイプ論を
(良い意味でも、悪い意味でも)放ったらかしてますし。
ただ、作品と製作者ではなく、視聴者側を見てみると、そちらに
「聖なるマイノリティ」的な受け止め方が存在していると感じます。
シャア人気は、そういった要素も含まれたうえでのものだな、と。
その根底にあるのは、本エントリにも記されている
「分かりやすい善悪二元論」でしょうね。
>その点から、「オタク文化はSFやファンタジーと言った手法をもって、
>言わばそうした人権ファシズムを打破した」という事を記すための
>論拠にするべきではないと考えます。
全くおっしゃる通りです。
まずはここが結論ですね。
ただ、正直、今からシリーズ全部を制覇する根性や時間というのもなかなか持てず、どうしようかと思っております。
それと(ここは何となく共有できているようですが)「ファースト」という言葉を使っていますが、ここには『Z』以降の宇宙世紀シリーズを含めるべきでしょうね。
ファーストはそこそこ観ていたはずですが、ニュータイプというものに対しては「希望」のような形でちらっと触れていただけだったように思います。
むしろ『ZZ』などでの強化人間を含めた扱われ方がまさに「聖性を持った弱者」と表現するのにふさわしいと思うのですが、どうでしょうか。
(『スパロボ』自体、この時期が舞台になることが多いですし)
>ファーストで既に実現していて、逆襲のシャアで完成しています。
逆ここはよくわかりません。
『逆シャア』は一応は観ているのですが、どちらかと言えば専らシャアの「世直し」が主題ですし、敢えて言えばクェスなど「利用されている弱者」という感じですよね。
クローンですがナチュラルです。
ムウ・ラ・フラガの父親(アル・ダ・フラガ)が、息子のムウでは跡継ぎには出来ないとして自身のクローンを作らせた…それがクルーゼです。
基本的に、フラガ家は特別な才能がありそれで財をなしてきた。で、その能力のためにアルはコーディネイターではなくクローンを作らせた
アルが40~50代のときに作ったクローンであるため、テロメアが短い…それがクルーゼが老化してる理由です。
なので肉体はいたってナチュラルであり、ザフトのトップエースたるのはフラガ家の才能です(笑)
クルーゼが失敗だとわかったとたにアルに捨てられてしまいます。そのためにフラガ家を憎みアルを殺害して
プラントに渡りSEEDに至ります。
クローン(クルーゼを)作ったのはキラを生み出したユーレン(キラの父親)の会社で、スーパーコーディネイターの研究資金を得るかわりにアルからの依頼を受けた(作中ではクローンは禁止されています)
そのためにクルーゼは世界を非常に憎んでいる
ちなみに老化を隠すために仮面をしている(中身をしわくちゃ)ということでしたが
後に販売されたスペシャルエディションでは、仮面がはがれたシーンが追加されて、普通に若い顔になってました(笑)
仮面の意味がまるでない…ただの仮面マニアに(笑)
自身は作られた人間であることや、遺伝子操作の技術を公開した。このためにのちにコーディネイターが生まれました
コーディネイターはこのときに、地球とまだ見ぬ宇宙を繋ぐものをコーディネイター(調整者)と名付け、自分がそうであろうとするこど…また自分の後に続く者がいることを願う…
といったことから遺伝子操作を受けた人間をコーディネイターと呼ぶようになりました(だだしジョージの真意は上の通り遺伝子操作を受けたもの表すわけでない)
またこれから現れるである「新しい人類」が「現在の人類」に受け入れられるように調整役になる者という意思もこめられている
なのでジョージの信奉者はナチュラルに多く、暗殺されたあとジョージ遺体はプラントではなく、地球のG・G友の会によって保管されている(GG友の会のスタンスはG・G以外のコーディネイターはGGを形だけ真似た偽物)
言われてみるとジョージ・グレンの名前は聞き覚えがあります。
宇宙クジラがどうこうとかいう意味のわかんないエピソードの時に出てきたような……。
しかしクルーゼがコーディネーターじゃないとは。
何だか本当にアホみたいですね。
考えようによってはコーディネーターのトップがナチュラルというのも象徴的な気はしますが……。
本当にうろ覚えの記憶(というよりゲームをざっとやっただけの曖昧な知識)でものを書くもんじゃありませんね。
この作品で謎なのはなんでコーディネイターというアイデンティティが形成されたかですね。
ジョージが遺伝子操作技術公開した翌年には国際法で禁止され、世界的に批准して法規制がされるんですよ。ラクスやアスラン父親も規制後に生まれた非合法なコーディネイター、本来おおっぴらにできるようなことでもないのにコーディネイターでございという連中が現れてる。
本来非合法であり、まっとう自慢できることでもないのに、子供時代のアズラエルをひねりあげたコーディネイターのように新人類だのコーディを自慢する馬鹿ガキがあわられてるあたりロクな親じゃない気が
遺伝子いじってたって親や親の所属するコミュニティーによりアイデンティティ形成がされるわけだし
ナチュラルのクルーゼや、また、ナチュラルとして生きるオーブのエリカ・シモンズ(本当はコーディネイター)、また免疫以外は遺伝子操作されていないイライジャ・キールなどナチュラルとコーディネイターの線引きかなり曖昧でコーディネイターがナチュラルとして、ナチュラルがコーディネイターとして生活してもバレないから、親が子供にお前はコーディネイターだと言っわないかぎりコーディネイターというアイデンティティは形成されないはずなんですよね…世界的に法規制されてるから、戸籍や市民登録、社会保証登録に記載が必要なわけでもないだろうし
設定上やその他公式作品からわかるのは
○プラントコロニー群は連合(プラント理事国)により建造された施設でザフトは不法占拠して独立を唱えている
○血のバレンタイン(核攻撃)はコロニーをザフトが勝手に改造したためで、採算警告をしていて。武力排除、攻撃前に開戦することを連合は発表している(公式外伝にはザフトに疑問をもっためにプラントから連合に退避したコーディネイターもいます)
○ニュートロンジャマーで原発がとまりエネルギー不足で10億(地球人口の10%…非交戦国も含む)が凍死&餓死
どうもコーディネイターの状況をつくったのは自業自得に見えていまいちなんですよね…
設定部や外伝とアニメの連携がうまくないのか
ぼくの中で『seed』というのは「プラントに住むコーディネーター」と「地球に住むナチュラル」が戦争をしている、というイメージでした。
それは、考えようによっては「悪の○○星人が攻めてきたぞ!」というのとあまり変わらない単純な設定のようにも思えるけれども、考えようによっては911以降の世相には似合っているとも言える。
ファーストの世界観は(リアルリアルと言われているけれども意地悪な見方をするならば)「国家権力というワルモノvsジャクシャである個人」といういささか単純な図式だ、という言い方もできる。
ここで敢えてニュータイプ=コーディネーターと考えてみれば、『seed』の世界観は「ニュータイプが『俺たちはマイノリティだ』とカワイソぶっていたけど、いつの間にかつるんで悪者軍団になって攻めてきますた」という、ファーストに対する皮肉であるとも取れなくはない、みたいな感じがしていたんですよね。
むろん、作り手はそんなことは意識していないでしょうし、お話を伺ってみる限り、実際には「コーディネーター」という概念を何とか描写しようとしつつ、今一、力及ばずだった、という感じもしますね。
ただ、お話を見ているとコーディネーターのやってることって一部のオタクが「アキバ解放同盟」とか言って運動してるけど、一般のオタクはどっ退き、みたいな図にも見えましたw
これもある種、リアルなマイノリティの姿という気もしますw
兵頭さんのミスで図らずも浮かび上がったのですが、SEEDのキャラクター設定って「マジョリティとマイノリティは相対的なもの」という構図そのものですね。左派の人たちの描く固定化されたマイノリティとマジョリティの構図とはえらい違いです。
ナチュラルとコーディネーターの設定もそうですが、主人公はナチュラルの社会で生きるコーディネーターであり、ラスボスはコーディネーターの社会で生きるナチュラルという設定もまた構図の複雑化に一役買っています。
それにキラ・ヤマトはコーディネーターとしては最高レベルの人口子宮で産まれた者であり、クルーゼはナチュラルではあるが、クローンということで完全に言い切れない半端者という設定も。
(そりゃーキラを恨むし、世界でも滅ぼさなきゃやってらんないでしょうね)
私は設定資料集とかインタビューなどは読んでいないので制作者がどこまで自覚的だったのか知りませんが、確かにナチュラルとコーディネーターの設定はかなり優れていますし、これを生かせず、ファーストの劣化コピーだの腐女子ガンダムだのいう評価しかされてないのは凄く残念だなぁとしか言えません。
特に続編のSEED DESTINYは…もう何も言うまい、みたいな。