( 大和川の白い雲 )
情報化の時代だから、健康づくりとしてのウォーキングの効能や、歩き方の基本などについて、それなりの知識はあった。また、健康のために歩いている先輩・知人も周囲にいた。
リタイアを契機に一念発起。40分ほどかけて住んでいる住宅地を1周してみた。が、運動といっても、若いころにやった草野球の楽しさなどと比べると、いかにも単調で退屈。つい億劫になり、出不精になる。
転機になったのは、ずっと年下の友人の定年退職を祝って、ごく親しい者数名が集った飲み会の席。
彼は仕事に前向きで、仕事がよく出来たから、出世もしたが、何より人懐っこく温かい人柄で、一緒に仕事をして楽しい男だった。
しかし、リタイアする前の数年は闘病生活を余儀なくされた。周囲や部下の理解と助けもあって、何とか病を克服して、2ヶ月前にゴールのテープを切る。今は、お酒を飲める程度に回復した。
「当面の目標は、あと5年、生きることです」と、気負うことなく言うところが彼らしい。
「朝は、『まだ現役』の奥さんを仕事に送り出したあと、午前中に70分ほどかけて、散歩を愉しんでいます」。
‥‥ 70分! すごい! と思った。病み上がりの彼でも、毎日、それだけ歩く。生き方が自分のようにぐうたらではない。
と同時に、彼ならきっと、健康のためにというような義務的な感じではなく、あせらず、のんびりと、楽しんで、ごく自然に70分を歩いているに違いないと思った。
そういう歩き方もあってよい、と思った。
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仕事には、それぞれに、どうしてもやり抜かねばならないという目標がある。
それはそのまま、生きがいにもなる。仕事は生きがいだ。
そのために、まず健康であらねばならないと、健康づくりもするが、逆に、健康など構っていられないくらい打ち込むこともある。
仕事をリタイアした今は、そういう一途な目標はないし、人生において、そういう目標が不可欠というわけでもない、と思えるようになった。日々楽しく、生を慈しむ、そのこと自体が目標である。
健康を保持するために散歩するのではなく、散歩そのものが楽しいから、散歩をするのである。
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歩くときには、それなりにスポーティーに歩くが、必ず小型のカメラをぶら下げて行く。
立ち止まってカメラを構えている時間も、結構ある。
西ヨーロッパの美しい街並みや牧歌的な田園風景を飽きるほど見てきた眼に、日本の、しかも見飽きているはずのわが家の周辺の平凡な道が、なかなか捨てたものではないぞ、と見えてくる。
季節の移り変わりに応じて変化する木々や草花の面白さ。優しい青空に浮かぶ白い雲。川辺の茅やススキに明暗を与える光線の美しさ。ローカルな電車も、小さな杜や社も、道端の石仏も、遊ぶ子らも、家々の佇まいも、それぞれに魅力的だ。
( あぜ道のタンポポ )
( 川原で遊ぶ小学生たち )
( 画面右端の杜は久度神社 )
( 久度神社の手水舎 )
久度神社は有名な神社ではないが、全国の神社一覧である「延喜式神名帳」(927年)に載っている式内社。少なくとも平安時代初期には、朝廷から格式ある神社として承認されていたことになる。
おそらく奈良時代からずっとここにあった。
神を祀る社があったから、「杜」という形で日本の自然も守られ、戦後の宅地造成の波からも残った。
( 久度神社 )
手水舎はいつも清浄にされ、本殿にはいつもお供えがしてある。
自然石を積み重ねたような風情の境内の石灯籠には、「大和川改修工事従業員有志」と刻まれていた。
工事の安全と無事を祈ったのか、或いは、いかなる暴雨にもこの堤防が耐えるようにと祈願したものか。境内の裏は、大和川が流れる。