ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

三四郎の池 (本郷②) … 東京を歩く5

2023年07月17日 | 東京を歩く

      (赤  門)

<「嗚呼玉杯に花うけて」>

 根津神社に沿って権現坂を上がって行くと、本郷通りに出る。

 権現坂通りの北側は根津神社のある文京区根津。南側は文京区弥生。

 江戸時代、南側は水戸家の中屋敷だった。大名屋敷だから、町の名はなかった。

 明治の初めに「向ヶ岡弥生町」という町名が付けられた。

 その後、3人の学生がこの付近で土器を発見した。町の名を取って弥生式土器と名が付けられた。

 以下、『本郷界隈』から。

 「弥生は、いうまでもなく3月の異称である。奈良時代には、すでにあった。弥(ヤ)は、「いや」である。弥栄(イヤサカ)というようにますますという、プラスに向かう形容で、生(オイ)は「生ひ」で、生育のこと。草木がますます生ふるということである。弥生という稲作文化の象徴のようなことばをもつ町名から、稲作初期の土器が出て、弥生式土器となづけられた。まことにめでたいといわねばならない」。

 こうして弥生町は、日本列島史の中に「弥生時代」と呼ばれる大きな時代区分をつくることになった。

 その向ケ丘弥生の地に、東京大学の予備門として、第一高等学校がつくられた。

 昭和10年に、一高は駒場に移転し、代わりに駒場にあった東大農学部がこちらへ移転してきた。

 今、東大の弥生地区には、グランド、地震研究所のほか、東大農学部がある。

 向ケ丘の名も、文京区向丘として、文京区弥生の西側にある。

 一高の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」に、「向ケ丘にそそり立つ五寮の健児意気高し」と歌われている。

 私の高校時代、 ── もちろん、戦後の学制改革による高等学校で、旧制中学校と高等女学校を母体にしている ── 所属したクラブでは皆でよく歌を歌った。自分たちの歌詞集があって、その中に世界の民謡(フォークソング)などとともに、旧制高等学校の寮歌や応援歌も入っていた。「紅萌ゆる丘の上」(三高)や「都の西北」(早稲田)などは、今でも歌うことができそうだ。

 私は高校を卒業するまで城下町の岡山に生まれ育った。その頃、市民の中にまだ旧制第六高等学校(六高)の風韻が残っていた。私の高校の制帽は、全国でも珍しい角帽だった。

 文化祭が終わった夜、仲間と白緒の高下駄 (町の人は「六高下駄」と言っていた) を履いて、旭川のたもとを、放歌高吟して歩いたこともあった。学校に見つかれば、当時でも、停学処分は免れなかっただろう。

 東京では新宿に歌声喫茶「ともしび」ができた。地方都市にも、そういうことは伝わってきていた。ラジオが媒体だった。東京の大学に行ってみようかと思うようになる、ごく小さなきっかけの一つだったかもしれない。

 農学部の正門前を通り、言問い通りを渡ると、弥生から本郷に地名が変わる。そして、東大の大部分の学部や東大病院は、言問い通りをはさんだ本郷の側にある。

 (本郷通り)

       ★

<加賀藩の名残りを留める赤門>

   東大の正門前を一旦、素通りして、赤門までやって来た。

  (赤 門)

 『本郷界隈』から ── 「本郷の東大敷地が、江戸時代の加賀前田家の上屋敷だったことは、よく知られている」。

 「前田家は百万石といわれているだけに、本郷台の上屋敷はじつに広大だった。金沢を本拠とし、越中富山10万石の前田氏を分家とし、さらに……大聖寺7万石の前田氏をも分家にしている。江戸のこの本郷の加賀藩邸は、富山藩邸や大聖寺藩邸を隣接させて、3つの前田氏が一つ地域にいた」。

 ただ、江戸末期の安政地震(1854~55)によって、加賀藩の上屋敷も壊滅した状態で、そのまま維新を迎えたらしい。

 「それを明治初年、文部省が一括買い上げた」。

 この屋敷跡に、明治9(1876)年、まず現在の医学部が移ってきて、以後、順次、西洋風に構内が整備されていった。

 今、加賀前田藩の名残りを留めるのは、赤門と、三四郎の池を中心とした庭園跡ぐらいである。

 文政10(1827)年、11代将軍徳川家斉の息女溶姫(ヤスヒメ)が前田家に嫁いできた。

 『本郷界隈』から ── 「将軍家から降嫁した奥方の場合、奥には住まず、御守殿(ゴシュデン)とよばれる独立した一郭に住むのである。門も建造される。慣例として丹(ニ)に塗られた。現在、東京大学に遺っている赤門である」。

   「赤門」は東京大学の代名詞になっているが、将軍家からやって来た奥方のために建てられた御殿の門だった。それで、あでやかな朱なのだ。

 今は重要文化財で、正門は別にある。

 赤門のそばの塀から、桜があでやかにのぞいていた。「ああ、玉杯に花受けて … 」。

 (赤門の横の桜) 

      ★

<東大構内へ>

 赤門は閉ざされていたので、正門まで引き返した。

 正門の中に、警備員の制服を着た人が3、4人立っているのが見えた。近くにいた人に、「三四郎の池を見学したいのですが、入ってよいでしょうか??」と聞いてみた。

 「建物の中に入らなければ、構内は自由に歩いていいですよ」。こちらの年恰好を見てか、笑顔で「ご近所の方でも、散歩コースにして、毎夕、歩いている方もいますよ」と付け加えた。

   (芽吹いたばかりの本郷構内)

 三四郎の池を見に来るのは、2度目である。

 学生時代、東京見物はしなかったが、三四郎の池だけは見に来た。多分、そのときに湯島天神も訪ねた。

 今回は、時代が時代だから、一応、警備員に入ってよいか尋ねた。国立大学とはいえ、私の私有地ではないのだから断るのは当然だ。

 学生の頃は、東大の構内に入るのに何のためらいもなかった。そもそも制服を着ているわけではないから、他校の学生と区別のしようがない。

 あのときは、三四郎の池だけ見て、こんなものかと思って、帰った。私の大学にも似た池があった。構内の建物の印象はほとんど残っていない。

 年を経て、こうして落ち着いて構内を歩いてみると、私が卒業した大学の校舎や、子どもの頃から見慣れた岡山大学の木造、一部、コンクリート打ちの校舎と比べて、さすがに立派なものである。並木の樹齢にも年輪を感じた。

 以下、『本郷界隈』から。

 「江戸時代の本郷は、このあたりをいくつかの大名屋敷が占拠しているだけで、神田や日本橋、深川といったような街区の文化は、本郷にはなかった。

 それが、明治初年に一変する。

 ここに日本唯一の大学が置かれ、政府のカネがそそぎこまれたのである。勅任官の教授から雇員の門衛にいたるまですべてその給料は国庫から出る。そうした人たちが数千人もいたのである。その上、多額な研究費や営繕費、また医学部附属病院の設備費やら消耗品の費用などがこの構内にそそぎこまれた」。

 「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。同時に、下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした。いわば東京そのものが、"文明"の一大機関だった。

 大学に限っていえば、『大学令』による大学は、明治末年に京都大学の各学部が逐次開設されてゆくまで、30余年間、東京にただ一つ存在しただけで、そういうことでいえば、配電装置をさらに限っていえば、本郷がそうだった。

 文明受容の方法は、政府と大学に多数の外国人を"お雇い"としてやとうというやり方でおこなわれた。同時に留学生を欧米に派遣し、やがては外国人教師と交代させるというやり方をとった」。

  「明治政府が雇った外国人の俸給は欧州で評判になるほど高いものだったようで、このため争って優秀な人材が日本に来た。というより、東京に集まった。さらにいえば、本郷に集中した。その高額過ぎる俸給は、当然ながら国家予算を圧迫した。当時の日本は江戸時代に引き続いてコメ農業を主とする国で、外貨の獲得に役立つものといえば、生糸ぐらいのものであり、まことに貧しかった」。

 例えば、明治36(1903)年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)に代わって、英国留学から帰国した夏目漱石が一高と東京大学の英文学講師に採用されている。このとき、学生たちは小泉八雲の留任運動を起こした。小泉八雲の講義は学生たちを魅了する名講義だったようだ。

 この時代の東大の威厳というものは、朝ドラの『らんまん』を見ていてもわかる。矢田部良吉教授は、幕府の蘭学者の父の下で子供の頃から西洋の教育を受けた。明治に入って、アメリカに留学し、コーネル大学に合格した。

 彼は、東大の植物学教授として、創造的な研究業績には乏しかったかもしれないが、「配電盤」としての役割は十分に果たしたに違いない。

     ★

<三四郎の池> 

 三四郎の池へ向かった。

  (三四郎の池)

 前田家が本格的に園地を大築造し始めたのは、寛永15(1638)年からといわれている。池のほとりに説明パネルが設置されていた。以下、その概略。

 当時、江戸諸藩邸の庭園中第一と称せられた。育徳園と命名され、園中に八景、八境の勝があって、その泉水、築山、小亭等は数奇を極めたとも言われる。池の正式名称は「育徳園 心字池」だが、夏目漱石の『三四郎』以来、三四郎池で親しまれている。

 『本郷界隈』には、「池はあらためて掘られたのか、それともすでにそこに生活用の泉があったのが広げられたのか、おそらく後者にちがいない」。

 「拡張した池の土をまわりに盛り上げて山々が造られ、数百年を経た。池畔に立つと、実に幽邃(ユウスイ)な趣がある。踏み石がいくつか、池心にむかっている」。

 当時 (三四郎が上京した明治40年頃) の東大は、欧米と同じように9月始まりだったようだ。上京したばかりの三四郎は、夏休み中の人気のない東大を訪れ、同郷の先輩で物理の研究をしている野々宮さんを訪ねる。野々宮さんは、地下室のような暗い所で、一人、光の圧力に関する実験をしていた。(のちに、三四郎は、研究者としての彼は日本でほとんど知られていないが、むしろ欧米で評価されていることを知る)。野々宮さんの地下室を出た後、三四郎はこの池のほとりまで歩いてきて、そこにしゃがんで自分の生き方について漠と考える。野々宮さんのように浮世を超絶して、学問・真理の世界に生きる生き方もある … 。すると、池の向こうの丘の上に女性が二人立った。一人は看護婦だが、もう一人は色鮮やかな和服姿。団扇と一輪の花を手にしている。二人は話しながら三四郎のいる方へ降りてきて、三四郎のそばを通って行く。通り過ぎる時、女は手していた花を落としていった。美禰子との最初の出会いである。

 以来、「三四郎の池」と呼ばれるようになった。いい名である。

<司馬遼太郎の『三四郎』論>

 司馬遼太郎は『本郷界隈』の中で、『三四郎』について以下のように言う。

 「当時、大学は東京の本郷に一つしかなかった (厳密には、2番目の大学である京都帝大がこの時期発足早々だった)。高校は全国に8つしかなく、それぞれ東京帝大の予科的な存在になっていた (※旧制高校は、今の四年制大学の教養課程に当たる)。三四郎は熊本におけるその予科段階(第5高等学校)を卒業し、大学課程に入るべく汽車に乗っている」。

 「『三四郎』という小説は、配電盤にむかってお上りをし、配電盤の周囲をうろつきつつ、眩惑されたり、自分をうしないかけたりする物語である。明治時代、東京が文明の配電盤だったという設定が理解できなければ、なんのことだかわからない。主題は青春というものではなく、東京(もしくは本郷)というものの幻妙さなのである。 …… その意味で、明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」。

 漱石の『こころ』は、明らかに文明論である。激しい勢いで近代化(西洋化)していく日本社会のその奥で、人はどのようになっていくのだろう?? 漱石はそれを、最後に「先生」が自殺するというかたちで具象化した。

 漱石という作家が、例えば自然主義の作家たちと違う点は、そういう現代文明の奥にあるものを凝視しようとする目を持っていたことだろう。

 それでも、『三四郎』は、『坊ちゃん』から出発して、『こころ』に到る前の段階の、やはり青春小説だと思う。

 だが、初めて『三四郎』を読んだ10代の終わりの私は、三四郎がその青春の中で出会った「東京(もしくは本郷)というものの幻妙さ」 ── 近代というもの ── を読みとろうとはしていなかった。

 その近代文明の幻妙さを具象化したヒロインが、美禰子なのだろうと、今は思う。

 

      

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薮下(ヤブシタ)の道 (本郷①) … 東京を歩く4

2023年07月09日 | 東京を歩く

  (しろへび坂)

 石段の上の手すりに、文京区作成のパネルが掛けられていた。「ふるさと景観賞─ しろへび坂」。ちょっと気色の悪い名だ。

 「上中下の三段から成る階段状の坂道は、区内に残る急峻な地形を今に伝えています」とある。

 なるほど、特に急な個所に石段を敷設した坂道が、建物の間を細く蛇行して下っている。

  ★   ★   ★

<鷗外記念館>

 武蔵野台地の東の端が、湯島台や本郷台である。

 江戸時代の村の名が残って、今の住所表示は「文京区湯島〇丁目」とか「文京区本郷△丁目」となっている。

 遥かに遠く遡って ── 縄文海進の頃、この辺りの台地の東側には海が入り込んでいた。縄文人にとって、この台地は、近くの海で魚や貝がとれる一等地だった。文京区だけでも、縄文遺跡が28カ所も発見されているそうだ。

 奈良に住む私は、古代に遡れば、わが大和こそ「国のまほろば」だと思っていたが、湯島台地や本郷台地に残る日本列島人の足跡は遥かに遠くて古い。

 その後の気候変動で、海は後退して湿地になった。

 江戸時代、湿地は埋め立てられていき、不忍池だけが取り残される。

      ★ 

 ── さて、司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』である。

 「本郷台の東の縁辺の台地を歩いてみた。このあたりも、"海"に向かって、急勾配をなしている。その坂の上に、森鷗外が住んでいた」。   

 「その坂」とは、団子坂である。

 東京メトロ千代田線の「千駄木」駅から地上に出ると、「団子坂下」の道路標識があった。

 『本郷界隈』を片手に、団子坂のゆるやかな坂道を上っていく。

 (団子坂の道路)

 鷗外が散歩した明治の風情はどこにもない。車の行き交う車道と、それに沿う歩道と、ビルと、商店や事務所。日本国中のどこにでもある町の風景である。

 しばらく歩くと、信号機の横に「団子坂上」の標識があった。

  (団子坂上の標識)

 もう少し坂を上ると、道路の反対側にちょっと風変わりな建物があった。設置されたパネルから、ああ、これが鷗外記念館だ

  (鷗外記念館)

 鷗外の旧居の跡地は文京区の所有で、この記念館も文京区立である。

 この辺りの地図を示したパネルがあった。

 (文京区設置のマップ)

 名にし負う文京の区であるから、この近くには、鷗外旧居跡の他にも、夏目漱石の旧居跡があり、ほんの少し範囲を広げれば坪内逍遥、正岡子規、樋口一葉らの旧居跡もある。もちろん、旧居そのものが残っているわけではない。

 鷗外記念館の入り口は、団子坂の車道に面していない。玄関は、記念館の角を南へ入った小道に面してあった。パネルに「根津神社➡」と記されている小道である。

 この小道を根津神社へたどり、さらに東大構内の三四郎の池へと歩くのが、今回のウォーキングの目的である。

 (鷗外記念館の表門)

 記念館と同じように、鷗外の旧居も東向の、人通りの少ない小道に面していた。その時代には、谷中から上野の方を望むことができたに違いない。

 旧居は当初、平屋だったが、のち2階を建て増しした。その2階から、何と品川の海が見えたそうだ。それで、鷗外はわが家に『観潮楼』という名を付けた。(団子坂も、別名、潮見坂という。海が見えたのだ)。

 『本郷界隈』に曰く、「鷗外にとって潮というのは、海外という意味もこめていたかもしれない。彼は明治17年以来、4年間ドイツに留学し、この引越しの4年前に帰ってきた。その後も、"西洋"をのどもとまで浸すという濃密な日々を送った。いうまでもなく、ドイツ医学の日本化と、西洋から渡来した美学と文学を自己のものにするための日々である。観潮楼という語感は、単なる漢詩文趣味を超えたものであったろう」。

 近代文学史に「観潮楼歌会」という言葉が出てくる。鷗外がこの2階で開いた歌会の名称である。アララギ派の伊藤佐千夫、明星派の与謝野鉄幹、それに佐々木信綱、後には石川啄木や斎藤茂吉らの新進気鋭も参加した。 

      ★

<しろへび坂>

 『本郷界隈』には、この辺りの地形を説明した鷗外自身の文章も紹介されている。

 「団子坂上から南して、根津権現の裏門に出る岨道(ソワミチ)に似た小径がある。これを薮下の道という」(森鷗外)。

 岨道(ソワミチ)とは山の険しい道。旧居の前は、当時、岨道を思わせるような素朴な小径だったのだろう。

 「(薮下の道の)崖の上は向ケ丘から王子に連なる丘陵である。そして、崖の下の畠や水田を隔てて、上野の山と相対している」(森鷗外)。

 『本郷界隈』は言う。「要するに、薮下の道は、…… 武蔵野台地が尽き果てる崖に添う道である。左側が、ときに谷になっておちこんでいる」。

 鷗外記念館の玄関前の細い道が、「薮下の道」である。

 そこに立つ令和の時代の私の眼下には、鷗外が書いたような「畑や水田」はなく、また、その向こうに「上野の山」も見えない。

 ただ、『本郷界隈』が「ときに谷になっておちこんでいる」と言う光景はあった。

 現在の「崖の下」の景色が、冒頭の写真の「しろへび坂」である。

  (しろへび坂)

 「武蔵野台地が尽き果てる崖に添う道」であることは実感できる。あちこちを、地形、地学的視点で見て回る『ブラタモリ』みたいだ。

 冒頭に紹介した文京区のパネル「ふるさと景観賞─ しろへび坂」には、「坂の上から望むと、建物の狭間にスカイツリーが姿を現します」という一文も添えてあった。

 この説明を読まなければ、なかなか気づかないだろう。

 カメラのズームを望遠にして撮ってみた。ビルの間にスカイツリーがあった

(ビルの狭間のスカイツリー)

     ★

<三四郎と美禰子の道>

 鷗外記念館には入らない。

 『街道をゆく 本郷界隈』の中で私が一番興味深く読んだのは、「薮下の道」の章である。今回のウォーキングの目的は、この小径をたどってみることにある。

 『本郷界隈』によると、鷗外に『団子坂』という短編があるそうだ。

 若い男女が人気のない小道を話しながら歩いていく。話は二人の会話だけで成り立っている。若い男は大学生で、若い女はヴァイオリンケースを持っているからお稽古返りのお嬢さん。

 ここでは二人の話の内容は省略するが、その中で、若い男が「三四郎が何とかいう、綺麗なお嬢さんとここから曲がったのです」と言うのである。

 鷗外の作品の中の登場人物が、漱石の作品の中の登場人物のことを話題に出す。司馬さんも面白がっているが、私も愉快に感じた。なにしろ、明治を代表する二人の文豪である。

 森鷗外が『団子坂』という小品を書いたのは明治42年。その前年に夏目漱石の『三四郎』が『朝日新聞』に連載された。『団子坂』の主人公は『三四郎』を読んでいて、三四郎と美禰子が歩いた道を歩いているのだ。

 そこで、司馬遼太郎の『本郷界隈』も、この小道をたどる。

 心ひかれて、私も歩く。

  (薮下の道)

 団子坂の自動車道路から一本中に入っただけなのだが、人気のない静かな小道である。

 ただ、鷗外が書いているような田舎の小径ではなく、今はすっきりと舗装されて歩きやすい。

 まだ花びらを少しばかり残した桜の木や新緑がみずみずしい静かな住宅街の道だ。だが、高級住宅街のような所ではなく、ごくふつうの東京の庶民の家々が並んでいる。歩いてゆくと、区立の中学校もあった。

 通りから右手の丘に上がる脇道もあったが、その先で住宅は切れて、藪になってい

た。

 歩いて行っても、三四郎と美禰子が歩いたような野の広がりや小川が流れる風景はなかった。

 (薮下の道)

 それでも歩いて、感じることが大切なのである。

 『三四郎』を読んだのは18~19歳ごろだったか??

 じっくりと読んだわけではない。さっとストーリーを追っただけだった。あの年齢の頃、何かを探し、やみくもに求め、いろんなものにぶつかっていた

 もう少しゆっくりと歩いたほうがいい、と、今の私は当時の私に呼びかける。人より先に行こうとか、あせって結論を求めるとか、そんなことより、時々立ち止まって周りの景色を楽しみながら、ゆったりと歩いて行けばいいんだよ。

 主人公の三四郎は23歳。満年齢なら22歳。熊本の第五高等学校を卒業して上京し、東京帝大に入る。上京する途中、宿で1泊し、2日間列車に揺られてやっと東京に到るような明治40年頃の話である。九州の眠ったような田舎から出てきた青年は、西洋に追いつこうと激しく動く東京の中で、大学やその周辺にいる人々と出会い、とまどい、生き方を模索する。出会いの中には女性もいる。ヒロインの名は美禰子(ミネコ)。三四郎と同年齢ぐらいの魅力的な東京の女性である。

 『三四郎』を読んだ頃の私には、三四郎のとまどいや模索がピンとこなかった。読みながら退屈した。

 ただ、美禰子という女性は魅力的だと思った。「コケティッシュ」という言葉が頭に浮かんだのを覚えている。とても魅力的だが、しかし、好きにはなれなかった。

 それから後、学生時代に『こころ』をはじめとする漱石作品を読んだ。特に『こころ』は強いインパクトがあった。そのテーマ性の強さに比べ、『三四郎』という作品は、『吾輩は猫である』などと同列の淡々とした作品だと思い、長く忘れてしまった。

 『本郷界隈』で語られる「美禰子」像も、若い日の私が思い描いた美禰子像と大差ないように思う。こういう美禰子像が一般的な見方なのだろう。

 「漱石の『三四郎』についてふれておく。主人公たちが、団子坂に菊人形を見物にゆくくだりが出てくる。迷子が出るほどの雑踏であった。… 雑踏で気分がわるくなった女主人公の美禰子が、三四郎を人気のない小道へ誘う」。

 「小川が、流れている。やがて根津にぬける石橋のあたりまできた」。

 「美禰子は、人目のない道に入ってから、『迷子の英訳を知っていらしって』と問う。『教えてあげましょうか』と言って、ストレイ・シープという言葉を、三四郎の胸のなかに投げこむのである」。

 ストレイ・シープ(迷える羊)は、新約聖書に出てくるイエスの言葉である。もし1匹の羊が迷い出たとき、羊飼いは99匹を山に残して、迷える1匹を探しに行かないであろうか。神の愛とは、そのようなものである。

 (その頃の私は、福音書の話は知っていた)。

 美しく、教養もある美禰子は、自分を「迷える羊」だと言って、初心な三四郎の心をひきつける。

 コケティッシュな女だと、若い日の私は思った。魅力的だが、好きにはなれない。

 だが、読んだのは遠い日のこと。そういう理解でよいのだろうか?? というわずかな引っ掛かりが、当時の若い私の心にあったような気もする。

 上に引用した『本郷界隈』のアンダーラインは私が施したのだが、この司馬さんの言い方では美禰子は「悪女」になってしまう。美禰子に対してちょっときびしすぎるのではないかと感じた。美禰子が悪女なら、三四郎は被害者になってしまう。それでは、三四郎の青春まで侮辱することにならないか??

 私自身、著者の漱石よりも相当に年上になった。今、読み直したら、美禰子という若い女性は私にどのように映るのだろうか??

 『三四郎』を読んだ若い日もなつかしく思われ、この道を歩いてみたかった。

 ほどなく、日本医科大のそばを通り、根津権現の裏門に出た。

      ★

<根津神社(根津権現)>

   神仏習合の江戸時代には、根津権現と呼ばれた。その境内は、のちに6代将軍になる家宣の邸があった所。家宣は叔父である5代将軍綱吉の養嗣子となり、江戸城に移る。その邸跡に、綱吉の命で、団子坂上に鎮座していた根津権現が移された。

 権現造りの社殿7棟はその頃のもので、今は重要文化財。

 ご近所に住んだ森鷗外は、根津神社の氏子だったそう。

 裏門から入ると、新緑のみずみずしい丘の上に摂社の乙女稲荷神社があった。結婚式の前か後のようで、新郎新婦らしい男女も見えた。朱の美しい雅やかな神社である。

  (乙女稲荷神社)

 西門のあたりも、透塀が通って瀟洒で、時代劇に出てきそうな景観である。

  (西門と透塀)

 根津神社はつつじの名所らしい。一つの丘がつつじの木で埋まっていた。今は4月初旬だから、満開にはほど遠い。 

  (池のつつじ)

  (楼 門)

 裏門から入って、朱と緑の美しい境内を歩き、表門から出た。

 楼門も堂々としている。

 『本郷界隈』は言う。

 「根津権現の社殿その他は、権現造り優等生のようなつくりである。桃山文化が生んだ神社建築で、ほどよく重々しい」。

 「境内に、池がある。根津権現の池は東大構内の三四郎池と同様、本郷台地の地下水脈が湧きだしたものであるらしい」。

 関東地方の台地では、「井戸を掘りぬく(筒状に掘削する)技術は中世末期までみられなかったといわれる」。

 「平安時代の武蔵の国では、地表をひろく掘りはじめてスリバチ状にし、底に湧いた水を汲むというふうだったそうである。掘りかねるということから、『ほりかねの井』といわれた」。

 「根津の池や三四郎池は、ひょっとするとほりかねの井が、たまたま豊富な水脈にあたって大きく湧出したものかもしれない」。

 「いずれにしても、中世以前の武蔵人にとって、いのちの水である」。

 「この地が、江戸時代に甲府中納言(6代将軍家斉のこと)の屋敷になったり、そのあとが神社になったりする以前から池を中心に神聖な場所だったのではないか」。

 司馬さんは文献的な根拠はないと断っているが、私もこの考えにとても共感する。

 初め、鬱蒼とした木陰に小さな社と、神を祀るために水を汲む泉があった。その後の屋敷も、神社も、それらを取り込みながらつくられたのであろう。

 それでは、三四郎の池に行ってみよう。

 

 

 

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湯島の白梅(湯島②)…東京を歩く3

2023年06月26日 | 東京を歩く

  (湯島天神の境内)

 湯島天神は、湯島の聖堂のすぐ北にある。湯島聖堂を見学したついでに、湯島天神へと歩いた。

 遠い昔、学生の頃、この天神社を一度訪ねたことがある。

<「湯島の白梅」>

 私の少年時代はまだテレビがなく、ラジオからよく流行歌が流れていた。聞くともなく耳にしているうちに、いつの間にか覚えてしまった歌もある。

 そういう一つが「湯島の白梅」。

 どんな歌詞だったかとネットで検索してみた。すると、ちゃんと出てきた。まだカラオケで歌う人がいるようだ

 歌の題もなかなか粋(イキ)である。

 歌手は小畑実と藤原亮子。その1番と3番の歌詞。

1 湯島通れば 想い出す/お蔦主税(チカラ)の 心意気/知るや白梅 玉垣に/残る二人の 影法師

3 青い瓦斯(ガス)燈 境内を/出れば本郷 切り通し/あかぬ別れの 中空に/鐘は墨絵の 上野山

  (境内の瓦斯灯)

 歌詞から、境内に瓦斯灯があったことがわかる。

 歌の当時のものではないだろうが、今も瓦斯灯はあった。

 司馬遼太郎『街道をゆく』から、

 「木々のなかに、瓦斯(ガス)灯もあった。瓦斯灯は、明治の文明開化の象徴というべきもので、街路や公園の夜をあかるくしていた。説明によると、湯島天神の境内にも何基かあったそうである。瓦斯灯があればこそ主税(チカラ)はお蔦をここへよび出せるのである」。

      ★

<湯島天神の境内で>

 もう一つ、遠い日の記憶がある。

 学生の頃、文京区の大塚にあった大学の教室で、近代文学史の講義を聴いていた。少壮気鋭の先生の話は活力があって面白く、話が明治の文学者・泉鏡花に及んで、少々脱線して、婦(オンナ)系図』の有名なシーンにふれられた。

 有名な、と書いたが、「湯島の白梅」の有名なシーンを、大学生の私はそのとき初めて知ったのだ。

 泉鏡花の『婦系図』が発表されたのは明治40(1907)年。翌年には、新派劇として演じられ、大いに評判を呼んだらしい。

 新派劇は歌舞伎に対する「新派」で、題材を現代に取り、人々の哀歓や情緒を描いた大衆的な演劇である。

 『婦系図』の主人公は、新進のドイツ文学者の早瀬主税(チカラ)。柳橋の芸妓お蔦と2世を契る仲になっていた。ところが、大恩ある大学教授酒井に知れ、別れろと言われる。孤児であった主税は酒井教授にひろわれ、今日まで息子のように育ててもらった。酒井教授は主税の将来を思い、また、主税と兄妹のようにして育った娘が主税を慕っているのを知っていたのだ。主税は先生の命に抗しがたく、お蔦に別れ話をする。

 新派劇では、お蔦をよび出した場所が、湯島天神の境内ということになっている。もちろん菅原道真を祀る神社だから梅の木がある。特に白梅の名所だった。

 別れ話を切り出したとき、初めお蔦はこう言う。「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」。

 大学の講義の中で先生の話がお蔦のセリフに及んだ時、私の頭の中には、講義の本筋よりもこのシーンが鮮やかに残ってしまった。

 湯島天神、早春に咲く清楚な白梅、「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」 …… 江戸文化の「粋(イキ)」とは、こういうのを言うのだろうか。

   そして、別の日に、大学からそう遠くないこの神社に行ってみた。行ってみると、当たり前のふつうの神社だった。主税とお蔦をわずかに想像して帰った。

 今回初めて訪ねた湯島聖堂のついでに、湯島天神を再訪した。

 境内に泉鏡花の筆塚があった。

 筆塚とは、寺小屋や家塾の師匠の死後、弟子たちがその遺徳をしのんで建てた記念碑のことだそうだ。碑の作成にかかわった文学者らの名も刻まれていた。

 (境内にある鏡花の筆塚)

      ★

<日本人の心の中の美>

 『婦系図』(湯島の白梅)は、戦前、戦中、戦後、5回も映画化されている。

 初回は昭和9(1934)年で、女優は田中絹代。 

 2回目は、太平洋戦争が始まってまだ戦勝気分の昭和17(1942)年。主演は長谷川一夫と山田五十鈴。大作だったようだ。このときに、主題歌「湯島の白梅」も作られた。

 3回目は戦後の昭和30(1955)年。主演は鶴田浩二と山本富士子。美男美女である。

 昭和37(1962)年の市川雷蔵主演を最後に、映画化はされていない。さすがに、話の筋が時代遅れになり、人々を映画館に呼び寄せられなくなったのだろう。

 実は私も泉鏡花の『婦系図』を読んでいないし、映画も観ていない。私の世代では、話の筋にちょっとついていけない。

 あらすじを読むと、このあと、二人はきっぱりと別れる

 そういう二人の心の芯にあるものは何だろう?? 「義理」を大切にする心。或いは、「(江戸っ子の)心意気」??

 作者の泉鏡花には、当時の結婚制度に対する怒りがあったのかもしれない。

 ただ、主人公がお蔦と別れた後の展開は相当に奇想天外で、最後は悲劇的な大団円を迎える。あまりリアリティはない。

 だが、それでも湯島天神、白梅、お蔦と主税は、粋である

 別れるか、別れないか、どちらが正しいかという「正しさ」のことではない。それは時代によって変わってくる。現代を基準にして、彼らの選択を非難してもあまり意味はない。

 ただ、このシーンを美しいと感じる美的感覚は今もなお日本人の心の中に緒を引いて残っているようにも思われる。

      ★ 

<神名を問うなど>

 「いうまでもなく湯島の社(ヤシロ)は、菅原道真をまつる天神の社である。文和4(1355)年、郷民によって建立されたという。文和4年といえば室町幕府初代の足利尊氏のころで、南北の争乱のさなかだった」。

 司馬遼太郎はこう書いているが、社伝によれば創建は遥かに古い雄略天皇の2年で、天之手力雄命(アメノタヂカラヲノミコト)を祀った神社だったそうだ。その後、1355年に菅原道真を合祀したとする。ゆえに、祭神は、天之手力雄命と菅原道真の2柱である。

 武蔵の国は鎌倉武士団の国だから、高天原(タカマガハラ)の一番の力持ちであるタヂカラヲノミコトの方がふさわしいかもしれないと、勝手なことを考えた。

 祭神については、以前も当ブログに引用したが、司馬遼太郎のエッセイ集『この国のかたち』の第5巻に「神道1~7」がある。

 「神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(イワネ)の大きさをおもい、奇異に感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 また、伊勢神宮について書いた項に、次のような1節がある。

 「何事の おはしますかは 知らねども 辱(カタジケナ)さの 涙こぼるる 

という彼 (注:西行) の歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎(イツ)かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

 そのように考えれば、タヂカラヲノミコトとか菅原道真という人格神よりも、「昔からこの地におわす神様」とか、「湯島の神様」と言って手を合わせた方が清々しいように思う。

 ただし、これは私の感性であって、信心はそれぞれの心のままにである。

      ★

<歴史の中の菅原道真のこと> 

 湯島天満宮、通称湯島天神は、江戸、そして東京における代表的な天神社である。

 醍醐天皇の御代の901年、右大臣菅原道真は左大臣の藤原時平らの讒訴によって、太宰府に左遷されたという。(→現代の歴史学では、誰の意図で、なぜ左遷されたかについて、時平或いは藤原氏の謀略説には疑問が出されている)。そして、903年、道真はその地で没した。

 909年、左大臣の藤原時平が39歳の若さで病死。

 その後から、時平の死は、讒訴された道真の怨霊のせいだという噂が、どこからか広がった。(→もちろん、現代の歴史学は怨霊のせいにはしない。病死である。時平家をつぶすために意図的に流されたという説もある)。

 923年、醍醐天皇の東宮・保明親王が薨去し、これも道真の怨霊のせいではないかと人々は恐れた。(→もちろん、怨霊のせいではない)。そのため、朝廷は、死せる菅原道真を右大臣に復して、彼の名誉を回復した。

 だが、930年、宮中の清涼殿に雷鳴とともに落雷があり、死傷者も出た。人々は道真の怒れる怨霊のせいだとし、それを気に病んでか、醍醐天皇までも薨去した。(→もちろん、落雷は自然現象であって、怨霊のせいではない)。

 947年、朝廷は菅原道真を北野天満宮に神として祀った。また、その後、正一位太政大臣の位を贈って、道真の神格化を一層進めた。天の神、天神の誕生である。

 私たちの世代は、「894年、菅原道真、遣唐使廃止。その結果、国風文化が興る」とならった。しかし、現代の歴史学では、遣唐大使に任じられていた道真が、唐に内乱が勃発したことを知り、遣唐使の「延期」を奏上しただけだとする。その後、唐は滅亡し(907年)、遣唐使はなし崩し的に廃止された。そもそも、遣唐使を廃止したから国風文化が興ったという因果関係も疑問視されている。

       ★

<変遷する神様> 

 太古の昔から、日本人は自然の中に神々を感じ、祀ってきた。川には水の神様、田を守り、豊作を願う神様、海には海人の神様、航海の目印になる岬や無人島にも神は祀られた。

 台風をもたらす風の神や水害を起こす雷の神も、これを鎮めるために全国津々浦々に祀られていた。

 そこへ、都から「天神」という人格神的な、皇室も恐れる神の話が伝わってきた。

 そこで、今まで風の神や雷の神を祀っていた神社は、祭神を天神に変えて北野天満宮の傘下に入っていった。「このことが天神信仰を全国化させた」(武光誠『知っておきたい日本の神様』)のである。

 初め、天神は祟る神、怒る神、雷の神として全国に広がった。天災を起こす神であり、また、鎮めて五穀豊穣を願う神であった。

 ところが、江戸時代になり平和が続くと、学問が盛んになる。すると、菅原道真が学者の家系であったことが思い出され、学問の神様として尊崇されるようになっていった。

 特に湯島天満宮は湯島聖堂のお膝元。多くの学者や文人、学問を志す若者が参拝するようになった。

 江戸時代は商業も盛んになった。都市部では近くの天神社に商人・町人の参拝者が増えていき、次第に商売の神様になっていった。天神祭りで有名な大坂の天満宮などは、町人たちの手で発展した神社である。

 そして、今、学問の神様は、学問成就よりも前に、受験の神様となった。湯島天神の参拝者は子どもから受験生の親まで、全体に平均年齢が若いように思う。修学旅行生も参拝に来るそうだ。

 もともと温厚な人柄の菅原道真は、祟(タタ)る神、怒る神、雷の神とされていたとき、ずいぶん迷惑であり、不本意であったろうと思う。 

 今は学問の神様となり、受験の神様になって、喜んでいらっしゃるに違いない。

      ★

<湯島天満宮に参拝する> 

  (湯島天神の門前)

 『街道をゆく』によると、江戸時代、門前には岡場所があったそうだ。

 鳥居は銅製で、江戸時代前期の造り。

   (銅の鳥居と拝殿)

 「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり"富くじの興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた」。

 「岡場所といい、富くじといい、いわば江戸の大衆性が反映して、社殿につややかさを加えているのかもしれない」。

    (右が拝殿、左奥が本殿)

 今回、何十年ぶりに参拝していちばん驚いたのは、合格祈願の絵馬の数の多さである。

 

 (おびただしい合格祈願の絵馬)

 全国のどこの神社でも、たとえば我が家の近くの龍田大社でも、秋口からだんだんと合格祈願の絵馬が増えていくが、これほどの圧倒的な数は見たことがない。高校、大学の合格祈願だけでなく、中学校や小学校の合格祈願もある。

 神様、どうか寄り添ってあげてください。

      ★

<旧岩崎邸のこと>

 湯島天神のすぐ北に旧岩崎邸がある。

   (旧岩崎邸)

 本郷台の東縁で、東京大学のすぐ南に隣接する。

 建てたのは、岩崎弥太郎の嫡男の久弥(1865~1955)。

 戦後、米占領軍に接収され、その後、財産税の物納により国の財産になった。

 「設計は、神田のニコライ堂を設計した英国人ジョサイア・コンドルである」。木造2階建ての上にドームが載っている。「浮薄でなくてぜんたいに華やいでいるあたり、コンドルにとって会心の作だったにちがいない」。

 「"和館"とよばれている書院造りの建物もあり、… 明治の記念建造物であるにふさわしい」。

 なお、この地には幕末まで榊原家の江戸藩邸があった。大河ドラマ『どうする家康』に登場する徳川四天王の一人、榊原康政の子孫である。

 

 

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昌平坂学問所(湯島①)…東京を歩く2

2023年06月14日 | 東京を歩く

  (孔子を祀る大成殿)

 以下も、司馬遼太郎の『街道をゆく37 神田界隈』を引用しながら書いていきます。

      ★

<神田の「地の利」は湯島の聖堂>

 「江戸の地形で言うと、本郷台が小さな起伏をくりかえしつつ南にのび、湯島台にいたり、神田川に足もとを削られている」。

 神田川が流れているのは、湯島台と神田駿河台の間を深く削った人工の渓谷で、深い渓に清流が流れ、その風景は江戸名所の一つとなっていた。

 「江戸の昔は、昌平橋 (今の架橋場所より、やや上流) ひとつが、湯島神田駿河台をむすんでいた」。

 (聖橋が架橋されて、2つの台地が最短距離でむすばれたのは、関東大震災のあとである)。

 神田駿河台を下り、昌平橋を渡って、昌平坂を上がると、湯島の聖堂があった。

 そこは、初め、将軍に侍講した儒学者・林家の私塾であった。

 幕府の学問所になった (つまり官設になった) のは、江戸時代も後半に入ってからである。高校の日本史で「昌平坂学問所(昌平黌)」とならった。今の日本史の教科書に登場するのかどうかは知らない。

 「湯島に聖堂があったればこそ、神田川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商がさかえたのである」。

 そういう地の利が神田にはあったのだ。

      ★

[将軍家の侍講にすぎなかった] 

 戦国を生き延び天下をとった徳川家康は学問するゆとりはなかった。その分、2代将軍秀忠には、儒学者の林羅山を侍講させて勉強させた。

 3代将軍家光のとき、林家は今の上野公園の一角に屋敷地を与えられた。林家はその地に学問所を開き、孔子を祀る廟も建てた。

 ただし、これはあくまで林家の私塾である。徳川幕府は幕臣(旗本・御家人)の教育を各家に任せていたから、諸藩における藩校のようなものは開設しなかった。

 林家は将軍のいわば家庭教師のような存在に過ぎなかった。 

[湯島の聖堂の誕生]

 世の中が安定した元禄の時代、好学の将軍5代目綱吉は、林家に湯島の地6千余坪を下賜して、孔子廟を建てさせ、自ら「大成殿」と名づけた。

 林家はこの湯島の地に家塾を移し、学寮も興した。

 江戸の人々はここを「湯島の聖堂」と呼ぶようになる。

[官学の学問所の開設]

 1790年、11代将軍家斉のとき、湯島の聖堂は敷地が倍に広げられて、幕府の官学所となり、昌平坂学問所(昌平黌)と名づけられた。

 林家は既に学問が衰えていたから、教授陣には全国から指折りの朱子学者が迎えられた。

 「昌平」という名は、孔子(BC551~479)がうまれた郷村の名である。

    朱子学を幕府の官学としたのには、政治的背景があった。老中松平定信による寛政の改革である。

 改革と言っても世の流れに逆行する改革で、実際、失敗に終わった。

 松平定信は前任の老中田沼意次の商業主義的な改革を批判し、商いやカネを悪とする極端な農本主義政策をとって、人々に質素倹約の生活を要求した。定信は優れた読書人であったが、彼にとって読書・学問はまず儒学であったから、紀元前5、6世紀の孔子が思い描いた「村落国家」を世の理想として描いていたのかもしれない。理想主義者は往々にして観念のなかで理想を強化し、ついにはそれを強引に実現しようとする。

 定信は、学問の分野においても「寛政異学の禁」(1787年)を出した。「異学」とは朱子学以外の儒学のこと。

 信長や秀吉は城下町を整備して商いを奨励した。徳川の世になり、世の中が治まると、商いは一層盛んになる。すると、人々は物事をモノやコトに沿ってありのままに見、とらえようとするようになる。

 儒学の世界でも、元禄の頃から一種の人文科学的な思考と方法をとる荻生徂徠の古文辞学派などが興ってきた。

 定信はこれらを排斥して、道学的な朱子学を官学としたのである。

 かくして、湯島の聖堂と昌平坂学問所は、幕末に到るまで、長く日本の漢学の最高権威であり続けた。

      ★ 

<湯島の聖堂を見学する> 

 湯島の聖堂のある一角は、明治以後、今も国有地である。

 古風で重厚な練り塀に囲まれた敷地内は、古木が生い茂り、森閑としていた。

   (練り塀)

 練り塀の一部が開けられて門となり、入り口に郭内の見取り図が掲示されていた。出入りは全く自由のようだ。

  (郭内絵図)

 郭内は大きく2分されている。東側の斯文会館では、今でも儒学や史学などの漢学の講義が行われるらしい。私が学生であった昔、大学に、著名な漢学者であった鎌田正教授がいらっしゃったが、こちらの講師陣でもあったことを、今回、『街道をゆく』で知った。

 斯文会館の方は見学せず、西の大成殿の方へ向かった。

  (練り塀と石畳の通路)

 訪れる人や見学者にも、めったに出会わない。東京の都心の一角とは思えないほど、しんとした別世界である。

 入徳(ニュウトク)門をくぐる。

   (入徳門)

 「高々とした石段をのぼって、杏壇(キョウダン)門に入り … 」。

  (石段の先に杏壇門)

    (杏壇門の奥に大成殿)

 「やがて孔子をまつる大成殿の前に出た」。

 

  (孔子を祀る大成殿)

 日本の神社などと違って、全体が墨を塗ったような色で、壮大で、威圧的な建物だった。

 論語の中で弟子たちと問答する孔子は、もう少し知的で、やわらない人物ではないかと思う。あるいは、孔子廟と言っても、朱子好みの建造物かも知れないと勝手なことを思った。

 今日は入れないが、曜日によって中にも入れるようだ。

 江戸時代の建物は関東大震災で焼失し、昭和10年に再建された。今は鉄筋コンクリート製だが、木造風の感じに再建されている。

 現在、大成殿と斯文会館の区画しか残っていないが、かつての昌平坂学問所の敷地は広大で、「大成殿を中心として学舎があり、また学寮があり、べつに文庫があり、さらに教官の住宅があった」という。

 「学生は原則として幕臣の子弟だった。別に書生寮があり、諸藩の者や浪人などを入学させた。俊才の多くはここから出た」。「当時すでに公開講座も併設されていたらしく、町の者も受講した」。

 とにもかくにも、江戸時代の日本の儒学の最高権威であった風韻がしのばれる一角だった。

      ★

<明治後の湯島の聖堂>

  幕末期、幕府は湯島の昌平坂学問所のほかに、神田に、二つの学問所を開設した。洋学の「開成所」と、西洋医学の「医学所」である。

 明治維新があり、それらは明治政府が接収し、引き継いだ。

 変遷ののち、「開成所」は東京大学の法・理・文の3学部に、「医学所」は東京大学医学部に発展した。

 東大の場所は、湯島のすぐ北、文京区の本郷台である。

 一方、昌平坂学問所は紆余曲折の末に廃止された。もともと朱子学では新時代において飛翔のしようがなかった。

 湯島の聖堂の敷地には、一時期、文部省、国立博物館、東京師範学校(のち、東京高等師範学校)、東京女子師範学校(のち、東京高等女子師範学校)が設置された。

 その後、文部省は霞が関へ、国立博物館は上野へ、東京高等師範学校と東京高等女子師範学校は文京区の大塚の地へ、それぞれ移転していった。

 東京高等師範学校(東京教育大を経て筑波大学)の宣揚歌の歌詞に「人も知る茗渓の水」という一節が登場し、また、東京高等女子師範学校が大塚の地にありながら、のちにお茶の水女子大学の校名を持つようになるのも、発祥の地が神田川の茗渓を前にした湯島の地であったことによる。

 なお、広大な跡地は、現在、東京医科歯科大学のキャンパスが大きく占めている。

        

 

 

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聖橋(ヒジリバシ)からニコライ聖堂へ(神田) … 東京を歩く1

2023年06月06日 | 東京を歩く

  このブログ、春には再開するとしていたのに、もう6月。そろそろ再開しなければと思っているうちに、4月、5月と月日は流れ、夏になってしまいました。

 ぼつぼつと書き進めていきますので、またご愛読のほどよろしくお願いします

 さて、今年の桜は早く、日本各地で3月中に満開を迎えました。

 桜が散った4月早々、司馬遼太郎の『街道をゆく36 神田界隈』『街道をゆく37 本郷界隈』の2冊をバッグに入れ、小さな東京旅行に出かけました。

 東京に在住の方には今さらと思われる内容ですが、東京に住んだことのない方、或いは私のように、遠い昔、学生生活を4年間だけ過ごしたが、その間も改まって東京見物などしなかったという方へ向けて、ささやかな東京紀行です。

 それにしても、2泊3日のうち歩いたのは真ん中の1日だけでしたが、ヨーロッパ旅行のときと同じく、てくてくと、よく歩きました。

   ★   ★   ★

<神田の古本屋>

 「神田」という地名を聞くと、私より少し年下の世代なら、フォークソングの「神田川」(南こうせつ)が思い浮かぶかもしれない。

 「貴方はもう捨てたのかしら/24色のクレパス買って/貴方が描いた私の似顔絵/巧く描いてねって言ったのに/いつもちっとも似てないの/窓の下には神田川3畳1間の小さな下宿 /貴方は私の指先見つめ/悲しいかいってきいたのよ」。

 私の学生時代は、この歌より10年ほども前。その頃は、まだ東京・大阪間の新幹線も通じていなかった。地方から出てきた学生にとって、「遠さ」の感覚は、今の学生がニューヨークとかロンドンに留学するのと変わらないぐらいだったかもしれない。

 時間がかかるというだけでなく、貧乏学生の身には旅費が大変で、それで一度上京するとなかなか帰省できなかった。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」である。

 「3畳1間の小さな下宿」だから、歌の主人公たちも貧しいが、私の時代の日本はさらにもう少し貧しかったと思う。安月給のサラリーマンの親が、財産は残してやれないが、せめて学歴だけはつけてやりたいと、月々、無理して送ってくれた仕送り。あとはアルバイトの収入で学生生活はかろうじて成り立っていた。手元に明日の食費(外食だった)がなくなり、授業をサボってアルバイトで日銭を稼いだこともある。新宿の繁華街はよく歩いたが、ポケットにお金がなかったから、青春の鬱屈を抱えながらただやみくもに当てもなく歩いた。

 だから、彼女と同棲したり、「24色のクレパス買っ」たりする余裕はなかった。

 それに、世の風潮ももう少しバンカラというか、ストイックだったように思う。

 「神田」と聞いて浮かぶイメージは、「古本屋の街」。と言っても、おカネのなかった私には縁遠い街だった。学者や作家が神田の古本屋巡りをしたというようなことをエッセイに書いているのを読んで、そういう人生の楽しみ方もあるのだと知った。

 それでも、大学3年の終わりごろ、神田の古本街の1軒で『国木田独歩全集』7巻を見つけ、知人に借金して思い切って買い求めて、卒論を書いた。卒業するためには卒論を提出する必要があった。

 あれから何十年もの歳月が流れ、今、改めて司馬遼太郎の『街道をゆく 神田界隈』を読むと、あの頃、たとえ貧しくとも、もう少し知的好奇心をもって東京という町を歩いておくべきだったと、自分の青春に忸怩たる思いも生じる。

 しかし、それも今の年齢になって思うことだなとも思う。

 さて、今回の小旅行は司馬遼太郎の文章を追体験してみようというのが目的だから、以下に書くことのほとんどは上記『街道をゆく』の2冊からの引用或いは要約である。本文中の「」も司馬遼太郎の文章の引用である。  

 引用は引用として明記して出典を明らかにすること。また、参考にした文献があれば、それも明記すること。こういうルールも、卒論を書くなかで学んだことだ。

      ★

<漢学者が気どって名付けた茗渓(メイケイ)>

 神田川は「三鷹市の井之頭池で湧き出た水を水源としている」。

 「上流が飲み水(上水)としてつかわれ、さらには江戸城の濠(ホリ)も満たした」。「家康の命で、いわゆる『神田上水』を工事したのは、大久保忠行である」。

 「家康入国以来、江戸でおこなわれつづけた土木工事は大変なものであった。一例をあげると、『神田御茶ノ水掘割(ホリワリ)』である。

   いま聖堂のある湯島台地(文京区)と、神田山(神田台・駿河台)とはもとはつづいた台地だったが、ふかく濠(ホリ)を掘ってこれを切りはなし、その人工の渓(タニ)に神田川の水を通したのである。

 現在の聖橋(ヒジリバシ)は、関東震災後、昭和3年にかけられた橋で、湯島台と駿河台をむすんでいる」。

  (神田川を渡る聖橋)

 「下はふかぶかと渓をなし、神田川が流れている。この掘削は江戸初期の工事である。施工いっさいは、仙台の伊達政宗がうけもったという」。

 「完工したのは約40年後の万治2年(1659)という大工事であった。…… 工事が終わって、歳月を経てみると、意外に美しい景観であることが人々にわかった。

 ふかく削られた崖には草木が生い茂り、人工の谷に清流が流れ、のちに建てられる湯島の聖堂がみえ、水道橋ちかくは石垣が組まれ、川に上水懸樋(カケドイ)とよばれた屋根付きの木橋が架設されている。いわば当時の都市美というべきものだった。

 やがて江戸名所の一つになり、多くの絵師によって描かれた。漢学者は気どって崖下を流れる神田川の人工渓谷を賞し、茗渓などと名づけた」。

 さて、引用はこれくらいにして ── 東京駅から中央線に乗って新宿方面へ向かうと、聖橋のある御茶ノ水駅を過ぎ、水道橋駅を通り過ぎるあたりに、「当時の都市美」の名残を見ることができる。

 ちなみに学生時代の私は、新宿の先の中野区、杉並区に下宿していたから、電車が水道橋駅のあたりにさしかかると、いつも、大都会の中にあって風光明媚な一角だと車窓の景色を眺めていた。勉強はしなかったが、風景を見るのはこの頃から好きだった。

 「茗渓」という言葉は、私が卒業した大学の宣揚歌にも登場し、また、同窓会名にもなっている。「漢学者が気どってそう名付けた」と司馬遼太郎は書いているが、戦前の旧制高等学校等の宣揚歌、逍遙歌、寮歌、応援歌などはみな漢語の多い七五調で、内容は唯我独尊、悲憤慷慨、そして星菫(セイキン)派的(星やスミレを愛する少女趣味的)な歌詞である。青春とはそういうものだ。

 青春は、私も含めてそれぞれに一生懸命なのだが、少し離れて見ると可笑しみがある。

       ★

<二つの聖堂を結ぶ聖橋(ヒジリバシ)>

 西から流れてきた神田川は、千代田区と文京区の境界をつくり、最後に台東区を横切って隅田川に注ぐ。

 千代田区の駿河台とその北の文京区の湯島台とを結ぶ橋が聖橋である。

 橋の名は公募で決められたという。

 橋の南側の神田駿河台の上にニコライ聖堂があり、橋を北に渡ると孔子を祀る湯島聖堂がある。この2つの聖堂を結ぶということから、「聖橋」と名づけられた。

(御茶ノ水駅ホームから聖橋のアーチ)

 関東大震災後の昭和2年(1927)に開通した。全長79.3m。鉄筋コンクリートのアーチ橋。

 江戸や大坂の街の中を流れる川も、ヨーロッパの都市を流れる川の多くも、かつては運搬船が行き来していた。鉄道が発達し、道路網ができる近代以前、物資の輸送は陸路よりも河川だった。

 神田川も船が航行していた。それで、船から見上げたときに最も美しく見えるようにデザインされたという。

 今、そのアーチを見るにはJR御茶ノ水駅のホームからが良いと何かに書いてあった。

 写真の橋の右手に緑がのぞく。湯島台に続く緑である。

 「JR御茶ノ水駅あたりから、聖橋をあいだに置いて湯島台をみると、丘を樹木がおおっている。梢がくれに湯島聖堂のいらかが見えるから、安藤広重の絵がしのばれぬでもない」。

 「しのばれぬでもない」というとおり、湯島の聖堂の杜も、林立するビルの中にあって緑はあまり目立たない。それでも、ないよりはずっと良い。宗派が何であれ、「鎮守の森」は貴重である。

 湯島の聖堂は明日歩くことにして、JR御茶ノ水駅を出て南へ、神田の街をニコライ聖堂の方へと向かった。

      ★

<文と武の学びの街だった神田界隈>

 「神田界隈は、世界でも有数な(あるいは世界一の)物学びのまちといっていい。

 江戸時代からそうだった。維新後もそうで、多くの私学(明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、東京理科大学、共立女子大学など)が神田から興ったことでもわかる。

 その理由は、江戸に、圧倒的多数の武士が居住していたというほかに、見当たらない。旗本8万騎と俗称される幕臣とその家族が、江戸住まいだった。それに300大名の藩邸がこのまちにあり、定府・勤番の家来が住んでいたから、100万をこえる江戸人口の半分近くが武士か、武家奉公人だった。

 かれらの子弟は、当然ながら学問と武芸を学ばねばならない。さらに地方から修学や練武のために江戸をめざしてくる者が多かった。

 それらの私塾がとくに神田に集中したのは、地の利によるものだったにちがいない。

 武のほうでいえば、江戸末期、神田於玉ケ池(オタマガイケ)にあった千葉周作の玄武館が代表的なものだったろう。流儀は、周作みずから編んだ北辰一刀流で、こんにちの剣道の源流のひとつになった」。

 「かれは剣術に、体育論的な合理主義をもちこみ、古来、秘伝とされてきた技法のいっさいを洗いなおして、万人が参加できる流儀を編み出した。剣術史上の周作の位置は、明治初年に柔術の諸流を再検討してあらたに柔道を興した嘉納治五郎に似ている」。

 「明治5年から10年ぐらいの時期までの塾の一覧表をながめていると、いまでもそこに通いたいような塾がある」。

 司馬遼太郎が、たとえば、として挙げているのは、中江兆民の仏学塾である。「兆民は官立の東京外国語学校校長であるかたわら、塾をひらいたのである」。

 実用のものとしては、「測量のしかたを教える普通測量学校や簿記を教える学校、あるいは顕微鏡のつかい方を教える学校があって、新しい時代の "手に職" という分野だったといえる」。

 「医師試験の予備校がふえてくるのは、明治15年ごろからである」。

  (神田の街)

 さて、今の神田は、大東京の一角を占める普通のビル街に思えるが、こうして由緒を知って歩くと、それなりにどこか洗練された趣が感じられる。

 神田駿河台2丁目にある「丸善」のお茶の水店で、ノートを買った。家の近所のスーパーの文房具売り場で見つからなかった手ごろなノートがあった。

 近くの喫茶店のテラス席でコーヒーを飲んで一服した。

                   ★

<東方正教会のニコライ聖堂>

 ニコライ聖堂はキリスト教の正教会(東方正教会)の教会である。正式名称は「東京復活大聖堂」というそうだ。

 西ローマ帝国の都ローマを本拠に、西ローマ帝国滅亡後も、西欧から中欧へかけて勢力圏を拡大していったのがカソリック(普遍的の意)教会。

 それに対して、東ローマ(ビザンチン)帝国の都コンスタンティノープル(今はトルコのイスタンブール)を本拠に、東ヨーロッパ諸国に広がっていったのが正教会(オーソドックス)。

 日本においては、幕末、函館のロシア領事館付きの司祭として来日したニコライ(のち大主教)によって初めて布教された。彼は、函館から東京に出て、明治17年にこの聖堂を起工した。

 「ニコライ大主教は、明治の日本人から好かれた。日露戦中も日本に踏みとどまり、露探などという低いレヴェルの中傷にも耐えた」。

 聖堂は関東大震災で大きな被害を受け、昭和4年(1929)に大改修されている。

 1962年に国の重要文化財に指定された。

  (ニコライ聖堂)

 高さ35mのタマネギ型のドーム屋根をもつビザンティン様式の聖堂。レンガ造り。駿河台の高台に建つ。

 これまでヨーロッパ旅行をし、行く先々でカソリックの大聖堂を見学した。また、ギリシャやトルコでは東方正教会の中にも入って拝観した。

 ヨーロッパの旅で、私が心ひかれたのは第一に街並み(風景としての街、街のたたずまい)。その次にその町の中心にある大聖堂。人々を含めてその建物の内部の雰囲気。

 お城や、王侯貴族の宮殿・邸宅なども見学したが、むやみに巨大であったり、永遠を誇ったり、豪華絢爛であったりする美学には、日本人である私には馴染めなかった。

 私は、どんな普遍的な宗教でも、或いは、普遍的であるためには、伝播されたその土地の風土や人々のものの見方、感じ方、考え方を取り入れていく必要があると考える。それは元のものからは大なり小なり変容するということだが、そうしなければ異郷の地に根付くことはない。

 今、日本人がイメージするキリスト教は、ヨーロッパに根付き、ヨーロッパ化した「キリスト教」である。それは、南欧や、中欧や、北欧の風土やその地の民俗に彩られたキリスト教である。そして、ヨーロッパ化されているからこそ、日本人には受け入れやすいのだ。

 同じように、今、日本に根付いたキリスト教も、日本人のキリスト教徒が意識しているかいないかは別にして、日本人のものの見方、感じ方、考え方で受けとめられた「キリスト教」である。欧米化されたままのキリスト教であるはずかない。

 明治の初めに多くの有能な人材を輩出した札幌農学校は、また、日本の初期プロテスタントの発祥の地であった。その地で、アメリカ人教師のクラークは生徒たちに「gentlemanであれ」と教えた。生徒たちはこれを「武士たれ」と理解したという。gentlemanは武士とイコールではない。だが、その精髄において、相呼応している。相呼応しながら似て非なるものである。

 普遍性をもつということは、こういうことである。

 そういう意味で、日本に根付いた東方正教会のニコライ聖堂に入って、その中を拝観してみたかった。

 だが、コロナの影響もあって、ミサの時以外は公開されていなかった。残念。

 ウィキペディアによると、リトアニア領事館領事代理として、ナチスから逃れるユダヤ人たちに多くのビザを発給したことで知られる杉原千畝は正教徒だったそうだ。また、西南戦争のときに兄に与せず、新政府中枢で活躍し続けた西郷従道の長男も正教会の信徒だったという。

      ★

 本郷通りに面するホテルに泊まり、夜、食事がてら聖橋から御茶ノ水駅あたりを歩いてみた。

  (夜の聖橋)

 聖橋の上から、JRと地下鉄の列車が上下3段に交差して走る様子が見え、面白かった。

 昼間、桜の花びらの筏を並べていた神田川は、闇の底に沈んでいた。

   (聖橋の上から)

 

 

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わがヨーロッパ紀行 … ドナウ川の旅・追記

2023年01月29日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

(ロードス島の聖ニコラス要塞の満月)

 ダイヤモンド・プリンス号事件が起きたのが2020年の2月。その2か月後に最初の緊急事態宣言が出た。

 突然、ヨーロッパは遠くなり、それから丸3年がたった。

 さらに2022年にはロシアのウクライナ侵攻。仮にコロナが完全に収束しても、関空からシベリア上空を飛ぶヨーロッパ直行便は、もうない。

 私のような高齢の人間には、コロナが5類になろうと海外旅行はためらわれる。

 それに、中東のドバイの空港ロビーで、若いバックパッカーのような一夜を明かす旅は、私の年齢では無理である。

      ★

<夢はいつも返っていった … エーゲ海のロードス島>

 最後にヨーロッパへ行ったのは、コロナ禍の前年の2019年5月。塩野七海の『ロードス島攻防記』に触発され、エーゲ海の東の果てに浮かぶロードス島まで遥々と行った。

(この島で10万のオスマン帝国軍を迎え撃った聖ヨハネ騎士団)

 その旅から帰った後、見るべきものはおおよそ見たという思いもあり、自分の年齢・体力のことも自ら自覚されるようになって、そろそろ私の旅も終わりにしなければ、という気もちをもち始めた。あと1回、それを最後に、私のヨーロッパ旅行を終わりにしよう。何事にも潮時というものがある。

 ところが、その最後の1回の行先もまだ決めかねていたとき、コロナ禍に入ってしまった。仕事はとっくにリタイアした身であるから、家に閉じこもるだけの日々が続いた。

 そうした日々 …… 最後に行ったエーゲ海の海の青と、微風吹くロードス島のことがなつかしく思い出されるようになっていった。

 (ロードスの市街)

 (海に臨むリンドスの遺跡)

 滞在中、夕方になると、ロードス島で3代続く家族経営のレストラン「ママ・ソフィア」で食事をした。その3代目の当主は日本に留学したことがあり、流暢に日本語を話した。

 最後の夕べ、お別れの挨拶をした。「明日はアテネに戻り、明後日の飛行機で日本に帰ります。ヨーロッパをあちこち旅してきましたが、こんなに美味しかった店はありません。私はもう年ですから、ロードス島を再訪することはないでしょう。お元気でこれからもお店を繁盛させていってください」。すると、彼は「また、きっとお元気なお顔を見せてください。お待ちしていますから」と言って、日本人よりも美しいお辞儀をして見送ってくれた。私には、「客」に対するというより、一家の年長者に対するような優しさと敬愛の心が感じられた。

 海岸沿いをホテルへ向かって帰る途中、微風吹くこの島へ、そして、「ママ・ソフィア」へ、もう一度来られたらいいなあと、心から思った。エーゲ海の日の暮れた空に満月が出ていた。

 伴侶の方は日本留学中に出会った日本人女性。観光しかないエーゲ海の島で、あの一家は、コロナ禍をどう凌いだろう??

 もう一度、あの海へ、そして、あの島へ行きたいと思うようになった。

(微風吹く木陰のカフェテラス)

 もうヨーロッパには行けないだろう。だが、「最後にもう1回」という考えはやめようと思うようになった。「最後に」、は良くない。いつも、また行こうと思い続けるべきだ。それが、生きるということだ。

      ★

<サン・ヴィセンテ岬の出会い>

 もう1つ、心に残る旅がある。ブログでは「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」(2016年9~10月)として書いている。リスボンから列車に乗って、北はポルト、南はポルトガルの最西南端のサグレス岬、そしてそこから6キロ先のサン・ヴィセント岬へ行った。

 動機は司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの『南蛮のみちⅡ』。エンリケ王子に心ひかれた旅だった。

 さらにもう1冊。沢木耕太郎の『深夜特急』。NHKでドラマ化され、主人公を若い日の大沢たかおが好演していた。

 サグレス岬のホテルに荷物を置き、バス停でサン・ヴィセンテ岬へ行く1日2本しかないバスを待っていた。バス停の近くにエンリケ航海王子の彫像が立っていた。大西洋の彼方を指さしている。サグレス岬には、エンリケ王子がつくった航海学校の跡が残っていた。

(サグレス岬のエンリケ王子)

 その時、突然、日本語で話しかけられた。長身で、細身、少壮の日本人男性だった。バスが来るまで話をした。彼は、サンチャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を歩き、さらにバスを乗り継いでここまで来たと言う。私は驚き、感嘆して、「すごい旅ですねえ」と言った。すると、彼は「いえ。あなたこそ。そのお年でこんな所までよく来られましたねえ。感心します」と返された。

 (サン・ヴィセンテ岬)

 そうか。年代別オリンピックなら、沢木耕太郎賞をもらえるかもしれないなと思って、年甲斐もなくうれしかった。

 (サン・ヴィセンテ岬の灯台)

 サグレス岬もサン・ヴィセンテ岬も荒涼として、突然、大地が大西洋に落ちていた。「ここから、海、はじまる」。

 古い友人たちと一献傾けていたとき、柔道8段に昇段したという男が私のブログを読んできたらしく、「その人は、エンリケ王子の化身だったかもしれませんよ」と言った。

   …… そうか。そうだったのか …… そこには思い至らなかった。いや、まあ、少なくとも、日本流に言えば、エンリケ王子が引き合わせてくれたのかも …… 。「こんな所まで、よく来られましたねえ」。

 その会のあと、今度はユーラシア大陸の果てから、私のブログに、こんなコメントが寄せられてきた。

 「すばらしい紀行文をありがとうございました。

 今、サン・ヴィセント岬の日没からホテルへ戻ってきました。

 メキシコに馬齢を重ねること40年、1973年に『お前も来るか中近東』(注 : 当時、バックパッカーのバイブルのような本だった)で、沢木耕太郎の逆回りをした初老の男です。

 カルペディム(カルペ・ディエムの略)的な生き方をしてきましたが、貴殿のこの紀行文は素晴らしいと感じました」。

 (このあと、まどみちおさんの「海」のことを書いた詩が添えられていた)。

 こういう出会いや言葉に励まされながら、私の旅は続いてきた。

 私は『深夜特急』の沢木耕太郎や、『お前も来るか中近東』の筆者や、ブログにコメントを寄せていただいた方とは違って、若い頃にバックパッカーの旅をした経験はない。それにインドも中近東も知らない。仕事をリタイアしてから、ヨーロッパに限定して、バックパッカーの若者と比べたら、安全で贅沢な旅をしてきた。それでも「冒険心」を抑えがたく、旅に出た。

 「注意して/でも、/勇気をもって」(沢木耕太郎)

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」(三木清「旅に付いて」)

              ★

<ちょっと冬眠します>

 とはいえ …… 多分、私のヨーロッパ紀行はこれで終わりになるのだろうと思います。(行きたいという気もちは捨てませんが)。

 毎回、長々しい文章を、ここまで読んで(見て)いただいた読者の皆さまには、本当にありがとうございました。心からお礼申し上げます。

 しかし、ヨーロッパ紀行はともかくとして、このブログは続けます。まだ、少々は余力がありますから。

 でも、ちょっと冬眠します。春までかな?? 2か月ぐらい。まあ、のんびりといきますので、それまでどうかお元気で …… 。 

 (あっ、それから、これがこのブログの399号です。400号は超えますから)。

また  。  

 

 

 

 

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ドナウ川の白い雲 … ドナウ川の旅11/11

2023年01月27日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (ドナウ川の白い雲)

<ゲルマンは森の民>

 最後の日の夕方になって新発見。ホテルのそばにバス停があり、くさり橋を渡って王宮の丘へ直行する。…… まあ、路線バスは、大阪市内でも手こずるから仕方ない。

 王宮の丘のレストランで、ハンガリー風の料理を注文した。

 横の席では、3人組の品のいい初老のおじさんたちが陽気にビールを飲んでいた。すっかり髪が白くなった人、頭髪の禿げかかった人、顎髭に白いものが混じっている人。今は仕事をリタイアし、青春時代にワンゲル仲間だった気の置けない友人たちと、男同士の旅に出たという感じだ。

 話しかけられた。ドイツ人だろうと思っていたが、やっぱりそうだった。

 ドイツ人はビールを飲むと開放的になり、近くの誰とでも乾杯して飲みかつ歌う。── 今日という日の花を摘め ──。

 フランス人はたとえ席がくっついていても、プライバシーには立ち入らない。英国人は紳士だから、一応慎み深い。アメリカ人は開放的だが、見知らぬ他人になれなれしくすれば、いつ二丁拳銃をぶっ放されるかわからない。日本人は自分が所属する組織の外に対しては赤の他人だ。

 陽気なおじさんたちは、遠い日本からやってきた旅人とブタペストの王宮の丘で話したことを、孫たちに話したかったのかもしれない。

 ドイツからサイクリング車で観光しながら、仲間たちでここまでやって来たそうだ。

 ドイツ人は定年退職したら郊外の森の中に家を建て、毎日、キノコ狩りなどして暮らすことを人生の究極の楽しみとしている、と聞いたことがある。

 「ワンダーフォーゲル」はドイツ起源の言葉で、ワンダーは「放浪する」。ワンダーフォーゲルは「渡り鳥」。

 ゲルマンは森の民なのだ。

 ローマ人は森の木を伐採して農場をつくり、小麦を主食とした。だが、ドナウ川の対岸はローマ人が立ち入れないような深い森。森の民たちの世界だった。

 英語でしゃべってくれたが、こちらはあまりしゃべれないので、話はそこそこ。

 テーブルの上に置いていたカメラを見て、「写真を撮ってあげよう」と写してくれた。

      ★

<草原の民だったマジャール>

 日はとっぷり暮れた。

 マーチャース教会はライトアップされ、横に建国の父・聖イシュトヴァーンの騎馬像がシルエットとなって立っている。

(マーチャース教会と聖イシュトヴァーンの騎馬像)

 この国の人たちは、もと草原の民だった。遥々とこの地までやって来て、キリスト教徒となり、この地に王国を打ち立てた。

 丘の上から見下ろすドナウ川の流れは暗く、国会議事堂のドームだけが浮かび上がっていた。

 (国会議事堂)

 ここから眺めるペストの街は暗い。

 ドナウ川の水の上やペスト側から眺めるくさり橋、その上に浮かび上がる王宮やマーチャース教会のライトアップは圧巻だ。主役はこちら側なのだ。

 遅くなったので、タクシーに乗り、一気に丘を下り、橋を渡ってホテルに帰った。

      ★

<美しい街をつくろうという意思>

(くさり橋とマーチャース教会)

 ホテルの5階の窓の正面に、王宮がくっきりと浮かび上がっていた。斜め右手には、真珠のネックレスのようなくさり橋。その上方のマーチャース教会が圧巻だ。

 ブダペストは「ドナウの真珠」。

 町を彩る建造物は古いものではない。だが、大国の圧迫をはねのけ、美しい自分たちの都をつくろうという意思が感じられた。

   ★   ★   ★

5月31日。晴れ。

 朝8時にタクシーを呼んでもらった。空港まで25ユーロ。申し訳ないくらい健全な料金だ。

 フェリヘジ空港のルフトハンザ航空の窓口でチェックイン。パスポート検査もスムーズだった。

 手続きを全て終えて、ほっとして、搭乗口ロビー近くのスタンドで朝食。空港の建物も新しくて奇麗だ。

 11時、ブダペストを離陸。

 12時40分、フランクフルトに到着。巨大空港の中を歩いて、日本便のロビーまで移動する。

 ここまで来れば日本に帰ったようなものだ。帰って来たなという安堵感の底に、充実感と心地よい疲労感がある。

 現地時間で14時5分、フランクフルト発。雲の隙間からドイツの田園風景を見下ろし、美しいヨーロッパに別れを告げた。

 飛行機は地球の自転に逆行して時速1000キロ近くで進み、たちまち夕方となり、そして、夜の帳が下りる。

 うとうとしているうちに7時間の時差を超えて、東の空が茜色になり、早朝の日本海はひとっ飛び。

 日本は、山また山の、緑の深い島国だ。

      ★

6月1日。晴れ。

 8時10分、関空到着。

 関西空港から早朝の空港連絡橋を渡るとき、今朝も真っ青な海が見えた。空港を出るといきなり海。天気が良ければ海の青が本当に美しい。

 多分、関空に到着して初めて日本に入国する外国人も、美しい国へやって来たと思うことだろう

      ★

<旅の終わりに>

 季節は5月。ヨーロッパが一番美しいときだ。

 ウィーンだけ雨で寒かったが、あとの4都市は快晴だった。

 (パッサウ付近)

 ローカルな鈍行列車に乗り、なぜかその列車が停まって、駅と駅の間をバスで走り、迎えの列車を乗り継いだ。

 ハンガリーへ入るときは、ジェームズ・ボンド氏がロシアのスパイと格闘した、あの名アクション場面を思い起こすような6人掛けのコンパートメントの列車だった。

 レーゲンスブルグやパッサウや夜のブダペストでは、ドナウ川をクルーズ船で楽しんだ。カップになみなみと注がれた白ワインは美味しかった。

 しかし、大都市ウィーンのカフェ「モーツアルト」で注文した白ワインは、大きなワイングラスの底に5分の1ぐらいしか入っていなかった。

読売俳壇から 

  軽やかなチターの調べ冬木立 (神戸市/遠藤音々さん)

 俳句で、映画『第三の男』の世界をとらえていて、秀作です

 ドナウ川は、川面に樹々の深い緑や青空が映り、遠くに白い雲が浮かんでいた。

 銀色の兜に赤いマントをなびかせたローマの巡察兵の姿はさすがにイメージしにくかったが、どの町も中世以後の歴史と文化を感じさせ、何よりも美しかった。

 鈍行列車でのんびりと旅をするヨーロッパの人たち。

 道を間違えたのではないかと不安になりながら、山の中を一緒に歩いたマダムやムッシュたち。

 「あの山の向こうはバーバリアンの地だよ」などと冗談を言ったたくましく日焼けした自転車のおじさん。

 昼はサイクリングで、夜はビールで乾杯するリタイア後のドイツ人たち。

 街角で親切に声をかけ、道を教えてくれた若い女性やマダム。

 陽春のドナウの旅は、その美しい景観とともに、人の温もりも感じた旅だった。

 季節のもつ明るさと人の温もりが、のちに、このブログの名を、「ドナウ川の白い雲」と名付けさせた。

 心に残る旅だった。

 

 (ブダペストを流れるドナウ川) 

(了) 

 

 

 

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夜空に浮き上がるドナウの真珠…ドナウ川の旅10/11

2023年01月22日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

 (王宮の丘のライトアップ)

(つづき)

      ★

<ナイトクルーズ、そしてホテルからの眺望>

 エルジェーベト橋の袂の「竹林」で寿司とワインの夕食をとったあと、ドナウ川の岸辺を夜風に吹かれながらくさり橋の方へと歩いて行った。

(くさり橋とマーチャース教会の塔)

 「ドナウ川ナイトクルーズ」の乗り場は、くさり橋の袂に見つけた。出発の21時には少し早かったが、船に乗り込む。

 クルーズ船のテラス席に腰掛けると、王宮の丘は息をのむほどに荘厳だった。

   (王 宮)

 日は地平に沈んで、空は限りなく澄んだ濃い青。残光が空の低いあたりを赤く染めている。

 漆黒の空になる前、ヨーロッパの空の青は美しい。このひと時の空を見るだけでも、遥々とヨーロッパまで来たかいがあると思えるほどだ。(写真では、その色がうまく出ないが)。

 夢中になって、写真を撮り続けた。

 21時。遊覧船が出航した。ドナウ川のくさり橋の上流と下流を巡るだけだが、船が水流を切って進み、川の流れの意外な力強さや波の音を真近に感じた。

 空は漆黒の闇となり、主役たちがライトアップされて映える。

 (くさり橋とマーチャース教会)

   (くさり橋と王宮)

 これまでヨーロッパのいろんな都市の夜景を見てきた。旅行社のツアーは郊外のホテルに泊まり、夜は出歩かない。だが、ヨーロッパの都市の美しさを味わおうと思えば、ライトアップされた街並みや歴史的建造物を見逃すことはできない。

 もちろん、それはディズニーランドの世界とは違う。

 パリの、シャンゼリゼのイルミネーションと瀟洒なショーウインドーの輝き。さらにエッフェル塔のライトアップも、人々の心をワクワクと浮き立たせる。パリは歩く人がみな楽しく幸せそうに見える。

 フィレンツェのミケランジェロ広場の高台から、アルノ川の向こうにライトアップされたドゥオーモを眺めたとき、ルネッサンスの時代に引き込まれるような気がした。

 ウィーンのリング周辺の華やかなライトアップ。

 チェコのプラハを流れるヴルタヴァ川は深い闇の底を流れ、川に架かる壮麗なカレル橋の袂から対岸のプラハ城を眺めたとき、まるで中世の夢の中にいる人のような気分になった。

 だが、それらに勝るとも劣らず、くさり橋や王宮やマーチャース教会のライトアップは感動的だった。

  (川岸の国会議事堂)

 十二分に満足して、船を降りた。

      ★

 船着き場からインターコンチネンタルホテルはすぐ。

 船上から見た景色と、ホテルの5階の高さから眺める景色は、角度が少し違う。

 王宮も、マーチャース教会とくさり橋も見飽きることがなく、永遠の時が流れているようだった。

 (ホテルから)

   ★   ★   ★

5月30日 今日も快晴

 今日はこの旅の最終日。明朝は帰国の飛行機に乗る。

<再び王宮の丘へ>

 朝、ホテルを出て、もう一度王宮の丘へ。王宮の丘から、ドナウ川の眺めをもう一度目に焼き付けたかった。

 それに、オーソドックスなコースで上がっておきたかった。

  (くさり橋)

 昨日は地下鉄と城バスでかなり大回りして行ったが、今朝はホテルからくさり橋を歩いて渡り、その先から出ているはずのケーブルカーに乗る。

 何しろ昨日は着いたばかりの知らない町。いきなり長い橋を渡ってケーブルカーの駅を見つけ、切符を買って乗るということに不安があった。

  (くさり橋を渡る)

 くさり橋は、真ん中が車道。両脇が歩行者や自転車用になっていた。

 橋のゲートには大きなライオンの像。

 ハンガリーは大国によって国の独立を侵害され続けた歴史をもつ。蒙古、オスマン帝国、ハプスブルグ帝国、ドイツ、ソ連。

 だか、もともと勇猛果敢な誇り高い民族。ライオン像に、「もう敵を侵入させない」という気概を感じた。

 (くさり橋から国会議事堂を望む)

 375mのくさり橋を渡ると、ケーブルカーの駅もすぐ見つかって、王宮の丘へ。意外に簡単で、時間もかからなかった。そういうものだ。しかし、ヨーロッパ旅行では、そういうものではなかったことも、しばしば経験した。

 王宮の丘から、早朝のドナウ川とペスト地区の景観をしばらく堪能した。

 (王宮の丘から国会議事堂を望む)

 また、ケーブルカーで降り、くさり橋を渡って戻った。

      ★

<初代国王イシュトヴァーンの大聖堂>

塩野七海『日本人へⅤ』から 

 「ゲーテが言ったように『肉体の眼よりも心の眼で見ること』である。それには、短時日の間に何もかも見ようとしないこと。見ながら歩くのではなく、考えながら歩くのだから、訪れた場所の数ならば少なくなることはやむをえない」。

 昨日、トラムに乗ってドナウ川に沿って走り、トラムの中からペスト側を観光した。しかし、車窓から眺めるだけでは足りないものもある。

 その一つが聖イシュトヴァーン大聖堂。ブダペスト第一の大聖堂だ。

 くさり橋の袂から東へわずか数百mの所だから、ショッピング街をウインドショップしながら歩いて行く。

 大聖堂前の広場は広々として、心落ち着く空間だった。

 大聖堂はいかにも大きく堂々として、色合いも姿もいい。

 (聖イシュトヴァーン大聖堂のファーサード)

 この大聖堂は、1851年に着工し、1905年に完成した。ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ1世(后妃はエリーザベト)の頃で、国会議事堂などと同じ時代の建造物だ。ブダペストはこの時期に、一気にハンガリー民族の都へと発展した。

  (身 廊)

 8500人を収容できるという

 身廊の正面に、イエス・キリストの磔刑像でも聖母子像でもなく、聖イシュトヴァーンの像が祀られていて、キリスト教徒でなくても少しばかり違和感を覚えた。

 イシュトヴァーン1世が自らカソリックの洗礼を受けたのは、マジャールの各部族がそれぞれの祖先神を崇めており、これを一つにまとめるにはキリスト教化しかないと考えたから。そして、AD1000年、7部族を統合してハンガリー王国を建国した。死後、ローマ教皇によって聖人に叙せられる。

 初代の王が大聖堂の中心にあることに、ハンガリーの魂が感じられた。

      ★

[ 閑話・脱線 ] 

    自分の祖先たちが歩んできた道を知り、未来の世代に行く末を託すという心は自然なものである。人も家族も民族も、それぞれの歴史と文化と言語をもつ。しかし、そういう個人や家族や民族の歴史に被害者意識の火を投げ入れると、それはたちまち紙のようにメラメラと燃え上がる。

 「ポピュリズム時代のリーダーは、怒りと不安をあおりたてるのを特技にしている」(塩野七海『日本人へⅤ』)。

 NATOの一員であるトルコや、NATOとEUの一員であるハンガリーが、プーチンや習近平に追随して、かつての帝国の最大版図と勢力圏を取り戻そうなどと考えないように願う。

 EUではドイツが一人勝ちしないことも大切である。NATOやEUがあってこそのドイツである。

 互いに手を差し伸べ、支え合わなければ、NATOもEUも加入した意味がない。ロシア圏から離脱しようとするウクライナを他山の石とすべきだ。

 世界で、ロシア圏は縮小していっているが、中国圏は膨張し続けている。

      ★

 エレベータでドームの展望台に上がってみた。空は真っ青に晴れて、王宮の丘がよく見えた。マーチャース教会の塔も、堂々と聳えている。

 (聖イシュトヴァーン大聖堂の展望台から)

 大聖堂を出て、大聖堂を正面に見る街路のテラス席で軽い昼食をとった。

 (カフェテラスが並ぶ)

 現代的なショップやレストランのテラス席が並ぶ向こうに大聖堂があって、絵になる風景だ。

      ★

<ハンガリー人の伝承を伝える騎馬像たち>

 大聖堂の脇を立派なアンドラーシ通りが通る。英雄広場まで一直線に延びるこの街路は、パリのシャンゼリゼ通りに比せられる。

 終点の英雄広場まで歩くのは遠いので、大路の下を走る地下鉄に乗った。

 (英雄広場の記念碑)

 英雄広場は市民公園の一角にある。

 この記念碑は、聖イシュトヴァーン1世による建国から一千年を記念して建造された建国一千年記念碑。

 中央に高さ36mの大円柱。天辺には大天使ガブリエルの像。

 その下に、マジャールの祖先である7人の部族長が騎馬姿で建つ。中央には大首長アールバート。聖イシュトヴァーン1世の祖である。

 いかにも強そうだ。

  (7人の部族長たち)

 日本では、この国の国名はハンガリー(Hungary)。この呼称は、遠い昔、ゲルマン人が彼らをトルコ系のオノグル族と混同して呼んだ呼称らしい。本当はオノグルではなく、マジャール人だった。正式の国名はマジャロルサーグだが、彼らの通称でマジャル(Magyar)。これも日本ではマジャールとなっている。

 遠い昔、この地は、ローマの属州パンノニアだった。

 ローマ帝国の国力が弱まった時、フン族が侵入・支配した。

 8世紀にはゲルマンの一族のフランク族が立てたフランク王国の支配下に入った。

 だが、フランク王国は分裂して後退し、9世紀にはウラル山脈の東南に起源をもつアジア系の騎馬遊牧民マジャール人がやってきた。彼らが今のオーストリア、南ドイツ、さらにイタリア北部にまで侵攻したことは、ウィーンの項で書いた。

 7部族の中の1つがアールバード家で、そこから出たイシュトヴァーンが7部族を従えて、AD1000年に王国を打ち立てた。

      ★

<国立オペラ座に寄る>

 陽射しが斜光になった。建物の蔭が濃い。

 歩き疲れ、のども渇き、オペラ座のそばのカフェテラスで一休みした。

 (カフェテラス)

 国立オペラ座の見学ツアーがあるようなので、入り口で申し込んで見学した。

 (国立オペラ座)

 ウィーンの国立オペラ座に負けてなるものかという気概が感じられる。

 一旦、ホテルに戻って、休憩した。

 夜はもう一度、王宮の丘に上り、王宮の丘の夜景を眺めて、この旅のフィナーレとする。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「ドナウの真珠」ブダペスト…ドナウ川の旅9/11

2023年01月15日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

   (王宮の丘からドナウ川の上流を望む)

<国境を越えてブダペストへ>

5月29日 快晴

 ホテルで朝食の後、U3でウィーン西駅へ。ウィーンの市内交通も少し乗りこなせるようになったが、今日はブダペストへ向かう。

 西欧の国から中欧へ。ベルリンの壁の崩壊までは社会主義の国だった。

 少しばかりの国の自立と自由を求めて、ハンガリー人が立ち上がった。だが、たちまちソ連の戦車が侵攻して、蹂躙した。

 「ハンガリー事件」のことは、遠い少年の日の記憶としてかすかに残っている。まだテレビはなかったから、ニュース映画で見たのだろうか。遠い国の出来事だったが、ソ連の冷酷さと、従属国の痛ましさが、遥かな記憶の底にある。

 本題を離れるが、1968年のチェコのプラハでも、2022年のウクライナでも、歴史は繰り返された。自分の勢力圏の国だと思うから、政治的に介入し、言論も弾圧し、戦車で蹂躙する。挙句、マンションでも病院でも、平然とミサイルを撃ち込む。日本はこの種の大国の勢力圏に入ってはいけない。そのためには日米同盟を堅持すべきだ。

 ウィーン西駅の人混みの中で、わが列車は何番ホームから出発するのだろうと頭上の電光掲示板を見上げていたら、「EN467便は50分の遅れ」のサインが目に入った。

 まただ 今回の旅で3度目の列車の遅れ!!

 しかし、少しも動じない。急ぐ旅ではないのだから。ブダペストでも、ドナウ川を眺めることができたらブダペストへ行った目的は達成である。あとどこかを見学できたら、それは全て満点に加点されていく。減点方式の旅はしない。

 人生は旅。旅心定まる

   駅構内のカフェで時間をつぶした。 

 やって来た列車に大きなキャリーバックを持って乗り込む。この列車の始発駅はどこだったのだろう?? 遠くから夜行列車として走ってきた気配が残っていた。車両の片側が窓のある狭い通路で、もう一方の側にコンパートメントの扉が並んでいる。自分の座席番号の書いてあるドアを開けると、6人掛けの部屋だった。ヨーロッパを舞台にした映画を見るような感じ。

 アラブ系の若い男女と同室だった。先客に対し挨拶して入った。

 列車がハンガリーの国境を越える頃、車掌が検察に回ってきた。日本でパソコンから打ち出した印刷物(乗車チケット)を見せて、OK。

 同室のアラブ系の若者には、パスポートの提示が求められた。入念にパスポートが調べられ、何か会話のやりとりがあった。

 車掌の態度は爽やかで丁寧だったが、車掌が部屋を出て行った後、若い男の様子がおかしくなった。ふさぎ、ふてくされ、一人で歌を口ずさんだりした。明るく優しい感じの若い女性が寄り添って慰めた。事情は私たちにはわからない。

 国境を越えると、車窓の森や畑とともに流れていく農家や小屋のたたずまいが貧しくなった。オーストリアのパッチワークのような牧歌的な美しい風景とはほど遠かった。

 3時間と少し。お昼過ぎにブダペスト東駅に着く。

 駅のホームの両替所で1万円札をフォリントに両替した。ハンガリーは2004年にEUに加盟したが、通貨はフォリントのままだ。たいていの支払いはVISAカードでできるが、早速、タクシー代には現金が必要。

 駅構内の人混みの中をキャリーバッグを引いて歩くときも、タクシーに乗ってからも、緊張した。事前にネットで調べたとき、ブダペスト空港で機内預かりから出てきたスーツケースがこじ開けられていたとか、タクシーも大回りしたり、ぽったくりの請求をされたとか書いてあった。

 だが、滞在中、そのようなことはなかった。何回かタクシーに乗ったが、そういうことは1度もなかった。ショッピング街を歩いているときも、地下鉄やトラムの中でも、スリなどのアブナイ雰囲気を感じたことはなかった。アブナイ気配ならローマやパリの方がある。特にローマ。ローマ市民のことではない。ローマはあまりにも開放され、人が自由に入り過ぎている。

 ドナウ川の河畔に建つ「インターコンチネンタル・ホテル」に2泊する。私のヨーロッパ旅行では使わない系列のホテルだが、今回の旅のテーマはドナウ川。そして、ネットでいろいろ調べ、調べつくして、このホテルの5階の部屋からの眺めが最高であることを知った。もっと高級なホテルも、もっと安いホテルもあるが、このホテルのドナウ川の眺望は他に代えがたいと思った。

 ホテルのフロントにキャリーバッグを預けて、早速、未知の町へ見学に出た。

      ★

<王宮の丘をめざしてバスを間違える>

   この旅の目的はドナウ川。よって、今日の午後の予定は、まずブダ地区の王宮の丘へ登り、ドナウ川を眺望する。そして夜は、「ドナウ川ナイトクルージング」。

 Budapest。ハンガリー語の発音を片仮名で表すと、「ブダピュスト」だそうだ。

 もとは3つの町だった。オーブダとブダとペスト。

 北方(ドナウ川上流)にはオーブダという町。旧ブダの意で、歴史は古い。ドナウ川の右岸(西側)にあり、古代ローマの軍団基地や属州パンノニアの州都アクィンクムの遺跡が発掘されている。しかし、今回の旅は考古学的興味による旅ではないから、行かない。

 その南(下流)の右岸がブダ。丘陵地帯になっていて、閑静な住宅地とか。その端がドナウ川に臨み、中世以来、ハンガリー王国の王宮があった。ブダペストを観光する人々が必ず訪ねる場所。私にとってはドナウ川を眺望できる丘だ。

 ブダの対岸のドナウ左岸は、平坦な土地が広がるペストの町。かつてはドナウ川をはさんで王宮と向かい合った半径300mぐらいの半円が城壁と堀で囲まれ、商人や職人の町だった。今は市域は大きく広がり、国会議事堂、官庁、ブダペストを代表する大聖堂、企業のオフィス、そして、ハンガリー第一の華やかなショッピング街だ。

 ホテルはペスト地区のドナウ川の河畔に建っている。くさり橋がすぐそばにあり、対岸は王宮の丘だ。

 (ペスト側から眺望する王宮)

 ホテルからくさり橋とは反対方向へ少し歩けばデアーク広場。地下に降りて切符売り場で市内交通の24時間券を買い、王宮の丘を目指した。

 地下鉄はドナウ川の川底深くをくぐり、3駅目のモスクワ広場駅に到着。そこから「城バス」に乗り、一気に急坂を上がれば王宮の丘の予定だった。

 だが、バスはどんどんどんどん坂道を登って、高台の住宅地へ向かう。これは間違えたな??

    あわてていると、前の座席に座っていたおばさんが声をかけてくれた。「引き返して。城バスは16番だよ」と教えてくれる。

 いざとなれば何とか意思疎通できるものだ。

 ハンガリー語はヨーロッパ系の言葉と全く体系が異なるらしい。見た目にはわからないが、ハンガリー人(マジャール人)の祖先を訪ねれば、我々と同じアジア人なのだ。

 見知らぬバス停で降り、反対行きのバスを忍耐強く待って、モスクワ広場へ引き返した。今度は16番の「城バス」に乗る。1時間近くもロスをしてしまったが、これもまた旅。でも、疲れる。

      ★

<ハンガリーの苦難と不屈の歴史>

 東へ東へと流れたドナウ川は、ハンガリーに入って、エステルゴムという丘の町の辺りから大曲りし、南流するようになる。

 ドナウ川を見下ろすこのエステルゴムの丘が、ハンガリーの建国の地だった。

 マジャール7部族のリーダー、アールバート家のイシュトヴァーン1世は、カソリックの洗礼を受け、AD1000年に初代国王(在位1000年~1038年)となった。王宮はエステルゴムに置き、ハンガリー・カソリックの総本山となる大聖堂も建てた。

 11世紀後半から12世紀にかけて、ハンガリー王国は全盛期を迎える。東西南北に大きく領土を広げ、産業も盛んになり、都市の建設も進んだ。

 13世紀、モンゴルの襲来があった。時の王ベーラ4世(在位1235~1270)は大敗を喫してアドリア海に逃れ、国土は焦土と化した。モンゴル軍の通過したあとは、略奪と殺戮で人口が半減したという。モンゴル軍が去った後、ベーラ4世は再度のモンゴル軍の襲来に備え、王宮を下流のブダの丘に移した。そして、モンゴル軍の襲撃に何とか耐えられたのが石造りの町と知り、ブダペストにその礎を築いた。

 15世紀、マーチャーシュ1世(在位1458~1490年)はイタリアなどから文人、建築家を招いてハンガリー・ルネッサンスを花開かせた。王宮の丘も美しく装われた。

 だが、その後、ハンガリーは、南から膨張してきたオスマン帝国を迎え撃たなければならなくなり、数度の大きな戦いを経て、1526年に若きラヨシュ2世が戦死した。1541年にはブダも陥落し、オスマン軍に制圧されてしまう。

 ハンガリーは、ブダペストを含む3分の2の領土がオスマン帝国領となり、北西部の3分の1だけがハンガリー領として残った。ただし、王家は断絶したから、戦死したラヨシュ2世の妹の夫、ハプスブルグ家(オーストリア)のフェルディナントが王位を継いだ。以後、ハプスブルグ家が王位を継承していく。

 1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に失敗し、ハプスブルグ帝国が一気に攻勢に出た。ハンガリーは全土がハプスブルグ領となる。

 その後、ハプスブルグの支配に抗するハンガリー人の運動は何度も起き、1867年にやっとハンガリーの自治が認められた。ただし、ハプスブルグ家が両国の君主として君臨するオーストリア=ハンガリー帝国いう形となった。

 第一次世界大戦でハプスブルグ帝国は崩壊し、1918年にハンガリーは独立する。そのあと、ナチスドイツに付いて第二次世界大戦を戦い、ブダペストの町はまたもや破壊された。

 戦後はドイツを破って侵攻してきたソ連の支配を受けた。

 ハンガリーが真に独立できたのは、ベルリンの壁崩壊の年の1989年である。ベルリンの壁の崩壊は、それに先んじて、ハンガリーがハンガリーの壁を壊したのをきっかけにしている。東ベルリン市民は、ハンガリーを通って、西ベルリンへ殺到したのだ。

 1999年にNATOに加盟。2004年にEUに加盟した。

 ただし、2010年に首相に再登板したオルバーンは親ロシア路線に転換し、ロシアのウクライナ侵攻にもNATOとは一線を画している。

      ★ 

<王宮の丘からの眺望 … ドナウ川、国会議事堂、くさり橋>

 王宮の丘からのドナウ川の眺望は最高だった

 上流の方角がよく見えた。

 ズームレンズを望遠にして、上流のオーブダ方向を写してみた。

 (上流のオーブダ方向)

  緑のこんもりした島がマルギット島。その手前の橋はマルギット橋。マルギット島の先にはオーブダ島。これらの島の左手(右岸)にローマの遺跡がある。

      ★

 空の青を映した美しき青きドナウ。その対岸(ペスト側)に国会議事堂。美しい

 王宮の丘から眺める景観の主役は国会議事堂だ。幾本ものゴシックの尖塔と、その中央に華のような大ドーム。

 (ペスト側の国会議事堂)

 だが、このような建造物はヨーロッパで珍しいわけではない。

 主役はやはりドナウの流れ。ドナウ川があってこその建物である。

 1884年に着工し1904年に完成した。ハプスブルグとの二重君主制とはいえ、ハンガリーが自治権を取り戻した時代である。ハンガリー国民の心意気が感じられる。

 ここには、初代国王イシュトヴァーン1世が戴冠した王冠が、ガラスケースに納められて展示されているそうだ。ハプスブルグ家の王たちも、このイシュトヴァーンの王冠を戴冠して初めて王と認められた。(それにしても、国王は勇敢でなければならないだろうが、戦死してはいけないとつくづく思う。後継ぎもなしには。蒙古に大敗して逃れたベーラ4世のように生き延びることが国民のためだったかも知れない)。

      ★

 眼下には、ブダと、ペストとを結ぶ、「くさり橋」。ブダペストの美しい景観はこの橋とともにある。

  (眼下のくさり橋)

 美しいブダペストを「ドナウの真珠」と形容するのは、ネックレスのようなこの橋のイメージによるのではなかろうかと、この夜のナイトクルーズで思った。

 橋の長さは375m。高さ48mの2基の塔に支えられている。

 1839年から10年の歳月をかけて架けられた。国会議事堂の建造と同じ時代である。今は上流にも下流にも何本もの橋があるが、「くさり橋」が架かるまでドナウ川を渡るには渡し船しかなかったそうだ。この橋によってブダとペストがつながれ、大きな新しい共同体が生まれた。

 橋の向こうに聖イシュトヴァーン大聖堂のドームが見える。王宮、くさり橋、大聖堂が一直線に並んでいるのだ。

     ★

<王宮の丘を巡る … 王宮、マーチャース教会、漁師の砦>

 王宮の建物は、丘の南半分を占めている。

 ブダに初めて王宮(城塞)が築かれたのは、モンゴル軍の再度の襲来に備えたベーラ4世(在位1235~70)のとき。

 その後、何度も破壊と建設が繰り返された。

 現在の王宮の姿が出来上がるのは、国会議事堂やくさり橋などと同じ19世紀末から20世紀初頭。その後、ハプスブルグ家も滅び、ハンガリーは共和制国家となった。

 ナチスドイツに付いた第二次世界大戦のときにまた大破され、その後大修復。今は国立美術館、歴史博物館、現代美術館、非公開の図書館などとして使われている。

 この旅では、内部の見学はしない。

      ★

 13世紀、ベーラ4世がブダの丘に首都を移したとき、王宮の北側に「聖母マリア教会」を建てた。

 教会は14世紀にゴチック様式で建て直され、15世紀にはハンガリーにルネッサンスを導入したマーチャース1世(1458~90)によって大きな塔が増築された。

 この塔はドナウ川からよく見え、王宮の丘のシンボルになっている。その景観は、この夜のナイトクルージングで体験した。今は、「マーチャース教会」と呼ばれている。

 大屋根の瓦模様が面白い。

   (マーチャーシュ教会)

 内部に入って、見学した。祭壇もステンドグラスも美しかった。 

 (マーチャース教会の祭壇)

(マーチャース教会のステンドグラス)

 オスマン帝国の時代にはモスクにされたという

 ハプスブルグの時代、ハプスブルグ家のフランツ・ヨーゼフ皇帝と后妃エリーザベトがここで戴冠式を挙げた。ハンガリー国民はハプスブルグの王には複雑な思いをもったが、美しいエリーザベトは人気があった。エリーザベトもブダペストが好きで、よく訪問したそうだ。

 くさり橋のすぐ下流の橋は清楚な白い橋で、「エルジェーベト橋」と名付けられている。

      ★

 マーチャース教会の隣には、「漁夫の砦」がある。

 砦といっても、王宮などと同時代に造られた見晴らし台だ。その昔、敵襲があり市民がブダの丘に立てこもった時、城壁のこのあたりの防備をドナウ川の漁師組合が受け持ったらしい。それで「漁師の砦」と名付けられたとか。

 数個の塔とそれらをつなぐ回廊で構成され、絶好のビューポイントだ。

  (漁夫の砦)

 (漁夫の砦からの眺望)

      ★

<トラムに乗ってドナウ川沿いを観光>

 城バスに乗り、バスを乗り継いで、くさり橋の上流のマルギット島に架かるマルギット橋まで行ってみた。

 マルギット橋からは、2番のトラムに乗って、国会議事堂、くさり橋、エルジェーベト橋、自由橋、ベドフィ橋の先まで行き、今度は逆向きのトラムに乗って、エルジェーベト橋まで引き返した。トラムに乗ってドナウ川沿いを車窓観光をしたことになる

 エルジェーベト橋の袂にある「竹林」という和食レストランへ。

 ドナウ川に臨むテラス席で、ゆっくり晩飯を食べた。寿司に白ワインがよく合って、とても美味であった。

 ゆっくり時を過ごし、そのあと、「ドナウ川ナイトクルーズ」へと向かった。

(つづく)

 

 

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雨のウィーン … ドナウ川の旅8

2022年12月31日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

  (シェーンブルン宮殿の庭園側)

5月28日 雨。寒い。

 朝、ホテルの部屋のテレビで天気予報を見た。晴天が続いて、ザルツブルグでは30度を越える真夏のような暑さだったが、昨日は時折小雨。そして今日は雨。気温は18度までしか上がらないようだ。ヨーロッパは寒暖の差が激しい。

<雨のシェーンブルン宮殿>

 今日の午前の予定は、シェーンブルン宮殿。

 旧市街から西南へ4キロの所にある。今は地下鉄やトラム、車が行き交う新市街の中だが、昔は「ウィーンの森」に続く森林だったそうだ。そこにハプスブルグ家の皇帝が狩猟用の館を建てた。館の近くの森の中に泉が見つかり、「シェーナー・ブルンネン(美しい泉)」と名付けられた。これがシェーンプルンの名の由来だ。18世紀後半に女帝マリア・テレジアが、狩猟用の館をバロック・ロココ風の壮麗な夏の離宮に造り替えた。

 前回のツアーでは、シェーンプルン宮殿の各部屋を日本語ガイドの案内で詳しく見て回ることができた。政務のかたわら16人の子を産み育てた女帝マリア・テレジアの夏の離宮は、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿と比べれば、母親らしい気配りもあり、かつ堅実な家風のハプスブルグ家らしい宮殿だった。とはいえ、壮大にして贅を尽くした大宮殿であることに変わりはない。

 ヴェルサイユ宮殿の鏡の間を模した大ギャラリーは、6歳のモーツアルトが演奏をして、マリア・テレジアからお褒めの言葉をいただいた広間。のちに、「会議は踊る」の舞台となった。

 印象に残った部屋がある。アメリカのケネディ大統領とソ連のフルシチョフ首相が会談したという部屋だ。核戦争の危機(キューバ危機)をかろうじて乗り越えたあと、トップ会談が実現し、この宮殿が会談場に選ばれた。会談が行われた部屋は警備上の配慮から窓のない部屋だった。

 その部屋に入った途端、息苦しくなり閉所恐怖症になりそうになった。扉を閉ざしたこの部屋の中で、両首脳は世界の運命を決める白熱した議論をしたのだ。

 それはともかく、私にはヨーロッパの大宮殿や大邸宅はなじめない。料理人と召使い付きで差し上げると言われても、住みたいとは思わない。遠くから眺める分には、それなりに絵になるのだが。

 すっきりとむだのない、清々しい書院造り風の家屋を日本で見学すると、心が和む。

 西欧では、「自然」を人工化し(例えばルネッサンス庭園)、「文化」(例えば宮殿)の中に「自然」を取り入れる。日本では、「文化」そのものが「自然」の力を借りて造られ(例えば陶器茶碗。「おのずから~なる」という言葉)、また、「文化」(書院造の建物や庭)は大きな「自然」の中に包み込まれている。

      ★       

 今回は、シェーンプルン宮殿の広大な庭園を歩きたいと思っていた。

 広大な庭園の南端は丘になっていて、そこに回廊が建てられ、グロリエッタ(展望テラス)と呼ばれている。ただ、近く見えるが、宮殿の建物から直線距離で1.7キロぐらいあるらしい。グロリエッタを往復するだけで3.5キロ。それでも、その丘から広大な庭園越しのシェーブルん宮殿を撮影したいというのが、今日の計画だった。

 (街をゆく観光用の馬車)

 地下鉄を乗り継いでシェーンブルン宮殿へ。ホテルを出た時から雨が降っていたが、宮殿に着いた頃はかなりの雨。加えて、ひどく寒かった。

 (シェーンブルン宮殿正面)

 マリア・テレジア・イエローは雨に濡れてなお鮮やかだが、地面は既にぬかるみ、雨脚は強くなるばかり。宮殿の付属のカフェ・レストランに入って雨宿りし、コーヒーを飲んで暖を取った。しばらく様子をみたが、やみそうもない。

 結局、グロリエッタはあきらめて、宮殿の周りを少し歩いて、また地下鉄に乗って旧市街へ帰った。

      ★

<ドナウ運河の方へ旧市街を歩く>

 午後、雨が小降りになった旧市街を、昨日よりもっと北の方、旧市街の北端のドナウ運河まで歩いた。

 この辺りは、旧市街でも、ローマ軍団の城壁の中だった所だ。

 旧市庁舎が建つホーエルマルクト広場は、9世紀に、近隣から集まってくる商人たちが市を立てることができるよう開かれた広場。広場の片隅から、ローマ軍団の将校官舎の跡が発掘されている。ただ、今は、華やかなショッピング街はこの広場より南になり、この広場から北は下町のような風情がある。

 広場にアンカー時計があり、定時を前に観光客が集まって頭上を見上げる。時計から人形が登場するからくり時計だ。

 (アンカー時計)

 登場するのは、ウィーンの歴史に名をとどめた12人の人たち。

 紅山雪夫さんの『オーストリア・中欧の古都と街道』は名著だが、この12人を紹介しながらウィーン(オーストリア)の歴史を紹介している。以下はそのダイジェスト。

      ★

<ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)>

 オーストリアには、先住民のケルト人が住んでいた。

 ウィーンの歴史は、ローマ帝国の第2代皇帝ティベリウス(在位AD14~37)が築かせたローマの軍団基地に遡ることができる。ローマはドナウ川を帝国の北の防衛線にしようと、軍団基地を築いていった。

 当時は「ヴィンドボーナ」と呼ばれた。

 軍団基地は、定められた規格によって建設された。

 ヴィンドボーナも1辺が約400mほどの城壁に囲まれていた。城壁の厚さは6m、高さは8~10m。さらに周囲に堀を巡らせていた。今、旧市街の高級ショップ街である「グラーベン通り」はこの基地の南の堀の跡である。基地の北側はドナウ川が流れていた。

 ここに1軍団6千人の将兵が駐屯していた。

 基地の真ん中に広場があり、広場には官庁や会議場があって、社交の場である公衆浴場や病院、下水道も完備していた。

 中心の広場から東西南北に道路が走り、城門の外のローマ街道に通じていた。

 ドナウ川に沿って、軍団基地と次の軍団基地を結ぶために、補給基地、騎兵基地、歩兵基地、見張り台などが数珠つなぎに置かれている。その間を結ぶのは街道。そして、全ての街道はローマに通じていた。中国は万里の長城を築き、ローマは街道を通した。

 地中海を中海にして、西ヨーロッパから、アフリカ大陸の北部を通り、中東に到る広大な帝国の辺境を、ローマはこのように防衛線を築いて守った。

 ローマ帝国の中に軍隊はいなかった。首都であるローマに近衛軍団がいるだけだ。パクス・ロマーナは辺境を守る最小の軍隊(最小の防衛費)と張り巡らせた街道とで効率的に守られていたのだ。

 ドナウ川の流れに沿うハンガリーのブダペストも、セルビアのベオグラードも、ローマの軍団基地を起源とした都市である。

 ウィーンのローマ軍団基地は市街地だから、考古学的発掘調査はできない。

 塩野七海『ローマ人の物語Ⅺ 終わりの始まり』によると、皇帝マルクス・アウレリウスがドナウの各軍団長を指揮するために滞在することが多かったカルヌントゥㇺ(ウィーンから50㌔下流の軍団基地)の大規模な発掘調査が行われている。それによると、カルヌントゥㇺの軍団基地(400m×500m)の背後を囲むように、軍団関係者の居住地区が広がっていた。皇帝マルクス・アウレリウスの后は、この居住地区で将兵やその妻たちの世話をして「基地の母」と呼ばれていたそうだ。さらに墓地をはさんでその後方には、地元住民や退役軍人たちの住民共同体があり、ここでは「市」も常設されていた。この2つの地域の全体が軍団基地だったらしい。その双方に、広場も、公衆浴場も、コロッセウムもあった。

 この防衛線上の基地と基地の隙間を抜いて、ゲルマンの騎馬隊が帝国内の奥深く、今のヴェネツィアの辺りまで侵入し、殺しまくり、奪いまくり、人々を恐怖に陥れた。一旦、リメスの中に入られたら、中に軍隊はいないのだ。しかも、ドナウ川の向こうのゲルマン各部族に、そういう不穏な動きがあることが、マルクスのもとに知らされた。

 第16代皇帝マルクス・アウレリウス(在位161~180)はそういう事態に直面した最初の皇帝だった。

 彼は皇帝の責務として自ら辺境の地に赴き、各軍団基地の司令官を指揮して、前期と後期の5年間、ゲルマニア戦役を戦った。そして、179年の酷寒の冬をヴィンドボーナ(ウィーン)で過ごした。これまでの戦いから、春を迎え戦闘を再開すれば決定的な勝利が得られると考え、翌春の戦闘の準備が進められていた。その矢先に、もともと病身だった皇帝は倒れた。59歳を迎えるところだった。

 そこで、アンカー時計の第1番目は、ウィーンで没した皇帝マルクス・アウレリウス。

      ★

<ウィーンに入城したカール大帝(国王在位768~814年)>

 ホーエルマルクト広場から、旧市街をさらに北の方へ歩いて行くと、道は入り組んで下町のにおいがする。マップを見るとJudengasse(ユダヤ通り)とある。ウィーンはフロイトやマーラーら優れたユダヤ人が活躍した町でもある。その先で道が下り坂になり、坂の途中に聖ルプレヒト教会があった。

 ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマは衰えていった。防衛線に配置されていたローマ軍も撤収され混沌の時代に入る。476年、西ローマ帝国滅亡。

 混沌が少しずつ治まってくると、人々はローマ軍の軍団基地の崩れた城壁の中に徐々に戻ってきて、小さな集落をつくって暮らした。そこへ、辺境への宣教を志すカソリックの聖職者がやってくる。

 聖ルプレヒト教会はAD740年頃に創建されたと言われ、ウィーン最古の教会である。蔦がからんだ古い石造りの聖堂は11、12世紀のものらしい。その土台部分はローマ時代の城壁の一部。

 その下をドナウ運河が流れていて、急な石段を伝って下りていく。

   (ドナウ運河)

 ゲルマン諸族が次々に侵攻して混沌状態になっていた頃、その中から頭角を現したのがフランク族の王クローヴィス(在位481年~511年)。フランク王国を建国し、カソリックに改宗した。

 フランク王国は次第に勢力を大きくし、8世紀の後半、カロリング朝のカール大帝のときに、今のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる王国をうち建てた。791年にはウィーンにも入城する。そこで、アンカー時計の2番手はカール大帝である。

 なお、前回のオーストリアツアーのときは、「ホテル・ヒルトン・ダニューブ」に泊まった。ウィーンの郊外にあり、裏をドナウ川が滔々と流れていた。だが、この流れは人工の流れ。ドナウ川はもともとウィーンの旧市街の北辺を流れていたが、幾筋にも枝分かれしてよく氾濫を起こした。そのため、19世紀に流れをまとめて、一直線の人工の大河に造り替えた。

 その流れから枝分かれしたドナウ運河が、実は古代ローマ以来、ドナウの本流が流れていた川筋である。

      ★

<ウィーン発展の礎を築いたオーストリア公レオポルト6世(在位1198年~1230年)>

 せっかく統一されたフランク王国は3分割され(ゲルマン人は嫡子相続ではなかった)、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型になった。(なお、スペインは、地中海を渡ってきたイスラム勢力が王国をつくっていた)。

 9世紀になると、東方から騎馬遊牧民のマジャール人が侵攻してきて、896年にはウィーンも占領された。彼らは強く、西へ西へと、南ドイツ、北イタリアまで侵攻し略奪を繰り返した。防衛の先頭に立ったバイエルン公や司教様にも戦死者が出たほどだ。

 神聖ローマ帝国の皇帝だったオットー2世は、マジャール人を防ぐために東方辺境伯を置き、バーベンベルグ家のレオポルト1世を任命した。996年の公文書に「東方の国(オスターリキ)」という言葉が登場し、オーストリアは996年をもって建国の年としている。

 さて、バーベンベルグ家は幾世代もかけて、北方のスラブ、東方のマジャールと戦いながら勢力圏を拡大し、12世紀にウィーンに到達した。そこで、時の皇帝フリードリッヒ1世は、バーベンベルグ家を「東方辺境伯」から「オーストリア公」に昇格させた。

 12世紀末、ウィーンの人口は増え、オーストリア公のレオポルト5世はウィーンの城壁を現在の旧市街の範囲まで広げた。そのための資金には、十字軍から帰国中に捕らえた英国の獅子王リチャードの身代金を使ったという。

 次のレオポルト6世は、街道を四方に通し、産業を興隆し、市民の自治を認め、ウィーンを興隆へと導いた。ケルントナー通りはこのときに造られた街道で、地中海貿易で興隆期を迎えようとしていたヴェネツィアに通じている。そこで、アンカー時計の3番手はレオポルト6世(在位1198年~1230年)。(4番手は吟遊詩人なので省略)。

      ★

<華やかなハプスブルグ帝国の都の時代(1273年~)>

 13世紀の半ば、バーベンベルグ家は後継ぎがなくなり、断絶する。

 ちょうどその頃、大空位時代を経て、神聖ローマ帝国皇帝にハプスブルグ家のルドルフが選出された。ハプスブルグ家はスイスの小豪族に過ぎなかったが、諸侯は皇帝権力を弱めるため弱小豪族を皇帝にしたのだ。

 ドイツは、フランク王国の血筋が絶えた後、諸侯による選挙で王を決めるようになっていた。

 自領を増やしたかった皇帝ルドルフ1世は、空き家となっていたウィーンに入城する。しかし、この人は気さくな人柄で、人の話をよく聞き、人気のある君主だったから、ウィーン市民は歓迎した。

 その後、ハプスブルグ家はスイスの父祖の地を失っていき(スイスの独立)、名実ともにオーストリアを本拠とするようになった。田舎町のウィーンも帝都ウィーンへと発展していく。そこで、アンカー時計の5番手はハプスブルグ家最初の皇帝ルドルフ1世(在位1273年~1291年)。

 6番手には、ウィーンのシンボル、シュテファン大聖堂を完成させた建築家が登場する。

 7番手はハプスブルグ帝国の大発展の基を開いた皇帝マクシミリアン1世(在位1493年~1519年)。

 8番手と9番手は、オスマン帝国の16万の大軍に包囲されたウィーン(第2次ウィーン包囲)(1683年)を、1万6千人の守備軍で守り抜いた市長と軍司令官。ウィーンを守り抜いているうちに、オーストリア、ドイツ諸侯、ポーランドの7万の援軍がやって来て、オスマン軍を撃破した。

 10番手は、第2次ウィーン包囲のあと、16年間に渡る対オスマン帝国との戦いで、オスマンの勢力圏を大きく後退させたプリンツ・オイゲン公。

 11番手は、マリア・テレジアとその夫(在位1740年~1780年)。12番手は音楽家ハイドンとなる。 

       ★

<リンクを1周する>

 シュヴァーデンプラッツに出て、リンク(環状道路)を回る1番と2番のトラムを乗り継ぎながら1周し、所々で下車して見学した。

  (リンクを走るトラム)

 オスマン帝国による第1次ウィーン包囲のとき、ウィーンの城壁は大砲がない時代に築かれたものだったから、オスマン軍の得意とする大砲攻撃にさらされて市民は恐怖の日々を過ごした。その年は天候が不順で、オスマン軍がウィーンに到着したときは秋も深まっており、なお雨が降り続いて、冬の到来をおそれたオスマン軍は早々に撤退した。ウィーンは気象に助けられたのだ。

 当然、第2次のオスマン軍の襲来があることが予想された。そこで、オスマンの大砲攻撃に備えて、町を囲む城壁の前面に分厚い堡塁を付け、堡塁の上には大砲を並べた。その外側に堀。さらにその外側は、建造物も樹木も取っ払い、幅500mもの空き地帯を巡らせた。当時の大砲の射程距離を考慮したもので、敵軍は敵が身を隠す遮蔽物がなく、近づけば城壁の上からは狙い撃ちされる。

 この防衛施設によって、1683年の第2次ウィーン包囲のときには、16万のオスマン軍を防いだ。

 しかし、19世紀初頭、ナポレオン軍の攻撃を受けたときは、空き地帯の遥か後方から巨砲で攻撃され、城壁も空き地帯も無用の長物になった。

 19世紀中頃、皇帝フランツ・ヨーゼフは、反対する軍部の声を退け、この防衛施設を完全に撤去させた。そして、その跡地を、広いリングシュトラーセ(環状道路)に変えた。さらに残る広大な空き地は公と、民への払い下げによって、美しく華やかな建造物や公園が造られていった。

 ルネッサンス様式の美術史美術館と自然史博物館、民主政治発祥の古代ギリシャにあやかったギリシャ神殿風の国会議事堂、市民共同体の理想としてベルギーのブリュッセルの市庁舎を模したネオゴシック様式の新市庁舎、ブルク劇場、ルネサンス様式のウィーン大学、双塔をもつネオゴシック様式のヴォティーフ教会、アール・ヌーヴォ様式の駅舎、バロック様式のカールス教会、そして市立公園など。

 市立公園のヨハン・シュトラウス像は、台座を修理中だった。

(ネオ・ゴシック様式の新市庁舎)

 ネオ・ゴシック様式の新市庁舎は壮麗だが、市の職員はここで働いていないそうだ。従って、市民も来ない。市民がこの建物を訪れるのは年に何回かの大舞踏会のときだけ。あとは、外国からの賓客があったときに使われる。いつもは市長がこちらにいらっしゃるとか。前回のツアーの時、その地下の食堂で食事した。大阪府庁の食堂をイメージしていたが、豪華に装飾された壁面をもつ宮殿風のレストランだった。もちろん、観光客用のレストランで、食事の内容までが高級というわけではない。

 (双塔のヴォティーフ教会)

 双塔が美しいヴォティーフ教会は、外観に比べて中はわびしい。教会の前に掲げられたコマーシャル用の看板には少々あきれた。

      ★

 途中、疲れて「カフェ・ラントマン」に入った。

 パリのカフェは混んでくると、テーブルとテーブルをくっつけて客を入れる。右隣の男女が雀のようにしゃべり、左隣の男女が何か熱心に議論していても、その間の小さなテーブルの小空間はわが空間だ。それに、外のテラス席が空いていたら、人々は外の席に座る。イタリア人もフランス人も、そして私たちのような旅人も、テラス席が好きなのだ。室内の席に座る人も、一人でくつろいでいる人も、常連の近所のおじさんたちも、ガラス越しに外を見ている。外を歩くオシャレなマダムや美しい街並み眺めているのだ。外を歩く人も、テラス席やガラスの中の人を眺めて行く。一言で言えば、パリのカフェは開放的なのだ。

 ウィーンのカフェは、テラス席はあまり見かけない。中に入ると、天井が高く、柱は大理石だったりして、高級感がある。そこで孤独に新聞を読んだり、時には政治情勢をディスカッションしたり。「カフェ・ラントマン」に入った時、あちこちの席にリザーブの札が置いてあった。毎日、時間になると、いつもの自分の席に座るということなのだろう。

 「私は気が向くと、ヘーレン通りの『ツェントラール』やグラーベン通りから南に入った『ハヴェルカ』に行ってほの暗い世界で時を過ごした。特に秋から冬にかけて、淡くなった窓外の陽射しを眺めながら新聞を読み、いつも携えているノートに心に浮かぶ感想を書きとめたりする」(饗庭孝男『ヨーロッパの四季』(東京書籍)から)。

 それに、特筆すべきは、ウィーンのカフェは、中央の一角にガラスケースがあって、様々なケーキが並んでいることだ。番号が付けてあり、カウンターで番号を言って注文する。マダムやマドモアゼルだけでなく、紳士も食べている。私も一度、食べてみたが、1個が大きく、それに甘すぎる。

 パリのカフェでケーキを食べている人は、まずいない。

      ★    

 古代ギリシャの神殿風の国会議事堂。

 フォルクス庭園のバラ園は見事というほかない。

  (フォルクス庭園)

 また「天満屋」で晩飯を食べ、今日の見学を終えた。

 明日は、列車に乗って国境を越え、ハンガリーのブダペストへ行く。

 ガイドブックを見ると、ウィーンほどには治安は良くないようだ。不安もあり、緊張もするが、それでも、未知へ向かうのは心楽しい。

 

※ 2022年も大晦日。来年は今年よりも朗らかな年になりますように。

 皆様がご健勝で良い年をお迎えになられることを心から祈念いたします。。来年もまた

 

 

 

 

 

 

 

 

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