ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

夏の思い出3 ── 姫川のこと

2024年12月16日 | 国内旅行…信州

 (姫川─白馬村よりやや下流)

<姫川の源流>

 後立山連峰に降った雨や、雪渓から解け出た水は渓流となって麓へと流れていく。その幾筋かは白馬村の中を通る。

 なかでも松川は、あの白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流として、多少の感慨をもって眺める登山者もいる。

   (松川)

 これらの渓流を集めながら、後立山連峰の東側の谷筋を、北へ北へと流れてゆくのが姫川である。流れてゆく先は、県境を越えた新潟県の糸魚川市の海岸。

 糸魚川という川は存在しない。市内を流れる一級河川は姫川である。「厭い(いとい)」から転化したという説もある。姫川は昔から暴れ川だから、そんな風に呼ばれたこともあったかもしれないが、わからない。

 白馬村の姫川の橋の上で流れを眺めていたら、向こうから歩いてきた人が立ち止まって、「糸魚川静岡構造線だよ」と教えてくれた。唐突だったからちょっと驚いた。そういうことに興味をもつ人間と思われたのかもしれない。

 帰宅して改めて調べてみたら、北アメリカプレートとユーラシアプレートの境界で、日本の本州を縦断する大断層線ということだった。優しい名をもつ川だが、何やら畏ろし気である。

 だが、その名のイメージのとおり姫川の水質は清らかで、一級河川のなかで一、二を争う清流である。

 水源はこの村の中にある。白馬村の南の端あたり、標高745mの親海(オヨミ)湿原の湧き水が水源ということだ。

 早春の頃は福寿草が群生し、やがて水芭蕉や鬼百合なども咲いて、木製の遊歩道が整備されていると紹介されていた。行けばよかったと、あとで思った。しかし、木陰が少ないから、夏はただ暑いばかりかもしれない。いつかまた、良い季節に白馬村に行く機会があれば、行ってみたいと思う。

 白馬村の南隣は大町市である。「白馬」駅から大糸線に乗って南下すると、大町市に入ってすぐに青木湖、中綱湖、木崎湖の静かな湖面が次々と車窓に見えてくる。

  (青木湖)

 その青木湖の漏水が親海(オヨミ)湿原の湧き水はではないかという説もあるらしい。しかし、そこまでは調査されていないそうだ。根拠はないが、そうかもしれないと、期待まじりに思った。

      ★

<そして、姫川の河口>

 親海(オヨミ)湿原の湧き水を水源とし、途中、後立山連峰から流れ落ちてくる渓流を集めながら、姫川は北へ北へと、日本海まで60㎞を流れてゆく。川の横を国道が走り、各駅停車の大糸線もトコトコと走って、糸魚川駅まで行く。

 姫川の河口付近の河原や海岸では、ヒスイを採取できる。

 ヒスイは「国石」である。日本鉱物学会によって日本を代表する石に選定された。決選投票では水晶と争い、ヒスイが最終的に選ばれた。

 以前、出雲大社に参拝したとき、宝物館(博物館)でヒスイの勾玉を見て、その美しい緑に魅了された。爾来、ヒスイには心ひかれている。

 だが、国石と言っても、ヒスイは日本列島のどこでも採取できる石ではない。過去にヒスイが採取・利用されたのは新潟県糸魚川市付近のものだけ。

 場所ばかりでなく時代も限定されて、日本の歴史の中でヒスイが装飾品として使用されたのは、縄文時代から、弥生時代を経て、古墳時代までである。その後、ヒスイは日本の歴史からフェードアウトし、誰からも忘れられてしまう。再発見されたのは戦後である。

 今は誰でも糸魚川付近の河原や海岸でヒスイを採取でき、採取された石がヒスイの原石かどうかを鑑定してくれる施設まであるという。それは、河口付近まで流されてきたヒスイはやがて砂粒になって消滅してしまうからである。消滅してしまうなら、子供でも大人でも採取して持ち帰り記念にしてほしい。だが、姫川の少し中上流のどこかで、ハンマーでは割れないから、ダイナマイトなどを使って採取しようとしたら、盗掘になる

      ★

<沼河比売 (ヌナカハヒメ) と姫川>

 今回の旅の中で、ふっと、何故「姫川」なのだろう?? と思った。この川の名は何かいわれがありそうだ …。

 こういうことは、地元の子どもたちの方が郷土学習か何かで勉強して、みんな知っているのかもしれない。それにひきかえ、何度も信濃国を訪ねながら、この年齢まで疑問に思うことさえなかった。

 それで、調べてみた。

 ── 新潟県 (高志国、越国とも) や長野県 (信濃国) には、古来から「沼河比売」を祭神とする神社があり、祭神の「沼河比売」の伝承が残っている。

 漢字表記は「奴奈川姫」などもある。ヌナカハヒメ、或いは濁って、ヌナガワヒメと読むそうだ。

 この姫の名をもつ川が、万葉集に1首だけ登場する。雑歌だが、地方から収集された歌だろう。

 沼名河(ヌナカハ)の 底なる玉 求めて 得まし玉かも 拾ひて 得まし玉かも 惜(アタラ)しき君が 老ゆらく惜(ヲ)しも」(3247 作者未詳)

 老いていく「君」とはどういう人なのか、歌の作者と 「君」との関係などもよくわからない。

 歌の意は別にして、冒頭に沼名河 (ヌナカハ) という川の名が出てくる。その川から「玉」を得ることができる。ヒスイのことだろう。古語の「ぬ」は宝玉の意をもつから、「ヌナカハ」は玉の川である。

 沼河比売 (ヌナカハヒメ)を祀る神社や、石を採取できる沼河 (ヌナカハ)から、姫川の「姫」は、沼河比売(ヌナカハヒメ)に由来すると考えていい。

 沼河比売 (ヌナカハヒメ)は、遠い昔、ヒスイを採取できるこの地を支配した豪族の祭祀女王であったのだろう。

  (白馬村を流れる姫川)

      ★

<大国主と沼河比売の話>

 沼河比売 (ヌナカハヒメ) は、『古事記』にも一度だけ登場する。神代記の大国主の命の話の中である。

 話を要約すると味も素っ気もないのだが、出雲、伯耆、因幡 (島根県、鳥取県) の王となった大国主が、高志 (越)  (石川県、富山県、新潟県) の沼河比売 (ヌナカハヒメ) を妻にしようと思い、高志国に出かけて行く。

    姫の家の前にやってきた大国主は、鎖された姫の家の外から求婚の歌をあつく詠む。やがて姫も、家の中から大国主に応じる歌を返した。そして、その翌日の夜、二神は結婚したという話である。

 遠い古代(弥生時代後期)に、山陰から北陸にかけて、日本海ルートで「出雲・越連合」が形成された。そのことを神話的に表した話であろう。朝鮮半島や大陸との交易を差配する出雲の王にとって、姫川産のヒスイは貴重な交換財であった。

 『古事記』の沼河比売 (ヌナカハヒメ) に関する記述はこれだけだが、沼河比売 (ヌナカハヒメ) を祀る神社がある地には、大国主と沼河比売 (ヌナカハヒメ) との間に子が生まれたという伝承が残る。子の名は建御名方 (タケミナカタ) の神。成長して、姫川を遡って諏訪地方に入り、諏訪大社の祭神になったという。諏訪大社の方でも、祭神の建御名方 (タケミナカタ) 神の母を沼河比売としている。

    (諏訪大社)

 出雲・越連合の支配圏・文化圏は、姫川を溯って、内陸部の信濃国に及んだ。諏訪大社は信濃国の一宮である。

      ★

<『古事記』の中の建御名方 (タケミナカタ) の話>

 大国主の子である建御名方 (タケミナカタ) も、『古事記』に一度だけ登場する。それは「大国主の国譲り」、即ち大国主命が高天原の勢力に国を譲る話の中である。

 高天原から使者がやってきて、国を譲れと言う。大国主とその子の事代主(コトシロヌシ)はやむを得ないと考える。しかし、もう一人の息子である建御名方 (タケミナカタ) が出てきて反対する。建御名方 (タケミナカタ) は力自慢で意気軒昂である。そして、高天原の使者である建御雷 (タケミカズチ) と戦うことになる。建御雷 (タケミカズチ) は高天原随一の勇者で、建御名方 (タケミナカタ) は全く歯が立たなかった。その結果、建御名方 (タケミナカタ) は信濃国の諏訪に隠棲したという。

 出雲・高志(越)連合が大和の勢力に服属するに至ることを神話的に言い表した話であろう。

    ただ、このとき、大国主は国譲りに当たって一つだけ条件を出した。日本一高い神殿を建てて、自分を末永く祀ること。

 約束は守られ、出雲大社の神殿は、東大寺の大仏殿や平安京の大極殿よりも高かったという。祭祀権は譲渡しなかったのである。

(出雲の美保神社は事代主を祀る)

     ★

<ヒスイの古代史>

 ※Wikipediaの「糸魚川のヒスイ」の記述は、その研究史を含めて極めて詳細で、印刷したらA4で十数ページになった。以下の記述はこれを参考に書いた。

縄文時代のヒスイ]

 ヒスイの原産地は、姫川やそのすぐ南西部を流れる2級河川の青海(オウミ)川の中上流域である。

 縄文時代以来の日本のヒスイ製品の全てが、これらの河川の河口付近で採取された「糸魚川産」のヒスイでだった。

 ヒスイ利用の最古の例は約7000年前、縄文時代前期の敲き石(ハンマー)である。世界で最も古いヒスイの利用例。

 ヒスイが装飾品として利用されるようになったのは約6000年前から。その代表的なものは「大珠」。

 大珠は装身具としては少し大きすぎるから、儀式などの場面で呪術的な役割をもって使われたのではないかと推測されている。言い換えれば、ヒスイは集団の場で威信財として使われていた。ヒスイの美しさと希少さが、畏怖の対象として崇められたのであろう。

 ヒスイには様々な色があるが、古代日本のヒスイ文化は全て緑。他の色のヒスイが使われた例はない。

 縄文期におけるヒスイの分布は、まだ街道と言えるほどの道路網などなかったはずだが、中部地方から東北地方、北海道南部や伊豆諸島にまで広がっている。

 「人が動かなくなる方が、かえって物はよく動く。定住によって、『人は動かず、物を動かす』ネットワークの仕組みができる」(松本武彦『日本の歴史1ー列島創世記』小学館)。

 製品の加工現場は、糸魚川周辺から工房跡が発掘されている。だが、糸魚川にとどまらず、例えば600キロも離れた有名な青森の三内丸山遺跡でもヒスイの加工が行われた跡が発見されている。

 固いヒスイを適度な大きさに割き、磨き上げ、キリで穴をあけるのは、大変な時間と技と労力を要する仕事である。

 縄文時代晩期になると、九州や沖縄からもヒスイ製品が見つかっている。しかし、近畿、中国、四国からはほとんど発見されていない。

      ★

弥生時代のヒスイ ]

 弥生時代前期はさまざまな玉製の装飾品が作られたが、ヒスイ製のものはなく、縄文晩期のものが伝世品として使われていたのではないかと言われる。

 弥生の中期になると、北九州にヒスイの原石が運ばれ、ヒスイ製の勾玉が作られて流通するようになる。

 後期になると、ヒスイ製勾玉の分布は東へと拡大していった。

 勾玉には様々な種類の石が使われたが、ヒスイ製の勾玉が最上位のものとして尊重された。

      ★

古墳時代 ─ ヒスイ製勾玉の最盛期]

 古墳時代のヒスイのほとんどは勾玉に加工され、首飾りとして大切にされた。

 出土の中心は畿内へ移り、関東地方にも広く広がる。

      ★

朝鮮半島のヒスイ]

 朝鮮半島におけるヒスイの利用は三国時代に遡り、4世紀から6世紀前半にかけての伽耶、百済、新羅の王や有力者の墳墓からヒスイ製勾玉が数多く発掘される。

 例えば、新羅の慶州の墳墓から出土した金冠には、57個のヒスイの勾玉が装飾されていた。

 これら朝鮮半島のヒスイも、全て糸魚川産のヒスイである。

 「魏志倭人伝」に記述されているように、当時、鉄素材は朝鮮半島の南の伽耶地方でしか産出せず、それを倭も新羅も百済も入手していた。当然、鉄を手に入れるには交換できるモノが必要にある。朝鮮半島で出土するヒスイ製勾玉は、鉄を得るため日本から持ち込まれた交換財の一つであったと考えられる。(わが国で鉄素材が生産されるようになるのは5~6世紀である)。

 なお、中国においてヒスイが宝石として尊重されるようになるのは17~18世紀の清朝の時代である。ミャンマー産のヒスイが加工され、「翠玉」として王室等で尊重された。

      ★

奈良時代以後 ─ ヒスイ文化の終焉]

 ヒスイ文化は、奈良時代に入ると急速に衰退した。

 東大寺法華堂(三月堂)の本尊である不空羂索観音(国宝)の銀製の冠には、2万数千個の宝玉が飾られ、ヒスイの勾玉も連なっているそうだ。これが日本におけるヒスイの最後の使用例である。

 その後、ヒスイは忘れられていった。利用もされず、産地さえも忘れられていった。

 すっかり忘れられ、江戸時代に古代の遺跡から見つかったヒスイの装飾品も、国内産か、遠い異国から運ばれてきたものか、誰にもわからなかった。

 明治に入り、近代的な考古学の研究調査が行われるようになっても、ヒスイの正体はわからないままだった。

 戦後になって、考古学だけでなく、鉱物学の研究調査が進む中で、古代のヒスイ製品の全てが糸魚川産であることが科学的に判明した。

 古代のヒスイが糸魚川産ではないかということに最も早く気付いたのは、考古学者でも鉱物学者でもない。糸魚川出身の評論家、相馬御風である。昭和10(1935)年のことであった。

 彼は、糸魚川近辺に存在する「沼河比売(ヌナカハヒメ)」を祀る神社、沼河比売の伝承、そして、『古事記』などに登場する「沼河比売」の神話などから、古代のヒスイの産地は糸魚川市内の姫川河口ではないかと思いついたのである。

 神話、伝説、伝承も大切にしなければいけない。

                        ★

<卑弥呼の時代と越のヒスイ>

 素人の私ではあるが、日本の古代史について、今、私が、「納得できる!!」と思いながらオンライン講座でお話を拝聴しているのは、福岡大学の桃崎祐輔先生である。まだ若い考古学の先生だが、お話は国内各地の考古学的成果は言うまでもなく、朝鮮半島や大陸の研究成果にも広がり、沼河比売(ヌナカハヒメ)の伝承にまで及ぶ。

 日本の3世紀前半、すなわち弥生時代から古墳時代へ移行する直前の日本、言い換えれば「魏志倭人伝」に卑弥呼が登場した頃の日本列島について、桃崎先生は少なくとも3つの広域政治連合体が鼎立していたとされる。

 「畿内・瀬戸内連合」、「東海・関東連合」、「山陰・北陸連合」の3つである。

 それぞれ、『邪馬台(ヤマト)国連合』(初期ヤマト王権)、『狗奴(クナ)国連合』、『出雲・越連合』である。

 3世紀初め、これらの連合体はいずれも外部権威(後漢)依存型の「王権」で、彼らの権威は朝鮮半島北部に設置されていた楽浪郡を経由してもたらされる中国製の威信財 (鏡、水銀朱) や、朝鮮半島南部の伽耶地方の鉄資源に依拠していた。

 越(高志)のヒスイは、この時代、出雲・越連合にとって貴重な取引財であった。「鉄が速やかに行きわたった日本海沿岸で、個人を顕彰・誇示する大がかりな墓づくり(四隅突出型墳丘墓)がいち早く発達したことは偶然ではない」(上記『日本の歴史1』)

 (出雲の神社のしめ縄)

 ところが、204~220年頃、遼東半島の公孫氏が台頭して、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置した。そして、これとの交渉上、倭国全体の王を擁立する必要が生じ、卑弥呼が擁立された。卑弥呼の擁立を推進した中心は吉備の勢力。出雲はもともと強いリーダーが存在しない、調整型の社会だったから、事態の変化への対応は遅く、かつ消極的で、次第に立場が弱くなっていったと考えられる。

 238~239年、魏によって公孫氏は滅ぼされた。そのとき卑弥呼はいち早く、直接に魏に遣使して「親魏倭王」の金印を授かり、朝貢ルートを確保・独占した。こうして、邪馬台国(ヤマトコク)連合の主導権が確立した。

   (卑弥呼の墓と言われる箸墓と三輪山、手前は堀)

 その後、313年、台頭した高句麗によって楽浪・帯方郡が滅亡。魏のあとを継いでいた西晋も、316年に滅亡した。以後、東アジアは、589年の隋による統一まで混沌とした状態になる。

 これまで外部権威依存型であった出雲集団はここに至って自律的存続が不可能となり、大和王権に服属する。越(高志)もまた、その余波で弥生的な世界の終焉を迎えた。

 こうして、朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国時代に入り、3世紀の後半から4世紀にかけての日本列島も初期ヤマト政権の下に次第に統一されていった。

 桃崎先生の説明を私流にまとめればこのようになるだろうか。 

 とにかく出雲・越の勢力にとって、糸魚川のヒスイは、伽耶の鉄素材を入手するために重要な交換財であった。その後、出雲・越を従わせた大和政権の時代になっても、古墳時代を通じて、糸魚川のヒスイは大いに活躍したのである。

  ★   ★   ★

(閑話) 

 塩野七生さんがこんなことを書いていらっしゃる。

 「あるときのインタビューで、『(歴史)学者たちとあなではどこが違うのか』と問われたことがある。それに私は、こう答えた」。

 「その面の専門家である学者たちは、知っていることを書いているのです。専門家ではない私は、知りたいと思っていることを書いている。だから、書き終えて初めて、わかった、と思えるんですね」。

 塩野さんと私との違いは、塩野さんが学識と見識と文才をもち、さらに多くの読者の期待に応えようとする覚悟をもって対象に挑んでいるのに対し、私の場合は百科事典的なレベルでわかったと納得してしまう点である。

 それでも、ブログを書く根底には知りたいという思いがあるからで、その点で塩野さんと同じである。

 書きながら、調べ、考える。こうして、知らなかったことを知ることは、何歳になっても面白い。いや、若い頃は、「何だろう、これ??」とさえ思わず、日々、前へ前へと馬車馬のように生きていた。今は、立ち止まって楽しんでいる。

 

 

 

 

 

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夏の思い出2 ── お善鬼様の里

2024年12月01日 | 国内旅行…信州

 (青鬼神社の参道の石段)

<白馬村の中を散策しよう>

 若いころ、大雪渓から白馬岳(2932m)へ登って、ふつうは南へ白馬三山を縦走するところを、北へ向かい、雪倉岳(2610m)、朝日岳(2418m)を縦走。朝日岳から人里に下って、ローカルバスで日本海へ出たことがある。そこは「親知らず子知らず」の海岸で、白馬岳から続く後立山連峰が日本海へなだれ落ちた荒々しい海岸だった。遠い昔のことだが心に残る山行で、連れて行ってくれた一行に感謝している。

 また、ある日は、一人で白馬村のゴンドラリフト、アルペンクワッドリフトを乗り継いで、そこからは八方尾根を登り、唐松岳(2696m)に立って、そのまま同じコースを駆け下り、麓の民宿へ帰ったこともある。あの頃は健脚だった。

 大糸線沿線の仁科三湖にボートを浮かべたことや、穂高の村に穂高神社や碌山美術館を訪ねたこともあった。

 (そば畑と仁科三湖)

 中年になると山を登るのはしんどくなり、冬から早春にかけて栂池高原スキー場や八方尾根スキー場でスキーを楽しんだ。スキーの楽しさを教えてくれた若い友人たちにも感謝している。だが、私はスキーそのものよりも、天気の良い日に目の前に聳え立つ北アルプスのパロラマや、シラカバ、カラマツなどがすっぽり雪をかぶった高原の林を見るのが好きだった。林の中の雪の上にウサギの足跡が点々と続いていた。

 今は暑さを逃れてこの村にやってきた。年月は茫々と積み重なって、もうあの頃のような体力はない。

 それでも、ホテルの中に閉じこもっているより、せめては白馬の村の中を歩いてみようと思う。思えば今まで白馬村の中を散策したことはなかった。

 それで調べてみた。夏にこの村を訪れる観光客のほとんどは、ゴンドラリフトに乗って北アルプスの眺望を楽しむか、白馬岳の大雪渓を登山する人たちだ。そのほかに村内に、多くの観光客を引き寄せるような観光資源はどうやらない。

 あれこれ調べて、第二日目は青鬼(アオニ)集落へ行ってみることにした。第三日目は木流し川の散策。この二つをメインと決めた。そして、四日目はまた大和国へ帰る旅だ。

 ただ、白馬村は広くて、徒歩だけで回るのは難しい。レンタサイクルも考えたが、もともと白馬連峰の麓の村である。どこへ行くにも、坂道の上り下りがあるだろう。それで、二日目の半日はレンタカーを借りることにした。

 レンタカーの店は、白馬駅の前の国道沿いにあった。

 (昔の素朴さはないが、綺麗な白馬駅)

      ★

<青鬼(アオニ)の里はどこ??>

 青鬼(アオニ)集落は、平成12(2000)年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。さらに翌年には、集落の棚田が日本棚田百選に選ばれた。

 ホテルのフロントでもらった観光地図を眺めて研究した。

 青鬼(アオニ)の里は、白馬村の中の北東部に位置している。白馬岳連峰から下ってきた地形が、姫川の清流を越えて、再び東へと隆起していく途中に、ぽつんとある小さな山里だ。

 わがホテルは、白馬連峰の東側の山麓の、一番麓に近い所に建っている。もう少し下れば白馬駅だ。白馬駅から北へ1駅、向こうが信濃森上駅。そのあたりから、車なら国道を外れて東へ、大糸線の線路を越え、さらに姫川の橋を渡れば、道路は登りとなって、やがて青鬼の山里に至る。

    (姫川)

 青鬼からさらに東へ山の中の道を走れば、…… 現在は長野市に組み入れられている鬼無里(キナサ)の里があり、さらに東へ走れば善光寺や戸隠村に至る。

 昔から、日本海側から信濃国へ塩を運んだ塩の道の千国街道があり、千国街道に接続して、青鬼、鬼無里を経て、善光寺や戸隠へ通じる参詣道が開かれていたそうだ。つまり孤立した集落ではない。

 青鬼集落の標高は760m。ホテルから遠いし、標高も高く、車でなければ行くのは難しい。

      ★

<青鬼(アオニ)の里に伝わる伝説>

 ※ 以下、青鬼集落に関する記述の多くは、白馬村のHPを参考にした。

 青鬼集落に心ひかれたのは、何よりも「青鬼」というおとぎ話めいた村の名と、その由来となった伝説が面白かったから。

 それはこんな話である …… 。

 ── 遠い、遠い、昔のこと。

 あるとき、隣の村に鬼が出没するようになり、さまざまな悪事を働いて、村人たちは困ってしまった。それで村人たちは画策し、ついに鬼を捕らえて、近くにあった洞穴に閉じ込めたそうだ。

 ところが、しばらくすると、鬼の姿が洞穴から忽然と消えてしまった。

 …… しかも、何とその鬼が当村に現れたのだ。しかも、何とも不思議なことだが、その青鬼はあれやこれやと村の発展のために尽くしてくれたのである。

 いつしか村人たちは、この鬼を「お善鬼様」と呼ぶようになった。

 そして、いつの頃からか、鬼を追い出した隣の村は「鬼無里(キナサ)村 (現在の長野市鬼無里地区)」、鬼を閉じ込める洞窟があった村を「戸隠村 (長野市戸隠地区)」、そしてお善鬼様の没後も、お善鬼様を祀った当村を「青鬼(アオニ)村」と呼ぶようになったとか ── 。

   ── 鬼無里村と戸隠村には少々気の毒で、青鬼村にとっては都合の良い話だが、隣村も巻き込んだ何ともユーモラスな伝説である。

   戸隠村の戸隠神社は私の好きな神社で、昔から修験者たちによって修験道が行われてきた。

    今年の早春の頃にも訪ねた。奥社の鳥居の向こうに聳える戸隠山は鋸のような山塊で、いかにも鬼の洞窟がありそうな険しい山である。

 (戸隠神社奥社の鳥居と戸隠山)

 上記の伝説の後日譚もある。

 ── 青鬼集落の北に、岩戸山(1356m)がある。その山の頂近くに青鬼が住んでいたと伝えられる岩屋がある。今は青鬼神社の奥之院とされている。

 いつの頃のことだったか、今ではもうわからぬが、この岩屋を調べようということになって、青鬼の男衆たちが、前日から善鬼堂(今の青鬼神社)にお籠り潔斎して、翌朝、山へ行ったそうだ。

 登ってみると、洞窟の前は眺望が開けて良い眺めである。

 洞窟の入り口はやや狭かった。だが、中へ入ると洞になっていた。広さは2間四方ぐらいもあり、床には小石や砂利が敷いてあって、なるほど昔、人が住んでいた気配もないではない。

 その洞にはさらに横に通じる狭い裂け目があって、男衆のうちの小柄な人が入ってみた。そこにも、前の洞より狭い洞があった。そして、さらに狭い裂け目があって、もっと奥へ通じているのが見えた。しかし、さすがにそこまでは極めなかった。

 青鬼の人たちは、この穴はきっと戸隠の裏山まで通じているに違いないと話したという ──。

      ★

<お善鬼様の里へ>

 レンタカーに乗り、急ぐ旅ではないからのんびりと運転する。

 松川に架かる橋を渡った。松川は白馬岳の大雪渓から流れてくる渓流である。

  (松川)

 国道を外れ、大糸線の線路を越えて姫川の橋を渡ると、道は大きくカーブしながら山へ登っていく。やがて、青鬼集落の公共のパーキングが目に入った。集落の中へ車を乗り入れてはいけない。

 車を駐車させ、徒歩で青鬼集落の中へ入って行った。今日も暑い日だ

 入り口に、「お前鬼様の里 ─ 青鬼集落」の案内図があった。

   (集落の案内図)

 青鬼集落の構造がよくわかる。

 国の重要伝統的建造物群に指定されている家屋群は、全て南向きに建ち、東西に2列に並んで、等しく日当たりが良い。

 集落の脇を一筋の道が通り、道の先に棚田が広がっている。

 また、集落のほぼ中央部北側から、山の中へ、長い石段が登っていて、その先に青鬼神社がある。

   (お善鬼の館)

 集落の家並みの中に「お善鬼の館」があった。空き家となった家を修理して、自由に中を見学できるようにしている。見学者用のトイレもある。

 

  (青鬼集落の家並み)

 今残る家屋は14戸。土蔵が7棟。家の周囲に塀や生け垣はなく、互いに開放的で、背後には石垣が築かれている。

 江戸時代の後期から明治にかけて建てられた古民家で、屋根は藁ぶきだが、今は鉄板で覆って保護されている。家の大小の差はほとんどなく、何世代も住めそうなどっしりとした構えだ。

 明治に入ると、屋根裏部屋で養蚕もやっていた。

 集落の道を棚田の方へ歩いて行ってみる。暑さで体中から汗が流れた。9月の初め。他に見学者の姿はなく、わずかに畑で作業している人を見かけるだけ。

  (棚田の石垣)

 江戸時代の終わり頃に、石垣で囲った3キロに渡る用水路を開削した。また、集落の東方に石垣で築いた約200枚の棚田を作った。

 かつてスイスのレマン湖の上の山腹に築かれたドウ畑を歩いたことがある。アルプスの山々に囲まれた眼下の湖のたたずまいが美しかった。ブドウ畑は石垣を積んで、山の斜面にへばりつくように築かれていた。その膨大な石垣を見たとき、今は豊かなブドウ畑だが、最初にこの斜面に石垣を積み重ねて畑を切り開いていったこの地の祖先たちの労苦を思わずにはいられなかった。

 ここも同じである。棚田百選に選定される値打ちは十分にある。

 集落の北側はお善鬼様が住んだという岩戸山(1356m)があり、東側は物見山(1433m)、八方山(1669m)によってさえぎられている。

 (北アルプスの方向に開ける)

 それで、南西の側だけが開いている。

 眼下に姫川と白馬の市街地が見え、その向こうには3000m級のアルプスの山並みが連なっているが、今日は雲がかかっている。

 田植えの頃には、棚田の田毎の水に緑が映り、その向こうに白雪をいただいた北アルプスが連なって、その季節を撮影した写真を見ると、実に雄大で美しい。

 だが、以前はその頃になると、大きな三脚を担いだ写真愛好家たちが続々と車でやってきて、所かまわず踏み込み、三脚を立て、カメラの放列ができ、村人たちの顰蹙を買っていたようだ。マナーが悪いのは外国人旅行者ばかりではない。

      ★

<青鬼神社に参拝する>

 あまりに暑いので、棚田の道を途中で引き返した。所々に立つ大樹の下陰を通ると、風が涼しい。

 

  (参道の入り口)

 南面して並ぶ集落の真ん中あたりまで引き返すと、人けのない日差しの中、北側の山の中へ石段がのぼり、手前には石灯籠が2基並んでいた。ここが青鬼神社の参道だ。

 (白木の鳥居)

 しばらく登ると白木の鳥居があり、石段はさらに山の中へ、上へ上へと登っている。

 石段に栗の実が落ちている。

 木陰なので、それほど暑くはない。ゆっくりゆっくりと登って行くと、やがて山の斜面の樹木の間に、ちょっとした境内らしき空間があった。

  (本殿)

 山村の、山の中の神社らしく、本殿の社は小さい。

 祭神は言うまでもなくお善鬼様。生前、村に善行を施した青鬼様を、集落の北に聳える岩戸山に祀った。それがこの神社の創建の時。村の伝承によれば大同年間というから、西暦で言えば806年~809年。奈良時代である。

 それは、いくら何でも古すぎる!! と、我々、京都や奈良など近畿圏に住む人間は言うかもしれないが、青鬼集落からは縄文時代の遺跡も発掘されている。1万年以上続いたとされる縄文時代の中心は東日本。西日本が華やいでくるのは弥生時代になってからで、奈良時代などというのは、日本の歴史ではごく新しい。

 その後、岩戸山はあまりに奥深いから、そこは奥宮とし、現在の場所に神社をお移しした。それが安和2年(969年)で、冷泉天皇の御代だ。そこから円融、花山となり、次が一条天皇。「光る君へ」の時代である。

 本殿の東側に諏訪社がある。信濃国の一の宮である諏訪大社から勧請したのであろう。

 その一段下に、立派な神楽殿が建つ。

  (神楽殿) 

 9月に祭礼が行われるそうだから、もうすぐだ。

 祭礼では火もみの神事が行われる。縄文時代のように板と棒をこすりあわせて30分もかけて火をおこす。その火を神社に奉納し、また、各家々の神前や灯篭の火とする。最後は花火も上げるそうだ。お善鬼様は火を好まれるらしい。

 もちろん春と秋にも祭りが行われる。

 (本殿から参道を見る)

 人けはなく、しんとして、木陰の参道はほの暗く、涼しかった。(続く)

 

 

 

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夏の思い出 ── 信州の白馬(ハクバ)村へ

2024年11月07日 | 国内旅行…信州

<旅に出よう>

 この夏の暑さはこたえた。連日、35度を超えた。NHKの朝のお天気番組は、高齢者は外出せず熱中症にかからぬようクーラーを効かせた室内で過ごしてくださいと呼びかけた。

 だが思うに、高齢者の健康にとって、クーラーの効いた家の中に閉じこもる日々が本当に良いのかどうか?? コロナの3年間がそうだったように、毎日、家に閉じこもってテレビばかり見ていれば、体力も気力もどんどん衰えていき、高齢者の場合はもう元に戻らない。気持ちもいつの間にか鬱になっていく。

 それより、旅に出よう

 どこに行こうかと、お風呂の中やクリニックの順番待ちの間にあれこれ思い巡らすのも楽しい。日本国中が猛暑だが、多少とも涼しい所がいい。

 よし、ここへと決めてあれこれ調べ計画を立て始めると、心も前向きになり頭も活性化する。

 いよいよ家を出れば、駅へ向かうための移動も乗換駅でのホームの移動も、それだけで家にいるより運動になる。乗り物の中だってクーラーは効いている。

 7、8月を何とか耐え、オフシーズンに入った9月早々。若い頃に何度も訪ねて、勝手知ったる信州へと向かった。夏は山登り、冬から早春にかけてはスキー、それに「四季」派の近代文学散歩など、信州は第二の故郷のようなものだ …… 。

 今回は大糸線沿線の白馬(ハクバ)村へ行く。

       ★

<旅の時間>

  (大糸線の白馬駅)

 新大阪から名古屋まで新幹線で2駅。187キロを停車時間を含めてわずか50分。

 名古屋で特急「しなの」に乗り換えると、やがて車窓に木曽谷の風景を眺めるようになり、久しぶりに旅に出たと思う。

 信濃国の第2の都市である松本まで名古屋から7駅。距離は新大阪~名古屋間とほぼ同じだが、時間は2時間少々かかる。遠くへ行く旅でも、これくらいの時間の感覚がいい。

 松本で大糸線に乗り換える。

 大糸線は松本を始発駅とし、白馬(シロウマ)岳(2932m)を盟主とする後立山(ウシロタテヤマ)連峰の東麓を北へ北へ、県境を越えて新潟県に入り、日本海の町・糸魚川まで行く。その途中の白馬駅までは約60キロ。たいした距離ではないが、進む速度は遅い。途中28駅に停車し1時間40分もかかる

 始発駅の松本では、学校帰りの高校生や買い物籠を持った年配の女の人らで2両しかない車内は混み合った。

 しかしそれも松本を出て25分ほど。碌山美術館のある穂高駅に着く頃には日常性を感じさせる多くの乗客は降りてしまった。ゆとりのできた車内は旅人たちばかりになる。流れていく山里の風景や白い雲を眺めていると、大和国からすっかり遠くなったと感じた

 進む速度は遅いが、それでも刻々と目的地へ向かって移動する。移動は変化である。家にいる時間とは違う。

       ★

<白馬連山を望む>

 15時50分。白馬の駅前にホテルの迎えの車が待っていた。

 駅からホテルまで歩けない距離ではないが、荷物もあるし、初めての道だから、見知らぬ何人かと同乗した。

 この辺りでは大きなホテルの玄関周辺は花いっぱいだった。湧き水も沸いている。白馬連山からの水であろう。

 (ホテルの玄関)

 フロントでキーをもらい、エレベータで上階に上がり、部屋のカーテンを開けると、窓の外に白馬連山が望まれた。これが信州!!。

 あの尾根の向こうは富山県になる。

 (白馬連山)

 今回の旅は、もちろん若いころのような山登りはしない。ゴンドラリフトに乗って行くトレッキングもしない。

 居ながらにして白馬連山を望むことができるホテルに泊まりたい。これが今回の旅の第一の目的。横着な希望だが、そういうホテルをネットで探した。

 到着早々に雪をいただいた3千m級の山並みを見ることができて幸運だった。

 2千m、3千m級の高山の上はたえず天候が変化し、ガスがかかり雨も降る。麓は晴れていても、下から見上げれば山嶺は雲の中。だから、明日も明後日もこのホテルに宿泊するが、このような壮麗な白馬連山の姿を見ることができるかどうかわからない。

 一期一会である。   

(続く) 

  

 

 

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「魔法の解けて」 (2024年の春)…読売俳壇・歌壇から

2024年07月23日 | 随想…俳句と短歌

   (早春の山陰)

 読売俳壇・読売歌壇に、2024年の春、掲載された句や歌の中から、心ひかれた作品を選びました。

 春の季節は、句も歌も明るく朗らかで、楽しくにぎわっているように感じました。

 ただし、今は、もう、夏の盛りです。皆様、ご自愛くださいますように。

   ★   ★   ★

<希望の春>

〇 制服の魔法の解けて卒業す(宇陀市/泉尾武則さん)

<正木ゆう子先生評>「高校からの卒業。こちらも女子を想像。今時の制服はお洒落で、実に可憐である。守られた魔法の日々が終わり、人生へと踏み出す春」。

 「卒業」は春の季語。春は、別れがあり、新しい出会いもあり、希望も不安もあって、心ときめく季節です。

 確かに!! ── 制服は魔法ですね。

  (ディズニーランド/ピーターパン)

 あなたは一人立ちするにはまだ少し早い。魔法をかけます。あなたはお姫様です。時が来るまでは、夢を見ていらっしゃい。

 …… さあ、あなた!! 春になりましたよ。その時が来たのです。魔法を解きますからね。元気に、でも、心を引き締めて、旅立って行くのですよ。

      ★

〇 春の風遠くの君へ届く頃 (東京都/関根ともみさん) 

<矢島渚男先生評>「なんと青春性豊かな句だろう。俳句がこうした抒情を失って久しい。この句には季節の喜びが豊かにある。暖かい春がだんだんに北上して行き、思い人へ届く。『私の思いも届けてください』」。

  (5月の陸奥湾)

 矢島先生の「俳句の抒情」という言葉に心ひかれました。

      ★ 

〇 灯台のような学校作らむと離島に赴く新任教師(岩出市/西岡さちよさん)

 なんと爽やかな志でしょう👏💕。

  (大王崎灯台)

 「先生」自身が灯台ではないと思います。家庭的に、或いは社会的に、いろんな環境にある子どもたち。でも、誰もが、学校は面白いよ、と感じている。そんな学校です。

 なぜ?? ── そこにはちゃんとした秩序があり、しかもみなが前を向いて頑張っていて、しかも、お互いを守りあっていると感じられるから。

 先生は、その中心ではありません。学級委員長も副委員長も、各委員も、班長さんや副班長さんたちも、みんな頑張っている。フォロワーたちも、一人一人が存在感を出している。主人公は子どもたち自身。一人一人がいつの間にか、誰でもリーダーになれるように成長してきている。そうなるよう、縁の下で仕組んできたのが先生だ。子どもたちも、実はそのことはわかっていて、先生を尊敬している。

  ★   ★   ★

<旅立ちの春>

〇 あてどなく流れゆく先春の雲(浜松市/久野茂樹さん)

<矢島渚男先生評>「今は旅行に行くときには綿密な予定を立てるが、かつては『あてど』ない旅もあった。そんな旅がしたいもの。いい句だ」。

 矢島先生もロマンティストです。

 (フェリーに乗って)

      ★

〇 土佐は山土佐は海なり春の旅(岡崎市/加藤幸男さん)

 若いころ、田宮虎彦の「足摺岬」を読んで、藪椿の咲く小道をたどり、足摺岬に立ちました。

 また、その後、悠々たる太平洋を見たいと思って、烈風が吹く室戸岬にも立ちました。

 やがて四万十川や仁淀川の清流が有名になりました。

 山から海へと、両方を訪ねてこそ、旅らしい旅ですね。

      ★

〇 クロッカスもうじき咲くか子の部屋に「地球のあるき方」置いてあり (船橋市/矢島佳奈さん)

<俵万智先生評>「直接の関係はないのだが、取り合わせの妙で、クロッカスと子どもの成長が重なって感じられる。部屋を出て海外へ旅する日も遠くなさそうだ」。

 クロッカスについて、ちょっと調べてみました。

 早春にいち早く花を咲かせる。「スプリングエフェメラル(春の妖精)」というそうです。他にカタクリや福寿草なども。花言葉は「青春の喜び」。

 沢木耕太郎『旅する力』から

 「もしあなたが旅をしようかどうしようかと迷っているとすれば、わたしはたぶんこう言うでしょう。

 『恐れずに』

 それと同時にこう付け加えるはずです。

 『しかし、気を付けて』」

      ★

〇 差出人不明の風が届いたら春だと思えスニーカー履く(大和郡山市/大津穂波さん)

 「スニーカー履く」が、旅に出ることを含意しているのかどうかはわかりませんが ……。

 私はかつてポルトガルの、言い換えればユーラシア大陸の最西南端のサグレス岬へ行きました。その旅のことは、当ブログの「ポルトガル紀行」(2017年投稿)に書いています。司馬遼太郎のエンリケ王子を追う旅(『街道をゆく23 南蛮のみち2』)を追体験する旅でしたが、また、沢木耕太郎の『深夜特急』に心ひかれたことも強い動機になっていました。しかし、若くはない私は、路線バスを乗り継いでユーラシア大陸をあてどなく旅した沢木さんのようにはいきません。行程表を作り、見通しをもって出発する必要があります。ところが、リスボンやポルトのことは『地球の歩き方』にも詳しく書いてありますが、サグレス岬については数行しか触れられていません。

 それで、ネットの中に個人の紀行文を探しました。実際に行った人の生きた情報がほしかったのです。すると、意外にも、観光地でも何でもないこの岬へ、何人もの日本の若者たちが、一人旅で、遥々と旅をしていることを知りました。ポルトガルの若者よりも、日本の若者の方が行っているのかもしれないと思いました。そこは、『深夜特急』の沢木耕太郎が1年もバスを乗り継ぐ旅を続けて、とうとうこの最果ての岬に立ち、「これで終わりにしようかな」と思った所なのです。

 『深夜特急』を読んだ若者たちは、自分もバックパーカーの旅に出ることを夢見、そして、旅に出ます。「青年よ、荒野を目指せ」。だが、誰にも諸事情があるから、沢木さんのように1年も旅を続けることはなかなかできません。それで、せめて、主人公が「ここで終わりにしようかな」と思った、ユーラシア大陸の果てには、行ってみたいと思ったのではないでしょうか。

 サグレス岬は、そういう日本の若者の青春の岬でもあったのです。そして、その若者たちの中に、一人旅の日本の若い女性たちもいることを知りました。率直に、すごいなと思いました。

 この歌の作者は多分、女性だろうと思って、書きました。

  (サグレス岬への道)

 サグレス岬にはエンリケ王子がつくったという航海学校(要塞)の跡らしい建造物の一部が残り、そこまでの一本道をひたすら歩きました。ユーラシア大陸の果ては荒涼として、ただ暑かった。沢木さんも、日本の若者たちも、みんなこの道を歩いたのだと思って、年甲斐もなく頑張りました。

 (サグレス岬)

 サグレス岬もまた荒涼としていて、その先は茫々と大西洋が広がっていました。毎日、この海を見て、その果てを極めたいと思っていたエンリケ航海王子のことを思いました。

  ★   ★   ★

<里の春>

〇 氏神の定めしところ蕗(フキ)の薹(トウ) (江別市/北沢多喜雄さん)

 (蕗の薹)

 春は、まず里から。蕗の薹は、クロッカス同様に、いち早く春を告げる「春の妖精」です。

 今は、氏神も、鎮守の神や、地主神や、産土(ウブスナ)の神と同じ神様として認識されています。八百万(ヤオヨロズ)にして一、一にして八百万。所詮、人間が付けた名ですから。

<高野ムツオ先生評>「氏神はここでは土地の守り神であろう。蕗の薹はその使いで、神の思し召しに従って定められたところに顔を出すとの土俗的発想が魅力」。

      ★

〇 初蝶を見る野地蔵に成り済まし(高槻市/村松譲さん)

 初蝶が逃げていかないように、動かない。「われは野地蔵である。この手にとまれ。われの頭にとまれ」。 

 (信濃路にて)

       ★

〇 五歳には五歳の地図のあり春は土手で綿毛を吹いてからゆく(平塚市/小林真希子さん)

 子どもには子どものルーティンがあるのです。

   ★   ★   ★

<物語めく春>

〇 「そう、だね」とフリーレンめく応(イラ)へして過去も未来も遥けき人よ(可児市/阿坂れいさん)

 黒瀬河瀾先生評>「アニメ『葬送のフリーレン』の主人公は、永い時を生き続けるエルフ。その彼女と似た雰囲気の知人がいるのだろう。アニメキャラが現世の人に乗り移ったかのような…」。

 「過去も未来も遥けき人よ」── カッコいい人ですね。

 フリーレンは二千年も生きるエルフ。魑魅魍魎が活動した時代の中欧・北欧??を旅している。

 フリーレンは人ではないから、非情。だが、有情の人間に心ひかれ、行く先々で人間と人間の町を守って、残虐非道な妖怪と戦います。

 唐突ですが、助動詞「けり」を連想しました。「けり」は詠嘆の助動詞ですが、特に、初めて気づいた驚きや感慨を表すとされます。「春は来にけり」、春が来ていたことに気づいた驚き、感慨。「気づき」の「けり」です。

 「そう、だね」というフリーレンの言葉には、このようなときには、人間はこのように感じるのだと気づき、人間の心に共感したときの気持ちが込められているのかもしれない。この歌を繰り返し読んでいて、ふとそう思いました。

 茫洋としていて、ちょっと優しい。ハードボイルドの味があります。

  (中欧の町)

       ★

〇 朧夜に見知らぬ婦人訪ね来る子等の掘りにし筍返しに(福岡市/こよりんさん)

 <栗木京子先生評>「作者の所有する竹林から無断で筍(タケノコ)を掘った子たちがいたのであろう。気付いて返しに来た女性。朧夜(オボロヨ)に現れたことが神秘的で、物語の世界に誘われるような場面である」。

 初句の「朧夜に」が効いています。続く「見知らぬ婦人」で、すいっと引き込まれました。人ではないと思いますよ。

   (竹林)

       ★

〇 今日散ると決めたんですと言うように万代橋に桜がふぶく (船橋市/山本三千代さん)

    黒瀬河瀾先生評>「名前からして立派そうな橋に桜花が降り注ぐ春の景。今日という短い時間を舞い散る桜と、万代という長き時を感じさせる名前の橋の取り合わせが、実に鮮やかです」。

   

 黒瀬先生の評で、よくわかりました。

 

 

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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(付録) 桜花咲き初むる和歌山城… 西国3社めぐりの旅(4/4)

2024年06月23日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

  (堀に映じる天守閣)

<和歌山城の桜>

 これを書いているのは6月だが、この旅は4月1日、2日。思いがけなくも和歌山城の桜に出会った。

 近年、桜の開花は早い。温暖化の影響だろう。

 今年、桜を見あてにあちこちへ旅の計画を立てた人は、満開になるのは3月下旬と予想したのではないか。

 だから、私のこの小さな旅も、桜に出会おうとは思っていなかった。桜には遅すぎるに違いない。

 ところが、今年の桜はなかなか開花しなかった。テレビの気象予報士までがヤキモキした。

 3月も終わりになってやっと開花し、開花したと思ったら、和歌山城の桜は一気に5~7分まで開いた。

 そして、私も、思いもかけず、少し早いお城の桜を見ることができた。

 (堀の石垣の桜)

      ★ 

<地名「和歌山」のはじまり> 

 以前、一度だけ和歌山城を訪ねたことがある。和歌山市内で開催された会議に出席した帰り、ラッシュの時間にならないうちにと駅へ向かう途中、通りすがりのようにして、城壁の中を歩いてみた。

 今回は、旅の目的である西国三社めぐりも終え、気分ものんびりと午前のお城の中を歩いた。

 言うまでもなく、和歌山城は徳川御三家の一つである紀州徳川家のお城。紀伊国に、伊勢国の一部と大和国の一部が組み込まれて、55万5千石。8代将軍吉宗も出した。

 それ以前のこの国のことについて、私たち県の外の者は、あまり知らない。

 そこで、司馬遼太郎『街道をゆく32 紀ノ川流域』から。

 「中世、いまの和歌山市一帯は、『サイカ(雑賀)』とよばれて、農業生産の高さや、鍛冶などの家内工業の殷賑を誇っていた。

 戦国期になると、雑賀党とよばれる地侍たちが連合(一揆)を組み、根来衆とならんで鉄砲で武装したことは、よく知られている。かれらは、大名の隷下に入ることを好まず、自立していたかったのである」。

 「2、3の大名なら、雑賀・根来の徒と戦ってとても勝ち目がなかったが、織田信長という統一勢力が出てくると、分が悪くなった。

 雑賀衆は、信長と戦い、ついで秀吉と戦って、ついに紀ノ川下流平野をあけわたすことになる。

 それ以後が、和歌山である。秀吉は平定のあと、紀州1国を鎮めるための巨城をつくるべく藤堂高虎(1556~1630)らに普請奉行を命じた。このとき秀吉がこの城山のことを、『若山』とよんだのが、地名和歌山のはじまりだという。和歌山という表記は、文献の上では、秀吉の書簡(天正13年7月2日付)によってはじまるから、秀吉が命名者でないにしても、それに近いといわねばならない」。

 その後、関ヶ原の戦いのあと、徳川の世となり、浅野幸長が紀州37万6千石を領して入城。二の丸、西の丸屋敷が造営され、城と城下町の形が造られた。やがて浅野氏は広島に移封。家康の第10子頼宣が入城して、55万5千石の紀州徳川家となったそうだ。

      ★

<鶴の渓(タニ)>

   ホテルを出発して国道沿いに歩き、城の南西側の追廻門を目指した。

   (追廻門)

 追廻門は石垣にはさまれた門で、櫓はない。城には珍しく朱塗りで、屋根は瓦葺き。

 門をくぐって城郭の中に入り、北へ歩くと、「鶴の渓(タニ)」に出た。  

  (鶴の渓)

 司馬遼太郎が気に入った一郭だ。

 「和歌山城は、石垣がおもしろい。

 とくに城内の、『鶴の渓(タニ)』というあたりの石垣が、青さびていて、いい」。

 「石垣が、古風な野面(ノヅラ)積みであることも結構といわれねばならない。傾斜などもゆるやかで大きく、"渓"とよばれる道を歩いていると、古人に遭うおもいがする」。

 「このあたりの積み方のふるさからみて、藤堂高虎の設計(ナワバリ)のまま穴太(アノウ)衆が石を積んだとしか思えない」。

         ★

<近江の人、藤堂高虎について>

 藤堂高虎は、司馬さん好みの人である。司馬さんは実際的な人、世にあって確かな技術をもち、或いは、知識を応用的に使うことができる人が好きなのだ。

 「和歌山城の普請奉行だった近江人藤堂高虎(1556~1630)は、物の手練れ(テダレ)だった。

 若いころ近江の浅井氏につかえ、また尾張の織田信澄につかえたりしたが、のち秀長に仕えた。1万石の家老でもあった。

 高虎は、土木家として日本土木史上、屈指のひとりといっていい。のち秀吉の大名になり、伊予の宇和島で8万3千石を領した。宇和島城はまったくのかれの作品だった」。

 「そういう高虎の初期の作品が、秀長時代の和歌山城といえるのではないか」。

 「徳川の世になると、功によって伊勢・伊賀32万3千石という大大名になり、官位は従四位下の左少将、徳川一門に準ずるという待遇をうけた」。

      ★

<御橋廊下と天守閣のビュースポット> 

 そのまま北へ歩き、市庁舎側で一旦曲輪の外へ出、今度は東へ歩いてゆくと、目指す景色に出会った。

 前景が堀に架かる御橋廊下。背景は大天守とそれを囲む多門櫓というビュースポットである。※ 冒頭の写真も参照。

  (御橋廊下と天守閣)

 御橋廊下は平成18年に復元された。二の丸(大奥エリア)と西の丸との間の堀に架けられた橋で、橋は屋根と壁に囲われて廊下になり、ここを行く殿様やお付きの者の姿が外から隠される。

 内部を見学することもできるが、今回はパス。だが、写真で見ると、御殿らしい立派な廊下である。

 カメラの絞りが御橋廊下にあるため、天守の方は明るくトンでいるが、大天守の手前には小天守があり、そこから多門櫓が乾櫓へと続いていて、なかなか立派な天守閣である。

      ★

<遊覧船に乗って堀をゆく>

 さらに東へ歩くと堀に架かる一の橋があり、橋を渡れば城の正門である大手門。急に観光客が多くなる。

  (一の橋と大手門)

 橋の下の堀を、客を乗せた和船が行く。

  (遊覧船)

 お城の天守閣や御橋廊下へ入場しない代わりに、あれに乗ろう。 

 天守閣には上がらない。日本の城もヨーロッパの城もよく昇ったが、得た結論は、お城は離れて見てこそ美しい。

 特に日本の城の天守閣は、階段は狭く急で、一段、一段、やっとの思いで上がっても、最上階の空間は殺風景なもの。外の眺望も、江戸時代なら良かったのだろうが、ビルの建つ今の時代、期待するほどの絶景はない。

 大手門から入って二の丸庭園の横をゆくと、船乗り場はすぐに見つかった。

  (船からの眺め)

 水の高さから眺める城郭もいいものだ。

      ★

<和歌山城の復興のこと>

 下船して、坂道をゆっくりと上り、本丸御殿跡に到る。

 天守閣を眺めるには、ここからが最高のビュースポットだ。

 (本丸御殿跡から天守閣)

 (本丸御殿跡から天守閣)

 大天守。その右に小さな小天守。三層の屋根がなかなかかっこいい。

 また、司馬さんの説明を拝借。

 「明治6年1月、政府の手で、城門、本丸、二ノ丸などの建造物がこわされた。ただ、天守閣と小天守は明治初年の破却 (太政官の命令で全国144の城がこわされた) をまぬかれて、その後国宝に指定される幸運をえたものの、昭和20年7月9日、米軍の空襲で喪失した。

 城内に『沿革』と書かれた掲示がある。

 『現在の建物は 昭和20年(1945)戦火焼失に伴い 昭和33年市民の浄財によって 国宝建造であった戦前の姿に復元したものである』

とあるように、外観はことごとく旧に復していて、楠門の白亜の櫓(ヤグラ)と、小天守、大天守が連立しあっている姿は、ことにうつくしい」。

      ★

<地形を生かした西の丸庭園>

 西の丸庭園は、国の名勝に指定されている。

  (西の丸庭園)

 紅葉渓(モミジダニ)庭園とも呼ばれ、紅葉の時季が特に美しいそうだ。

 和歌山城は虎伏山に建造された城郭だから、庭園も、急峻な山容の地形を生かした池泉回遊式。内堀の水を池に見立てて作庭されているのも趣がある。

 (桜の開花)

      ★

<短い旅の終わりに>

 ひとめぐりして、結構、楽しいウォーキングになった。

 岡口門から出た。

 (岡口門)

 この門は白塗りの櫓があり、石垣に挟まれて、城塞の門の厳しさがある。それが周囲の緑に映えて、桜も花を添え、いい雰囲気の城門だ。

 江戸初期の造りで、国の重要文化財になっている。

      ★

 これで、西国三社めぐりの旅は終わった。

 旅に出ると、自ずから歩く。歩くのは健康に良い。お天気も良く、桜の開花にも出会うことができ、良い旅だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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木の神様を祀る伊太祁曽(イタキソ)神社…西国三社めぐりの旅(3)

2024年06月15日 | 国内旅行…心に残る杜と社

  (「伊太祈曽」駅)

<伊太祁曽(イタキソ)神社と五十猛命(イタケルノミコト)>

 「伊太祈曽」駅は、貴志川線に乗って「和歌山」駅から8つ目、「竈山」駅からは4つ目。この駅から先、行き違いのできる設備がないので、上下列車の交換はこの駅で行われるそうだ。

 駅に案内掲示板があった。

 (伊太祈曽駅の案内掲示)

 あれっ!! 駅名と神社名 … 漢字が違うようだ。読み方も、清音と濁音の違いがある。

 「祈」への駅名の変更は、南海電鉄から和歌山電鐵へ譲渡されたときに行われたらしい。

 「祁」は読みにくい。ふつう、まあ、誰も知らない漢字だ。それで、音が通じる別の漢字にしようと検討し、そうはいっても神社への遠慮もあって、「祈」という敬虔な感じの文字を選んだ、ということだったのかな??

 「祈」と「祁」は音は通じるが、意味はどうなのだろうと、念のために漢和辞典で調べてみた。

 ぜんぜん違う。「祁」は「大いに、さかんに」の意。

 伊太祁曽神社の祭神は、スサノオの子の五十猛(イタケル)命。さらに、その妹の大屋津比売(オオヤツヒメ)命と都麻津比売(トマツヒメ)命を祀っている。

 小学館刊の『日本書紀』の頭注によると、「五十猛(イタケル)」の「五十」はイと訓み、多数の意。「猛」はタケルと訓み、「武」と同じで、勇猛の意とある。さらに、「伊太祁曽神社」の「伊太祁」(イタキ)は、「五十猛(イタケル)」と同義であろう、とあった。「大いに勇猛なる」神様を祀る神社である。

 高天原では暴れん坊で姉のアマテラスを苦しめたスサノオの子らしい名だが、『日本書紀』が伝える神話によると、イタケルは名前のイメージからはちょっと想像できない神様だった(後述)。

      ★

<木の神様に参拝する>

 駅から神社までは徒歩5分。近い。

 小さな流れの和田川を渡ると、一の鳥居があり、神社の参道に入る。

 (石の一の鳥居)

 進んで行くと、木の鳥居があり、その向こうに門が見えた。

   (白木の鳥居)

      (木祭りの幟)

 黄色い幟(ノボリ)が立てられている。「木祭り」は毎年、4月の第1日曜日に行なわれ、全国の木材関係者をはじめ、一般の崇敬者も集って、樹木の恩恵に感謝する祭りのようだ。

 お堀の赤い橋を渡ると手水舎がある。

 石段を上がって門をくぐると、拝殿があった。

 (拝殿)

 ここも、日前宮とともに、紀伊国の一の宮である。

 境内の一角に、木祭りのために奉納された、チェーンソーで作ったというアートが陳列されていた。

      ★

<木の神様のこと>

司馬遼太郎『街道をゆく32』から再掲 

 「『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。

 その神話である。

 初代の天皇である神武天皇よりざっと180万年も昔(このことについては前回、書いた)に、神武天皇の曽祖父のニニギノミコトが高天原から地上に降りてきた。そのニニギノミコトよりも遥かに古い神代の時代 ……

 …… アマテラスの弟のスサノオは、高天原で乱暴狼藉をした挙句、神々によって高天原から追放された。

 だが、地上に降りてきてからのスサノオは実にカッコいい。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して、その尾から出てきた草薙の剣を天上のアマテラスに献上する。そして、美しい奇稲田(クシイナダ)姫と幸せな結婚をした。スサノオの歌、

  八雲たつ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を

 以上は、よく知られた話である。

 ところが、『日本書紀』には、スサノオの話に限らないのだが、一つのお話のあとに、「一書(アルフミ)に曰く」として、別の異なる伝承も紹介されている。

 スサノオに関しても、オロチ退治の話を基本にしながら、別の異なる5つの伝承が、「一書に曰く」、「一書に曰く」として付記されている。

 その4番目と5番目に、スサノオの子の五十猛(イタケル)が登場する。

 4番目の「一書に曰く」では、高天原から追放されたスサノオとともに、スサノオの子のイタケルも地上に降りてきた。そのとき、イタケルは、高天原から多くの樹木の種を持ってきていた。それで、その樹木の種を、筑紫から始めて、順次、全国に蒔いていき、国土を青山に変えた。そのため、イタケルは「有功の神」と称えられた。

 「即ち、紀伊国にまします大神、これなり」。

 5番目の「一書に曰く」は少し異なる。

 地上に降りてきたスサノオは、この国の子孫のために、自分のあちこちの体毛を抜いて、その毛を孫悟空みたいに??吹いて、船の材料になるようスギとクス、また、宮を建てる材木になるようにヒノキ、また、棺をつくるためにとマキに変えて、この国に植えられた。また、食料にすべき木の実の種も蒔いて植えた。

 さらに、スサノオの子のイタケルと、その妹のオオヤツヒメと、二女のツマツヒメは、それ以外の樹木の種を国中に蒔いて回った。

 そこでこの三兄妹神を紀伊国に迎えて祀ることになった、とある。

 伝承に少々の違いはあるが、日本列島の緑の木々や果物のなる木は、スサノオと、その子のイタケルら3兄妹が植えたのだというお話である。

 素朴で、いい話である。

 勝手な想像だが、もともと紀の国に古くから伝わる、或いは、紀氏に伝わる伝承を、『日本書紀』が採録したように、私には思える。 

 前回の「閑話」の話に戻れば、津田左右吉博士は、記紀の「神話」の記述は6世紀の宮廷官人たちが造作(創作)したものだという。

 そういう考えに立つと、スサノオが地上に降りてきてからの話について、宮廷の官人たちは計6つの異なる話を頭をひねって創作し、歴史(神話)の捏造をしたということになる。そこまでやる必要があるのだろうか???

 大伴氏とか物部氏とか中臣氏とか、そして紀氏とか、各氏族はそれぞれに家に伝わる一族の伝承を持っていた。天武天皇のとき、国の正史を編纂しようと、官人たちの中から学力の高い編纂メンバーを選び、各氏族が持っていた伝承を提出させた。編纂者たちはそれらを読み込み、吟味し、国の正史に入れるべきか判断し採録していったと考える方が、創作説よりも合理的であろう。もちろん、その際、国家や天皇家に都合の良いように、取捨選択、加工もされたことを否定するつもりはない。

 『日本書紀』には、「一書に曰く」だけでなく、百済の歴史書や中国の歴史書も注に引用されている。

 そもそも「紀」の編纂に携わった官人たちのメンバーには、中国や朝鮮半島からの渡来人たちも多く選ばれており、「紀」は漢文で書かれている。滅亡した百済の歴史は韓国にも残っておらず、『日本書紀』に引用された部分だけが残っているそうだ。

 (岩橋古墳)

 境内を歩いていると、古墳があった。岩橋古墳群の一つである。彼らこそ、この伝承を伝えた人々かも知れない。

      ★

 夜、ホテルのフロントに聞いて、すぐ近くの「よっさん」という小さな和食の店の暖簾をくぐった。何にしようかとメニューを眺めていると、「よっさん」らしき料理人の主(アルジ)が出てきて、「うちは朝、漁港の市で仕入れてきた新鮮な魚がウリです」と言う。「では、3品ほど、おまかせで」と頼んだ。

 時間をおきながら新鮮な魚料理が出て、燗酒が美味しかった。

 和歌山は古代から漁の名人のいる国でもある。

 ホテルに帰って歩数計を見ると、朝から1万1千歩、歩いていた。

 

 

 

 

 

 

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イツセノミコトと竈山(カマヤマ)神社 … 西国三社めぐりの旅(2)

2024年06月06日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

       (貴志川線の「たま電車」)

 竈山神社は、神武天皇の兄の五瀬(イツセ)命(ミコト)を祀っている。

    和歌山駅から貴志川線に乗って4つめの駅が「竈山(カマヤマ)」で、「日前宮(ニチゼングウ)」からは2つ目である。

 三社のうちでは、駅から一番離れていて、片道10分以上歩く。

      ★

<東征の途中、無念の最期を遂げたイツセノミコト>

 大和盆地の東南部で最初の王となった人の名を、『古事記』『日本書紀』(「記紀」)はカムヤマトイハレビコとする。

 神武天皇という名はずっと後の時代に付けられた漢風の諡(オクリナ)で、国風の諡は『日本書紀』では神日本磐余彦 (カムヤマト イハレビコ)の 天皇 (スメラミコト)。『古事記』でも漢字表記は違うが、やはりカムヤマトイハレビコである。(以下、本文ではイハレビコと短く呼ぶこともある)。

 イハレビコは九州の日向(ヒムカ)に生まれ育ったが、東方に美しい国があると知り、『古事記』では兄の五瀬命(イツセノミコト)と、『日本書紀』では彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を長兄とする4人兄弟の末の弟として、軍船を仕立て出発した。

    ところで、『日本書紀』によると、イハレビコの3代前は、神々の国である高天原から、九州の日向に、天孫として降臨してきたニニギノミコトである。

 (ニニギノミコトを祀る鹿児島県の霧島神社)

 そのニニギノミコトが天孫降臨してから、曾孫のイハレビコが東征に出発するまでに、179万2470余年が経ったと『日本書紀』は書いている。どこからそういう数字が出て来たのか分からないが、それはつまり、東征より前の話は遥かに遠い遠い昔話であり、「神話」ですよ、ここからが実際の歴史ですよと、『紀』の編纂者は言っているのであろう。

 さて、日向を出発した一行は、瀬戸内海を経て、難波の渡りを通り、生駒山脈の西麓の草香(日下)に上陸する。そして、日下から大和の地へ入るために生駒山を越えようとするが、待ち構えていたナガスネヒコの軍勢に急襲され、激戦の末、劣勢となって、退却せざるを得なくなった。このとき、兄のイツセは肘に流れ矢を受けた。

 一行は生駒越えを断念し、方向転換して紀伊半島を大きく迂回しようと熊野を目指して航行する。途中、紀伊国の男之水門(オノミナト)に入ったとき、兄のイツセの矢傷がひどく悪化した。イツセは激痛に耐え、無念の雄叫びを挙げたと記されている。

 「進みて、紀の国の竈山(カマヤマ)に到りて、五瀬(イツセノ)命、軍に(イクサニ)(軍中で)薨(カムサ)りましぬ。よりて竈山に葬(ハブ)りまつる」(『紀』)。

 「竈山」は、カムヤマトイハレビコの兄のイツセノミコトを葬った所として「記紀」に登場する古い地名なのだ。

 このあと、再び海上に出た一行は、暴風雨に遭い、二人の兄たちも次々に喪った。

 それでもイハレビコは紀伊半島の南端の新宮に上陸し、そこから北上して大和に入り、大和の地を平定して、王となった。

  (熊野速玉大社) 

 イハレビコが上陸したとされる地には、今、熊野速玉(ハヤタマ)大社がある。朱の美しいあでやかな神社である。

      ★ 

<五瀬命(イツセノミコト)を祀る竈山神社へ>

 伝説の神武天皇の兄である五瀬(イツセノ)命を祀る神社を目指して、竈山駅から南の方角へ、てくてく歩いた。

 参拝を終えたら、どこかで昼食をとらねばならない。だが、駅前にも、竈山神社に向かう途中にも、商店はあるが、カフェとかレストラン、食堂らしき店は見当たらなかった。

 イハレビコも、その日の食をどうしようかと思いながら進んだ日もあったことだろう

 (橋を渡ると石の大鳥居)

 やがてこんもりした森のある角に出た。この森にちがいない。

 (竈山神社の森)

 森の北東の角から入り、正面の鳥居へ回って、参道を行く。

 立派な神門があった。

    (神門)

 神門をくぐると、拝殿があった。

  (拝殿)

 参拝に訪れている人は、子づれの若いお母さんとか、ごくわずかだ。早春らしいのどかな空気のなか、静かに参拝した。

 本殿は拝殿の奥だが、森の樹木の中にすっぽりと囲まれている。

 拝殿からは見えないが、本殿に祀られているのは祭神の彦五瀬の命(ヒコイツセノミコト)。

 左脇殿には神武天皇を含む五瀬命の3人の弟神が祀られ、右脇殿には神武東征に従ったとされる随身たち ─ 物部氏の祖、中臣氏の祖、大伴氏の祖、久米氏の祖、賀茂氏の祖らが祀られているそうだ。

 イツセノミコトは、「記紀」全体の中では脇役であるが、脇役の伝承を踏まえた神社であるというところに興趣があった。

 「延喜式神名帳」(927年)に記載された歴史ある式内社だが、豊臣秀吉の紀州征伐で、他の多くの社寺と同様に没落した。

 江戸時代、紀州藩主によって再建されたが、社領もなく(収入もなく)衰微した。

 明治になって、国家神道のもと、初め村社となり、のち、官幣大社に昇格した。

 本殿の後ろに、五瀬命の陵墓とされる円墳(竈山墓)があった。

 (竈山墓)

 五瀬命の陵墓の所在地は、既に江戸時代から学者たちが探してきたのだが、不明とされていた。だが、宮内庁はここを伝説の五瀬命の陵墓とした。

 私としては、そのことに特に異議はない。少なくとも、ライン川のローレライの岩よりは、遥かに信ぴょう性が高い。

      ★

 歩き疲れ、のども渇き、お腹も空いた。

 竈山駅近くに戻って、一軒のスナックが営業しているのを見つけた。スナックが開くには早すぎると思いつつのぞいてみると、年配のママさんがいて、どうやら昼は近所の人たちが昼食を食べにくる店らしい。席に座ると、バラ寿司があると言う。私は、ラーメンやカレーより、その方がのどを通りやすい。

 手作りのバラ寿司もお汁も美味しく、疲れがいやされた

   ★   ★   ★

<閑話神武東征伝承について>

 『古事記』が成立したのは712年、『日本書紀』の成立は720年、8世紀の初頭である。

 どちらも、神話に続いて、第1代神武天皇から始まる歴代の天皇の歴史が叙述されている。

 現代の歴史学は、第1代神武天皇については、その東征の話も、神武天皇の存在そのものについても、否定的である。このような「東征」があったことを証拠づけるような同時代の文献資料も、神武天皇の存在を証明するような考古学上の発見もない。

 文献学者は、実在の可能性がある最初の天皇は第10代の崇神天皇とし、最近では、11代の垂仁天皇、12代の景行天皇も実在が有力視されるようになっている。

 司馬遼太郎は『街道をゆく32』の中で、 

 「神武天皇が実在したかどうかはべつとして、そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録したのにちがいない」

 「その伝説の神武天皇は "東方に美(ヨ)き地(クニ)がある" ということで、日向を発して東征をおこない、ついに難波(ナニワ)に上陸し、大和に入ろうとして長髄彦(ナガスネヒコ)と戦って敗れる。

 退いてふたたび大阪湾にうかび、紀伊半島南端から北上して大和に入るべく、海路、熊野にむかった。途中、紀ノ川流域の野に入るのである」と書いている。

 司馬さんはここで、「そういう伝承があって『古事記』『日本書紀』の撰者が採録した」としておられる。

 ところが、戦前の著名な記紀研究者であった津田左右吉博士は、『古事記』『日本書紀』(記紀)が編纂された当時、神武東征などの伝承はなかったとして、次のような説を述べ、戦後の古代史研究に大きな影響を与えた。(まとめるにあたり、ウィキペディアの記述を参考にした)。

① 記紀の「神話」の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説くために造作したものである。

② 初代天皇である神武天皇は、大和王朝の起源を説明するために創作された人物であって、史実ではない。

③ 神武天皇から9代目の開花天皇までは、7、8世紀の記紀編纂時に創作された人物である。

④ 15代の応神天皇より前の天皇も、また、神功皇后も、創作された非実在の人物である。

 つまり、津田博士は、記紀の「神話」の記述から、第15代の応神天皇の前までの叙述は、朝廷の官人たちが政治的目的のために「造作」したものであって、7、8世紀の記紀編纂当時、応神天皇より前のことは「伝承」も存在しなかった、としたのである。つまり、官人たちが創り出した「創作」、架空の話、フィクション、歴史の捏造であったというのだ。

 そして、戦後の古代史研究は、戦前の皇国史観への反動もあって、この津田博士の学説を出発点としたから、津田学説は戦後も長く通説として扱われてきた。

 しかしながら、戦後の考古学、特に古墳研究の進展や、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文などからも、津田学説に批判的な発見や研究の成果も発表されるようになっている。              

      ★

 そこで、そのような研究者の一人である塚口義信先生の説を紹介したい。(先生の著書はこの項の終わりに記す)。

 塚口先生は、「伝説というものは、はじめに何か核となるもの、祖型となるものがあって、それが、"かくあってほしい"と願う伝承加担者の思い入れや時代の要請に応じて、雪だるま式に形作られてゆく場合が多いのではないか」とした上で、例えば、津田左右吉博士が記紀編纂者の創作であると断じた神功皇后の話についても、「私も、7、8世紀に (つまり「記紀」編纂時に)、かなり手が加えられているのではないかと思います。しかし、7、8世紀に物語のすべてが机上で述作されたのではなく、何かもととなった伝説があり、それが7、8世紀に潤色・変改されて姿を変えた、と理解しています」とされている。

 つまり、① 8世紀初頭に編纂された記紀は、伝説・伝承を踏まえて叙述されたものである。

 ② 伝説・伝承というものは固定されたものではなく、一度形成されたものが、時代を経る中で、その時々の人々(グループ、集団)の願望や都合によって変容されていくものである。記紀編纂時にさえも、時の朝廷にとって都合よく、潤色・変容された可能性はある。

 ③ しかし、記紀の内容は、朝廷の官人によって創作・虚構されたものではない。また、創作ではなく、伝説・伝承されたものである以上、そこに歴史的な事実の反映もあることは否定できない。

     ★

 それでは、「神武東征伝承」について、塚口先生はどのように説明されているだろうか??

 塚口先生は、「私自身は、建国神話は、ヤマト王権が(大和盆地の東南部に)誕生した遅くとも3世紀には存在したと思っている」とする。

 しかし、建国神話の主人公が、九州の日向を出発して、生駒山西麓の日下に上陸するというシナリオになったのは、5世紀の前半であろうとされる。

 3世紀に作られていただろう建国神話の中身が、5世紀の前半に変容したというのである。

 それでは5世紀前半とはどのような時代であったのか??

 それは「ヤマト王権」が河内に進出し、河内に大王家を営んだ応神天皇やその子の仁徳天皇の時代であった。この時代に、超巨大な前方後円墳が築かれたことはよく知られている。

 この時代、応神天皇にも、その子の仁徳天皇にも、九州の日向の豪族がお妃を入れ、皇子や皇女も生まれて、河内の日下の地に「日下の宮」が営まれた。

 また同じ頃、日向地方、今の宮崎県の西都原古墳群が巨大化し、九州で最大規模の前方後円墳である女狭穂塚(メサホツカ)古墳が築かれている。

 つまり、この時代は、(葛城氏系とともに)、「日向系の一族が隆盛を極め、大王家と深い関係をもった」時代であった。

 この時代に、建国神話の主人公(神武天皇)は、もともと九州の日向に生まれた天孫であって、その昔、日向の若者たちを率いて東征し、「日下の宮」のある地に上陸して、ナガスネヒコと戦ったのだ、というストーリーが新たに加えられ、それが8世紀に編纂された記紀の「神武東征」の話になったとするのである。

 それではなぜ、5世紀前半に日向系の一族が隆盛を極めるようになったのか。それは、4世紀末にあったヤマト王権内の内乱を契機にしている。

 記紀の神功皇后伝説では、── 北九州に(さらに朝鮮半島に)出征していた神功皇后が、北九州の地で誉田別 (ホムダワケ のちの応神天皇)を出産した。このことを知った大和の誉田別(ホムダワケ)の異母兄である忍熊王(オシクマノキミ)らは、皇位を奪われることをおそれて軍をおこした。これに対して神功皇后の側も、日向の諸族の支援を得て、九州から大和へ向けて進軍し、葛城氏らの応援も得て、忍熊王(オシクマノキミ)の軍勢を打ち破って滅ぼした、── としている。

 神功皇后伝説をどこまで歴史的事実と認めるかは別にして、塚口先生は、ヤマト王権内部でこうした内乱があったことは事実であろうと考えておられる。この内乱で最も功績を挙げたのは、大和の葛城氏と日向系の豪族であった。

 成長した誉田別は大王となり、大和から河内に出て、大きな力を持つようになった。

 そのとき、日向系豪族は、姫たちを輿入れさせ、隆盛を極めた。

 こうして5世紀に、ヤマト王権の建国の大王は、実はもともと日向の地に降臨されていた天孫の子孫で、日向の軍勢を率いて東征し、大和盆地において大王になられたのだ、という風に、建国神話は変容したと、塚口先生は説明される。

 私は、塚口先生の説にかなり納得している。

 なお、今、蛇行剣を出土したことで話題になっている富雄丸山古墳。86mの大きな古墳で、出土品も一級品なのに、墳型が前方後円墳ではなく、なぜか円墳である。この古墳について、塚口先生は早くから4世紀末の内乱で滅亡した忍熊王(オシクマノキミ)の墓ではないかと言っておられる。

※ 塚口義信先生の著書

 〇 『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(学生社) ── この中の「 "神武伝説と日向" の再検討」

 〇 『ヤマト王権の謎をとく』(学生社)

 〇 『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』(原書房)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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森(杜)の中の日前宮 … 西国三社めぐりの旅(1)

2024年05月19日 | 国内旅行…紀伊・熊野へ

    (日前宮の森)

<もとは「木の国」だった>

司馬遼太郎『街道をゆく32』から

 「和歌山県は、旧分国のよびかたでは、紀伊・紀州・紀の国という。

 古くは『木の国』といわれた。

 18世紀成立の『和訓栞』に、『きい、紀伊は、もと木の国と書きたるを、和銅年間に好字を撰み、二字を用ゐさせられしよりかく書くなり。伊は紀の音の響きなり』と、まことに簡潔に説く。

 なぜ木の国なのか、については神話があるが、要するに木が多かったからであろう」。

 「紀」という漢字を漢和辞典で調べると、「糸を分けて整理すること。はじめ、もとい、きまり、しるす、筋道をたてて書き記す」などの意がある。『日本書紀』の「書紀」の意味も納得できた。

 確かに、「木の国」には、素朴、粗野、未開の風も感じられ、それよりも「紀伊の国」の方に文明の香りがあるとしたのであろう。「好字を撰」んだ和銅という年号の時代は、平城京に遷都し、古事記、日本書紀、風土記などを作成して、新しい文明国家づくりが行われた時代であった。文明とは即ち、儒教的礼節の秩序が整う世のことである。「やまと(のくに)」も、「大倭(国)」から「大和(国)」と表記されるようになった。「倭」よりも「和」という漢字を良しとしたのだ。

 だが、「大和」は良いとして、私的には「木の国」にも捨てがたい懐かしさを感じる。

  ★   ★   ★

<和歌山電鐵 (鉄)貴志川線と紀の国の「三社参り」>

 和歌山市周辺では、初詣のとき、「西国三社参り」をするらしい。その三社のうちの二社は紀の国の一の宮だという。

 そういうことを、いつ、何によって知ったのか忘れてしまったが、ずっと三社参りをしてみたいと思っていた。

 三社は和歌山電鐵 (今も「鐵」という字だ) の貴志川線というローカル鉄道の沿線にあるらしい。

 お天気の良い早春のころ、コトコトと走るローカル鉄道に乗り、駅からは軽いウォーキングで、まだ見ぬ神の森を訪ねて回る。大和国の歴史ある大寺もよいが、ローカル線に乗って神社巡りをするのもなかなかよいではないか

 それに、司馬遼太郎『街道をゆく32』の「紀ノ川流域」に、三社のうちの一つである日前宮のことが出てくる。

 和歌山電鐵の貴志川線は、JRの和歌山駅と紀の川市の貴志駅の間14.3キロを、14駅、30分少々でつなぐのどかな鉄道である。ワンマンカーで、駅の多くも無人駅のようだ。

 南海電鉄から赤字路線として切り離され、県や市の助成と、地域住民の協力、そして何よりも経営努力があって、今日まで運営されてきた。少しずつ増益してきたが、それでも黒字になったことはないそうだ

 北陸新幹線が開通したとニュースで見ても、乗ってみたいとは思わない。年を取ると、速いだけの新幹線よりも、貴志川線のようなローカル鉄道に乗って、少しでも地域を応援したくなる。

 鉄道の話はこれぐらいにして、西国三社とは、和歌山駅を出発して2つ目の駅で降りる日前宮(ニチゼングウ)、4つ目の駅で降りる竈山(カマヤマ)神社、そして8番目の駅で降りる伊太祁曽(イタキソ)神社のことである。漢字も難しいしが、読むのも厄介だ。ただ、遠いいにしえから吹いてくる風を感じる。

 三社を回るのに日帰りでは気持ちがあわただしい。それで、和歌山市内のホテルに1泊し、翌日の午前は和歌山城を歩いてみることにした。

 あとは2週間天気予報をにらんで、ウィークデイの4月1日、2日と決め、お城近くのホテルを予約した。

      ★

<神々は森(杜)に遊ぶ>

  天王寺からJR阪和線に乗って和歌山駅へ。駅前のコインロッカーに荷物を預け、乗り降り自由の1日券を買って、貴志川線のホームへ上がった。 

 (和歌山駅の貴志川線ホーム)

 ホームには「いちご電車」が入っていた。

  (車 内)

 車内は、木の国らしく、木造り感がある。

 発車して2駅目。わずか5分で、「日前宮」駅に到着した。

 神社はすぐ目の前だ。

 日前宮のことは司馬遼太郎『街道をゆく32』の「紀ノ川流域」の中に、「森の神々」というタイトルで登場する。私がこの神宮を訪ねたいと思うようになった動機の一つは司馬さんのこの文章。ゆえに、ここでは司馬さんの文章をもっぱら引用したい。

 「伊勢神宮は内宮(ナイクウ)と外宮(ゲクウ)の一対で一つの神宮をなしている。

 ここも対の宮である。

 ヒノクマノミヤ(日前宮)

 クニカカスノミヤ(国懸宮)

 あわせて、『日前国懸 (ヒノクマ クニカカス) 神宮』というのだが、土地のひとたちは"ひのくま"という訓みがわずらわしいのか、"にちぜんぐう"とよんでいる。

 付近を南海電気(※司馬さんの当時)貴志川線が通っているが、その駅名も『日前宮(ニチゼングウ)』である」。

 駅を出て少しゆくと、一の鳥居があった。大きな石の鳥居で、その横の石標に、かつての社格を表した神宮の名が刻まれていた。

  (一の鳥居)

 鳥居をくぐって参道をゆくと、高い樹木が生い茂る森の中の道になる。 

  (日前宮の森)

 「信じがたいことだが、これだけの原生林が、和歌山の市内にある」。「おそらく伝説の神代から手つかずの原生林にちがいない」。

 「古語でいう"森(杜)"は、神がよりつく樹々が高くむらがる場所のことなのである。つまりは、森は神の場(ニワ)だった」。

 ちなみに国語辞典でも古語辞典でも、「森(杜)」には意味が①②と二つ書かれている。

 例えば、『言泉』(小学館)には、「①樹木が多くこんもり茂った所。②神社などのある神域で、神霊の寄りつく樹木が高く群がり立った所」とある。

 古代の人々は、神々は、建物の中ではなく、樹木が高く群がる所に降臨すると考えてきた。そうであれば、境内の樹木を伐採してしまったら、もはや、そこは神社でなくなってしまう。

 「古代、紀ノ川下流で稲作を展開したひとびとは、神々の憑代(ヨリシロ)の森をあちこちにのこして神の場(ニワ)とした。

 そのうち、紀ノ国ぜんたいの神の場としてこの森をのこし、木綿(ユウ)や幣(ヌサ)などをかけて斎(イツ)きまつったのである。

 古神道を知るには、書物を読むよりもこの森にくるといい」。

 「木綿(ユウ)や幣(ヌサ)などをかけて斎(イツ)きまつった」とある。

 古代、「ゆう」に「木綿」の字を当てたが、「木綿(モメン)」ではない。モメンが伝わってくるのはずっと後世のことで、それ以前は、麻を主としつつ、様々な植物を利用して糸をより布を織った。

 万葉集のよく知られた歌、

 多摩川に さらす手作り さらさらに なにぞこの子の ここだかなしき(万・東歌・相聞・巻14の3373)

   どうしてあの娘への思いが日々募り、こんなに愛しく思えるのだろう

 「多摩川に さらす手作り 」は「さらさら」を導く序詞で、「さらさら」は川瀬の音と、「さらに」という副詞を掛けている。娘たちが家族の着る布を織るために、麻を川にさらす作業をしている。この娘たちの中の誰かを恋しく思っているのだ。古代において、衣食住の全ては自給自足。衣を作るにも、大変な労働、手間暇が必要だった。 

 ゆう(木綿)は、楮(コウゾ)の木の皮を剥いで、蒸し、水にさらして白色にした繊維のこと。祭祀に際しては、幣帛(ヘイハク)として神に供えた。

 「幣(ヌサ)」は幣帛(ヘイハク)で、神前に供える紙や、麻、木綿(ユウ)などの糸や布を指す。

 森の中、ゆう(木綿)で斎(イツ)けば、そこは神域となり、即ち「神社」となった。社は必要としない。

司馬遼太郎『この国のかたち5』から

 「神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(イワネ)の大きさをおもい、奇異を感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す(オワス)」。 

 私たちは神社神道に慣れ、さらに国家神道の一時期も経験した。改めて日本人の心の原初に戻ってみるのも良いことと思う。 

 神社にお参りに行って、手水舎で身と心を浄め、拝殿で手を合わせるとき、私は拝殿の後ろの本殿に神(神々)を意識することはない。神社でも、寺でも、教会でも、人間が造った、狭く、窮屈で、うす暗い建造物の中に、どうして神(神々)が閉じこもっていなければならないのだろう?? 「社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習って」造られたものである。

 私が神社を好きなのは、屋内ではなく、外の自然の空気の中で、晴朗な気分で手を合わせることができるからである。

 拝殿の前で目を閉じ、手を合わせれば、森の気配を感じる。鳥の鳴き声、せせらぎの音、頬をなでる風、樹々の梢の揺らめき、木漏れ日 … 。そこに神(神々)はおわす。

 その一角を、鳥居や注連縄(シメナワ)で標をつけ、清らかにしておけば、すでにそこに神は在すのである。森(杜)こそが神社である。

 拝殿で手を合わせても、祭神の名を唱えることはない。「遠い昔よりここにいらっしゃる神様」に手を合わせる。神に名はない。今、伝わっている神の名は、社殿同様に、人間が歴史的に作ったもので、神がそう名乗ったわけではない。さらに言えば、歴史上、非業の死を遂げた人(菅原道真とか平将門とか)とか英雄(徳川家康とか)が、その森の神であろうはずがない。

 神は森羅万象の中におわす。アニミズムではない。あえて言えば汎神論。

 ただし、個々の神社に伝わる御由緒(祭神の話)は、この列島に住み、暮らしてきた人々が語り伝えてきた民俗的伝承であるから、大切にする。

 人はそれぞれに思い、信じる。以上のことも、私一個の思いに過ぎないので、念のため。

      ★

<鏡は二度、鋳された>

 日前神宮は左へ、國懸神宮は右への案内が立っていた。

 左へ進み、まず日前(ヒノクマ)神宮に参拝する。

 続いて、また森の中をゆき、國懸(クニカカス)神宮に参拝した。

    (國懸神宮)

 二つの社は同形だった。

 「御由緒」によれば、日前神宮は日前大神(ヒノクマノオオカミ)を主祭神とし、日像(ヒガタノ)鏡をご神体とする。また、国懸神宮は国懸(クニカカスノ)大神を主祭神とし、日矛(ヒボコノ)鏡をご神体とする。

 伊勢神宮が、天照大神を祀り、ご神体を八咫(ヤタノ)鏡とするのに相似している。

 …… そもそもは神代の時代の話である。古事記と日本書紀で細部が異なるのだが、ミックスして要約すれば、次のようなお話。 

 高天原で、アマテラスは、弟のスサノオのあまりの乱暴狼藉に怒り、岩屋の中に隠れ籠った。そのため世界は闇夜になる。

 八百万の神々は集まり相談した。

 まず大きな鏡を鋳造した。次に岩屋の前で焚火をし、桶を伏せた台の上でアメノウズメがセクシーダンスを踊る。神々はやんやの拍手喝采。

 何事かとアマテラスが岩戸を少し開け外をのぞいた時、アメノウズメは踊りながら「あなたより素敵な神が現れたから、みなで喜んでいるのです」と言う。その間に、二人の神が岩戸の左右から大鏡を差し出した。アマテラスは鏡に映った自分の姿を見て驚く。すかさず、タジカラヲが岩屋の岩戸を引き開けて、アマテラスの腕をつかんで引っ張り出した。別の神々が岩戸を封印してしまう。

 私たちの世代は、子どもの頃に夜伽話に聞いた話だ。

 このときの鏡が八咫(ヤタノ)鏡。後に、天孫のニニギノミコトが地上に降りてくるとき、アマテラスの形見として持たされた。天皇家を継承する三種の神器のうちでも、最も大切なものとされる。

 ところが、日前宮にはこれを補足する伝承があるというのだ。

 高天原で、イシコリドメという鏡作りが鏡を鋳造したとき、一度目にできた鏡に納得がいかず、もう一度作り直して、八咫(ヤタノ)鏡ができた。

 そのとき、最初にできた鏡が、日像(ヒガタノ)鏡と日矛(ヒボコノ)鏡なのだという。ニニギノミコトの天孫降臨のとき、八咫(ヤタノ)鏡とともに地上におりてきたそうだ。

 こういうわけで、日前宮は、伊勢神宮に相似した神宮として、ずっと尊崇されてきた。 

      ★

<最古の家系のひとつ、紀氏のこと>

 『街道をゆく32』に戻る。司馬さんはこの紀行で、日前宮の宮司さんを訪ねられ、宮司家について書かれている。

 「宮司は、紀氏である。

 『紀』という家系の祖は、はるかに遠い。日本でもっとも古い家系は天皇家と出雲大社の千家氏とそれに紀州日前宮の紀氏であるとされる。

 紀氏の遠祖は神武東征のときに従った天道根(アメノミチネノ)命であるといい、またその家系に伝説の武内宿禰(タケウチノスクネ)が入るといわれたりする。私にはせんさくの能力はない」。

 ムムムッ!!

    私が知る紀氏と言えば、『古今和歌集』の撰者であった紀貫之や紀友則。だが、その時代(平安時代)、藤原氏が圧倒的に勢力を増し、紀氏は中級貴族に過ぎなかった。

 しかし、紀氏の家系図を見れば、飛鳥、奈良時代、大臣までは届かないものの、大納言や参議を出した名門貴族であった。

 垣間見るように歴史に登場する紀氏の姫がいる。紀諸人(モロヒト)の娘の橡(トチ)姫は、天智天皇の子・志貴皇子と結ばれた。天武系の天皇の時代だったから、天智の子である志貴皇子は重んじられることもなく、また、それゆえ、大津皇子のような不幸にも巻き込まれることなく、皇族の一人として静かな一生を送ったらしい。

 石(イハ)そそく 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも(万・巻8・1418)

 岩の上を走り流れる滝のほとりに、なんとわらびが萌え出ているよ。いつの間にか春になったのだなあ。

 この清冽な叙景歌には、志貴皇子の人柄が表れているようにも思われる。

 だが、その後、天武系の有力な継承者が絶え、志貴皇子と橡(トチ)姫の間に生まれ、その有能さのゆえに重宝されて、ただ実直に職務を果たし既に齢も60を過ぎていた大納言が、突如、天皇に担ぎ上げられた。光仁天皇である。光仁天皇の子が、平安遷都した桓武天皇で、現在の皇統につながっている。

 もっと遥かに遡れば、紀氏は、武をもって大王に仕えた名門氏族だったと、何かで読んだことがある。

 「樹間に小さな神々の祠がある。『古事記』『日本書紀』に出てくる神々の名もある。…… しかしこの森でしか見ることのない神名もある。…… 森の中に、そういう神々の宮居が、八十余もある。いずれも小さく、すべて苔むしている」。

    こういうところも、伊勢神宮に似ている。

    そして、そういう中に、天道根(アメノミチネノ)命を祀る小さな摂社もあった。

  (天道根命社)

 この神宮と神宮の森を守ってきた宮司の遥かな祖、伝説の大王であるカムヤマトイハレビコ(神武天皇)と同時代を生きたとも言われるアメノミチネを祀る杜と社である。

 「この森から東方へ二キロほどさかのぼると、… 岩橋(イワセ)丘陵が盛り上がっており、そこに巨大な古墳がある。むかしから、『岩橋千塚』とよばれて、古墳時代の前期から後期にまで及び、その総数は六百基をこえるというが、その主たるものは、紀氏のものであったろう」。 

 「ともかくも、紀氏の先祖は、この森を斎きつつ紀ノ川下流平野を統べていた古代首長であったことはまぎれもない」。

 その古墳群は、今は、和歌山県によって「紀伊風土記の丘」として整備されている。

 「七世紀のはじめのことである。そのころ大和政権が大きく成長して、諸国に割拠してそれぞれ君臨していた大豪族の王権を停止した。その代償として、国造の称号と実質をあたえたのである。つまりは、世襲制の地方長官だった」。

 古代史の研究は日進月歩で、いわゆる国造制の始まりについても未だ不明のことも多く、確定的なことは言えないようである。しかし、もう少し早い時期から、例えば6世紀初めごろから、全国一斉にではなく、西日本の方、やがて東日本の方へと、一律にではなく置かれていったと考えた方が良いようである。

 「国造制は … 七世紀半ばの『大化の改新』によって廃止され、かわって中央官僚が赴任してくる国司の制になった

 国造の廃止にあたって、二国だけ例外が設けられた。出雲の千家氏と紀伊の紀氏である。

 この両国が独立性の高い文化をもち、国造家の権力が強大であったということもあったであろう。しかし、そういうことよりも、祭祀権につながることかもしれない。諸国に国造があったころ、その国でのすべての神社の祭祀権は国造にゆだねられていたが、出雲における千家氏、紀伊における紀氏はとくにそういう(神聖首長といもいうべき)性格が濃厚であったため、この二つを例外として存続させたと考えていい」。

 「ついでながら、江戸期、紀家は中納言もしくは大納言だった。地上を統べる紀州徳川家の当主もまた中納言もしくは大納言だったから、国主と同格の官位なのである。このあたり、徳川幕府の政治的感覚は味なものといえまいか」。

  ★   ★   ★

<鎮守の森とふるさとの森づくり>

 『街道をゆく32』の中で、司馬さんは日前宮の宮司さんを訪ね歓談されている。

 「当代の紀俊武氏は、かつて阪神間で中学教師をしておられた。教育が好きでたまらず、それだけに、紀家伝統の職をつぐのがいやだったという。

 なんといっても、森の保護と社殿の補修という、やっかいなことを背負い込むことになるのである。

 『父君もどうだったのでしょう。お悩みがなかったように見受けられましたが』『そうじゃないんです。父も若いころは教師で、私と同じように教師が好きで、相続をいやがったそうです』。

 私が会ったころの俊嗣翁は、覚悟のほぞを決めてしまわれたあとだったのだろう。

 三代前は、紀俊という人で、大正五年、神宮に伝わる古記録を非売品で刊行されたことで知られているが、この祖父君もまた他のことをやりたかった人のようである。

 そのあたりが、まことにいい。こういう世襲職に好んでなりたがるのは、かえって俗気があって不適当なのではあるまいか。当代をふくめ、覚悟のほぞをきめた歴世のひとびとが、こんにちまでこの森の清浄を守ってきたのである」。

 三代前の方が、この神宮に伝わる古記録を非売品で刊行されたという。そこに、上に記した鏡の伝承のことなども書かれているのであろうか

 それはともかく、宮司さんは、「紀家伝統の職をつぐのがいやだった」「なんといっても、森の保護と社殿の補修という、やっかいなことを背負い込むことになる」から、と言っておられる。

 観光客でいつも賑わう一部の裕福な神社やお寺は別格として、全国津津浦浦の神社やお寺の経営はどうなっているのだろう?? その後継者のことも私は心配する。

 生態学の世界で国際的に活躍された宮脇昭博士(1928~2021)は、その著『鎮守の森』(新潮文庫)の中で、「私は、単に神社の森だけでなく、ひろく地霊をまつった森という意味で『鎮守の森』という言葉をつかっている」。「『鎮守の森』という言葉は、今、植生学、植物生態学の世界で(学術用語として)、国際的にも通用している」とおっしゃっている。

 だが、かつて「神奈川県教育委員会の依頼で(調査したら)、高木、亜高木、低木、下草がそろった、すなわち最低限の森の生態系が維持されているような『鎮守の森』は、たった40であった。かつては2850あった『鎮守の森』が、戦後わずか30年足らずで激減した」とも書いておられる。

 以下は、宮脇博士の著『鎮守の森』の中の対談から、適宜、抜き出したものである。対談の相手は、曹洞宗の大管首であられた板橋興宗禅師。曹洞宗の大本山の總持寺は、当時、宮脇先生の協力を得て、寺とその寺域に千年の森をつくるという事業を展開されていた。

<宮脇博士>鎮守の森は、いわば『ふるさとの木によるふるさとの森』。森の主役となる、その土地に合った木を植える必要があるんです。スギやマツは用材をつくるためによく植えられるようになっただけで、それで森をつくっても長くはもたない。常に人の手による管理が必要で、鎮守の森、千年の森にはならんのです。浜離宮のタブノキの森や白金の自然教育園のシイの森を見ていただけるとわかりやすいのですが、あの200年以上前に植えられた木々は、火事にも地震にも台風にも、戦時中の焼夷弾にも耐えて今でも生き残っているわけですから」。

<板橋禅師>「(明治神宮の森について) 昭和20年の東京大空襲ではきっと焼夷弾の被害に遭ったはずです。100発ぐらいは落っこちたんじゃないですか。明治神宮がスギやマツばかりの森だったら、もう薪小屋へ火をつけたようによく燃えますよ。スギやマツというのは、マッチを擦って火をつけるのは難しいけれども、一度燃え始めたら、もう手がつけられなくなる」。「本殿や社務所の方はやはり空襲の被害に遭ったそうです」。

<宮脇博士>「焼夷弾に耐えたのは、シイ、タブ、カシ、クスといった常緑広葉樹でしょう」。

<板橋禅師>「先生がおっしゃられるように、森の主木が高くて立派になると、その森全体に活気が出てくる。崇高な雰囲気が出てくるんですな。主木がしっかりしているお宮さんやお寺さんは、森全体が『社』を成していて栄えるはずですよ。しかし、逆に言うと、森が廃れれば日本人の宗教心も廃れることになる」。

<宮脇博士>「(外国の教会やモスクと違って) 日本の神社やお寺では、自然の中にさらに木を植えて森閑としたものを求めた。鎮守の森をつくっているんです。これはすごいことですよ。今でも都会の中で唯一残っている森が神社だったりするわけですから」。

<板橋禅師>「もう一つ興味深いのは、寺で住職がいなくなると、すぐに廃れていってしまう。何年か経つとあばら家になる。でもお宮さんは違うのです。神職のいないところは本当に多い。兼務で30社ぐらい持っているなんてザラですからね」。

<宮脇博士>「全国を植生調査でまわったとき、私も神主不在の神社や小さな祠(ホコラ)はよく見ました。しかも管理する人がいないはずなのに、意外に手入れが行き届いている。誰かが当番で補修や掃除をしているんでしょうね」。

<板橋禅師>「心のよりどころである氏神の森を『社』と形容して、そこに神が宿っているという、そういう日本人の信仰があるのです。神様の神ではなく、カタカナで書いた『カミ』。明治以降の神道ではなくて、古代から続くカミへの信仰ですな」。

<宮脇博士>「この国では、自然と宗教は切っても切り離せない関係にある。だからこそ、『鎮守の森』の減少は大問題なのです」。

      ★

    国や地方自治体は特定の宗教組織に肩入れすることはできない。政教分離なのだから当然である。

 それはそうなのだが、そこにある国宝や重文の文化財は、もはや半分ぐらいは「公」のものと言ってよいだろう。それらはもはや、一宮司や一住職、或いは、特定宗教組織の「私物」ではない。「公」は、それらを保護し、後世に残していく責務がある。

 同じことが、鎮守の森についても言える。

 生態系の整った森は、災害の被害を防ぐのにも大いに役立つと宮脇先生は別の著書の中で仰っている。大樹1本は、消防車1台だと。ふるさとの木によるふるさとの森を保護し継承し、或いは、新たに育てていくことは、各地方の自治体の責務の一つである。

 パリでは個人の邸宅内の樹木であっても、勝手に伐採してはいけないと条例に定めているという。何でも、「私権」が優先するのではない。民主主義は私権と公権のバランス、ほどよい調和の上に成り立つ。

 「鎮守の森」は、国の宝、地域の宝、継承していくべき歴史的な文化遺産。それらを個々の宮司さんや住職さんに丸投げし、市場経済の中に放置するようでは、日本における「公」の精神が問われるというものである。

 政治が、山野の樹木を伐採して無機質なソーラーパネルを一面に張り巡らすことを善しとするのなら、せめて「鎮守の森」を保護するための法律を与野党協力して作って、美しい日本を後世に継承してほしい。これはかねてからの私の意見である。

 この項の終わりに、ささやかな私ごと。

 私は、かつて、神社やお寺にお参りに行ったとき、財布の中の1円玉、5円玉、10円玉を探して賽銭箱に投げ込んでいた。そうするものだと思っていた。それは一種の儀礼の行為であると。しかし、「鎮守の森」のことを知ってから、100円硬貨にするようになった。時に、お願い事がかなった時などには、お札を入れることも。

 亡き父がまだ元気だったころ、初詣のとき、私の横で賽銭箱にお札を入れていて、びっくりしたことがある。あるとき、ふとそのことを思い出した。私ももう父の年齢は超えた。

 また、時に、たまたま参詣した神社仏閣が補修の費用のために募金を募っているような時には、もとより氏子でも檀家でもないけれど、貧者の一灯も捧げるようになった。

 

 

 

 

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早春の薬師寺へ(その2)

2024年04月19日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (東塔)

<1300年前からここにある塔>

 白鳳伽藍を見てまわりながら、私は、復興された薬師寺の伽藍を今日まで自分が見ていなかったことに、やっと気づいた。北隣の唐招提寺は何度か訪ねたのに、薬師寺の方は … 多分?? 学生時代に訪れてから、一度も来ていない … 気がする。

 理由はいろいろある。先に唐招提寺を訪ねて十分に満腹してしまって、薬師寺に寄らずに帰ってしまったとか、復興の工事が行われている薬師寺を敬遠したとか。

 ところが、入江泰吉さんの写真集で見たり、薬師寺の年中行事の1コマをテレビニュースの映像で見たりして、いつの間にか自分の目で見たつもりになっていたのだ。

 学生時代以来だとすると、幾星霜である。

 以下の引用は亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』の一節であるが、書かれたのは太平洋戦争中の昭和18(1943)年。だが、私が訪れた復興前の昭和40(1965)年頃の様子も、これとたいして変わらなかったはずだ。

 「薬師寺は由緒深い寺であるにもかかわらず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。…… 金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽が甚だしい。…… 周囲にめぐらした土塀も崩れ、山門も傾き、そこに蔦がからみついて蒼然たる落魄(ラクハク)の有様である」。

 「西塔はすでに崩壊して、わずかに土壇と礎(イシズエ)を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている」。

 1300年前の金堂、講堂、西塔などは、或いは台風によって打ち壊れ、或いは兵火によって焼け落ちて、歴史の彼方に失われてしまった。亀井勝一郎氏が見た崩れた金堂や講堂は、ずっと後の時代に仮に建てられた建造物である。

 ところが、ただ一つ、東塔のみが白鳳時代のままの姿を保って、1300年間、ずっとここに立ちつづけたのだ。

 学生時代、私たちは、何かで読んで、西塔の跡の礎石の窪みに溜まった小さな雨水に東塔の姿が映るのを見て、廃墟・無常の感慨を抱いたりしたのである。ただ一つ残った塔は、1300年の歳月に思いを馳せる滅びの美学の象徴であったのかもしれない。

  (東塔)

 塔はヨーロッパにも中国にもある。しかし、このような様式 ─ 五重塔とか三重塔 ─ は、日本独自のものと言われる。唐や百済の技術者グループの手を借りながらも、古代日本の美意識が創り出した塔である。

 薬師寺の塔は各層に裳階(モコシ)をつけて六層に見えるが、実は三重塔。

 はるか上空に水煙があり、飛天が笛を吹いていたが、残念ながら1300年の歳月に耐えられず、水煙だけは新しいものに取り換えられた。

 フェノロサが最初に言ったとか、それ以前からある普遍的な言葉だったとか、諸説があるが、とにかく多くの人がこの塔を見上げて、「凍れる音楽」という形容を思い浮かべたのである。

      ★

<閑話1 ─ 1300年前の石の建造物>

 よく、ヨーロッパは石の文化だから残り、日本は木の文化だから残らない、と言われる。

 しかし、ヨーロッパに、1300年前の建築物が、ほぼ完全な形で、どれほど生きた姿をとどめているだろう。薬師寺の東塔は、薬師寺という寺の一部として今も生きており、ピラミッドや秦の始皇帝の陵墓のような考古学の対象ではない。

 1300年前と言えば、西洋はフランク王国のまだメロヴィング朝の時代だった。その時代につくられた建造物で何が残っているだろう?私たちがヨーロッパ旅行に行って見るロマネスクやゴシックの大聖堂は11世紀以降のものだ。

 フランスの地方のロマネスクの大聖堂を訪ねた時、聖堂の壁の石材が古びて、もろくなり、一部がぼろぼろと剥落しているのを目にして、驚いたことがある。このことは、井上靖の小説『化石』の中にも出てくる。石材も、千年もすれば朽ちることがあるのだ。

 (トゥルニュの修道院)

 1300年前と言えば、西アジアではイスラム教が生まれ、東へ西へ猛烈な勢いで膨張していた。アフリカ北岸を西へ西へと進んだ一派は、さらに地中海を渡ってイベリア半島を征服し、ピレネー山脈を隔ててフランク王国と対峙した。

 遥かに遠い古代ギリシャの石の文化は、今は巨大な石柱がゴロゴロと草花の中に転がっているばかり。立っているのは、近代になって、往時の姿を復元してみようと、組み立てられたものだ。

 それでも、シチリアの海に臨む丘の上のセリヌンテの遺跡は美しかった。地中海から吹く風が頬をなで、廃墟の美があった。

 (シチリアのセリヌンテの神殿)

 今もほぼ完全な姿で残っているのは、古代ローマの建造物である。例えば、ローマのパンテオン、或いは、サンタンジェロ城。サンタンジェロ城は中世に改造され教皇のための要塞になった。しかし、元はローマの5賢帝の一人、ハドリアヌス帝が、皇帝の霊廟として造ったものだ。後世に城塞として使われるほどに、頑丈そのものである。

 (ローマのサンタンジェロ城)

 ローマ帝国の建造物が堅固なのは、石というよりもコンクリート製だから。そういう意味では、ローマ帝国というのはたいしたものなのだ。しかし、もちろん、今も当時のままに息づいているわけではない。

       ★

  (西塔)

 西塔は新しい。創建当初のように鮮やかな丹と金色の飾り金具に彩られて、白鳳の美はこのようであったのかと、よくわかる。

  (回廊の外から写す)

      ★

<東院堂の仏たち>

 回廊の外、東塔の東側に東院堂がある。吉備内親王が元明天皇(女帝)の冥福を祈って発願し建立させた。

 今、遺っている建物は鎌倉時代に再建されたものだが、国宝となっている。

 また、本尊の聖観音菩薩も、白鳳時代の国宝。この菩薩様は、写真家の入江泰吉氏の写真集をめくっていて、薬師寺の仏様の中で最も美しいお顔かも知れないと思った。特に横顔が端正である。

 本尊の菩薩を囲むように立つ四天王像は、鎌倉時代の重文。私は、如来像や菩薩像よりも、四天王像 (持国天、増長天、広目天、多聞天) や風雪を耐えた個性的な高僧のお顔や姿が好きである。

      ★

<踏切のある休ケ岡八幡宮>

 南門を出ると、休ケ岡八幡宮がある。薬師寺を守る神社であった。

 (休ケ岡八幡宮)

 この神社の神像は魅力的だが、今は博物館に納められている。

 参拝して、鳥居を出ると、踏切があった。

 遮断機が降り、近鉄電車がごとごとと通り過ぎて行った。

 踏切を渡って振り返ると、踏切越しの神社の杜もなかなか趣があってよい。少なくとも、高速道路や新幹線が走る高架などよりは、のどかでいい。

  ★   ★   ★

<閑話2 ─ 白鳳伽藍の復興のこと>

 薬師寺のホームページを見ると、昭和43(1968)年、管主の高田好胤和上が「物で栄えて心で滅ぶ高度経済成長の時代だからこそ、精神性の伴った伽藍の復興を」と訴え、単に寄付を求めるのではなく、写経して1巻千円の納経料を寄付するという取り組みを始められ、百万巻を目指して全国を行脚された。その精力的な活動の結果、昭和51(1976)年に目標を達成して、金堂が落慶された。

 さらに志は引き継がれて、西塔、中門、回廊、大講堂、食堂と、白鳳伽藍の主要な堂塔が復興され、白鳳の美が蘇った。

上野誠『万葉びとの奈良』から 

 「薬師寺で私が見てほしいのは、復興された伽藍の景観である。われわれは、奈良時代の寺院が朱塗りの華やかな建物群であったことをつい忘れてしまっているからだ。そういう目で、白鳳伽藍の東塔と1981年に再建された西塔を見比べてほしい。平城京の時代の人なら、東塔の方に違和感を持つだろう」。

      ★

<閑話3 ─ 内裏や貴族の邸宅は純和風>

 平城京の中がすべて、薬師寺の白鳳伽藍のような色彩で彩られていたわけではない。

 当時の官寺は唐風建築。中国に新興の宗教である仏教が入ってきたとき、建物をどうするかということで、当時の役所の様式が使われ、そのまま受け継がれた。当時、最も立派な建築物は行政府の建物だったから。

 一方、わが国において、帝が日常に居住し政(マツリゴト)を行う内裏の建物や貴族の邸宅などは、飛鳥時代以来、奈良時代、平安時代を通じて、純和風だった。その様式は、平安時代の10世紀頃 (藤原道長や紫式部の頃) に一つの完成形をみた。学校の歴史で習う「寝殿造り」である。

 出家した人の世界である寺は、唐風で、瓦葺き、朱塗りの柱、壁と土間があった。

 一方、藤原摂関家の東三条殿や、道長が婿入りした左大臣家の土御門殿は、敷地面積が120m四方。北の対、東の対、西の対、そして中心に寝殿と呼ばれる部分があり、寝殿の南側は庭。遣り水が引かれ、池があり、池の中には島があって、長い廊下でつながる釣り殿があった。

 唐風寺院建築に対して、和風建築の特徴は、屋根は檜皮葺き(ヒワダブキ)だった。檜皮葺きの屋根は日本にしかないそうだ。柱は白木壁はなく、土間もなく、高床式である。

 壁がないから、外界との隔てとして、格子に板張りした上下2枚の蔀(シトミ。)があった。しかし、ふだんは下は取り外していることが多く、上は昼間は上げていた。ゆえに冬は相当に寒い。あとは御簾(ミス)や几帳などの建具しかなかった。ちなみに冬の暖房器具は、炭を熾した火鉢のみ。

 この和風様式は江戸時代まで続く。江戸時代の途中から、檜皮葺きは高価で贅沢。贅沢はやめようという将軍様のお触れで瓦葺きになった。それでも、今も、神社で見ることができる。博物館の展示や史跡としてではなく、今日まで生きた姿で存在し続けている。

      ★

<閑話4 ─ ルネッサンスの教皇たち>

 話は飛躍する。薬師寺と直接には関係ない話だ。ただ、─ 檀家などない薬師寺が、幾百万の人々の写経・納経による寄進によって、白鳳伽藍を再建し、奈良の一画に美しい空間を再生させた。人々の写経は金堂の上層の納経蔵に納められている ─ そういう薬師寺の復興という今の世の出来事から、ヨーロッパのルネッサンス期の教皇たちのことを連想した。

 私はオンラインの文化講座で、東大助教の藤原衛先生の「西洋中世史」のお話を2年間に渡って聴講し、この3月で終了した。その最終回は「ルネサンスとルネサンス教皇」。

 教会大分裂(1378~1417)を経て、やっと教皇庁がローマに帰ってきた時、ローマの町はすっかり荒廃し、古代ローマ時代には100万都市と言われた人口も、2~3万人に減っていたという。廃墟と化した古代ローマの残骸に雑草が生い茂り、放牧が行われていた。今のローマからは想像できない。

 そこに、悪名高き10人の教皇が次々に就任する。

 ある教皇は子が9人もいたという。教皇様に隠し子が9人もいたと聞くと、私も驚き、思わず笑ってしまった。また、ある教皇は教皇庁の領土を守るために、自ら甲冑を身に付け軍隊を指揮して戦場に出たという。

 そして、何と言っても悪名高きは、贖宥状(免罪符)の発行。贖宥状を売って民衆から膨大なカネを集め、自らは贅沢三昧の暮らしをしたと、遠い昔、世界史で習ったような …。

 だが、藤原衛先生のお話は少し違う。その一方でルネッサンス教皇たちは、古代ローマ時代の道路や橋、人々に水を供給するローマ水道を蘇らせ、城壁 (いつの時代でも、人民にとっても、安全保障は大切なのだ) を修復し、今日のローマの原型を築いたという。教皇様が帰ってきて、安全であれば、人々も帰ってきて、物作りを再生し、商売も盛んになってくる。

 さらに教皇は、サンタンジェロ城を要塞化し、教皇宮殿やサン・ピエトロ大聖堂を建て、図書館を大改造して今も貴重な書籍を収集し、ルネッサンス画家たちのパトロンになってシスティーナ礼拝堂を美しく飾らせた。フラ・アンジェリコ、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエロらに活動の場を与え、また、多数の人文主義者を登用して今の教皇庁の原型となる行政事務局をつくり上げた。

 (サン・ピエトロ大聖堂)

 私も、かつて、ヴァチカン宮殿の美術館に入って、1日や2日ではとても見切れない名画や美術品を見て回り、ただ圧倒されるばかりであったことを覚えている。

 (ヴァチカン美術館のラファエロの絵)

 そういえば、あの歴史作家の塩野七海さんも、30代の前半に『神の代理人』という傑作を書いていた。この本の中で、塩野さんもまた、ルネッサンス教皇を擁護、弁明している。

 隠し子が9人もいると聞いたら思わず笑ってしまうが、品行方正、清廉潔白だけでは、危機下のリーダーは務まらないのだ。

 ルネッサンス教皇たちは、彼らの大事業の資金として、確かに贖宥状(免罪符)を発行して、人々から喜捨を集めた。

 人生の中で誰しも償いきれない罪を犯す。法に触れるような罪ではなく、心の罪だ。年とともにそれが思い出され、心が痛む。人々は自分の罪を償うために巡礼に出、或いは断食して、神に祈った。だが、働き盛りで一家を養わねばならぬ人、さらに病人や老人には、巡礼も断食もままならない。

 そこで、神の代理人(教皇)の代理人である神父の前で、告解し改悛することをセットにして、喜捨を受け、贖宥状を出した。ただカネを得るために贖宥状という紙切れを売りつけたわけではない。これは、教会法に則った正当な行為であったと、藤原先生はおっしゃる。

 しかるにドイツでは、マインツ大司教が、大道芸人のような奇抜な歌と踊りを見せものにして人々を集めさせ、告解・改悛なしに贖宥状を売りまくって、私腹を肥やした。

 その結果、1517年、ルターの宗教改革が起こった。宗教改革はドイツ圏に起こり、フランスやイタリアやスペインでは起きていない。

 悪名高きルネッサンス教皇は、とてつもなくタフでエネルギッシュで、ルネッサンスからバロックの時代を創り出し、ローマを再生させ、時代を前へ進めた。

 歴史の中の出来事や、歴史に登場するリーダーたちを、品行方正とか清廉潔白などという基準で善悪に分け、裁いていては、人間も、人間の営みがつくり出す歴史というものも、見えてこない。

 そういうことを藤原衛先生や作家の塩野七海さんから教えられた。

 廃墟だったローマに人々が戻ってきた。キリスト教世界からはじき出された(当時は特にスペインから)ユダヤ人に、ローマに住むことを許したのもルネッサンス教皇だった。病気になったら、ユダヤ人の医師に診てもらっていたという。人々の祭りが蘇った。その山車のために、教皇様はいつも金一封を出して、どうも教皇庁の窓から祭りをのぞき、楽しんでいらっしゃるみたいだ、そう人々はうわさし合った。

   (了)  

 

 

 

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早春の薬師寺へ (その1)

2024年04月17日 | 国内旅行…心に残る杜と社

 (薬師寺の金堂と二つの塔)

<早春の西の京へ>

 東大寺二月堂のお水取り(3月1日~14日)の頃、薬師寺では平山郁夫画伯が描いた「大唐西域壁画」の特別公開がある。今年こそはと思って出かけた。

 ウィークデイの良いお天気で、大和路の春も間近と感じさせる日和だった。 

 近鉄の大和西大寺駅で乗り換える。近くに、南都七大寺の一つ、律宗の西大寺がある。少し歩けば、復元された平城宮の大極殿もある。

 乗り換えて近鉄橿原線で南下し、西ノ京駅で降りると、薬師寺は駅のすぐ前の広い一画だ。

 駅名のように、このあたりは「西の京」だった。

 「天子は南面する」という。昔、中国において、天子は北極星に喩えられ、南面して座した。臣下は北面して拝礼する。

 今から1300年の前、唐の長安をモデルとして造られた平城京も、帝が居て政(マツリゴト)を行う平城宮は都の北端の中央にあり、宮殿の南門である朱雀門から、朱雀大路が南へ一直線に通って、平城京の正門である羅城門に到った。

       (高御座 タカミクラ)

  (復元された朱雀門)

 帝が高御座に座して南面すると、朱雀大路の左側が東(若草山の方)、右側が西(生駒山の方)になる。「西の京」である。

 法相宗薬師寺は、西の京の、一条、二条と南へ進んだ六条に建造された(藤原京から移された)。やがて、すぐ北隣に、律宗を伝えた鑑真和上の唐招提寺も造られる。

 今、薬師寺は、回廊に囲まれた二つの区画があり、北の区画は玄奘三蔵院伽藍、南の区画は白鳳伽藍。

 金堂や大講堂、国宝の東塔や西塔などが建つのは白鳳伽藍。

 白鳳 (白鳳時代或いは白鳳文化) は、乙巳(イッシ)の変(645)のあと、天智天皇から、天武天皇、持統女帝を経て、元明女帝の平城遷都(710)までの時代と文化を言う。都は飛鳥京や藤原京に置かれた。

    平城京遷都のあとは、天平時代或いは天平文化と呼ばれる。

 薬師寺は、藤原京の時代に建立され、平城遷都とともに平城京に移ってきた。基礎は白鳳の時代につくられたので、お寺の側も白鳳文化としている。

 今日の目当ては「大唐西域壁画」だから、先に玄奘三蔵院伽藍へ向かった。

      ★

<遥かなる西域への旅路>

 ウィークデイの午前のこと、観光客の少ない清浄な雰囲気の境内を行くと、やがて回廊を巡らせた玄奘三蔵伽藍が見えてくる。

   (玄奘三蔵院伽藍)

 回廊の門の正面から回廊の中をのぞくと、小ぶりだが品のある玄奘塔が見えた。

  (玄奘塔)

 回廊の門の脇にある受付から中へ入った。

 玄奘塔の後ろに、大唐西域壁画殿がある。

 (玄奘塔と大唐西域壁画殿) 

 この一画は、平成3(1991)年に整備・建立された新しい建物群だ。

 玄奘塔は、唐僧の玄奘三蔵を祀る。

 大唐西域壁画殿は、玄奘三蔵の遥かな旅路を描いた壁画を納める建物。壁画を描いたのは、現代日本画の大家である平山郁夫さんである。

 ここは、玄奘三蔵を記念して造られた一画なのだ。

 『西遊記』の話はよく知られている。孫悟空、猪八戒、沙悟浄が、三蔵法師を守って、魑魅魍魎や妖怪と戦いながら、インドへと旅する冒険譚だ。

 その玄奘三蔵は実在した唐代初めの僧侶(602~664)である。27歳のとき、隋が滅び新王朝が興ったばかりの混乱の中で鎖国状態だった唐を密出国した。そして、灼熱のタクラマカン砂漠や極寒の天山山脈を越え、ついにインドのナーランダ寺院に到って、修学した。その後、再び長い旅路を経て、多くの経典や仏像などを唐へ持ち帰った。唐を出てから17年の歳月が流れていた。

 帰国後は唐の皇帝の全面的な支援の下、全国から集められた優秀な若い弟子たちと共に、持ち帰った1335巻の経典の翻訳作業に生涯を捧げ、また、地理的な記録である「大唐西域記」を著した。今、私たちが耳にするお寺のお坊さんのお経にも、玄奘三蔵の訳があるそうだ。

 玄奘三蔵の教えは弟子の慈恩大師によって「法相宗」として大成する。

 さて、当時の日本、…… 乙巳の変のあとの653年、遣唐僧として入唐した道昭(629~700)は、まだ健在であった玄奘三蔵に師事し、帰国に当たって玄奘三蔵の翻訳した経典とともに「法相宗」の教えを持ち帰った。

 南都七大寺のうち、この法相宗の教えを伝える寺が薬師寺と興福寺である。薬師寺にとって、玄奘三蔵は開祖と言っても良い存在なのだ。

 平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」は、玄奘三蔵がインドへの旅の途中で見たであろう景色を、7場面、13枚に描いた、全長49mの大壁画である。画伯自身が玄奘三蔵が旅した地に取材し、17年の取材の旅を経て描いた大作である。

 写真撮影はできないから、絵は紹介できない。

 私は、花鳥風月を描いた日本画や美人画などはともかくとして、東山魁夷と平山郁夫の絵は、セザンヌやマチスやシャガールなどの西洋絵画以上に好きである。(好みの話で、優劣の話ではない)。東山魁夷はヨーロッパを、平山郁夫はシルクロードを日本画の中に内包して、瞑想と、静謐さ、そして、ロマンを感じさせる。

  (画集)

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<食堂(ジキドウ)のもう一つの旅路>

 玄奘三蔵院伽藍を出て、本来の順路とは逆になったが、後ろ側の受付から白鳳伽藍に入った。

 薬師寺の見学の本来の順路は、南から南門を入り、さらに回廊の中門をくぐる。

 回廊の中へ入ると、一瞬に視界が広々と開ける。正面には金堂。右に東塔、左に西塔が建つ。金堂の後ろに大講堂 (さらに後ろには食堂) が配置されている。一寺に2塔は薬師寺が初めてとか。「薬師寺式伽藍配置」 ─ 遠い昔、日本史で習ったような気もする。

 今回は後ろから入ったから、最初に出会った白鳳の建造物は食堂(ジキドウ)だった。

  (食堂)

 約300人の僧侶が一堂に会する規模だという。

 それにしても、東大寺や法隆寺など、奈良の古くて落ち着いた、枯淡の趣のある寺々を見慣れた目には、いきなりの華やかな色彩。だが、派手過ぎるということではなく、落ち着いた色調が印象的だった。このような色彩が、1300年前の平城京の中にあった。

 堂の中には、田渕俊夫画伯が描いた14面、50mに渡る壁画「仏教伝来の道と薬師寺」が公開されていた。

 平山郁夫の大唐西域壁画は、玄奘三蔵のインドへの遥かな旅路を描いたもの。

 それ対して、こちらは、中国に伝えられた教えが、遣唐使船による命がけの旅の結果、入唐僧によって日本に伝えられ、飛鳥京から藤原京、平城京へとうつりつつ、仏教文化の花を咲かせた旅路が描かれている。

 もし当時も食堂にこのような壁画があったならば、食堂で食事をとる学僧たちも遥かなロマンの思いを抱いたことであろう。

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<大講堂 … 官寺は今の国立大学>

 奈良の古い寺には講堂がある。

   薬師寺で最も大きい建造物は大講堂。数多くの学僧が法相教学を学び、また、議論した。その伽藍の姿は雄大で美しく、眺めていて心が落ち着く。

   (大講堂)

上野誠『万葉びとの奈良』(新潮選書)から

 万葉学者の上野誠さんは、「官寺は、寺院といっても、学問所であり、今日でいえば国立大学に当たる」と書いておられる。

 明治政府が西洋文明を取り入れるために、次々に帝国大学を設立していったのに似ている。

 中世ヨーロッパにおいても、ゲルマンの王権が確立していく過程で、滅亡したローマ帝国時代のラテン語を受け継いでいるカソリック教会や修道院が学問の府となった。

 「各寺院には、それぞれに得意な研究分野があり、寺院ごとに学派を形成した。東大寺は華厳経の経典研究を中心とした学派を形成したし、薬師寺や興福寺は法相教学の学派を形成したのである。これは、今日の『宗派』とはまったく異なるものであり、僧侶はそれぞれの寺院に赴いて、それぞれの学派の師から自由に学ぶことができた。この気風というものは、今日にも受け継がれていて、南都の僧侶は、宗派に関係なく互いに学び合う気風がある」。

 大講堂には、国宝の仏足石と仏足跡歌がある。

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<壮麗な姿で建つ金堂>

 大講堂を表側に出ると、視界が広々として、後ろ姿であるが金堂と二つの塔がカメラの広角の範囲に収まった。(冒頭の写真)。

 金堂は、言うまでもなく薬師寺の中で最も大切な伽藍で、昭和51(1976)年、最初に再建された建造物である。裳階(モコシ)が付けられ、早春の空へのびやかに建ち、気品があって美しい。

 再建に当たっては、宮大工の西岡常一さんを棟梁とし、伝統的な工法を使って創建当時の姿を再現した。

  (前から見た金堂)

 上層部分には納経蔵があり、薬師寺の伽藍再建のために浄財を寄付して写経・納経した百万巻のお経が納められている。

 堂に入ると、正面に薬師寺の本尊が祀られていた。白鳳時代の作とされ、国宝。中央に薬師如来、両脇に日光菩薩と月光菩薩が立つ。

 上野誠さんは、「私は薬師像を見るたびに …… ほんとうに人を救うことができるのは、こういう自らに対する自信と安らぎが満ちあふれた顔をもった人物であるだろうと(思う)」と述べておられる (『万葉びとの奈良』)。

    薬師寺の歴史を紐解けば、680年、天武天皇が皇后の鵜野讃良(ウノノササラノ)皇女(ヒメミコ)、(後の持統女帝)の病い平癒を祈って発願された。后(キサキ)の病いはまもなく平癒するが、天武天皇は薬師寺の完成を待たずに崩御。天武のあとを継いだ持統天皇の697年に本尊の薬師如来の開眼が行われ、さらに次の文武天皇のときに堂宇が完成した。実に3代に渡った大事業だった。

 710年、元明女帝のときに平城遷都が行われ、薬師寺も平城京の右京に移された。このとき、薬師寺が解体され、仏像とともに平城京に運ばれたのか、平城京に新しく造られたのか、意見が分かれるようだ。

 本尊が置かれた台座の模様も興味深かった。写真撮影は許されないが、食堂のそばの建物にレプリカがあった。

 大陸の遥か彼方から流れ流れて、さらに海を渡り、このユーラシア大陸の果ての島国に伝えられてきた文明の「実」を感じることができる。「実」は椰子の実の「実」である。

 

 台座の框(カマチ)には、ギリシャ由来の葡萄唐草模様やペルシャ由来の蓮華模様が描かれ、四面の北に玄武、東に青龍、西に白虎、南に朱雀。その四神の上には、窓の枠の中に裸形の異人。白虎も龍のようにデフォルメされて表現されている。(その2へ続く)

 

 

 

 

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