何だかすっかり涼しくなって来ましたね。
ローソンとセブンイレブンがおでんの安売りの予告なんかしてましたが、毎年こんな早くから売り始めるモノでしたっけ? それとも冷夏だから特別?
さて、そんなわけでこの夏を通して行われた「男性学祭り」も今回が最終回。
そもそも「男性学」「マスキュリニズム」復活のきっかけになったのはこの御仁の活動がきっかけではないか……とぼくが睨んでいる、久米泰介師匠。その『日経ビジネスONLINE』での連載を、祭ってみましょう。
なお、この連載の前フリとも言える記事についてのぼくの所見は、「「女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」男性の「生きにくさ」は性差別ゆえかもしれない」を読む」を参照してください。
また、それぞれの記事に「第○回」と付しましたが、これは元の連載にはなく、こちらが便宜上につけたものであることをお断りしておきます。
第一回 タイタニックから逃げられない男たち 「男性は強者である」という神話
まずはこの表題、そして
男性差別を可視化するには、まず「男性=強者、女性=弱者・マイノリティ」という構図が「神話」であるということを解明しなくてはならない。
といった箇所が象徴するように、スタート地点ではぼくと久米師匠は全くの同意見、師匠のおっしゃることに100%賛成です。
しかし記事後半、「フェミニズムもマスキュリズムもゴールは同じ」という節タイトルを見るに、脳裏にふと不安が過ぎり……そして大変に悲しいことなのですが、その予感は的中することになってしまいます。
師匠は「欧米の軍隊においても女性は守られている」というご自分の訳書には書かれていた*1事実を伏せ、
例えば兵役が男性だけに強制されていることを、マスキュリズムは「男性の命を犠牲にする男性差別だ」と批判するし、フェミニズムは「女性が指導的地位に就けないから兵役が男性だけなのは女性差別だ」と言ったとしても(後者は男性への差別を見て見ぬふりをする言い分のようにも取れるが)、いずれにせよゴールは一緒で、兵役を男女平等にするということだろう。
と書きます。上野千鶴子師匠が兵役について問われた時、答えをはぐらかしたことなど、彼はご存じないのでしょうか。
*1 男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問
第二回 男性のレイプ被害者「ゼロ」の日本 口に出せず、ケアも受けられない
ここでも師匠は
男性差別撤廃のゴールは、政治家の男女比、管理職の男女比、自殺者における男女の割合、片親家庭の父母の割合、離婚後に親権を取る父母の割合、これらがすべて等しく5:5になることだろう。
と飛ばしまくります。
ぼくはそんなことは目指すべきではないし、「ジェンダーフリー」の失敗を見るに、目指してもムダだと考えるのですが(しかし「自殺の男女比も平等にせよ」などとぎょっとすることを平然と口にする蛮勇ぶりは、ちょっとステキです)。
彼のスタンスは徹底的なジェンダーフリーであり、
もし男性差別を感じたり、その当事者になったりしても、「復古主義者たち」にはならないでほしい。フェミニズムを批判すると復古主義者に吸収されたり、同調してしまったりする人が結構いる。しかしそれでは男性差別はなくならないし、解決しない。時計の針を元に戻すことなど不可能だし、性差別の根本的な解決にはまるでならない。
と腐します。
しかしぼくには、彼らのような特殊な偏向を持った人々が口にしたがる「復古主義者」というのがどこにいるのか、全く見えてきません。
恐らくですが、久米師匠には兵頭新児が「復古主義者」に見えていることでしょう。
しかしぼくは殊更にかつての日本が素晴らしかったとのヴィジョンに取り憑かれているわけではなく、彼らの脳内では「あったこと」になっているジェンダーフリーの無効性を鑑み、ひとまずそのイデオロギーには退場していただく他ない、との考えを持っているだけなのです(或いは、彼らにとっては「さすがに共産主義はないだろう」というスタンスの人も復古主義者に見えているのかも知れません)。
さて、この回は表題が示す通り、少年の性被害の多さについて嘆く箇所がメインです。その志自体は賞賛するにやぶさかではありません。ですが、しかし、それならば、フェミニストたちが少年への性被害を必死になって隠蔽し続けていることに対して、少しは憤ってほしいのですが……。
第三回 「女も戦場へ」は何をもたらすか 兵役という男性差別
女性が戦場に行くべきかという問いについて、実のところぼくは理念としては賛成です。
恐らく軍隊においても男性がやることが望ましい力仕事以外の作業はいくらもあるでしょうし、今時、女性の生命ばかりを優先して守ることはない。
(その意味で、やはりぼくは「復古主義者」ではないはずなのですが、師匠はそう言っても納得しないだろうなあ……)
南北戦争で起こったエピソードを、師匠は挙げています。
南部の男性たちの徴兵反対運動は、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けた。その後、南部の徴兵反対運動は挫けてしまう。
「女性は平和的な生物だ」などという神話を打ち砕くこの指摘は、非常に重要です。またそうした南北戦争で戦った男たちを、フェミニストが後年「男たちの暴力」と糾弾したこと、そのダブルスタンダードの卑劣さをも、師匠は指摘します。
ノルウェーの徴兵制の男女平等化に諸手を挙げて賛成する師匠。
その勇気は賞賛に値するとも、アカデミズムというバックボーンがあるだけで、ここまでの「危険思想」の表明が許されるのかとため息が漏れたりもします。だってぼくが言ったらきっとこれ、袋叩きですよね。
もっとも、欧米のフェミニストが軍隊に進出しようとしている様を採り挙げ、無批判で賞賛するのはどうかと思いますが(実態は先にも挙げた通りであると、師匠も知っているハズですから)。
第四回 「恋愛をリードできない男は逸脱者」という男性差別 性役割の不平等が生む「デートレイプ」と「草食男子」
今回、久米師匠は真っ先に「デートレイプ」の問題を持ってきます。
それはまるで、『女災社会』の一章が性犯罪冤罪について、に割かれていたのと同様に。
以降も「「加害者」は必ず「男性」」という節タイトルが象徴するように、久米師匠の筆致は男性の「加害者扱いされることの被害者性」をラディカルに論じていきます。もっともそこまでラディカルに「真実に気づいて」しまった人であれば、フェミニズムが完全なる妄論だと気づくはずなのですが。ちなみに「妄論」という言葉は今、ぼくが作りました。
実は今回、正直なところ表題を見た時点できな臭いものを感じとってしまいました。
結局、ここへ来て久米師匠、ジェンダーフリー論者の言説はその「無効性」を露呈せざるを得なくなるわけです。
要は、「ジェンフリ論者」は「モテない」からです。
いえ、「女災」論を学んでもぼくたちは「モテ」るようにはなりません。しかし「ジェンフリ」をフォーマットとする「マスキュリニズム」は(商売の都合上)あり得ない未来のヴィジョンを提示し「こうすればモテるよ、何となればもうすぐジェンダーフリー社会が到来するのだから」とのウソを垂れ流す「来る来る詐欺」に、どうしてもなってしまうベクトルを持っているのです。
その結果何が生まれるのか。
泣きながら「女性のみなさん、ぼくたち草食系男子です、つきあってください!」と哀願する森岡師匠*2、そして「女性のみなさん、『スラダン』の木暮君のファンになってください!」とストーカーのようにつきまとう田中師匠*3が生まれてくるだけです。
結局、そこに気づけなかった師匠は以下のように結論します。
だから恋愛における性役割でも、そのコストやリスクについて男女が等しく引き受け、恋愛において男女のどちらも、アプローチをかけたり受け身でいたりすることが共に許される社会にすべきだろう。
それは「反原発」同様に、理念としては大変に結構なのですが、どのようにすればそのような夢の社会が来るのかが、全く見えてきません(また、いつも指摘する通りにこうした男女ジェンダーが消失した社会では「萌え」も「BL」も消え果てていることでしょう)。
久米師匠はスタートラインでは「女災」理論に辿り着いた。しかしどこをどう間違ったか、結局は「ジェンダーフリー」を持ち出してお茶を濁さざるを得なかった、「復古主義者」なのです。
*2 最後の恋は草食系男子が持ってくる
*3 男がつらいよ
最終回 母系社会がはらむ、語られない男性差別 日本が抱える社会の不思議な二重構造
要は「日本は母系社会なのでそもそも男尊女卑ではない」との主張なのですが、正直、ぼくにとってはあまり興味の持てる話ではありませんでした。父系社会であるらしい欧米も当然、男尊女卑社会などではないのですから。
とは言え、これについては以前も一読し、当ブログのコメント欄で好意的に評しました。
というのも師匠が
要するにフェミニストには、男女平等を目指す者と、女性優位をどこまでも求める者の2タイプがいるのだ。後者に対しては学問上で徹底した批判が必要だろう。
と断言しているからです。
そろそろ結論をまとめることにします。
上の師匠の発言、大変に賛成できる、頼もしいモノです。
しかし同時に思うのです。少なくともこの師匠の言に添った文脈で言うのであれば、この世に「男女平等」を目指すフェミニストなど、どこにもいないのではないか、と。
フェミニズムとは「男性が根源的絶対的徹底的に女性を搾取し、利を得ているのだ」という世界観を前提とするガクモンです。ぼくはこれを全く認めませんが、いささかなりともフェミニズムを認めるのであれば、フェミニズムが「女性優位をどこまでも求める」ことは当たり前であり、正当であるとしか言いようがないのです。
ぼくが最近よく言う、「ツイフェミ」を、「ラディフェミ」を批判する「表現の自由」クラスタも同じような過ちを犯しているように思います。
彼らはグルに頭にはめられた緊箍児(孫悟空の頭のアレね)のせいか、フェミニズムは正しいのだ、ツイフェミは、ラディフェミは悪だが、真の、正しい、善なるフェミニストがどこかにいるのだと言い続けます(が、そのフェミニストの具体例が挙がったことは一度もありません)。
しかし彼らの(それ自体は大変に正当で鋭い)フェミ批判自体、そもそもフェミニズムを理解していれば出てくるはずのないモノ。
フェミニズムを適切に批判し、フェミニズムを盲目的に擁護し、フェミニズムを全く知らない。
それが、彼らの摩訶不思議な実態です。
ぼくはついつい彼らを攻撃してしまいますが、彼らは「悪の洗脳を抜け出そうと葛藤を続けているライダーマン」なのかも知れない、もう少し優しく接してやるべきなのかも知れない、とも思います*4。
久米師匠にも全く同じことが言えましょう。
本連載がきっかけで始まった「男性学祭り」ですが、伊藤公雄師匠、田中俊之師匠などといった「男性学」を称する人々の筆致からは、いずれもフェミニズムへの無制限無批判無限大の忠誠心、男性への無条件無軌道無反省の憎悪が溢れていました。
それに比べ、久米師匠の筆致からは男性への愛情を、フェミニズムへの懐疑を、何より「女災」理論に一歩近づく先進性を感じ取ることができました。
「後、もう一歩」と感じると共に、ジェンダーフリーへの無思慮無勘定無定見の信仰心は危うくも感じます。
最終回での頼もしい宣言のごとく、久米師匠はこれからフェミニズムに対して知見を深め、堂々と批判をしていくのか、それとも大人の事情で、それはしないのか。
ぼくたちは温かい目で、それを見守っていくべきかも知れません。
*4 『仮面ジェンダーV3』第44話「ツイフェミ対弱者男性」参照。
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