(大阪府立弥生文化博物館の卑弥呼像)
今回も、歴史好きの方には自明のこと、そうでない方にとっても、ちょっと調べればわかることばかりの内容だが、私自身の覚書き帳でもあるので、どうかご容赦いただき、読み飛ばしていただきたい。
今回は、石田日出志 『 シリーズ日本古代史1 農耕社会の成立 』、吉村武彦 『 シリーズ日本古代史2 ヤマト政権 』 (いずれも岩波新書) などを参考にした。
★
< 奴国 (ナコク) と伊都国(イトコク) >
この紀行の題を、「玄界灘に古代の日本をたずねる旅」 としたが、ひとくくりに「古代」と言っても、白村江の戦いは7世紀、『魏志倭人伝』 に登場する「奴国」と 「伊都国」は 「邪馬台国」の時代だから、古墳時代に入る直前の3世紀、そして、『後漢書東夷伝』 に登場する「奴国」はまだ弥生時代の1世紀である。その間だけでも実に600年の時間の流れがあり、仮に2016年を基準にすれば、室町時代までさかのぼることになる。
そんなことを考えていると、奴国や伊都国は遥かに彼方で、白村江の戦いはより近い出来事に感じられてくる。
さて、太宰府の水城から博多湾までは、直線距離で12~13キロ。「奴国の丘歴史公園」は、その途中、水城から直線距離にしてわずか4キロ余のところにある。ということは、2~3世紀のころにさかのぼれば、水城や太宰府の辺りは、「奴国」の勢力圏だったに違いない。
一方、「奴国の丘歴史公園」から、博多湾にほぼ平行して西の方角、直線距離にしてざっと20キロのところに、「伊都国歴史博物館」はある。車で約1時間の距離である。
「奴国」 と 「伊都国」 は、「国」というよりも 、「クニ」 と呼ぶべき時代から、北九州の玄界灘・博多湾近くにあって、先進的な大陸の文化を吸収しながら成長していった。西暦で言えば、BC1世紀からAD3世紀のころで、考古学では、弥生時代の中期から晩期に当たる。
★
< 中国の史書にみる古代の日本 >
文字が普及していなかった頃の古代日本の姿を伝える中国の史書は、『 漢書地理誌 』、『 後漢書東夷伝 』、『魏志倭人伝 』 だが、そこから古代日本に関する事項をメモ風に抜きだすと、次のようになる。
< BC202 秦が滅び、前漢建国>
< BC108 前漢の武帝が朝鮮半島北部に楽浪郡を置く >
〇 BC1世紀 「分かれて百余国」の時代
『漢書地理誌』に、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。歳時を以て来たりて献見す」 とある。前漢が置いた楽浪郡に、倭の国々は使者を送っていた。
考古学的には弥生時代中期に当たり、この時代の北九州の遺跡としては 須玖岡本遺跡 (のちの「奴国」)、三雲南小路遺跡 (のちの「伊都国」) がある。二つの遺跡からは「前漢の鏡」をはじめ、銅剣、勾玉などが発掘され、北九州が経済的・文化的に先進地域であったことが分かる。
ただ、同じ頃、北九州だけでなく、列島各地に大規模な環濠集落が発達していた。吉野ヶ里遺跡 (佐賀)、唐古・鍵遺跡 (奈良)、池上・曽根遺跡 (大阪)などで、その一つ一つが 「クニ」 と呼べるものであった。
(池上・曽根遺跡)
< AD24 後漢興る >
〇 AD57 倭の奴国王が、後漢に朝貢し、金印をもらう
「光武(帝)、賜うに印綬をもってす」とある。考古学的には、弥生時代後期前葉になる。1784年 (江戸時代)、博多湾の沖合の島、志賀島 (シカノシマ) で、「漢委奴國王」と刻まれた金印が偶然発見された。何故、志賀島 (今夜の宿のある島) なのかは、わからない。だが、文字が漢代の隷書体であること、現在の印鑑とは逆に文字がくぼんだ形であること、極めて精巧に、後漢時代の寸法で作られていることから、本もの間違いなしとされ、国宝に指定されている。
〇 AD107 倭国王の帥升が、後漢皇帝に謁見
2世紀初めにはクニグニを代表する倭国王が存在し、大陸との外交に当たっていたと推定される。
2世紀の後半になると、「弥生の墳丘墓」と呼ばれる数十mから100mに及ぶ大きな墳丘墓が造られるようになった。それは出雲、吉備、大和、丹波、北陸、関東の千葉にまで広がっている。一方、後漢の衰亡に合わせるように、北九州勢力は地盤沈下する。
〇 AD170~190頃 『魏志倭人伝』に「倭国の大乱」の記述
「(その国、もと男子を以て王となし、とどまること七、八十年、) 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち一女子を共立して王となす」とある。AD180~190頃、クニグニによって一人の少女が共立され、大乱は治まった。倭国の女王・卑弥呼(ヒメミコか??)の登場である。都は邪馬台国(ヤマト国)に置かれた。
< AD220 後漢滅亡し、三国時代へ >
〇 AD239~240 卑弥呼は使者を魏の帯方郡へ派遣。翌年、魏より「親魏倭王」の称号をもらう。
※ 『魏志倭人伝』によると、盟主・邪馬台国を中心に30ほどの国が従属していた。
※『魏志倭人伝』に記述されている、有名な邪馬台国までの行程は、次のようである。
(伊都国歴史博物館の展示から概念図)
帯方郡 → 狗耶韓国 ( 狗耶 クヤ は、現在の釜山付近にあった金官国。カヤ、任那などととも)
→ 対馬国 → 一支 (イキ) 国 ( 壱岐)
→ 末蘆 (マツラ) 国 (佐賀県・唐津市付近)
→ 伊都国 (福岡県・糸島市付近)
→ 奴国 (福岡県・春日市付近)
→ 不弥 (フヤ) 国 (福岡県・宇美町付近??)
→ 投馬 (トウマ) 国 ( 不明だが、瀬戸内海行程なら吉備、日本海行程なら出雲か?? )
→ 邪馬台国 (奈良県・纏向 マキムク 遺跡)
〇 AD247 卑弥呼が狗奴 (クナ) 国との戦いを前に、魏に援軍を求める使者を送る
〇 AD247or248 卑弥呼死ぬ
〇 その後、男王が立つも、相争い1000人が死ぬ。13歳の台予or壱予を立てて治まる
< AD265 魏滅びる >
< AD313 高句麗が勃興し、楽浪郡を滅ぼす >
< 316 西晋滅び、南北朝時代へ >
< 346 百済建国 >
< 356 新羅建国 >
★
「奴国」の「奴」は、那珂川の「那」であろう。中華思想で、周辺国には卑しい文字がわざわざ当てられた。「那の国」である。すると、音の響きが心地よい。
ついでながら、「邪馬台国」の「台」は、「と」 と読む。「やまと」 国と読むのが正しい。これは、国語学では、ほぼ確定である。
詳しいことは省くが、当時、「と」 という音は2種類あった。音の違いを書き表すには、当てる漢字を使い分ける。「台」という漢字を当てる 「と」 は、近畿の 「大和」 の 「と」 である。邪馬台国九州説は、九州にも「山門 (やまと) 」 がある(福岡県柳川市)と言うが、「山門」の 「と」 は、もう一つの 「と」 で、「台」 という漢字を当てることはない。現代日本語で 「ライト」 と言っても、英語圏で 「right」 と 「 light」 を混同することがないのと同じである。
考古学も日進月歩で、多くの状況証拠が、邪馬台国は奈良県の大和だということを指し示している。
★
< 鉄器が少ない >
だが、問題は残る。
時代は鉄の時代に入っていた。鉄は貴重である。クニグニの首長たちが盟主国に期待するのは、倭国を代表して半島から鉄を輸入すること (この時代、鉄の素材は半島南東部でしか産しなかった)、及び、それを各首長に分配する采配の力量であった … と、歴史学者は言う。
ところが、今、考古学会で論争が起こっている、そうだ。
弥生時代の後期になっても、九州 (北部、中部) や山陰や丹後などと比べて、大和及びその周辺部から発掘される鉄器が少ないのである。
邪馬台国=大和説の人たちは、「見つかっていないだけ。そのうち、出てくるよ」 と言っていたが、歳月を経て、むしろ発掘される鉄器の質量に差は開くばかりだ。そこで、「いや、鉄は加工・再利用できるから出ないんだよ。溶かしてより高度な鉄製品に作り直したら、出てこないよね」と説明した。ところが、大和や近畿圏で発掘された鉄器生産の場の遺跡を見ると、鉄器生産の技術レベルそのものが低いのである。これでは、鉄の後進国ではないか!!
ところが、古墳時代になると、当然のことながら鉄器の発掘量は、大和とその周辺で、飛躍的に増える。
この「段差」は、何なのか??
そもそも古墳時代とは、九州から関東に及ぶ各首長の墳墓が、大和の大王の巨大な前方後円墳の縮小・相似形で造られるようになった時代である。前方後円墳の始まりは、「箸墓」。3世紀の後半のものと推定される。
『魏志倭人伝』には、卑弥呼の死 (247または248年) 後、180mという巨大な墳墓が造られた、と記述されている。
「箸墓」の長さはまさに180mである。(ただし、周囲に幅60mの濠があることが分かり、濠も入れると、さらに巨大な墳墓になる)。
もともと箸墓は卑弥呼より半世紀以上も後の、4世紀初めごろの墳墓と考えられていたのだが、最近の考古学の科学的手法の進化で、もっと古い時期のもの、卑弥呼か、少なくともその後継者の台予または壱予の墓、いやいや完成までに10年、20年はかかるとしたら、やはり卑弥呼の墓だろうとされるようになった。『魏志倭人伝』と考古学が一致したのである。
であれば、邪馬台(ヤマト)国は大和にあり、このときから古墳時代が始まったと考えるべきであろう。
にもかかわらず、なぜ、古墳時代を前にした弥生時代後期になっても、大和において、鉄の文明度は低いのか。なぜ、古墳時代に入ったら、鉄器が飛躍的に増えるのか?? 弥生時代から古墳時代に移行する過程の、この大きな「段差」をどう説明するか?? こういうことで、考古学者は、今、頭を悩ませているのである。
★
< 私の「邪馬台国」幻想 >
そこで、私の幻想がはじまる。1億日本国民の誰にでも許される「邪馬台国」幻想の一つとして ……。
( この 「……」 は、読者を現実ならざる世界に誘う瞬時の時の流れを表している )。
歴史に「段差」があるのは、そこに急激な変化があった、ということであろう。では、「急激な変化」とは何か? 政治的、経済的、社会的変化の中で、急激な変化とは、「政変」以外に考えられない。
戦後の歴史学者や考古学者は実証主義者であるから、というよりも、反『古事記』『日本書紀』を旗印にしているところがあるから、『古事記』 や 『日本書紀』 に叙述された「神武東征」伝説など一笑に付してきた。
だが、古代史の真実は、しばしば伝説の奥にひそんでいることを、あのシュリーマンも証明した。世の中の進歩は、まずロマンチストが先行し、その後ろを実証主義者があたふたと付いてくるのである。
「神武東征」伝説こそ、この問題を解くカギなのである。
九州の日向からやって来たイハレビコたちは、最初、河内湾を入り、生駒山麓西岸に上陸しようとして、待ち受けていた「邪馬台国」の軍勢に攻撃され、敗退した。その結果、兄を亡くしたうえ、紀伊半島の密林の中を大迂回するという艱難辛苦をしいられた。
第2戦は、大和の南の山間地から始まる。遠い異郷の地で、もう引き返すことができない状況に追い込まれているイハレビコ軍の士気は高く、少数といえども結束は固かった。しかも、彼らは最新鋭の鉄の武具を具え、グルーブの中には鉄器の技術者もいたのだ。
一方、「邪馬台国」側は、先の狗奴(クナ)国連合 (東日本連合) との大戦を、「邪馬台国」連合 (西日本連合) の先頭に立って戦い、勝利したのだが、損害は甚大で、疲弊し、しかも、その直後に高齢の女王卑弥呼が没して、士気は著しく低下していた。
『魏志倭人伝』に、卑弥呼の死のあと、「相争い千人が死ぬ」とある。多分、死傷者1000人くらいの戦いを経て、ヤマトの呪術的な政権は、この九州の日向からやってきた若者たちに王権を譲ったのである。『古事記』の「神武東征」を読めば、最後はいかにも日本的な「国譲り」で終わっていることに気づく。
時代は変わろうとしている、この手ごわい若者たちに期待しても良いのではないか、という声は「邪馬台国」の長老たち(大和、河内周辺の豪族連合)の中から起こり、国は譲られたのである。
このようにして、ヤマト王権は誕生したのだ。
だが、このマイノリティ王権に対して、最初から、「邪馬台国」内の既存勢力や、まして列島各地の首長が治まったわけではない。
新王イハレビコは土地の最有力者の娘を妃に迎えたし、女王卑弥呼を継いだ台予または壱予なる少女は実は新王の妹或いは娘であったが、とにかく呪術的な女王を立てなければ治まらなかったのである。亡き卑弥呼の墳墓=「箸墓」を手厚く造営したのも、イハレビコと台予または壱予であった。それは、かつて誰も見たことがない、中国の皇帝の墳墓を凌ぐ巨大墳墓であった。
しかし、マイノリティであったが、新王権は彼らのやり方も次々と出していった。
自然界の神々を敬ったが、おどろおどろしいシャーマン政治はほぼ排した。
中国の皇帝からもらった銅鏡を首長たちに配って、自らを権威づけるようなやり方もしなかった。
その代わり、各地の首長が亡くなったとき、先に亡くなった大王の墳墓の縮小・相似形の墳墓を造って、ヤマト王権との連帯を示すよう要請した。大王の方も、首長からの求めがあれば、新しい墳墓に葺く美しい淡路島の玉砂利や、石棺用の兵庫県の巨石を、東征の途中で親しくなった野島の海人に海上輸送させた。埴輪職人を多数養成し、各地に派遣して埴輪づくりを一手に引き受け、盟主としての心意気を示した。
半島の新しい効率的な陶器づくりを学んで、大規模な陶器工場を造り、これを上下の別なく全国に配布した。
鉄器生産に力を入れ、武具だけでなく、農具も改良した。
こうして、この新しい王権は、呪術的で内向きな「邪馬台国」とは肌合いの異なる、新しい統治を始めたのである。
ヤマト王権は、「邪馬台国」ではない。「邪馬台国」を受け継ぎながら生まれた、新しい王権であった。
もちろん、世の中が落ち着き、マイノリティーの王権の権威が確立していくには、各方面に四道将軍を派遣するなど、まだ幾世代かが必要ではあったが ……。
…… というのが、私の筋書である。
★
「邪馬台国」=大和説の学者には、「邪馬台国」からヤマト王権へと水が流れるように続いでいくと考える人が多い。
「邪馬台国」=九州説の中には、「神武東征」は「邪馬台国」の東征のことで、それがヤマト王権をつくったと主張する意見がある。九州、九州と、九州にこだわっていたら、その直後に登場するヤマト王権の説明ができない。
私の説は、「邪馬台国」は大和にあった、とする。でなければ、箸墓の説明がつかない。
「東征」したイハレビコは、九州の「日向」から出発した。高千穂のある、日に向かう所だが、今になってみれば、そこがどこかはわからない。北九州でないことは明らかだ。いずれにしろ列島の首長たちとは異なる新興の勢力であった。
ローマ帝国をつくったのも、最初はオオカミに育てられたという伝説を持つ兄弟と、彼らをリーダーとする千人ほどの羊飼いの若者グループだったらしい。それが、今のローマの辺りのクニグニと、戦って合併したり、平和的に合併したりして、知恵ある長老や元気な若者や娘たちを取り込んで、奇蹟のように成長していった。
★
…… とまあ、このように言い、かつ、私が節制努力して少々長生きしたとしても、私が生きている間に、この仮説が立証されるのは、ちょっとむずかしい。
でもネ、実証主義者の目には見えなくても、あるものはあるんだヨ。
★
脱線はこれくらいにして、次回からまた本題に戻りましょう。