( 宇佐神宮 )
イハレビコと兄のイツセは高千穂の宮で相談して、天下を統治するために「東に行かむ」と決め、「日向より発」った。「豊国の宇沙に至りしときに、その国人 (クニヒト)、名はウサツヒコ、ウサツヒメの二人、足一騰宮 (アシヒトツ アガリノミヤ) を作りて、大御饗 (オオミアエ) をたてまつりき」。 (古事記・中つ巻・神武天皇)
神武東征の始まりの場面である。
兄弟は、この国を治める最良の地を求め、東に行くことを決めて、なにがしかの軍勢を率い、高千穂を出て、日向から船で出発した。
最初に寄港したのが豊前の国の宇佐である。その地の豪族、ウサツヒコとウサツヒメ (夫婦or兄妹) は彼らを歓待した。「足一騰宮 (アシヒトツ アガリノミヤ) 」とは、宮殿の四方の柱のうち、3本は短く崖上にあり、残りの1本は川から突き出した形に建てたるものだという。川に突出して建てたのは、眺望が良いからではなく、危険な動物や敵の襲来を防ぐ意味があったのだろう。しばらく滞在できるよう、二人のためにこのような宮まで建てて、饗応した。
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宇佐のある、周防灘に注ぐ駅館川 (ヤッカンガワ) 流域の平野は、古代人にとっても魅力的な土地であったらしく、弥生時代の大規模な環濠集落が発見され、数百に及ぶ小規模な古墳からは銅鐸や銅鏡が出土している。また、6基ある前方後円墳が、古墳時代に入ってからの宇佐の豪族と大和との結びつきの強さを物語っている。
地図を広げると、宇佐地方は、川を通じて海に面し、その海は内海のように関門海峡や本州の周防の国 (山口県南部) とを結んでいて、海運を通じての本州との往来が盛んであっただろうと想像される。 事実、宇佐氏は航海民の首長であったという説もある。
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羅漢寺から夕刻迫る宇佐神宮へ。一度はお参りしてみたい神社だった。
「八幡」と名の付く神社は全国に14,800社を数え、稲荷神社に次ぐ神社界の一大勢力であり、宇佐神宮はその総本山である。奈良県の、わが新興住宅地 (とは、もう言えないが、旧村ではないので) の秋祭りも、近くにある小さな八幡さまの社の祭りとして営まれている。
それに、司馬遼太郎が「この神は風変わりなことに巫 (シャーマン) の口をかりてしきりに託宣をのべる」「それももっぱら国政に関することばかりで、よほど中央政界が好きな神のようであった」と言っている。「政治好きな」神様で歴史に登場するから、歴史好きなら一度は参詣したくなるというものだ。
その最初は、聖武天皇の東大寺造営を支持する託宣を出して帝に気に入られ、草深い九州の地からいよいよ全国区となって、奈良の都へ進出した。手向山八幡宮である。
ついで、奈良末期の道鏡事件の勇み足託宣を経て、都が平安京に遷都されると、京都にも進出した。石清水八幡宮は朝廷の篤い信仰を受ける。
やがて祭神が応神天皇だというので、源氏の氏神となり、武士の政権が鎌倉にできると、鶴岡八幡宮がしばしば政治の舞台として登場するようになる。
まことに、「他に類を見ない神社」 (『 この国のかたち 五 』) である。
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だが、八幡神とはどういう神様なのか、よくわからないらしい。
現在の宇佐神宮のそばに、御許山 (オモトサン) という山がある。標高647m。その山に3つの巨石があるそうで、岩は神が降り立つところだから、土地の豪族・宇佐氏がこれを聖なる磐座 (イワクラ)として祀った。神代といってよいような遠い昔の話である。
「この島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさを思い、奇異を感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」 (司馬遼太郎『この国のかたち 五』)
やがて、いつの頃からか、御許山 (オモトサン) に降り立つ神について、比売(ヒメ)大神という神であるとの信仰が流布する。ヒメだから女神であるが、固有名詞とは言えない。とにかく宇佐の地主神となった。
のち、3つの磐座に降り立つ女性の神様だから、海人系の宗像氏などが祀る宗像三女神 (宗像大社や厳島神社などの祭神) と同じ神様だろうということになって、今、二の御殿に祭られている。
宗像氏と同じように、宇佐氏も海人系だったのではないかと考えられている。武光誠氏は、その著『知っておきたい日本の神様』のなかで、「古代の宇佐は、瀬戸内海と大陸に向かう航路との中継地として重んじられていた」「宇佐氏は航海民の首長だった」と言う。とすれば、東征に出発したイハレビコが最初に宇佐に寄港したのは、的確な判断と言うべきであろう。これから先の航海の情報を得るためにも、優秀な船乗りを得るためにも。
宇佐氏が祀った海神が、八幡神である。その八幡神とは?比売(ヒメ)大神とは?
話はややこしいが、この地方にはもともと道教や公式伝来以前の仏教などの影響も受けたシャーマン系の信仰が伝来していた。その中心になった氏族が渡来系の辛島氏であるという。その祀った神がヤワタの神であったというのだ。やがて、宇佐氏と辛島氏は共同して社を建てて、渡来の神と古来からの神とを習合させた。「原宇佐神宮」である。
この点、黒潮に乗って北から、南から、東から、流れ着いたものを熟成させ、融合し、自らの固有の文化に育て上げていく、融通無碍なこの列島の文化を象徴していると言えよう。8世紀には、宇佐八幡宮は、伝来してきた奈良仏教と自分たちの神とを集合させ、日本で最初の神仏習合の神社になった。
しかし、この神様は、この程度では収まらない。話はさらに飛躍するのである。
現在の宇佐神宮の広々とした境内の杜のなかに、菱形池という草深く、神秘的な雰囲気の池がある。沼といってもよく、かなり大きい。
社伝によれば、西暦571年、この菱形池のほとりの水の湧く所(御霊水)に、光輝く3歳ぐらいの童子が現れ、「われは誉田 (ホンダ) の天皇 (スメラミコト) 広幡八幡麿 (ヒロハタノ ヤハタマロ) なり」と名乗ったというのである。もっとも、この伝説が実際に登場したのは8世紀のことらしい。そして、それ以前から、北九州では、応神天皇、神功皇后神話が流布していたらしい。
( 御霊水を祀る )
かくして、謎多き八幡神(ヤワタノカミ)とは、突然、誉田別尊 (ホンダワケノミコト)、すなわち、古代の英雄的な大王である応神天皇ということになったのである。
今、一の御殿には八幡大神(応神天皇)、二の御殿には比売大神(宗像三女神)、三の御殿には応神の母の神功皇后が祭られている。
いずれにしろ、日本の神道では珍しいシャーマニズム或いは「神託」によって、奈良時代の聖武天皇~淳仁・称徳天皇の時代に、八幡社は全国区になった。
(なお、神道では、神官のシャーマンは認めない。清々しさが、神道である)。
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しかし、まあ、こういうあれこれの詮索を、宇佐の神さまは、きっと笑っておいでだろう。
「その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。 神名を問うなど、余計なことだ」 (『この国のかたち 五』)。
静かな参道を行くと大鳥居があり、その向こうは奥深い。
石段を上がると、上宮がある。
( 上宮への石段 )
一の御殿には八幡大神(応神天皇)、二の御殿には比売大神(宗像三女神)、三の御殿には神功皇后が祀られていると、人は言う。
( 上 宮 )
下宮も同じ神さまを祀る。世俗の願い事はこちらでするのだそうだ。
( 下宮への鳥居 )
「政治好き」と評されたこの地の神様の経歴とは趣を異にして、広い境内は神社らしい清浄さと、神代の世界に誘うような斧の入っていない古代のままの常緑広葉樹が繁って、いかにも奥深い杜の中である。
そこここにドングリの実が落ちている。
帰り道。夕方の参道をやってくる地元の女子高生がいた。受験のお願いにしては、少し早いが … そういうご利益主義とは関係ないか … 。さすが宇佐で育った女子高生
この日は、宇佐市内の旅館で泊まった。