ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「奴国」と「伊都国」に立ち寄る … 玄界灘に古代の日本をたずねる旅(7)

2016年06月11日 | 国内旅行…玄界灘の旅

< 「奴国の丘歴史公園」へ > 

 「春日市奴国の丘歴史資料館」のパーキングに車を置くと、すぐ目の前に芝におおわれた丘があった。お天気が良く、自ずから資料館は後回しとなり、のどかな丘の方ヘ足が向く。「奴国の丘歴史公園」だ。

 丘の頂上付近に天文台のドームのような建物が見える。春の日差しがのどかな丘には少々無粋な建物と思いつつ近づいて見ると、入り口は開放され、自由に内部を見学できるようになっていた。

 ドームは出土した遺跡を覆うための覆屋 (フクヤ) だった。

 掲示パネルをななめ読みした。

 春日市一帯は「弥生銀座」と呼ばれ、この丘も須玖岡本遺跡の一角で、この覆屋の中には、発掘された甕棺墓の様子が、発掘された状態でわかるように展示してある。

   ( 覆屋の中の甕棺 )

 さらに ── この丘から200mほど先には他の墓群と隔絶したような墳墓があり、大石の蓋の下の甕棺から前漢時代の銅鏡30面のほか、銅剣、銅矛、ガラスの勾玉などが多量に出土した。

 この墳墓こそ、福岡平野一帯を治めていた王 ── 中国の歴史書にいう「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国。歳時を以て来たりて献見す」の時代の王の墳丘墓に違いない、とされている。

 これらの出土品は、歴史資料館の方にあるが、その王墓の甕棺の上に置かれていた大石は、この丘に運ばれ、樹木の下に囲ってある。

         ( 奴国の丘の王墓の石蓋 )

 気持のよい日差しのなか、ぶらぶら歩いていると、丘のはずれにごく小さな社があった。入口に「熊野神社」とある。ここにもパネルが立てられている。

 江戸時代に畑の中から銅矛用の鋳型が発見された。それを熊野神社が神社の神宝として大切に保存してきた。銅矛の鋳型は珍しく、今は国の重要文化財となっている。

 古代の銅矛の鋳型を神宝として大切にしていたという、ちょっと浮世離れしたゆかしい話である。

   ( 熊野神社と説明パネル )

 「奴国の丘歴史資料館」に入る。

 春日市の遺跡から出土した埋蔵文化財を収蔵・展示している市の施設で、展示物の撮影は禁止だった。

        ★

< 「伊都国歴史博物館」へ >

 「糸島市伊都国歴史博物館」は、奴国の丘から車で1時間弱。 

 三雲南小路遺跡はその糸島市にあり、初期「伊都国」の姿をうかがわせる遺跡とされている。

 糸島市はもとは糸島郡であった。その糸島郡は、律令時代以後明治に至るまでずっと怡土 (イト) 郡と志摩郡の2郡であった。三雲南小路遺跡はその旧怡土 (イト) 郡にある。「伊都国」という名称の由来である。

 三雲南小路遺跡の王墓からの出土品は、須玖岡本遺跡の王墓の出土品と極めてよく似ており、BC1世紀ごろの前漢・楽浪郡との密な交渉を示す。

 また、この遺跡から1.3キロ離れたところで、平原 (ヒラバル) 遺跡が発掘された。

 これは三雲南小路遺跡より新しい時代のもので、弥生時代後期後半の遺跡。1号墓からは日本最大の銅鏡をはじめとする42面の銅鏡、ガラス勾玉、メノウ管玉などの副葬品が発掘され、巫女的な女王墓ではないか、もしかしたらここが卑弥呼の墓では、と騒がれた。

 しかし、『魏志倭人伝』の記述によれば、「伊都国」 は帯方郡から邪馬台国に至る途中にあった国の一つとして紹介されている。つまり、ここを女王・卑弥呼の墓と想定するのは、よって立つ『魏志倭人伝』そのものの否定となり、ムリがある。

 ただ、伊都国は、邪馬台国に至る途中にあった国の一つというだけでなく、『魏志倭人伝』のなかの記述では特別の存在感をもっている。

   その一つが「郡使の往来常に留まる所なり」とあること。郡使は魏の楽浪郡の使いのことで、倭に入ったときに、ここで邪馬台国からの指示を待ち、或いは、出国するときにも一旦、ここに滞在することになっていたのだろう。楽浪郡の大使館があって、楽浪郡の役人が常駐していたのかもしれない。

 この旅に出る直前の3月、新聞に、「伊都国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、国内最古級の硯の破片がが出土した」という記事が出た。楽浪郡の遺跡から出土した硯と一致し、また、50点を超える楽浪系土器も出土したという。西谷正・九大名誉教授の談として、「外交文書や品物の目録作成を、伊都国に滞在する楽浪人が担っていたことをうかがわせる発見だ」。

 もう一つ、この伊都国には、「一大率」という高官が配置されており、その役職は諸国を検察することにあったという記述であること。諸国とは九州の国々のことであろうか??

 以上の二つを考えるとき、卑弥呼の時代の伊都国は、7世紀以後の太宰府の役割を果たしていたことになる。

       ( 伊都国歴史博物館 )

 「伊都国歴史博物館」の展示物はやはり撮影禁止。

 国宝に指定されている中国製の最大の銅鏡、ガラスや碧玉製の勾玉、太刀、さらには甕棺などもたくさん陳列されていた。それらの品々を見て回り、この時代の雰囲気を感じとって、良しとする。

         ( 館内展示室 )

 廊下に出て、二階ロビーのような場所に不気味な姿があり、思わず笑った。ちょっと悪趣味だが、社会見学でここを訪れる小学生たちには、人気者かもしれない。

  ( 館内2階テラスの弥生人 )

        ★

 ここから、志賀島へ向かう。今日の一番のお目当ては「志賀海神社」である。慣れない道だ。志賀海神社に参拝して、夕方、明るいうちに今日の宿の国民休暇村に着きたい。

 

 

 

 

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