●腐女子の偽物をやっけろ!
さて、前回の続きです。
初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
前回のラスト、ぼくは北田暁大師匠の腐女子の持ち上げを見ていると、腐女子に同情してしまう、と書きました。
そう、本書はあらゆるフェミニストの著作がそうであるように、「男性をただひたすら凄惨に虐げ、貶めるのみではなく、女性までをも犠牲にする」ことにも注力した書だからなのです。
北田師匠は山岡重行氏の『腐女子の心理学』という著作にいたく激おこです。一体何をそこまで、と思うのですが、何しろぼくも山岡氏の著作は未読なので、本書の引用を孫引きしてみましょう。
幸い、オタクは腐女子よりも、異性と親しくなりたいという欲求が強い。共通の話題があって、腐女子が少し好意的な態度を示せば、簡単にオタクと仲良くなれるはずである
(293p)
(293p)
念を押しておきますが、上は本書293pから孫引きした、山岡氏の著作中の文章です(ちなみに山岡氏が「オタク」という時、オタク男子のみを指しているようです)。
これに対する北田師匠の評が以下です。
「腐女子」は、戦後家族的な性別役割規範に対してきわめて否定的な立場をとっており、一方で「男性オタク」は、もっとも家族の戦後体制に適合的なジェンダー規範を持っている。この対照的な両者をたかだか趣味が共通しているという点で「仲良くなれる」とするのは、いささか楽観的にすぎる。
(239p)
山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
(286p)
(239p)
山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
(286p)
「オタク」は「生き方」であり、「道」であるのは周知ですが、それを「たかだか趣味」と言い捨てる北田師匠の認識は、一体どうしたことでしょう。これではいかに「こんにちは、801ちゃん」と哀願の限りを尽くしても、腐女子を「彼女さん」にすることは叶いそうにありません。
それはともかく、どう思われましたか? みなさんw
何だかどす黒いものが胸に沸き立ちますねw
まあ、その、学術書(なのでしょう、多分)において上のような「アドバイス」がなされているのは、確かに余計なお世話という気もしないではありません。
一方で実際にオタク婚活パーティーが開かれたり、オタ婚している男女だって珍しくない以上、「アドバイス」としてはそれほど外してもいない、常識的なものだとの感想も持ちます。
が、奇妙なのは北田師匠がこの「アドバイス」を、憤死せんばかりの勢いで「あってはならぬもの」としている点です。
いえ、実のところ、ぼくも山岡氏に大賛成というわけでは全くありません。もし今、北田師匠とぼくと本田透氏を一つの場所に連れてきて並ばせたら、きっと皆一様に顔を鼻水でパックしながら血涙を迸らせ、地団駄を踏み鳴らしている光景が見られることでしょう。
しかしぼくたちの地団駄の理由は、師匠とはいささか異なります。
「同じ趣味の者同士、男女交際しよう」はもちろんそれなりに理のある一般論なのですが、そうそううまくいくかどうかは疑問です。
理由を、思いつくままに並べてみましょう。
1.まず、オタクコンテンツというのはかなりラディカルに男性向け、女性向けに分かれていること。
2.男女共に人気のあるコンテンツとなると化け物的なヒット作品であり、殊に近年、そういうのは少ないこと。
3.またそんなヒット作でも、それこそ北田師匠が重視する「二次創作」を見れば自明なように、市川大河アニキが自分の「彼女さん」が「801ちゃん」であったと自称していることを見ればわかるように、その楽しみ方が男女でまるきり分かれること。
まあ、こんな感じでしょうか。これはある種、オタクコンテンツが人間の欲望をストレートに描き出すものである以上当たり前であり、いかに大河アニキがデマを垂れ流そうが、事実は変わらないということでもあります*1。
また一方、山岡氏が指摘しており、本田氏も同様なことを言っていたように「オタク男子はオタク女子が好きだが、オタク女子はオタク男子が好きではない」という傾向は、ある程度言えるように思います。これは一つには、オタクに限らず、男子の方が女子を求める傾向が強いということでしょうが、同時に「オタク趣味は男らしさとは相反するが、女らしさとは必ずしもそうではない」という事情にも起因するように思います。やはり、オタク男子とオタク女子では、前者の方がよりモテないのです。
しかし北田師匠は、前者はもちろん、後者の論法も全く歯牙にはかけません。
何しろこの直後、師匠は得意の絶頂で絶叫しているのですから。
腐女子は「現実の対異性関係になれておらず、そこから逃避する非社交的」な人たちではない。事実はまったく逆で、腐女子こそがもっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感(sensitive)なのであり、その対極にあるのがデーターベース消費に生きる男性オタクである。
(286p)
(286p)
ここでも「データーベース消費」とやらを根拠に、いちいちオタク男子をdisっています。
師匠の主張で一番おかしいのは――もちろん勘違いなオタク男子観、腐女子観なのですが、それを置くとするならば――「ジェンダー意識のギャップ」がそのまま男女交際の不可能性にスライドするという謎の前提があることです。
前回採り上げた、図.1の表に並んだ質問は「人生設計」的な性格が強く、仮に師匠の解釈を正しいと前提すれば(正しくないことは前回指摘しましたが)確かに「オタク男子とオタク女子が結婚したら、子育ての方針などでもめるかも」との推測も成り立ちますが、恋愛というのは別にそうした予断の元に行うものではないでしょう。にもかかわらず師匠は、「オタク女子は最も先端的であり、最も後進的なオタク男子とは釣りあわないのだ(だからボクの『彼女さん』になりなさい)」とでも言いたげです。
何よりもぼくと本田氏が踏んでいる地団駄は、「草食系であるオタクよりも、肉食系であるDQNの方が女にモテる、そしてオタク女子もそうしたセクシュアリティにおいて、一般女子と変わることはない」という経験則に基づいています。そしてそれは何故か……言うまでもなく、本田氏が指摘しているように、DQNの方がジェンダー規範に忠実だから、「女を女として扱うから」ですよね。
そこを、師匠は全く真逆の論理展開をしている。
「オタクは、マッチョだから、女にモテないのだ」と。
これは本当なのでしょうか。
それこそ、師匠のグルの「彼女さん」である人たちのイデオロギーに則った論理展開をしているだけではないのでしょうか。
*1 また、そこまで男女差があることが許せないのであれば、大河アニキ的な人物はオタク男女に歴然とした違いがあるとする北田師匠にも噛みつくべきだと思うのですが、何故だかそれは、決してなされません。こうした人たちは「男女差は一切ない」というドグマと共に、例外なく「女性は男性より優れている」というドグマも妄信しています。矛盾している……というより、深層心理では女性を蔑視しているからこそ「女性は優れている」と主張せずにはおれないのだという彼らの「ホンネ」が、ここからは透けて見えますね。
●不良腐女子の正体は!
以降も師匠は山岡氏への攻撃の手を緩めません。
章の後半でも、239pでなされた引用が再び繰り返され、
山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点からみた腐女子の「逸脱化」に貫かれている。
(302p)
(302p)
と論難し、山岡氏が「腐女子は恋人が欲しいはずなのに」と前提しているがそうではない、腐女子は彼氏ができないのではない、作らないのだ(大意)と主張します。
そしてついには、以下のような結論を導き出してしまうのです。
端的にかれら(引用者註・腐女子)は――現在のジェンダー秩序に適合的、という意味においてであれば――「恋人はいらない」のであり、「結婚したくない」可能性も大きい。既存のシステムのバグを同性の友人とともに発見する「理想的親密状態」を手放すぐらいなら、恋人も結婚も不要、というのは不協和どころか、ごく自然な認知的・感情的・行動的「態度attitude」である。
(中略)
腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
(303-304p)
(中略)
腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
(303-304p)
すごい!
すごすぎます!!
北田師匠の(淫夢の)中では、腐女子とは女同士、「レズビアン共同体」によって団結し、この根底から間違った現代社会の家父長制、ヘテロセクシズムを糾弾するためにBLを描き、間違ったシステムを断罪するために戦いを挑む、勇猛なフェミニズムの闘士だったのです!!
ちなみに「レズビアン共同体」というのは「何か、女性差別なので女同士で連帯する」程度の意味の言葉であり、事実、上の文章の直後、この言葉の解説が入ります。
お気づきかも知れませんが、この言葉は「ホモソーシャル」の対義語です。「男の団結は悪/女の団結は善」という恐ろしく雑な二元論がここでは貫かれ、フェミニズムが「男は何でも悪/女は何でも善」という結論から始まっているガクモンであることを、何よりも雄弁に物語っています。
師匠はまた、BLが従来の性規範には収まらないものであると書き立てます。
結婚という制度は異性愛者間の、現代の日本においては異性愛者間の次世代再生産を担う集団を担保するものとして位置づけられている。
(300p)
(300p)
てか、結婚ってどこの国でもどこの時代でも、そういうものだと思うんですが、とにもかくにも北田師匠は「結婚」制度含め、現行の社会のジェンダー、セクシュアリティを根底から破壊したいご様子。そしてそんな革命戦士である自分の「彼女さん」に、腐女子こそがなってくれるのだと、信じて疑っていないかのようです。東師匠の「BLはホモソシアルを風刺している」が可愛く見えてくるほどの被愛妄想ぶりですね。BLにおいてマタニティものが人気であることなど、師匠はご存じないのでしょうか。
しかし、それにしても、そもそも、師匠は一体何故、ここまで腐女子=フェミニストとでもいった世界観を、あどけなく妄信しているのでしょう?
むろん、前回に挙げた図.1と図.2の調査がその根拠になっているのですが(それが疑わしいことは前回述べましたが)補足として、図.2をもう一度、見てみましょう。
この調査から、師匠はオタク女子には「マンガみたいな恋をしたい」といった願望が低いというデータを導き出します(アンダーラインは原文では傍点です)。
女性二次オタク≒腐女子について興味深いのは、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」に対する肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」に対する肯定的回答率の低さである。
(273p)
(273p)
数字としては決して低くはないのですが、他のカテゴリ(リア充女子、男子)もまた高い数値を示しているがため、相対的に「何か低い」という結果になってしまうようです。
そして師匠は殊更の理由なく*2、女性はこの「マンガみたいな」という言葉を「規範的理念型に近」いもの、という意味として捉えているのだろう、また「マンガ・アニメのコンテンツに恋愛のモデルをことさらに見いだすわけではない」のだろうと言い出します。
つまり、「現実の恋愛は(男尊女卑で)ケチカラン。腐女子は『マンガみたいな』と問われた時、そうした現実の恋愛規範を連想し、それを否定したのだ」というわけです。
実に奇妙です。
「マンガみたいな」と問われ、現実を連想したという前提が極めて理解しにくい上に、そもそもBLそのものが女性を排除した男性同士の恋愛であり、その意味で腐女子が「マンガみたいな」恋愛をすることは、原理的に不可能です。BLが自身の欲望(男性にモテたい)を男性(受けキャラ)に仮託して安全裡にそれを成就させる、という構造を持った表現であることを考えれば、腐女子が「マンガみたいな恋をしたいか」と問われ、「No」と答える理由は明白ではないでしょうか。
それは単に、「そうした欲求を(腐女子はジェンダー規範に忠実なので)表に出したくない」というものです。
(先に書いた、「男は女よりもモテたいという欲望が強い」という表現もその意味では正確ではなく、それを表に出しやすいのだ、とするのが正しいでしょう)
そこを、一体全体どうして、師匠は上のようなねじくれた解釈を施してしまうのか。師匠はBLの非現実性自体を、恋愛規範を解体するもので素晴らしいとしているのだから、「BLと現実の恋愛は別だ」とでも解釈するだけで充分のはずです。
いえ、師匠にしてみれば、とにもかくにも「腐女子が現実の恋愛を呪っている」との結論を導き出さなければ、充分とは言えなかったのでしょう。最初から結論ありきなのです。
しかし、そもそも、仮に師匠の腐女子観が正しいのであれば、ここまで腐女子が増えているのだから、フェミニズムは大いに盛り上がっていそうなのに、全然そんな感じがしないのは、何故だかわかりません。
また、「練馬調査」には「主婦になりたいか」といった項目があり、女子(腐女子だけではない、女性全体)の42.6%が「専業主婦になりたい」と答えています。そんなにも腐女子が従来のジェンダー規範に否定的ならば、ここから彼女らが主婦になりたがっていない事実を導き出せそうなものですが、そうしたデータは何故か提示されません。
こうした主張は、三十年ほど前に上野千鶴子師匠が『風と木の詩』辺りを持ち出して「ジェンダーレスワールドの実験」などと言っていた頃の古拙な見方を、一歩も出ていません。
実のところBLが男女ジェンダーのリプレイであることは自明であり、既にこの当時、中島梓師匠がそれを指摘、上野師匠のロジックに見事な反論を加えておりました*3。上野師匠が間違っていたことは、それ以降のBLの隆盛を見るに明らかなのですが――例えば、腐女子の使う「受け/責め」といった用語は、「ジェンダーレス云々」といった分析が虚妄であることを、何よりも雄弁に世に知らしめてしまいました――にもかかわらず、北田師匠は三十年以上、ずっと同じ場所で足踏みをなさっているようです。
*2 厳密には一応、解釈らしきことが書かれています。それをぼくの理解できた範囲で思い切りざっくり説明すると、オタク女子は「マンガみたい」を「古典的な」とでもいった意味あいで捉えているのだろう。それは言わば、「マンガに出てくるような、唐草模様の風呂敷を背負った泥棒」とでもいった、つまりは「理念型」、「世間であるべきとされている形」というニュアンスである、といった内容です。
何故かと言えば、男性が恋愛から阻害されている傾向があるのに対し、女性は「体験」としての恋愛を内面化する傾向にあることが原因ではないか、との仮説が語られます。
まあ、更にざっくりと、女性は恋愛をリアルなモノとして捉えるので、「マンガみたい」と言われても、男の感覚ほどには空想的なモノとしては捉えない、とでも言い直せばわからないではないですが、ジェンダーフリー論者の唱える説としては問題ある気もします。
もっとも、このリクツを持ち出すため、(また、男子が「マンガみたいな恋」をしたがる傾向が高いことを説明するため)、師匠は「男子は男性役割を必要とされないマンガの中の恋愛に憧れているのだ」という解釈をしています。ぼくとしては、これ自体は賛成できますが、師匠自身の本来の主張とは丸きり相反する解釈となってしまっています。
いずれにせよ、この解釈だけで論点が五つも六つもできてしまう以上、短絡的な結論を出そうとすること自体に、問題があるんじゃないでしょうか。
*3 以上は雑誌『都市Ⅱ』の内容を、本が手元にないため記憶で再現したものですが、大きな間違いはないはずです。
●爆発!腐女子コントロールタワー
他にも、本書はBLを自分たちのイデオロギーに適うものであると強弁するために、クラシカルな記述の目白押し。
性犯罪が起こるたびに「男の性欲は……」という紋切り型の説明図式に日々晒される女性にとって、性そのものを否定することなく性愛を描くため、性そのものを関係性のなかに収めるという方法は、現行の男性中心主義に覆われた社会を相対化するうえで重要な戦略であるといえる。
(296p)
(296p)
一体、本書の出た今年は、西暦何年なのでしょう。少なくともまだ21世紀を迎えていないことだけは確実です。
こうした記述を見ていると、彼ら彼女らの戦略は既に、こうした時代錯誤なことを敢えて書いてアリバイを作っておくという、「歴史捏造」の方に既に舵が切られているのでは……と思いたくもなって来ますが、しかしそれはやはり違い、あくまで「天然」なのでしょう。北田師匠の周囲にはグルの「彼女さん」であるフェミ腐女子しかいらっしゃらないでしょうから、彼の主観では上のような腐女子観も、あながち非現実的とも思えないのかも知れません。
しかしもちろん、それが腐女子のマジョリティの実態を反映しているとは考えにくい。
萌えアニメなどにも、近年では一人くらい腐女子キャラが登場するのは珍しいことでなくなりました。それは、ぼくたちが彼女らを「知って」いるからです。
何を「知って」いるのか。
彼女らが「ぼくたち同様にアニメに夢中で、エッチなことにも興味があって、ぼくたちのそんな話にも乗っかってくれ、そして、しかし、言うまでもなく、伝統的な女性ジェンダーを保持した存在であること」を、です。いえ、先に「男子オタクと女子オタクではアニメの好みが違う」と書いたように、むろんアニメはアニメなりの脚色でよりぼくたちに親しみやすくしてくれているわけではありますが。
彼女らが自身を「女の腐った」ような存在であると自己規定し、「腐女子」という言葉が生まれたことや『801ちゃん』が流行ったことにも満更ではないこと(女子としてスポットライトを浴びて嬉しげなこと)を「知って」います。
彼女らが「心にペニスがある」と自称する時、ぼくたちは「サービス」で驚いてみせますが、彼女らが精神的にも肉体的にもペニスを持たない存在であることを、「知って」います。
彼女らが男子のことを男子と呼ばず、「殿方」と呼ぶこと、それが彼女らの「伝統的女性ジェンダー」への少々の屈折を含んだ憧憬故の行動であることを、ぼくたちは(そんなムツカしい言葉として言語化はせずとも、直感的に)「知って」います。
だからこそ、彼女らは伝統的女性ジェンダーに忠実に、自らの欲望を(男同士に演じさせることで)男性へと仮託し、彼氏が欲しくないようなポーズを取ることを「知って」います。
彼女らが「この家父長制社会へと戦いを挑むため、敢えて男と距離を取っている」存在などでは決してないことを、ぼくたちは経験則的に「知って」います。
だからこそ、腐女子を自らの政治の道具にしようとしているとしか思えない北田師匠の言動に、ぼくは激しい嫌悪感を覚えます。
自分たちが既存のジェンダーを憎んでいるから腐女子もまたそうでなければならぬのだ、彼女らは結婚などしたがってもいないのだ、と絶叫する北田師匠の振る舞いは、かつてのフェミニストたちが女性の非婚化を推し進めたことと全く同じ、ここしばらくのリベラル君たちの「オタクは二次元で充足している存在なり」といったロジックと全く同じ、言語に絶する残忍で無慈悲な、見るに耐えない非人道的なものです。
フェミニストは萌えを「男性側の身勝手な女性観を押しつけている、ミソジニーだ」と批判します。碧志摩メグを否定した北田師匠も当然、それに首肯することでしょう。
しかしこうして見ると、デタラメな論理展開で腐女子を自分の「彼女さん」であると強弁する北田師匠(及び女性のフェミニスト)こそが真のミソジニストであると言うことも、もはや明らかではないでしょうか。
ぼくは今まで「男性学」の研究家たちをご紹介して、彼らこそが女性の理解者であると自称しつつ女性に身勝手な幻想を見て取り、彼女らにつきまとうストーカーなのではないか、との指摘をしてきました*4。北田師匠についても、同じことが言えるのではないでしょうか。
*4 男がつらいよ
コメント、いまだ読んでないのですが、いずれにせよ週毎に分けてうpしようか……と考えておりますので、しばしお待ちください。
正直、見た瞬間心が折れて、まだちゃんと読んでおりません……。
北田師匠は最後に「これで話しあいは終わりにします」といった旨のことを書いていますが、その後(多少の時間をおいて)例の「セッションを持とう」という提案をしてきたわけでしょうか。
海法紀光さんが、北田師匠の概念的定義を問うコメントを何度かなさっていましたが、それはコピペしなかったので残っていません。
この最後の北田師匠のご返事をいただいて私のレビューの最終版を書きました。
北田師匠も最後と言っているし、私も最終版としたのでこれで終結のつもりでした。北田師匠にうんざりしていたこともあり、しばらくAMAZONを見なかったのですが、その間に海法紀光さんをM1と同一人物と勘違いした北田師匠のコメントがあったようですが、自分で削除したようで私は見ていません。
どうも北田師匠は一人でいきりたち「北田師匠に絡まれています」に書いたコメントを書き込み、M1をはじめとする☆1つレビュアーを投稿できなくする強硬手段に出たようです。
ご返信するかどうか自体、ややためらいはあったのですが、学問的といえる事柄について二点のみ、簡単にお答えしておきます。
3-1. まず、若者の趣味の全般的調査であることがそのものとして問題であるわけではありません。この点はM6さんがお書きになってるように、インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあります。直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もあり、「いかに聞くか」「それで何の回答が得られるのか」というのは、ラザースフェルド(計量社会学の走りの人といってよい人です)以来、理由分析(reason analysis)といった形で、計量分析でも伝統的に問われていることであり、研究の目的に即して問いの設定を考える、あるいは問いで問えたことになっている事柄の限界を考えるうえで不可欠の作業です。つまり特定の問いでいかなる回答が得られたかは、様々な変数間の関連の分析等も考えつつ、「解釈」しなければならない事柄です(本書p142~の分析をご覧ください)。
仰る通り、BLの読書頻度や二次創作へのかかわり方(書くか、読むだけか)などを組み入れればより情報量のある分析ができたでしょう。また第七章のように、概念分析の視座を採りこんで、いけば第四章のように「自認」と、先行研究・民間社会学的推論から尺度化された操作的カテゴリーとの差を分析の対象とすることもできるでしょう(自認/情報行動の差はとても大切な分析テーマであることは繰り返し論じています)。その意味で、8章は限界をもっています。このことを否定するつもりはありません。しかしそれは―私でなくてもよい―次なる論文・研究が取り組むことで、私は、私なりに自らの用いた「問い」への回答から合理的に説明できるであろう事柄を書き留めたわけです。「不十分であること」と「読むに値しない/非科学的」、「ある記述が偽・不適切である/記述の真偽そのものが問えない」は異なる事柄です。この点は繰り返しになりますが、ご確認ください。「解釈の余地のないデータ」と論理学的推論でやっていくというのは、社会科学においてはきわめて困難なことであり、またありえたとしてそれが適切であるとは思えません。このあたりは、それこそ『社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論』『社会科学の方法論争』等の基本文献をご覧ください。総じてM1さんの規準で行くときわめて多くの社会科学的分析が無効となってしまいます。よい統計データをとることは大切で、それを情報量を失わない形で適切に分析していくことはいうまでもなく、重要なことです。それと「解釈無しのデータ」というのは全然違う発想です。
3-2. トートロジーの件については、コメントでの私の書き方が強すぎたかもしれません。私の立場については本書288にあるものをご覧ください。「因果推計のもととなる関連性を調査するのが、回帰分析や分散分析などの多変量解析の目的であるので、こうした意味的なトートロジーは回避不可能なものであるが、他の変数との関連の相違や意味的な検討をもって対処するのが常道であり…」と書き、そこに付された注15(p310)で、変数の関連と因果推計の関連性について、やや踏み込んで書いています。そこで、統計的な精査の他に、意味的・常識的推論が果たす重要な役割を果たすことを述べています。そこを無視して数字だけで語ろうとすると適切性を欠いた因果帰属になりうる、ということです。
二つの変数間の相関係数が1であれば「関連がある(変数は独立ではない)」、0であれば「関連がない(独立である)」ということになりますが、相関係数1というのは「強い相関」ですが、私たちの認識に情報をもたらすものではありませんね。重要なのは、「相関関係がある(ない)こと」と「情報をもたらすものである(ない)こと」の違いです。私が本書で「トートロジーは不可避」といったのは、統計的な関連(無関連の棄却)を求めつつも、それが情報をもたらさない「トートロジー(相関係数1)」にならないよう、分析のさいに投入する独立変数の意味を考えなくてはならない、情報価値があるか否かを解釈しなくてはならない、ということです。そういう意味でトートロジーは不可避だけれども、問いの設定に適切(relevant)な形で、変数を解釈する必要がある、その痕跡が見られないものは問題がある、ということです。
ですので、「トートロジーそのものを全排除する」ということではなく、M1さんには、上記のような解釈のプロセスを重要視してほしい、というのがコメントの趣旨です。
※以上をもって、M1さんとの直接のやりとりを終わりとさせていただきたく思います。表記の修正を明示しないことは別に良いと思いますが、二回にわたって私が極力誠実に論点を分節してお答えした事柄には、ほぼご回答をいただけず、また、お応えするたびにお応えへのご対応なく質問を敷衍し、議論を拡散させていくというご姿勢に、徒労感を感じています。学問は勝ち負けを競うディベート空間ではなく、適切な記述や解釈を目指して、問題点を相互批判し続ける場であるとわたしは考えています。そのconventionからするとM1さんとお話を続けることは難しいと判断しました。
本当に修士課程一年のかたであるのならば、ぜひ社会科学の方法論をめぐる議論の蓄積を参照し、「適切な批判」を創り出す準備作業に勤しんで頂きたく思います。「フェミニズムの妄信者」という結論を導くにはどれほどの距離があるか、「解釈を要しないデータ」なるものを提示せよ、ということがどれほどに「理論・思想負荷的」なものであるか、を熟考いただきますよう、お願い申し上げます。
ご研究のテーマからすると、遠からずM1さんの論考を拝読する機会もあるかと思います。無用に意味分析と計量分析を分断せず、また「解釈」に関する先行研究の蓄積を重視しつつ、よい修士論文をお書きになられることを願っています。これは皮肉でもなんでもなく、この歳になると本気で思うのです。そうした論文のなかで、わたしの議論が反証されていくことはわたしの願うところです。
これまで「誠実なお返事をお待ちしております」と毎回申し上げてきましたが、もう申しません。意義のある修士論文をお書きになられることを願いつつ、これにていったんの私側の終止符とさせて頂きたく思います。
北田先生たちのオリジナルの研究報告書と質問紙を拝見しました。一般的な趣味に関する質問紙であり、オタクや腐女子の何らかの調査のために作成された質問ではないとお見受けしました。北田先生の「オタク尺度」は一般的な趣味の質問の中からオタク趣味に関連しそうな項目をチョイスして作成したものですよね。直接的な質問がないことを不思議に思っていましたが、何となく分かりました。一般趣味用の質問の再利用ではオタクや腐女子をとらえようとしても表面をなぞるだけでディープなことはわかりませんよね。質問の再利用だから操作的定義は語れても概念的定義は語れないのですね。
やはりオタクや腐女子について語る資格なしというのが私の結論です。
4回目追加コメント
北田先生、一つ教えてください。
北田先生は「自らの非を認めたうえで、山岡本のトートロジーに関しては、批判的な立場を維持する、というのが現下のスタンスです。」と書いていらっしゃいますが、山岡さんの研究1は北田先生がトートロジーとおっしゃる意味も理解できる気がしますが、他の研究はどうなのでしょうか? ほぼ、山岡さんの「腐女子の心理学」の全否定の書き方をなさっているように感じます。「腐女子の心理学」には多くの研究結果が書いてありますが中にはどう考えてもトートロジー批判が当てはまらない研究も多いと思います。「腐女子の心理学」全否定ならその理由を、研究ごとに否定と許容なら研究ごとに許容の理由と否定の理由を教えて頂けないでしょうか?北田先生のお答えは、私の今後の研究の有益なガイドラインになると考えています。ご教授お願いいたします。
5回目追加レビュー
「M1ごときにはある意味恐怖を感じます」に対する北田先生のコメントに対して
北田先生は、「匿名の立場から拙著について極めて厳しい判断をされており、実名でリスクを追う私とは、別の意味で非対称、『(学問的評価に関して)安全な批判』の立場であることが可能です」と書いていらっしゃいます。これは、本を書くことを含めて表現行為に伴うリスクではないでしょうか。一読者からの批判を許せないのなら、本など書くべきではないのではないでしょうか?学会誌に論文を発表して、匿名不可で議論をすれば良いのではないでしょうか。本を広く出版することで著者は利益を得るわけですから、一読者の匿名の批判は受益者が負担すべきリスクであると考えます。
おそらくご自分では気づいていらっしゃらないのでしょうが、東大の教授というのは社会的な権威です。その権威者が一読者に対してこのような丁寧なコメントを下さることは大変有り難いことと思いますが、同時にやはり恐怖を感じます。北田先生は☆1つのコメントを書いた私に対してだけではなく、本人コメント削除のあおりで消えてしまった☆1つのレビューに対しても即座にコメントを返しています。さらに私のレビューへのコメント欄で、アマゾンレビューとは無関係な中央大学法科大学院の大杉謙一先生のツイッターに対しても否定的なコメントをしていらっしゃいます。このような反応をする方に、まして、東大教授に対して恐怖を感じるなと言う方が無理です。それでも、著者から直々にご教授賜る機会はありませんので、勇気を振り絞ってコメントしている次第です。もちろん北田先生にはそのような意図はないと信じていますが、「立場の非対称性についての話はこれきりにしてください」というお言葉は権威者が被害者面して議論を封殺する安倍晋三大先生に近いものを感じてしまいます。もやもやが強くなります。男性権威者の態度にこのようなもやもやを感じるとフェミニズムに目覚めるのかもしれませんね。「立場の非対称性についての話はこれきりにしてください」という北田先生のお言葉に権力者の卑怯な言論封殺の臭いを感じてしまいます。このようなコメントは北田先生のイメージダウンになるのではないかと心配してしまいます。僭越ながら、あまりこのようなコメントはなさらない方がよろしいのではないでしょうか?
「腐女子の操作的定義と質問項目」について
やはり、私がこだわるのは腐女子の概念的定義の曖昧さと質問項目の大まかさです。質問項目に関して北田先生は、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」というお答えを下さいました。確かにセクシュアリティに関する質問などは答えづらいだろうし、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄なのかもしれません。山岡さんの「腐女子の心理学」でも、アンケートの目立つところにあったBLを読むかという二択の質問ではNOと答えていても、多くの質問項目の中にあった「BLを好んで読むか」という質問項目では肯定的に答えていた人がいたことが書いてありました。しかし、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると直球から見えてくることの方が大きいと思います。そこが「腐女子の心理学」ではあまり感じなかったけれど「社会にとって趣味とは何か」を読んだときに感じたもやもやを生み出す原因なのではないでしょうか。北田先生は、これが計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統とおっしゃいますが、社会学の教科書的には正しい研究方法なのでしょうが、それが他の社会科学からも正しいと認められる研究方法であるとは思えません。
また北田先生は本文中で概念的定義を明記なさっていませんし、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、EMや概念分析、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となり、あまりに議論が紛糾しているので踏み込まない、というコメントをなさっています。海法紀光さんがコメントなさっていますが、私も海法紀光さんに賛成です。
明確な概念的定義はしていないけれど北田先生は次のように書いています。「特筆に値する成果を生み出しているのが、データベース消費の概念を受け継ぎながら、「やおい」を生産・受容する女性たち-「腐女子」というカテゴリーが自己執行される-の共同体を、相関図消費という観点から分析した東園子の研究である。(p.269)」、「腐女子たちは「妄想」された男性同士の性愛関係を通して、現実的な異性愛関係を排除した、女性どうしの共同体を作り上げる、と東園子は分析する。(p.278)」このように北田先生は、東さんの研究の紹介という形ですが、明らかに 「腐女子=やおい(BL)を生産・受容する女性」という前提を受け入れ議論されています。それにも関わらず操作的定義ができないとコメントしています。これは、「腐女子はBL嗜好の女性」という定義をしてしまうと、「二次創作に関心がある女性=腐女子」とする自分の研究を否定することになるからではないでしょうか。
また、北田先生の「二次創作に興味がある=二次創作好き=二次創作をしている」という仮定が正しく、それが腐女子の条件になるのなら、「二次創作に興味がある非オタク」の類型は意味をなすのでしょうか?二次創作作品を読んでみたいという意味で積極的に興味を持つ人はオタクでしょう。しかし「二次創作に興味があるか」と質問された場合、二次創作についてよく知らないオタクではない人でも、よく知らないからこそ二次創作に興味があると答えたひとがいたのではないでしょうか?この「二次創作に興味がある非オタク」の存在は、北田先生の「二次創作に興味がある=二次創作好き」という前提自体が破綻していることを意味しているのではないでしょうか?
やはり北田先生のご研究は「腐女子に関する研究」であるとは思えません。北田先生からコメントをいただいて明らかになったところもあります。コメント感謝しています。明らかになったことは、北田先生が「社会にとって趣味とは何か」の中で紹介している調査結果から「オタクや腐女子について語る資格はない」という私の結論に確信が持てました。
北田先生、ありがとうございました。
M1さんのこうしたご批判は経験的な社会研究にとってとても重要なことだと思いますし、詳述の必要があると思います(反証可能性を認めて頂いているわけですから)。逆にいうと、自らの非を認めたうえで、「山岡本のトートロジー」に関しては、批判的な立場を維持する、というのが現下のスタンスです。私はこのトートロジーをよきものとは思いませんので、説明責任を持つと考えますが、M1さんご自身はトートロジーそのものについてはどのようなお考えなのでしょうか。この点、「トートロジーはダメだ」で合意できると私としては議論しやすくなります。ご検討をよろしくお願いいたします(文中にあるように、このトートロジーを完全に回避することはできませんが)。
2-4.「オタクをオタクたらしめる要因が独立変数、そのようなオタクだから生じる反応が従属変数ですよね。同じヒアリングから両者を抽出することに問題があるのなら教えて下さい。そのときの留意点についても教えて下さい。」→この点ついてはご精読いただきたいと思うと同時に2-3のように私の分析設計のミスもあるので、お返事をお待ちして、誠実に回答したいと思います。「相当に注意するべき」というのが私の立場であり、自らの非を認めたうえで、山岡先生の分析には首肯できません。そしてそのような調査設計をM1さんがなされないことを切に望みます。「同じヒアリングから抽出する」こと自体を問題にしているのではなく、論理的に、抽出したデータ・情報を丁寧に識別すべきというのが私の主張です(「北田先生は山岡さんが作成したオタク度尺度と研究1の従属変数は同じヒアリングで得られた項目だから独立変数にすべきであると考えていらっしゃるのでしょうか」と問われれば、違うとお応えするしかありません)。そうした疑念の薄い、有意義な研究をされることを願っています。
2-5. 「ゼミの議論の結果ですが、山岡さんの「腐女子の心理学」の書き方の方が現象を歪めていないということで合意できました。山岡さんにもオタクや腐女子に対するステレオタイプをデータから否定したいという意図は見えますが、それは研究の動機的な部分であってデータの取り方や解釈にはそのような意図は感じませんでした。失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。」→どうにもジェンダー論を忌避されているように思いますので、この点についてはあらためて丁寧にご説明さしあげたいと思います。その前に、データ収集の方法、サンプリング等についてM1さんのゼミでは問題とならなかったのでしょうか。学生調査は予備調査でよく使うもので、また、それ自体意味のあるものですが、M1さんがサンプリングについてはほぼお話になっていないことがやや気になります。また「ゼミの結論」という記述はご自身の主張を正当化するものではありません。あくまで事象とデータ、適切な・合理的な推論に即してご議論いただけると幸いです。
よりテクニカルなレベルでピアグループからも批判をいただいていますが、そうした批判に誠実に対応していくことは学問の基本的ルールであると考えます。M1さんは、「真/偽」と「真/偽の判断がなしうること」を混同され、後者での反論提示により、私の議論が「フェミニズムの妄信」に規定されている非科学的なものと「解釈」されているのではないでしょうか。これまで示した来たように、あくまで批判可能性には開いておりますし、その可否についても理由とともに提示するよう努めています。「言いがかり」「反論を許さないドグマ」「フェミニズムの信者」といった相当に強い思想的解釈は、まずはひとつひとつの論点を検討することによってしか正当化されえないと思います。「ディベート」ではないわけですから、この点もご確認いただきたく思います。
重ねて拙著についての詳細なご検討を感謝いたします。私の返信(1)に対応するお返事をいただけておりませんが(部分的なご回答であるとの印象です)6/6に追加された内容について、とりあえずのお返事をしておきます。https://www.facebook.com/akihiro1971/posts/1366519266770913?pnref=story
その前に2点ほど学問的な相互理解のための確認をさせてください。
(a)「M1ごときにはある意味恐怖を感じます」→
こういわれると、どうしたものか困ってしまうのですが、いかに学問共同体の成員であっても立場の非対称性がある限り、私も修士課程1年の方にこうした詳細な反論はしないと思います。しかし、M1さん(そして指導教授も)は、匿名の立場から拙著について極めて厳しい判断をされており、実名でリスクを追う私とは、別の意味で非対称、「(学問的評価に関して)安全な批判」の立場であることが可能です。
もちろん、先述の通り、私はM1さんのお名前や所属を知りたいわけではありません。ネットでこうした批判をすることも当然の権利でしょう。しかし、イデオロギー的立場の如何ではなく、学問的な水準での適切性を論じたいというのが趣旨であると拝察しますので、書き込ませていただきました。私の反論そのものが抑圧的であると感じられるようであれば、アマゾン・レビューという公的な場を選択されたことに疑問を持ちます。議論をするのが目的ではないのであれば、「この本を肯定する信者の皆さん、コメント待ってます」は空手形になってしまいます。立場の非対称性についての話はこれきりにしてください。
(b)経験的科学としての社会(科)学についての認識確認しておきたいところです。指導教授の言葉として「議論の必要のないデータ、解釈の余地のないデータを提出してほしい」とされていますが、これは相当にそれ自体理論負荷性の高い社会科学についての見解です。たとえば課税のために一世帯をなにを規準にカウントするか、というかなり基本的なことですら、「数え上げるためのカテゴリー」づくりをしなくてはならない、そのとき、常識的なひとびとの信念や理解を踏まえて有意味なカテゴリーづくりをしなくてはならない、というのが社会科学全般にいえる基本的な事柄です。数えるためにも解釈が必要なわけで、この点はおそらく指導教授も認識されていることと思いますので、ご確認ください。「イデオロギーに毒されたデータ解釈/解釈の余地のないのデータ」という0/1ではなく、「社会科学におけるデータ」、とりわけ社会意識等に関しては、なので、この解釈そのものを提示する必要があります。この点に関して、私が解釈をしていることは明示しているはずです。
(b#)指導教授はそのように強い認識論的な負荷をもった主張をされたわけではないと思います。そうした立場(論理実証主義等調べてみてください)もかつてありましたが、ほとんど社会科学の実態を捉える経験的テーゼとしても、社会科学が従うべき規範・規約としても有効でないことは議論されつくされています(少しだけ科学哲学の本を読んでみてください)。状況はこと計量的な研究(質的なものもそうです)に関しては、「弱められた反証主義」が指針となっている、という感じではないでしょうか。
M1さんは、(b1)わたしの議論に対して「反証に合理的に反論せよ」という要請をしている部分と、(b2)わたしの議論は科学的ではない(反証可能性をもたない)という二つのタイプの議論を展開されています。データの解釈についての議論は(b1)の問題系に属するものであり、(b2)とは異なります。M1さんにはどうも、「解釈を要さない社会科学のデータ処理が可能である」という信念と「反証することと反証可能性があることの混同」があるようにお見受けします。わたしの議論は部分的に反証を求められているわけで、そうすると、「社会科学」であるとの認定をいただいたことになります(これも規約的なことですが)。「解釈を要さないデータ」というのは、実はそれ自体経験的(empirical)とはいえない、強い哲学的立場を表明するものです(仰る通り「思想性はバイアスを生み出すもの」です)。この点は、共有させていただきたい「科学観」です(逆に言うと、指導教授はどのような計量的な社会意識研究であれば「科学的」と仰っているのか、具体例を挙げて頂けると助かります)。
匿名/実名のリスク差があるので立場の非対称性はご勘弁をいただきたい、ということと、なにを有意味なデータとするかを含め、とうてい社会科学が満たすとは考えられないあまりに強い「データ至上主義」という負荷は解除して、議論をさせていただけると幸いです。(b)に関して緩やかであれ合意がないと、「科学的である」条件の設定に関する挙証責任はM1さんのほうに生じます。そんな思弁的な負荷を背負う必要はないと私は考えますが…。
さて、内容についてですが、折をみて詳細に書かせて頂くとして、ごく簡単に。
2-1. 「「あるグループで他のグループよりある回答が多かったが、そのグループ内でその回答をした者は少数派である、この場合そのグループにその回答が多かったと主張することは現象を正確に捉えることになるのか」、という問題を私たち院生に考えさせたかったようです」
→指導教授のご見解が、「有意差があったとしても、そもそもの回答の肯定・否定率が高ければ、集団カテゴリーとして分析するさいには留意しなくてはならない」ということであれば、まったく適切な指導方針であると思います。有意差に拘泥するあまりカテゴリカル・データの情報量を見失ってしまうことは回避されるべきことであり、その点を指導教授は指導されたかったのだと思います。
→問題は、「見逃しうる有意差か」という解釈によるものと思われます。M1さんは解釈という言葉を忌避されていますが、ご自身の議論のなかにどれほど多くの解釈が入っているかはお考えください。先述の通り、私も「76.1%は高い」ということは考慮したうえで、「解釈に値する有意差である」と判断しました。また有意差についてχ2乗検定だけではなく、他の変数を統制したうえでの議論も提示しています。これまた繰り返しになりますが、ジェンダー規範については、他の項目でも看過し難い、考察に値する差が検出されており、対応分析をもとにした二軸の図でも、数学的に興味深い位置の遠さが確認されています。「解釈に値しない有意差」と考えるほうが難しいと思う次第です。差に過剰な意味を与えるのは問題ですが、私としては、クロス分析、回帰分析、対応分析などを総合的に踏まえて、「解釈に値する有意差」と判断しています。「解釈に値しない有意差である」ことの挙証責任はM1さんのほうにあると考えます。というよりは「解釈に値しないという解釈」の根拠を示す必要があるということです。ご検討願います。
→これも繰り返しになりますが、わたしが「二次創作好き上位二層_オタク尺度高」の女性をもって「腐女子」と「≒」としたのは、仰る通りたしかにもっと適切な調査票設計が可能であったとは思いますし、「腐女子≒二次創作オタク高女性」というカテゴリーを独り歩きさせてしまう(属人的にカテゴリーを記述してしまう)記述があったとすれば、先述の通り、それは申し訳ない限りです。2章を読んで頂ければご理解いただけると思うのですが、私は宮台氏の著作にみられる「カテゴリーの人格化」を厳しく批判しています。繰り返しますが、記述のエコノミーのためそうした解釈を生んでしまったとすれば、率直に申し訳なく思いますが、確率の問題であることも忘れてはいけないと考えます。
2-2. 「失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。思想的なところからはニュートラルに現象を捉えることが社会科学の科学性を担保すると考えている我がゼミにとっては、北田先生の議論の仕方は科学性が低いものと見えてしまいます。」→操作的定義については示していますね。「二次創作好きへの肯定上位二層」で「オタク尺度」が上位二層になる人たちです。M1さんは操作的定義ということで「定義」の日常的用法のほうに目が向いてしまっているようですが、操作的定義というのは、辞書的な・内包的な定義ではなく、その対象の存在論的・認識論的身分に関係なく(「心」や「態度」が実在するかどうか措いておくとして)、「そういうものとして定義して、数え、解釈する」という行動主義心理学において定式化された概念です。わたしは①まず標準的な意味での操作的定義を完全に明示化しており、②そのうえでその定義によって「創り出された」カテゴリーがどのような変数とどんな関連を持つか、を議論しています。「言い訳」といわれるような記述はしていないと考えます。
「概念的定義を研究ベースに載せるためのお約束が操作的定義ですよね」というのはその通りだと思いますが、ご存知の通り、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、概念としてどのように使用されているのかは、M1さんはお好みではないかもしれませんが、EMや概念分析(オタク・カテゴリー概念分析の章をご参照ください)、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となります。その点についてはあまりに議論が紛糾しているので踏み込まず、「操作的定義(操作的な変数構成)でここまでいえるのではないか」という議論をしております(全てを一つの論文に求めるのは無理です。私は先行研究に準じて自分のできる範囲の議論を提示したつもりです)。M1さんは、概念的定義が必要である(つまり「解釈」ですね)という一方で、操作的にしか得られないはずの「解釈の余地のないデータ」を要請されています。いささかお応えに窮するご批判と考えます。限定的でしかない操作的定義から質的調査や更なる調査によって概念的な位置づけを考察していく、というのが「科学的」な態度ではないでしょうか。というより操作的でない概念の内容を先に提示せよ、というのはものすごく解釈負荷性の高い要請であると思います。この点もご検討をお願いいたします。
友人からここがすごいことになっていると言われて、見てみたら北田先生自らのお出ましとはビックリしました。光栄ですが、M1ごときにはある意味恐怖を感じます。
ご期待に添えないとは思いますが、いくつかお答えしたいと思います。
1,「結婚したら子供を持ちたい」について
実感的に高い(から有意差は関係ない)という反論、と北田先生は解釈なさったようですが、それは違います。山岡さんの「腐女子の心理学」との対比で話をします。もともと山岡さんの「腐女子の心理学」と北田先生の「社会にとって趣味とは何か」を対比させて読んだことがもとになっているので、このような形になることをお許し下さい。
私の指導教授は社会科学の科学性とはいかにデータで現象を捉えることができるかにかかっている、というスタンスで研究に取り組んでいます。思想性はバイアスを生み出すものと考えています。ちなみに北田先生の「ゼミに一度参加させいただき議論させていただければ幸い」というお言葉を伝えたところ、指導教授は「議論の必要のないデータ、解釈の余地のないデータを提出してほしい」とのことです。データ至上主義的なところがあるので、議論で何とかなるものはエビデンスとしての力がないという考えです。なので、「議論よりデータ」ということだそうです。
さて、山岡さんの「腐女子の心理学」ですが、例えば、研究5-1でオタク群の交際経験率は一般群よりも有意に低かったことを報告したうえで、次のように書いています。「オタクはモテないから異性交際の経験がないことを示す結果とステレオタイプ的に判断すべきではない。そうであれば、オタク群の交際経験者よりも未経験者の方がはるかに多くならなければならない。しかし現実には、オタク群全体でも、男性オタク群でも、恋人との交際経験者の方が未経験者よりもはるかに多い。この調査結果ら言えることは、あくまでも、恋人との交際経験率がオタク群は全体より低いということだけである。(p.115)」
北田先生はいろいろと前提を述べた上での議論であることは理解できますが、有意であるから、自分たちのジェンダー論と整合するから、「腐女子は家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている」ことにしています。カイ二乗の捉え方なんでしょうが、指導教授は「あるグループで他のグループよりある回答が多かったが、そのグループ内でその回答をした者は少数派である、この場合そのグループにその回答が多かったと主張することは現象を正確に捉えることになるのか」、という問題を私たち院生に考えさせたかったようです。ゼミの議論の結果ですが、山岡さんの「腐女子の心理学」の書き方の方が現象を歪めていないということで合意できました。山岡さんにもオタクや腐女子に対するステレオタイプをデータから否定したいという意図は見えますが、それは研究の動機的な部分であってデータの取り方や解釈にはそのような意図は感じませんでした。失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。思想的なところからはニュートラルに現象を捉えることが社会科学の科学性を担保すると考えている我がゼミにとっては、北田先生の議論の仕方は科学性が低いものと見えてしまいます。
2,北田先生が山岡本に対して提示した社会調査としての手続き論・方法論批判について
北田先生のオタク尺度は、「好きなマンガについて友だちと話をする」「友だちと一緒にマンガ・アニメ専門店に行く」「マンガがきっかけでできた友だちがいる」「アニメがきっかけでできた友だちがいる」「ライトノベルが好きだ」「マンガ趣味選択」「アニメ趣味選択」「ゲーム趣味選択」の8項目ですよね。つまり、北田先生が「オタク」と操作的に定義している人物類型はマンガ・アニメ・ゲームが趣味でライトノベルが好きで、それらの趣味を媒介にして友人関係を持っている人物ということで良いですよね? 北田先生のオタク像の中ではオタクにとって、アニメ・マンガ・ゲーム・ラノベの趣味自認と趣味を媒介にした友人関係を持つことがオタクをオタクたらしめる独立変数とですよね。独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。
北田先生は山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判されていますよね。
これは、ゼミでも議論になりました。この話に関しては、「腐女子の心理学」のレビューに書こうと思っていたのですが、北田先生のためにこちらに書くことにします。
はっきり言って、北田先生が山岡さんを批判するのと同じことをご自分でやっているのではないでしょうか。少なくても私には山岡さんの研究が独立変数と従属変数の設定がおかしくて、北田先生の設定がおかしくないとは思えません。区別がつきませんでした。どこが違うのか教えて下さい。
また、これは私の誤解である可能性が高いのでしょうが、北田先生は山岡さんが作成したオタク度尺度と研究1の従属変数は同じヒアリングで得られた項目だから独立変数にすべきであると考えていらっしゃるのでしょうか。オタクをオタクたらしめる要因が独立変数、そのようなオタクだから生じる反応が従属変数ですよね。同じヒアリングから両者を抽出することに問題があるのなら教えて下さい。そのときの留意点についても教えて下さい。おそらく来年、オタク・腐女子関係のテーマで修論を書くと思うので、参考にさせて下さい。
また、やっぱり理解できないのですが、「二次創作に興味がある」が、腐女子を腐女子たらしめる要因であるとは思えません。商業BLなどの読者も多いですが、二次創作に関心がない腐女子の友人も結構います。また、「二次創作への興味」という同じ質問に対する回答を男女で意味が違うと断定している根拠は何でしょうか。女子でコミケに行っている友人たちでも腐女子ではない人もいくらでもいます。
質問です。ここまで書いていて、何となく私がもやもやしている理由がわかったような気がします。北田先生は腐女子の操作的定義は明記していますが、概念的定義は明記していましたでしょうか。私の読み落としの可能性もありますが、ここで北田先生が腐女子をどのように概念的に定義していらっしゃるのか教えて下さい。概念的定義を研究ベースに載せるためのお約束が操作的定義ですよね。オタク度が高く「二次創作に興味がある」女性を操作的に「腐女子」としているわけですので、そのもとになった腐女子の概念的定義を愚かなM1に教えて下さい。よろしくお願いいたします。
7. ちょっと見落としていたのですが、6とも関連する事柄として。「北田さんたちが信仰するフランスの偉い社会学者プルデューの「ある趣味を自認しない者もその趣味の界の中に取り込まれ、その趣味による差異化・階層化ゲームのプレイヤーになる」というあたりから考えたのでしょう」とありますが、第二章ではかなり明確にブルデューの立場(対応分析と社会空間論)を方法論として批判しており、そのさいに「ルールに従うこと」「意図的であること」については、相当紙幅を費やしてブルデューとは異なる立場を明示しています。「北田さんたちが信仰するフランスの偉い社会学者プルデュー」という信念はどこから生じたのか、いささか疑問に思いますし、本書の総論でもある第二章をお読みいただけてないとすれば大変残念に思います。
8. 以上の点をご再考いただいたうえで、「フェミニズム信者の妄想」というそれ自体根拠に乏しい解釈を正当化していただきますよう、お願い申し上げます。むろん社会科学は無謬のものを提示することが使命ではなく、反証可能性を持つ経験的性格を持つデータと推論を提示することが旨かと思います。その意味で統計的なデータの取り扱い等、それに基づく解釈については、M1さんご自身がされているように反証可能性があるわけで(反証になっていないと今のところ私は判断しますが)、実際専門的な社会統計家からも有意義なご批判を頂いております。とりわけ「イデオロギー」というよりは、わたしが山岡本に対して提示した社会調査としての手続き論・方法論批判についてのご見解を詳述していただけると幸いです(M1さんのレビューにはここの記述がまったく見受けられないので)。「フェミニズム信者の妄想」という解釈は、きわめて理論負荷性が高く、またフェミニズムという言葉で含意されているところの内実についての認識の妥当性が問われうるものです。「イデオロギー的だ」と相手を批判するときは往々にして、自らもイデオロギー的になってしまうものです。まずは1~7までお読みいただいたうえで、適切な「科学的」な対応をお願いいいたします。
※「さすがは上野千鶴子さんの後輩ですね。男性社会に対する怨念こそがフェミニズム系社会学の命なのですね。」と書かれていますが、制度的には上野さんの後輩ではないですよ(笑)。それはどうでもいいとして、上野さんにフェミニズム運動の旗手として敬意を払っていますが、上野さんと私とは、社会学的には、計量分析の捉え方、構築主義の捉え方、マルフェミ・ポストモダンフェミニズムの捉え方、歴史認識、経済政策、移民問題に至るまでまったくといっていいほど考え方が異なり、その都度私は批判を差し出してますし、上野さんもそれを認識されています。M1さんだって指導学生だからといって指導教員と同じ考えや理論的・政治的立場になったりしませんよね? 「怨念」という理論負荷性がものすごく高い解釈を提示されているわけですが、まずは1~7について精査していただきますよう、お願い申し上げます。
※※わたしは特に個人特定等には興味がありませんが、ゼミで「いいがかりだ」という結論に達したというのはやや気になるところです。口外は絶対にいたしませんし、とくだん戦闘的な姿勢をとったりもしませんので、東京大学の情報学環HPのわたしのメールアドレスにご連絡いだければ、ゼミに一度参加させいただき議論させていただければ幸いです。そこでの議論を流していただいても一向にかまいません。相互批判はなによりも学問的な共同体の存立にとって大切であり、山岡本と本書を読み合わせて頂いたことは、本当に嬉しく思います。ご検討頂けると幸いです。
これ星つけないと書けないんですね。自分の本を評価するのはものすごく恥ずかしいですが、とはいえ一定程度の自信をもって上梓したものですので真ん中の「3つ」で勘弁してください。この星は参考にしないでください(笑)。
M1さん、詳細なコメントをありがとうございました。社会科学を学ばれているかたとのことで、広義での学問共同体の共同構成員でもあり、できるかぎり誠実に回答したいと思います。主として私の担当箇所についてのご批判かと思いますので、その点に限定して、かつまずは簡潔にお返事させていただきたいと思います。おそらくM1さんが一番気になっている「フェミニズム信者」という問題系は後ほど。
1. 「腐女子の肝であるBL好き関連の質問をしないで二次創作への興味だけで腐女子認定することは、「ヤクザに興味がある人」を全員ヤクザ認定するようなものだ」
→まず何度も繰り返し書いているように「≒」としており、かつ操作的定義である旨は明確にしている点をご勘案ください。「全員」という対応条件の設定は無理があります。もちろん「≒」としつつ、可読性の観点から「=」と読みうる書き方をしている箇所があるのは事実です。仰る通りこのエコノミーは部分的な引用などの場合、誤解を招きかねず、本来的には回避すべきものであり、その点は問題なしとはいえません。しかし論文に課せられたデータの性格の限定性は明示しているので、論文全体を手続き論含めて読んでそのような解釈に至ることはありえないと考えます。
2. ヤクザの条件設定と「二次創作に興味のある女性オタクをとりあえず「腐女子」とみなす」という条件設定は、果たして対応するものでしょうか。本論文では「二次創作好き」と「オタク尺度」の二つをもとに操作的に「(≒)腐女子」という定義(変数構成)を行っており、仰る通り「二次創作好き=二次創作をしている」「二次創作=BL」ではない、というのは確かです。BL好きと二次創作好きを識別しうる質問項目を入れておくべきであったことは確かだと思います。しかしこの点の留意は書いておりますし、二項目をもとにした操作的な変数設定を、ヤクザ条件と同一視するのはいかがなものかと思います。a「ヤクザに興味がある≒ヤクザである」とは違い、b「二次創作に興味がある≒二次創作に興味がある女性オタク」としているので、「興味がある」ことと「ある成員カテゴリーに属すること」の意味がa,bでは異なっています。興味を持つことが集団カテゴリーに含める根拠となりうるケースとそうでない場合を識別すべきではないでしょうか。ここは数字だけでどうこうできる話ではなく、意味連関を考察すべき事柄であると思います。
3. 概して操作的定義ですので、執筆段階でも「腐女子と「≒」にするのはいかがなものか」というご意見はいただきました。ここは「二次創作好きでオタク尺度得点が高い女性には腐女子でない可能性は低いのではないか」という判断をもとに私の判断で「≒」としました。それは操作的な定義(というかカテゴリーの創出)ですので、この判断が誤っている可能性は十分にあり得ます。またBLへの指向も聞いていればより正確な情報を得られたということは間違いありません。ただ、「腐女子である」というカテゴリーの自己・他者執行を正確にどのように分析するかは、それこそEMや概念分析的な分析を期すしかなく、「BL志向は本質的なものであるか」は最終的にはそうした分析を経て判断すべきことであり、操作的な概念・変数の設定で分析者が議論しても収拾がつくようなものではないと考えます(つまり、分析水準でいえば、BL指向が「腐女子であること」にとって本質的という判断もまた、私の判断と同じ水準にあるということです)。とはいえ、「≒腐女子でも絶対ダメだ」といわれるのであれば、それは仕方がなく、そうするとなにが分析上問題となるのか、を指し示していただければ、「≒腐女子」という表現は撤回して、「二次創作好きのオタク尺度の高い女性」に関して、見受けられる傾向の分析として再提示いたします。しかしご批判のなかでは、まだこの点が私には理解できないでいます。もしかすると、フェミニズム的偏見という話が関係しているのかもしれません。この点については後ほど。
これからお仕事なので、帰宅後また続きを書かせていただきますが、ごく簡単なテクニカルな点のみ。
※ 「「10%水準で有意差が認められる(p.278)」と書いてありますが、「有意」と言っていいのは5%未満でしょう。」あくまで%は有意水準を示すものであり、「10%で有意」というのはごく普通の書き方です。有意性判断(および関連の強さ)そのものは有意確率の大小で決まるものではありません。つまりp値が.01、.05なら有意で、.1なら有意ではない、ということではなく、「有意である水準をどこに置くか」という分析者の判断です。通常5%がとられますが、10%だからといって有意ではないということではありません。(ただし、ある論文のなかで5%未満を有意とするという宣言をした場合には、10%有意であっても「有意ではない」と記述します。しかしそれは有意ではないというのと同値ではありません。私も基本的に有意水準5%を指標にして分析していますが、とくに単純比較で実数での差が読みにくいような場合、参考として10%も記すことがあります。当然ながらその都度明示してのことです)
※指導教授は本当に「因子分析をしているのに項目ごとに考察するのでは分析した意味がない」と仰ったのでしょうか。回帰分析などで変数が増え過ぎないように因子得点を出したり、質問項目の傾向性をみるために因子分析や主成分分析をすることと、個別の質問項目を検討していくことは両立するものです。個別回答の持つ情報量を重視して個別に分析する場合と、回答間の関係を知りたい場合は、混同してはならないものの、どちらかだけに絞るべきということにはなりません。もちろん回帰分析等で因子得点を入れるのであれば、精査して個別質問を変数としたカテゴリカルな処理をすべきというのであればそのとおりですが、それもいったんしたうえでの論文での提示となります。いずれにしても始動教授のかたの指摘の含意が分からないので、ご教示頂けると幸いです。
「フェミニズム信者によるイデオロギー的な分析だ」というご批判については、あらためてご回答いたします。とりいそぎ。
///////////続き//////////////
まずは手続き的なことから。
4. 「「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」と「マンガみたいな恋をしたい」という2つの質問の考察でした。この2つの質問でこんなに大げさに書けるなんて、それが「妄想の共同体」ですかって感じです。」→注意深くお読みいただきたいのですが、ここでは(1)まず二次創作好き女性オタクの「マンガの登場人物に恋をしたような気持になったことがある」への肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」の低さ、対する二次創作好き男性オタクの男性内での高さであり、この相違がなぜ生じているのか(どのような変数と関係しているのか)、という問題であり、たった二つの設問であれ、対照性を説明することは非合理なことではありません。(2)とはいえその対照だけで解釈するのは難しいということで次に、友人関係因子得点、友人数、学歴、暮らし向き、オタク尺度、モテ自認などを独立変数、「マンガみたいな恋をしたい」を従属変数とした回帰分析をしています。M1さんは「2つの質問だけで」と書かれていますが、ここでは友人関係含めると20近い設問の関連が問われていることになります。その結果(3)男性においてはオタク尺度とモテ自認に効果が見られたのに対して、女性では見られない、という結果を得て、「女性二次オタクの場合、オタク的な情報行動をとること、「モテ/非モテ」の感覚が、「マンガみたいな恋をしたい」に関連していない可能性が高い」という解釈を経て、(4)「マンガみたいな恋をしたい」に対する男女差をreasonableに解釈しうる可能性の一つを提示しています。ここを「二つの質問だけで判断した妄想」と考えるのは無理があるのではないでしょうか。「登場人物への恋愛」については、そうした点を踏まえた上で、女性他群との比較で解釈しています。ご確認ください。
5. 「「結婚したら子供を持ちたい」という質問に二次創作に興味がある女オタクの76.1%が肯定的に回答しているのに、他の女性グループより肯定率が低いから、腐女子は「家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている(p.300)」ことにして議論を進めています。1/4以下の人たちの反応で全体を語っちゃっていいの、と私は思いました。」→額面通りに受け取ると有意差という概念そのものが崩壊しそうな気がします(そういう立場もあるでしょうが、そうした技術的なことを仰っているわけではないようです)が、まずなにより「76.1%に上るが…」と始め、(1)その数値の高さそのものをまず確認し、(2)他の女性群に比して優位に低い値であることを主題化しており、ようするに統計的な傾向性の分析であり、あるカテゴリーに属するメンバー全員の「属性」を言っているわけではありません。100点満点のテストで76点は「低い」とは言えない気がしますが、平均や分散を考えたときに「低い」と言える場合にはその因果関係や意味を考えたりしますよね。それと同様です。また(3)76.1%が「低い」というのも統計的な意味においてだけではなく、「20歳前後の多くの若者たちにとって結婚も出産もリアリティのある話ではない」、つまり、「高くて当たり前」と私も考えるため、低さについての解釈が必要である、として議論を進めています。ツイッターでバズったp291の図は標準得点化したものなので、劇的に見える効果を持ってしまいますが、標準得点化した(実得点ではなく偏差値をみる場合のように)事柄を比較考量する必要はままありますし、お読みいただければわかるように、これらは単純な標準得点の比較だけではなく、クロス分析、回帰分析や対応分析等複数の方法で精査しています。「76.1%」を統計的に考えることと実感的に考えることはいずれも大切ですが、私は相応のデータをもとに「ジェンダーセンシビリティ」の傾向の現われと解釈したわけで、実感的に高い(から有意差は関係ない)という反論はいかがなものかとも思います。また私の記述が全称化しているように思われたとしたら申し訳ない限りですが、「相対的に否定的な態度(p301)」などカテゴリーを人格化しないような表現の努力はしたつもりです。統計的な比較分析で「「日本(人)は…」とまとめ上げるのはおかしい」と批判されるのであれば、それはその通りですが、その限界は分析者も認識することであり、またM1さんが社会科学をされているのであれば、集団カテゴリーの統計的差異についての分析が無効とは考えないことと思います。私の記述に全称化を疑わしめるものがあったとすれば申し訳ない限りですが、論文全体を丁寧にお読みいただければ、そのように捉えられることはないと思います。
あれもうpした方がいいのでは?
また、少々面倒ですが、レビューそのものもうpの度に改稿されているのだとしたら、それらを全部載せた方が……と思うのですが、いかがでしょう。
もう一つのブログ(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1302449)にもうpしたのでご確認ください。
また、『腐女子の心理学』の方については来週またうpしようかと思います。
https://twitter.com/hyodoshinji/status/887681383543349251
ちょっと今、ツイッターに投下してみました。
反応がどんなものかは心配ですが……。
また、当ブログ、ぼくのもう一つのブログの方でも当然、記事はアップさせていただきます。
恐らく金曜の夜にアップするのが食いつきがいいと思うので、それまで待ってください。
いろいろなところで記事としてアップして下さい。
アップされたらこちらの書き込みは消して下さい。
よろしくお願いいたします。
ただ、ぼくとしては「コメント欄に書く」のではなく一つの記事としてアップすることを想定していました。
ぼくはもう一つ、ニコニコ動画でもブログをやっているのですが(内容はこっちと全くいっしょです)、そちら含め記事としてアップし直した方が、と思いますが、いかがでしょう?
「この本に腐女子を語る資格なし 最終版」
続きです。
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この本を読んで私が感じた全体的な印象を一言で言うと、竜頭蛇尾とか羊頭狗肉です。北田さんたちがたくさんの文献を読んでお勉強したことはよく分かります。さすが東大の先生はお勉強得意だというのはよく分かります。でも、実際自分たちがとったデータは「性愛のリアリズムと妄想の共同体」のようにしょぼい質問を拡大解釈して自分たちのフェミニズム思想の正義を歌い上げ、自分たちとは異なる立場の人を政治的に正しくない態度を持つ人と決めつけ否定する。これが「腐女子の心理学」で山岡さんが書いていた「自分たちだけが正しい人」、文化的権威主義者や文化的全体主義者なんですね。
フェミニズム信者ならこの本の読者に選ばれるのでしょう。でも腐女子の実態を知りたい人には役に立たない本です。もう一度言います。BL関連の質問なしで、二次創作に対する興味だけで腐女子認定する人に、腐女子を語る資格なし!!
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「腐女子の心理学」レビュー
「社会学者の地雷原を正面突破する研究書!」 M1
「社会にとって趣味とは何か」のカスタマーレビューでいろいろ書きましたが、あちらで書かなかったことを書きます。
まず、「腐女子の心理学」の最大の欠点は値段が高いことです。税抜き3500円です。たしかに、装丁も凝っていてカッコイイです。ピンク系のカバーの下は黒のハードカバーで、背表紙は白文字でタイトルが、表紙にはダークグレイでバラの絵が書いてあります。スタイリッシュです。でも税抜き3500円は学生には高価です。文庫本にしたら表の数値が見えにくくなると思いますが、せめてソフトカバーにして注釈をたくさん付けて多くの人が購入しやすい廉価版を作って欲しいです。
「腐女子の心理学」の内容に関して。
「社会にとって趣味とは何か」の中で著者の北田さんは、山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判しています。さらに「これは単なる方法論的な不備ではなく、変数の作り方、数字の出し方、およびそれに対する解釈まで及ぶものであり、容易には看過できない。(p.288)」と全否定しています。
その一方で北田さんが作成したオタク尺度8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目でそれを独立変数とし、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。どう考えても山岡さんの研究1よりも、北田さんの研究の方が独立変数と従属変数が近いとしか思えません。
また、北田さんが主張するように山岡さんの研究1の排他的人間関係に関する部分がトートロジーでまちがっているとしても、研究11までの多くの研究を否定することはできないはずです。
北田さんの「社会にとって趣味とは何か」と「腐女子の心理学」を比較すると、「腐女子の心理学」の方が圧倒的に明快です。「腐女子の心理学」では、腐女子やオタクは明快に定義されています。「腐女子はBL作品を好む人物と概念的にも操作的にも定義できる。(p.18)」、「(オタクは行動の程度の違いであり)オタク系の趣味に多くの時間と資金と労力を投資する者がオタクなのである。(p.18)」それに対して北田さんは「腐女子」の概念的定義を明記せず、北田版オタク尺度の得点が高く「二次創作に興味がある」女性を「腐女子」と操作的に定義しています。また、山岡さんが重視するオタク系趣味に対する投資の程度も北田さんは質問していません。
北田さんが使った質問項目は趣味全般に関する調査のための項目であり、オタクや腐女子の研究のために作成されたものではありません。それに対して「腐女子の心理学」で山岡さんが使用したオタク度尺度と腐女子度尺度の質問項目はオタクと腐女子の研究のために作られたものです。
北田さんは、「社会にとって趣味とは何か」の私のレビューに対するコメントで、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」と答えています。しかし、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると、山岡さんのように直球の質問から見えてくることの方がはるかに大きいと思います。北田さんの研究と山岡さんの研究を比較すると、オタク・腐女子研究にかける熱量の違いを感じます。
北田さんは、「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析すること」が計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統だとコメントしてくれましたが、そうであるのなら、これは社会学と社会心理学の研究方法の違いなのでしょうか。この「腐女子の心理学」のコメントを読んでみると、腐女子に関する社会学の研究書を読んでみたけれど納得できない人が「腐女子の心理学」を支持しているようですね。そんな人たちが「腐女子の心理学」に出会って納得できたのでしょうね。
「明快さ」ということで言うと、「腐女子の心理学」は様々な調査結果の平均値や人数等を省略せずに書いていますが、北田さんの「社会にとって趣味とは何か」は%しか書いていないなどだいぶ数値を省略してあります。そのため調査結果を検証することが困難です。ごまかすつもりはないでしょうが、不親切な書き方だと思います。少なくても私には「社会にとって趣味とは何か」よりも「腐女子の心理学」の方が納得できるし先行研究として役に立ちます。
山岡さんの研究は、直球勝負で現象に直接向き合うことができない社会学の人たちのジェラシーをかき立てるのでしょうか。だからジェンダー地雷にかこつけて山岡さんの研究を感情的に全否定しようとするのでしょうか。
「腐女子の心理学」は確かに社会学者が作った地雷を踏んでしまったのでしょう。でも、この「腐女子の心理学」は社会学者のジェンダー地雷なんか気にもとめないで地雷原を正面突破していく本です。具体的な調査結果を知りたい人、社会学者の腐女子研究のジェンダー論的お約束に納得できない人におすすめの本です。高いけど役に立ちます。
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兵頭新児さん
ツイッターで協力者を募りたいというご提案、ありがとうございます。
私も自分にできることを考えてみます。
よろしくお願いします。
私がAMAZONに書いた「社会にとって趣味とは何か」と「腐女子の心理学」のカスタマーレビューが、おそらく北田師匠により投稿できなくされました。
兵頭新児さんのご厚意を得てこちらに掲載させていただくことになりました。
自分の気に入らないレビューを削除し投稿できなくするなどという行為は言論の自由を奪うことであり断固抗議します。
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「社会にとって趣味とは何か」レビュー
「この本に腐女子を語る資格なし 最終版」
指導教授から2冊の本を紹介されました。一冊は「社会にとって趣味とは何か」で、もう一冊は「腐女子の心理学」です。指導教授は「社会にとって趣味とは何か」が「腐女子の心理学」を批判しているので、2冊を読んでゼミで発表しろという課題を出されました。大変だったけど面白かったのでレビューを書きます。
結論から言って、この本に腐女子を語る資格はありません。それは、「二次創作に興味がある」という質問に当てはまると答えたオタク度が高い女性を「腐女子」と認定しているからです。二次創作に興味がある人を「二次創作好き」と拡大解釈し、さらには「二次創作をしている人」扱いまでしている箇所もありました。
これは私の指導教授のコメントですが、面白かったので紹介します。腐女子の肝であるBL好き関連の質問をしないで二次創作への興味だけで腐女子認定することは、「ヤクザに興味がある人」を全員ヤクザ認定するようなものだ。ヤクザ映画が好きな一般人も、警察関係や報道関係の人も「ヤクザに興味がある人」だろう。ヤクザも含まれているだろうが、全員ヤクザと認定することは明らかにおかしい。現象をできる限り正確に捉えることが科学の第一歩だが、第一歩からまちがっている、とのことでした。
著者の北田さんも何カ所か言い訳していますが、二次創作好き女オタクは、ほぼほぼ腐女子であると言い張っています。北田さんにとって腐女子はBL好きな人ではなく、「男性中心主義的な世界観に異議を申し立てている人(p.304)」なのだそうです。二次創作に興味がある女オタクがジェンダー規範がらみの質問に否定的に答え、フェミニズム的な腐女子イメージと一致するから腐女子認定は正しいらしいです。
北田さんは本文中で概念的定義を明記していませんし、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、EMや概念分析、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となり、あまりに議論が紛糾しているので踏み込まない、とコメントしています。明確な概念的定義はしていないけれど北田さんは次のように書いています。「特筆に値する成果を生み出しているのが、データベース消費の概念を受け継ぎながら、「やおい」を生産・受容する女性たち-「腐女子」というカテゴリーが自己執行される-の共同体を、相関図消費という観点から分析した東園子の研究である。(p.269)」、「腐女子たちは「妄想」された男性同士の性愛関係を通して、現実的な異性愛関係を排除した、女性どうしの共同体を作り上げる、と東園子は分析する。(p.278)」このように北田先生は、東さんの研究の紹介という形ですが、明らかに 「腐女子=やおい(BL)を生産・受容する女性」という前提を受け入れ議論しています。それにも関わらず操作的定義ができないとコメントしています。これは、「腐女子はBL嗜好の女性」という定義をしてしまうと、「二次創作に関心がある女性=腐女子」とする自分の研究を否定することになるからではないでしょうか。
腐女子とは逆にジェンダーがらみの質問に肯定的に答えているオタク男は男性中心主義的な保守的なジェンダー意識を持つ人にされています。同じように「腐女子の心理学」の著者の山岡さんのことも、「腐女子に偏見を持つ保守的な男性主義者」と決めつけています。「おそらく山岡に限られない男性知識人の」なんて表現もありました。つまり、フェミニズム系の社会学をやっている北田さんたちは腐女子に偏見なんて持っていない政治的に正しい人たちだけど、腐女子をフェミニズム扱いしない男性知識人はみんな腐女子への偏見に凝り固まった悪しき男性中心主義者だと言いたいのですね。これこそステレオタイプであり、自己正当化でしょう。この北田さんが見ているのは腐女子そのものではなく、フェミニズムという思想なんじゃないでしょうか。
「性愛のリアリズムと妄想の共同体」という見出しがあったので、どんなすごいことが書いてあるのかと楽しみにしていたら、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」と「マンガみたいな恋をしたい」という2つの質問の考察でした。この2つの質問でこんなに大げさに書けるなんて、それが「妄想の共同体」ですかって感じです。「二次創作に興味」で腐女子認定するように、質問と考察に距離がありすぎると感じました。こういった飛躍を埋めるのが「真の意味での社会学的想像力(p.17)」なんでしょうか。「本書は読者を選んでいる」と最初に書いてありましたが、フェミニズム信仰を共有し、飛躍とこじつけを社会学的想像力と表現できる人だけ選ばれるのでしょうね。それならば私は選ばれなくていいです。
北田さんたちのオリジナルの研究報告書と質問紙を拝見しました。一般的な趣味に関する質問紙であり、オタクや腐女子の何らかの調査のために作成された質問ではないですね。北田先生の「オタク尺度」は一般的な趣味の質問の中からオタク趣味に関連しそうな項目をチョイスして作成したものですよね。直接的な質問がないことを不思議に思っていましたが、一般趣味用の質問の再利用ではオタクや腐女子をとらえようとしても表面をなぞるだけでディープなことはわからないのではないでしょうか。
質問項目に関して北田さんは、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」とコメントしてくれましたが、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると直球から見えてくることの方が大きいと思います。そこが「社会にとって趣味とは何か」を読んだときに感じたもやもやの原因なのではないでしょうか。北田先生は、これが計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統とおっしゃいますが、社会学の教科書的には正しい研究方法でも、それが他の社会科学からも正しいと認められる研究方法であるとは思えません。
統計的にも疑問があります。指導教授は、因子分析をしているのに項目ごとに考察するのでは分析した意味がないと言っていました。これは私にもわかったところですが、「10%水準で有意差が認められる(p.278)」と書いてありますが、「有意」と言っていいのは5%未満でしょう。さっき書いたジェンダー規範関連で、「結婚したら子供を持ちたい」という質問に二次創作に興味がある女オタクの76.1%が肯定的に回答しているのに、他の女性グループより肯定率が低いから、腐女子は「家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている(p.300)」ことにして議論を進めています。1/4以下の人たちの反応で全体を語っちゃっていいの、と私は思いました。データの読み方が強引というか恣意的というかこじつけというか。でも北田さんにとっては、フェミニズム信仰と一致する議論になるから社会学的想像力でOKにしちゃうのでしょうね。
BL芸人の金田淳子さんのツイッターをはじめとしたネットの反応を見ていて、なんで社会学系の人はそこまで感情的に「腐女子の心理学」を否定しようとするのか不思議に思っていましたが、この本を読んでよくわかりました。この本でも、「腐女子への偏見に基づく一般化 -ヘテロ男性の『認知的不協和』の解消?- が少なくない(p.287)」「(山岡の)提案は限りなく現実性を欠いたものといわなくてはならない(p.293)」「山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点から見た腐女子の『逸脱化』に貫かれている(p.302)」なんて、かなり感情的に否定しています。「腐女子の心理学」はフェミニズム地雷を踏んでしまったようです。
「腐女子の心理学」は、1人で満足しているのならそれでもいいけど、もっと楽しく生きたければ現実を変えろ、そのためには1人よりも仲間がいる方がいい、とアドバイスします。オタクや腐女子は趣味の仲間作りに関しては積極的だけど、恋人がほしいのに恋愛に関して不安に思っている人が多いからそちらのアドバイスをしています。ここが社会学系の人には許せないところなのですね。「腐女子は男性中心主義的な世界観に異議を申し立てているフェミニストである」という教義を信奉している社会学系の人にとっては、「楽しく生きたければオタク男と恋愛するのもいいよ」などというのは自分たちのセントラル・ドグマを破壊する悪魔の声なのでしょうね。
北田さんは山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判し「腐女子の心理学」を否定しています。
その北田さんのオタク尺度は、「好きなマンガについて友だちと話をする」「友だちと一緒にマンガ・アニメ専門店に行く」「マンガがきっかけでできた友だちがいる」「アニメがきっかけでできた友だちがいる」「ライトノベルが好きだ」「マンガ趣味選択」「アニメ趣味選択」「ゲーム趣味選択」の8項目です。北田さんが「オタク」と操作的に定義する人物類型はマンガ・アニメ・ゲームが趣味でライトノベルが好きで、それらの趣味を媒介にして友人関係を持っている人物です。北田さんのオタク像は、アニメ・マンガ・ゲーム・ラノベの趣味自認と趣味を媒介にした友人関係を持つことがオタクをオタクたらしめる独立変数ということです。独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数とし、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。
はっきり言って、北田さんは山岡さんを批判するのと同じことを自分でやっています。私には山岡さんの研究が独立変数と従属変数の設定がおかしくて、北田さんの設定がおかしくないとは思えません。
やはり社会学系の人が「腐女子の心理学」を感情的に否定するのは方法論的に納得できないからではなく、フェミニズム的に納得できないからなのでしょう。BLはフェミニズムであり、その観点から研究することが社会学における腐女子研究のポリティカル・コレクトネスの証明だから、この観点以外の研究は政治的に正しくない。そのような研究を全否定することが社会学者の使命なのですね。これはもう科学ではなくカルトですね。
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長いのでひとまずこれで投稿します。
件のレビューが消えているのには、ぼくも驚きました。
コメント自体は結構Amazonの判断でかなりアバウトに消すようですが、コメント自体をできなくするというのはまた別ですし、北田師匠がそこまで尼に介入するというのも不可解な話ですね。
レビューをぼくのサイトに掲載すること自体は、もちろん喜んでご協力したいと思います。
ただ、正直それだけでは効果は薄いと思います(例えばツイッターのフォロワー数などを見ていただければおわかりになると思いますが、ぼく自身が知名度のある存在では全くありませんから)。
本件における対抗策として、「知名度のないブログにひっそり載せるだけ」というのはいかにも惜しい。もしよろしければツイッターで協力者を募りたいと思うのですが、いかがでしょう。正直、ぼくの呼びかけに応じる人間がどれだけいるか非常に疑問ですが、それでも複数の(更に知名度のある人の)ブログに記事をアップした方が……と思います。
或いは、もし不特定多数に呼びかけるというのに抵抗があるなら、「この人はどうだろう」という人物ピンポイントに声をかけるやり方でもいいですし。
検討いしていただけると幸いです。
AMAZONの「社会にとって趣味とは何か」の☆1つの全てのカスタマーレビューを削除するだけでなく投稿できなくしたようです。
私はカスタマーレビューの規約に抵触する恐れがあるということで、「社会にとって趣味とは何か」だけでなく、山岡さんの「腐女子の心理学」のカスタマーレビューにも投稿できなくなりました。おそらく、私のレビューへを山岡さんの関係者によるものと北田一派がAMAZONに訴えたのだと思います。私以外の☆1つのレビュアーであるMI6さんやBL芸人さんのレビューが復活しないのも私と同じように投稿できなくされたのだと思います。
兵頭新児さん、お願いがあります。もし可能でしたら、私のカスタマーレビューを兵頭さんのブログに掲載していただけないでしょうか?正直、北田一派のやり方には腹が立っています。このまま、私のレビューがなかったことにされたくないのです。よろしくお願いいたします。
まさか北田問題渦中のM1様がコメントしてくださるとは思わず、驚いています。
また、それ以上に北田師匠の振る舞いには驚きました。
Amazonのコメント、随分と妙なことになっていますね。
お前には議論する義務があるぞ、さあ、俺と話せと。
「いきなりそんなことを言われても……」という感じでしょうね。
いろいろと条件を提示しているのはむろん、誠実な態度でしょうが、逆に気味悪くも思えますね。
M1様のコメントも、ぼくにかなり近いもので心強く思えました(初期に投稿されていたバージョンに比べ更にフェミニズムなどについて切り込んでいるような気がしますが、書き直されているうちにそうなったのでしょうか?)。
他の方のコメントにせよ、基本的には北田師匠の著書における主張が恣意的で乱暴すぎるというものであり、概ねぼくの意見と変わることがないと思います。
それに対し、北田師匠が有効な反論を成し得ているとはとても思えない。
にもかかわらず、直接会って話せば全てわかってくれると思っているのだとしたら、ちょっとヘンだし……。
ただ、第三者から見て北田師匠の方が常軌を逸しているのは明らかなので、その意志がないことをコメント欄で伝えるのが正解ではないでしょうか。
もしここで言いにくいことがあれば、shin_2_h@ybb.ne.jpまでご連絡ください(半角にして)。
また、ぼくの統計についての見立てはどうでしょう?
ド素人が必死になって書いたもので、これはこれで不安でして……。
速攻で北田師匠から長文の反論コメントが来ました。AMAZONレビューで何度かやりとりをしたのですが、いろいろとうんざりしています。
まず、これは私だけではないのですが、☆1つのレビューが突然削除されます。私は4回削除されました。削除されても復活させる人も何人かいますが、そのまま消えていった方もいます。どのような方法で削除しているのかわかりませんが、北田師匠のやり方が陰険というか、卑怯です。
北田師匠は私に次のような提案をしてきました。以下引用します。
『「腐女子」という概念をめぐる横領、象徴的闘争に与することをは厭います。学術的にも研究倫理的にも。ことここまで至っては、M1さんも「研究者として」調査協力者への倫理的責任が生じると考えます(pixiv騒動はご存知ですね?)。社会学や心理学、社会心理学の専門的オーディエンスを揃えたセッションを開きましょう。わたしが立場が上(?)で、抑圧的というのなら、指導教授や合意したお友達、同意してくれる専門研究者を連れてこられて結構です。私はM1さんというよりは指導教授の指導方針・研究倫理・統計知識について深い疑念を抱いています。個人情報は徹底して管理し、お名前や所属が漏洩することのないように、最大限の配慮をいたします。gyodai@iiii.u-tokyo.ac.jpです。ご連絡をお待ちしております。わたしはいつでもあなたの個人情報を尊重しつつ、議論を開いています。ローデータも持ってまいりますし、断る理由は何もないと思います。
どうしても直接議論するのが躊躇われるのなら、スカイプの捨て垢参加で結構です。ただ、指導教授には顕名で研究者・教育者としての責任を果たしていただきたく思います。指導教授がそれも回避したいというのであれば、学者としての説明責任を放棄したに等しいわけですが、それでも匿名・スカイプまではこちらも譲ります。参加者は、双方が推薦する社会学、心理学、心理統計、社会統計、BL研究者の専門家5名ずつでいかがでしょう。その場に山岡先生をお招きしたとして、なにぶんプロなので山岡先生も前向きにご検討くださることと思います。私のほうから山岡先生にご連絡いたしますので、M1さんは指導教授とご相談ください。
繰り返しますが、あなたには完全な匿名性(私に対する匿名性含めて)が保証されています。拒絶する理由はなにもないと思います。』
私ごとき大学院に入ったばっかりのひよっこにこんな提案をする東大教授がいるとは信じられません。著者本人と話ができるのは有り難いことなのでしょうが、恐縮を通り越して恐怖です。また、指導教授に迷惑をかけることにもなってしまいます。このことを考えるとウツっぽくなります。
私としては自分のレビューが削除されたら削除者に対する抗議の意味で復活させますが、それ以上には北田師匠と関わるつもりはありません。北田師匠の粘着攻撃がキモすぎます。
AMAZONのカスタマーレビューをご覧になってください。感想を教えていただければ幸いです。私、北田師匠の粘着攻撃で心が折れかかっています。指導教授には迷惑をかけられないので、自分一人で抱え込んでいる状態です。第三者の客観的な意見を聞きたいのです。
よろしくお願いします。
>内容の自由さで言うと、今の少女漫画やBLの方がずっと自由だと思います。
う~ん、でも仮に今、そうした24年組的、文学的な作家が少女漫画誌に持ち込んでも、採用してはもらえないんじゃないでしょうか?
(全く読んだこともないクセに、想像で書いているだけですが……)
ただ、ぼくは「少女漫画」というものを『少女コミック』的な「少女漫画誌」に載っているものとして捉えており、それが現状、「ある種のニッチな、伝統芸能」であること自体は事実ではないでしょうか。ぼくの感度が低いだけかも知れませんが、正直、そういうところからメジャーになる作品も、最近は聞きませんし。
ただ、定義を「青年誌に載っている、女流漫画家の作」とするともちろん、非常に自由なイメージを持っているのですが。
オタク業界(ゲーム、ラノベなど)も、ある種伝統芸能的なものばかりが縮小再生産される傾向にあるのに比べ、やはり今の漫画業界の広がりというのは全く別物だと思います。
しかし確かに、24年組の漫画とフェミニズムとは非常に関連性が深いですよね。
母との葛藤がどうのこうのと(これはフェミニストの本を読んで、何とはなしに間接的に得たイメージです)。
そう考えると、やはりこれは不良映画の流行に近く、社会が豊かになり、青年がカウンターカルチャーに目覚めた頃と時期を同じくしている感じがします。
ジェンダーについてはもうすっかり、何十年と勉強していないので疎いのですが、おっしゃることは正しいと思います。
人間がまず自意識の形成を始める時、「私は母/父と同じカテゴリに属しているな」と考える。仮に愛猫家の家に住んでいても、「私は猫ではなく人間だ」よりもまず男女の違いを意識するのではないかと思います。
ご存知かも知れませんが、一時期、ジョン・マネーという学者の説が通説となっていました。
「ジェンダーとは全て後天的である」というものです。
おっしゃる社会的役割(ジェンダーロール)のみならず、自分は男/女だという自己認識(コア・ジェンダー・アイデンティティ)までが後天的であり、教育によって全てはひっくり返せる、と言われておりました。
フェミニストたちはマネーを神のごとく崇め、「ジェンダーというフィクションは完全にリセットされるべきだ」との信念を持っていたのですが、その学説は近年、インチキな調査によるウソだとバレてしまいました。
ところがフェミニストはマネーだけを尻尾切りして、いまだジェンダーフリーを推し進めています。
例えば男の子が黒を好み、女の子が赤を好むことは普遍的だと思うのですが、これを「教育、環境による刷り込みで、好ましくないことだ」と彼女らは考える。
そうしたジェンフリにはやはり、賛成しにくい。
彼女らはそう言われると、「我々の思想はあくまで黒を好む女の子が差別されてはならない、というものだ」と反論するのですが、実際には彼女らは「女の子も黒を好むべきだ」とのべき論にどっぷり浸かり、おかしなジェンフリ教育が学校でなされている、というのが現状です。
すみません、長くなりましたがおっしゃるようなことについてはピンカー『人間の本性を考える』などがいいかも知れません。
いえ、実はぼく自身は未読なのですが、おっしゃる認知心理学の人で、遺伝的要因がどれだけ人間を決定づけるか(それは当然、ジェンダーについても)について書かれた本です。
>実はぼくは24年組の漫画を読んだことがないのですが、あの頃の少女漫画の賞揚のされ方、今の少女漫画の評価のされなさは興味深いですね。
単純に昔の方が自由に描ける土壌があった、ということかも知れませんが……。
私が読んだことがあるのは、木原敏江、萩尾望都、山岸凉子、青池保子くらいですが、内容の自由さで言うと、今の少女漫画やBLの方がずっと自由だと思います。
実際に読んでみるとわかると思いますが、24年組やその世代の漫画家のすごさは、教養の差です。
今のBLは文学少女じゃなくても読めますが、24年組の漫画は文学青年とか文学少女というちょっと絶滅しかかっている人たちじゃないと読めないところがあります(おもしろさがわからないという意味で)。
『トーマの心臓』などその典型かと思いますが、これを傑作だという人は男女問わずみんな読書好きです。
その延長だと言われていたのでBLとされる漫画とか小説に手を出してみたことがあるのですが、よしながふみくらいしか24年組レベルで突き抜けている人はいないなと思いました。
ただ、過激なフェミニストさんたちが24年組の漫画に何を見ているのか、正直私にはよくわかりませんが、24年組の漫画は、どちらかというとミソジニー傾向が強くて、そればかり読んでいると、自分が女に生まれたことを全く肯定できない女子になってしまうんじゃないかと心配なので、自分の娘にはあんまり小さい頃から読ませたくないなあと思っています。
>感じとしては「ジェンダー」を「ジェンダーロール」とでもいったイメージで捉え、また、「男性性/女性性」をある程度、先天的なものと捉えて「セックス」の中に入れていらっしゃるのかなといった印象を抱きました。
ジェンダーは性別を元にそれぞれの性に振り分けられている社会的役割(例えば女は家で家事をするべき、男は外で仕事をして家族の食い扶持を稼いでくるべきというような)で、定義上後天的です。
セックスは先天的な性差にもとづく男女差(女性は妊娠、出産を目的とした体のつくりになっている、男性は女性に比べて体脂肪率が低い、などなど)です。
理論的な区別はそんな感じなのですが、自分の中でこの線引きって実際にはかなり難しいなと感じています。
自分が子供を生んで育ててみて発見したことですが、人間って言葉を発する前から男女の差を意識しているようで、男と女という名前はわからなくても、父親と母親の区別から、道を歩いていてすれ違う人を見ても、誰が父親と同じ側の性で、誰が母親と同じ側か、区別を始めているようなのです。
とすると、同性婚カップルに育てられた子どもは、男女差を認識するのが遅くなるのか?とか、そもそも子どもはそういう区別を何をもってしているのか? その認識は本能的なものなのか? とかいろいろな疑問が湧いてきていて、どこまでが先天的でどこまでが後天的といえるのか、正直ちょっと怪しくなってきています。
こういうのは、認知心理学とかそういうのの領域になるんでしょうか。
そういう疑問に答えてくれる本があったら、ぜひ読んでみたいのですが・・・・・・
兵頭さん、もしかしたらご存知ありませんか?
>しかもこちらで「女災」と表現されていることは、私自身が同性の人たちに対して、何だかなあ、見苦しいなあ、と思っていたことですから。
なるほど。
でもそうおっしゃていただけるだけでも救われます。
>フェミニズムの主張は、社会全体で見るとマジョリティの側にいる、伝統的ジェンダーに乗っかって特に不満なく生きている人たちを相手にしているわけだから、まず耳を貸してもらうのがとても難しいというのは、今も現実です。
そうですね。
だから90年代、彼女らはセクシャルマイノリティを自軍に引き込むなどして、何とはなしにインテリっぽい、人権派っぽい装いをしていました。
が、目下、自分たちの企みで女性たちが結婚できなくなり、むしろ(それを男のせいにして、マッチポンプで女性の窮状を救うと自称して)復活しつつあるのではないかとの危惧も覚えます。
>これ、おっしゃるとおりだと思いますが、フェミニストが男児の性被害を無視するのと合わせて、そういう人たちの議論の浅はかさを見せつける事象ですね。
フェミニストの子供への冷酷さは本当、見ていておぞましい限りです。
男児への性的虐待など、無視するどころか推奨していますし。
(フェミニスト漫画家が書いた『赤ちゃんが来た』というエッセイでは自分の子供のペ○スをしゃぶってはしゃぐ場面が描かれています)
>いわゆる花の24年組とくくられる人たちの漫画を読んでいると、「受け/責め」という関係性はあまりなく、「ジェンダーレスワールドの実験」という側面もうなずけないわけではないのですが、
なるほど。
実はぼくは24年組の漫画を読んだことがないのですが、あの頃の少女漫画の賞揚のされ方、今の少女漫画の評価のされなさは興味深いですね。
単純に昔の方が自由に描ける土壌があった、ということかも知れませんが……。
>まあ平凡ですが私の想像するところ、彼らが草食系なのは、女子の嗜好や興味に理解があり、女子に気を使いすぎるあまり、奥手になって、二次元や鉄オタなど趣味の世界へ逃避してしまっているからだと思われました。
これはすごくよくわかります。
やはり男女平等で育った世代ですからね。
しかし現実問題として、そうしたおとなしい男子よりDQNっぽい男子の方がモテるんですよね(^^;;
いわゆるネットの女叩きなどは、見ていてよくないなあと思うものも多いですが、そうした状況に腹に据えかねて、という要素も大きいように思います。
>男でも女でも、ジェンダーの話をするときにヒラマサさんのような柔軟性と聡明さ、偏りのなさをもって話を聞ける人って少ないのが残念です。
本当におっしゃる通りだと思いますが、フェミニストたちは、あれだけ男を罵倒しながら、やはりどこかで男性を「自分に全てを与えてくれるお父さん」だと思っているのではないかと思えてなりません。一人で立つことに耐えられない人たちなんじゃないかと。
>一応表明しておきますと、私は古典的なジェンダーとセックスの区別をつけるという立場です。
>ジェンダーフリーは望ましいが、セックスフリーはないだろうと。
う~ん、そうですか。
感じとしては「ジェンダー」を「ジェンダーロール」とでもいったイメージで捉え、また、「男性性/女性性」をある程度、先天的なものと捉えて「セックス」の中に入れていらっしゃるのかなといった印象を抱きました。
また、おいおい説明していただけると幸いです。
それでは!
全面降伏というつもりはなかったのですが、災害の元凶側にいる者としてはいたたまれない気持ちが拭えなくて。
しかもこちらで「女災」と表現されていることは、私自身が同性の人たちに対して、何だかなあ、見苦しいなあ、と思っていたことですから。
つい、やってしまいました。
女でも男でも、自分が不利益を被ることを主張してくる相手は全力でつぶそうとしますよね。
フェミニズムの主張は、社会全体で見るとマジョリティの側にいる、伝統的ジェンダーに乗っかって特に不満なく生きている人たちを相手にしているわけだから、まず耳を貸してもらうのがとても難しいというのは、今も現実です。
フェミニストたちには、何か声を上げるためには、ものすごく武装していかないとすぐにメタメタになってしまうから、もうやたら攻撃的になる、おかげで世間からは余計に煙たがられる、ますます攻撃的になる、という悪循環があるなあと思います。
自分が目先の利益を多少失っても、相手の被った損害を補償するために、あるいは将来的に自分も相手もより満足度の高い状態に移行するために、建設的な話し合いをしようという合理的で柔軟な頭をもっている人は、たぶん男にも女にもそんなに数は多くないと思います。
先の先まで読んで、深い議論ができる人は残念ながら本当に少ないなあ、と四十年近く生きてきて思います。
>要するにBLというのは男性に女性ジェンダーを演じさせているわけだから、実のところ「ジェンダーフリー」的なモノでは全くない、ということですよね。
(フェミニストがここに疑問を持っていないらしいのは、不思議でなりません)
これ、おっしゃるとおりだと思いますが、フェミニストが男児の性被害を無視するのと合わせて、そういう人たちの議論の浅はかさを見せつける事象ですね。
いわゆる花の24年組とくくられる人たちの漫画を読んでいると、「受け/責め」という関係性はあまりなく、「ジェンダーレスワールドの実験」という側面もうなずけないわけではないのですが、それがその後のBLにあんまり引き継がれていないところを見ると、ああ、やっぱり突き抜けた思考のできる人たちを相手にしては、お金儲けはできないのね、と思ってしまいます。
>オタク男子についてはおっしゃる通り、基本は草食系だと思います。
二次元の美少女が好きな時点で、男性性からはドロップアウトしている人たちですしね。
(お話を伺うと学歴の問題が大きいのかなあ、という気もしますが)
シンプルに学歴の問題にしてしまうのもちょっと違う気がしますので、この点、補足させていただきます。
私の周囲で私の面倒な話に付き合ったり、意気投合してくれたりしたオタク男子の共通点を探すと。
- 比較的高学歴
- 少女漫画を読んだことがある
- オタク的風貌、嗜好をもっているが、現実の女子に完全に興味を失っているわけではない
- とっつきにくい雰囲気があるが、相手の話もよく聞くし、喋りだすと結構饒舌
などがありまして。
まあ平凡ですが私の想像するところ、彼らが草食系なのは、女子の嗜好や興味に理解があり、女子に気を使いすぎるあまり、奥手になって、二次元や鉄オタなど趣味の世界へ逃避してしまっているからだと思われました。
彼らは機会さえあれば、お付き合いするのに理想的な人たちなのになあ、と私は常々思っていました。
手っ取り早くいうと、「逃げ恥」のヒラマサさんのような感じの人たちです。
(ドラマではヒラマサさんは京大卒という設定だった気がします)
私はドラマしか見ていないので、星野源さん演じるヒラマサさんを念頭に置いて理解していただきたいのですが。
彼、いろんな議論にとても丁寧に付き合って、建設的に話し合いを進めていました。
私が一番いいなと思った彼の台詞は、最終回でみくり(妻)に対して、「小賢しいって何ですか。小賢しいって、相手を下に見て言う言葉でしょ。僕はみくりさんを下に見たことはないし、小賢しいなんて思ったこと一度もありません」だったと思いますけど、ジェンダーについて議論するとき、このヒラマサさんの台詞をスタート地点にできたらいいのになと思います。
男か女か、どっちが上に立つかではなく、同じ地点に立って一緒に作業を続けていくのにどうやったらお互いに幸せになれるのか。私にとっては、ジェンダーの話をする目標は、そこにあります。
兵頭さんがフェミニストたちに頭を下げながら近付いていく同性たちに違和感を抱かれたのも、そういうことかと思います。
お互い、同じ地点に立って話がスタートできていない。
ヒラマサさんのスタンスで話をしたら、違う展開になっていたかもしれないのに。
男でも女でも、ジェンダーの話をするときにヒラマサさんのような柔軟性と聡明さ、偏りのなさをもって話を聞ける人って少ないのが残念です。
一応表明しておきますと、私は古典的なジェンダーとセックスの区別をつけるという立場です。
ジェンダーフリーは望ましいが、セックスフリーはないだろうと。
あとは個々のジェンダーとセックスの区別をどうするかという問題になりますが。
これについては長くなるなので置いておきます。
また長々と書いてしまいましたが、これからもブログ頑張ってください。
女性は読まないだろうと好き勝手に書いているブログなので、大変恐縮ですw
が、楽しんでいただけたのことで、胸を撫で下ろしております。
>こちらのブログを読んでいると、女に生まれてしまってごめんなさい、と謝りたくなってきます。
いえ、そんなことはないですよ。
男性が「フェミニズム」にかかわろうとした時、唯一の方法が「男に生まれてごめんなさい」と彼女らに全面降伏するというあり方であり、ぼくたちはそうした馬鹿な連中の轍を踏まないようにしなければ、と自戒せねばならんなあ、と思っております。
オタク男子についてはおっしゃる通り、基本は草食系だと思います。
二次元の美少女が好きな時点で、男性性からはドロップアウトしている人たちですしね。
(お話を伺うと学歴の問題が大きいのかなあ、という気もしますが)
一方、腐女子が男性的かとなると、やはりおっしゃるようにそれはないと思います。
フェミニストやそれに唱和する男性たちは「男性的な女性」をやたらと持ち上げますが、実際のところ「女性的な女性」を否定的に見るような流れはどこにもなく、実際には女性的なままで許されてきたということですね。
>(疑問を持っていると90年代以降のBLの世界はちょっと受け入れにくいんじゃないかなというのが私の個人的な感想ですが)
要するにBLというのは男性に女性ジェンダーを演じさせているわけだから、実のところ「ジェンダーフリー」的なモノでは全くない、ということですよね。
(フェミニストがここに疑問を持っていないらしいのは、不思議でなりません)
>女に生まれても男に生まれても、伝統的ジェンダーに全く疑問を抱かず、それに乗っかって生きていくことに疑問を持たない人の方が、まだまだマジョリティなのかなと思います。
ただ、男性ジェンダーについてはこの三十年くらい、いいことを言われたことがない気がしますw
もちろん、勝ち組はそんなことを気にせずに生きていけるのでしょうが、そうではない層が無視できない数になったからこそのトランプ当選でもあります。
>私自身はジェンダーで不利益を被っているのは男だって同じなんだよ、と大学時代に同級生男子たちに力説したことがあるのですが、主張を理解してくれたのはごくごく一部の男子でした。
これはすごいですね。
こんなことを言ってくれる女性はホンの一握りです。
フェミニストは口先では言いますが、ホンキでは言ってないでしょう。
ただ、ぼく自身は「ジェンダーフリー」そのものには反対で、男女のジェンダーを温存させつつ、互いにもう少しだけ理性的に、自らのジェンダーの抱える業に自覚的になろう、という方針をとるのがいいと思うのですが……。
今回はありがとうございます。
よろしかったらまたコメントください。
本当に、申し訳ないです。
女災の原因にならないように気をつけます。
ところで、私は周囲にオタク男子が何人かいて(BLとか全然読みませんけど、私自身オタクっぽい傾向があるのでしょう)、結構意気投合することが多いです。
個人的な経験では、比較的高学歴のオタク男子には、マッチョなところが全くなく、少女漫画の話題にも付き合ってくれ、変に構えずに腹を割った話ができる人ばかりという印象があります。
(余談ですがゲイの人にもそういう人が多いです)
学歴の低いオタク男子には、正直信じられないくらいマッチョな人を再三見かけましたけれども・・・・・・
逆に非オタク男子の場合、高学歴でも、「この人、何時代の人?」みたいなマッチョやセクハラな発言を平気でする人がたくさんいました。
腐女子で意気投合できる人にはまだ会ったことがないのですが、ちらっと話すと、兵頭さんのおっしゃるとおり、伝統的ジェンダーに全く疑問を持っていない人の方が多かったように思います。
(疑問を持っていると90年代以降のBLの世界はちょっと受け入れにくいんじゃないかなというのが私の個人的な感想ですが)
でたらめな調査結果で「文化社会学の方法規準」とか、さも学術的な方法論に則ったようなしたり顔で本を出すのはやめてほしいですね。
私は非オタク男子や非オタク女子で、伝統的ジェンダーに則って人生を謳歌できる人たちの臆面のなさというか想像力の欠如は、自分がマイノリティに付属したことがない人に特有のものだなあと感じてきました。
女に生まれても男に生まれても、伝統的ジェンダーに全く疑問を抱かず、それに乗っかって生きていくことに疑問を持たない人の方が、まだまだマジョリティなのかなと思います。
私自身はジェンダーで不利益を被っているのは男だって同じなんだよ、と大学時代に同級生男子たちに力説したことがあるのですが、主張を理解してくれたのはごくごく一部の男子でした。
でもそういう話は、女同士でも迂闊にはできず。
変にフェミニスト扱いされたり、めんどくさい人にくくられたり。
結局伝統的ジェンダーは男女共にいろんな縛りを押し付けてくると感じること、あるいはそれを縛りだとか呪いだとか感じること自体が、社会全体の中から見てマイノリティなのかなと思います。
そのマイノリティの中ですら、あれこれ派閥対立しちゃうのが人間の馬鹿馬鹿しさなんですかね・・・・・・
私も今のフェミニズムの行き着く先に希望が見えない気がしているので、いろいろと共感するところが多かったです。