(金刀比羅宮から讃岐平野を見る)
金刀比羅宮、ことひらぐう。こんぴらさん。
「世俗的」というイメージがあり、長い間、足が向かなかった。
★
縄文・弥生の昔から、海上を行く海人たちは、目印になる、印象的な岬の突端や山を、神のおわすところとして崇敬した。
先に書いた厳島神社(その後ろの霊峰・弥山)もその代表的な例であるが、日本列島の海岸線には、数え切れないぐらい鳥居があり、その奥の森の中に社があり、さらにその上にこんもりした神体山がある。
そのなかでも、特に船乗りたちの厚い崇敬を集め、全国の金刀比羅神社の総本山になっているのが、讃岐の象頭山(琴平山)である。その中腹に金刀比羅宮はある。
( 神社は象頭山の中腹にある )
祭神は、海の彼方から波間を照らして現れた神とされる、大物主命。
それが中世に、本地垂迹説で、仏教の金毘羅さんと習合する。
コンピラはインドの神様で、釈迦を守った十二神将の一人、クンビーラ。彼はガンジス川のワニの化身だそうで、それが日本に入ってくると龍神に見立てられた。龍と言えば、古来から雨乞いの神である。
かくして、船乗りや漁民だけでなく、たちまち農民の信仰も得るようになる。
そのこんぴらさんが全国の庶民の間に爆発的に人気を広げたのは、世も治まった江戸時代の中期のこと。
西ヨーロッパでも、近世になると、聖地・聖物巡礼を兼ねた「旅行」が盛んになり、旅行業が生まれ、ツアーが組まれるようになるが、日本でも、江戸時代、伊勢神宮参拝やこんぴらさん参りが盛んになり、庶民の間で講が組まれた。
「こんぴら船船‥‥」という民謡が歌われ、江戸や大阪から「こんぴら船」が出されて、年間500万人が参拝したという。大変な賑わいである。
かくして、架空の人物であるが、あの森の石松も、清水の次郎長親分の名代で、こんぴら詣でをすることになる。
★
そういう繁栄と賑わいが、ご利益主義とも重なって、俗っぽいイメージを形成したのであろう。
まあ、一生のうち一度は、「こんぴらさん」というちょっと得体の知れない信仰の地に行ってみるのも悪くないと、墓参で四国に行ったついでに寄ってみることにした。
「こんぴらさん」のもう一つのイメージは、階段。
若いころならともかく、… とにかく運動靴を履き、ホテルの玄関で勧められて杖を借り、「精神一到」の意気込みをもって、朝、宿を出た。
(大門)
大門までは駕籠もあるそうだが、ここから神域に入る。これ以後は、茶店もない。すでに365段。
本宮までの階段は785段。
西欧の大聖堂の塔に昇るような、急で、連続したらせん階段をひたすら昇るというようなことはなく、… 山の中の木立に囲まれ、10段か20段も昇れば、平坦な道を歩き、そのうちまた石段があるという感じで、樹木の中を道は曲がり、そこここに小さな社があり … 杖を突き、足元を見つめ、一段ずつ、一歩ずつ昇っていく。
時々、立ち止まって一息入れ、汗を拭く。
( 本 殿 )
ついに本殿に着いた。
大門をくぐって以来、世俗的なものは全くなく、山に深く分け入った分、晴朗にして、神聖な地にやってきたという感じがして、すがすがしい。
風が吹き、讃岐平野が一望に見渡せた。
(神官と巫女)
先ほど渡殿を歩いていた神官と巫女が、縦一列に並んで、向こうから地面を歩いて来た。
列の最後尾を歩く若い、小柄な巫女二人の歩き方を見て、前を行く神官のおじさんたちと違って、これはアスリートの歩き方だ!と直感した。
地上から本殿までの785段、いや奥社までの1368段を、日に何度も、走りあがり、走り降りているような?鍛えられた歩き方だった。
★
下りで、一休みしている80歳のおじさんと話した。苦しそうだった。
しかし、そのおじさんが先ほど立ち話をしていた二人の老人は、このおじさんより、さらに年上だったと言う。自分より年上なのに、自分よりずっと元気に昇って行ったと、感心していた。
二人とも、かつて海軍兵学校の生徒だったと言っていたそうだ。毎年、二人で参拝に来るとも、言っていたそうだ。
★
この社と杜は、古来から、船乗りたちの信仰の対象だった。
戦前には、帝国海軍の慰霊祭が行われ、戦後も海上自衛隊の殉職者の慰霊祭が行われると言う。
ご利益主義の世俗的な神様と思っていたのは、どうやら先入観・偏見であった。
今も、あの大戦中、遥かな海原で亡くなった先輩や上官の慰霊のため、この神社に参拝する老いた男たちがいる。多分、足腰が立たなくなるか、病に倒れるまで、あと何年か、あの老人たちは参拝をし続けるのであろう。
心の礼儀のあるところに、神はおわす。