(ジェロニモス修道院とポニーテールの女性馭者)
ジェロニモス修道院は、エンリケ航海王子とヴァスコ・ダ・ガマの偉業 (1498年、カルカッタ到達) を讃えて、1502年から1世紀をかけて建設された。リスボンのテージョ川に開けたベレン地区にある。世界遺産。
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< 旅のもう一つの目的は、エンリケ航海王子のサグレス岬 >
ユーラシア大陸の最西端の岬は、ロカ岬である。
従って、「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の一つ目の目的地は、ロカ岬である。
リスボンから西へ、列車で40分のところに、シントラという王家の宮殿が残る美しい町がある。そこを見学してから、シントラ駅でバスに乗り、さらに西へ40分行くと、ロカ岬に達する。2カ所合わせて、リスボンから1日の観光コースである。
日本の旅行社のポルトガルツアーに参加して、ロカ岬に行かないツアーはない。どこの国からの観光客であろうと、ポルトガルに行けばたいてい訪れる定番のコースである。
ポルトガルへ行こうと決めてから、旅行社のツアーに申し込もうかと、何度も考えた。ヨーロッパとはいえ、初めて行く、日本からみれば地の果てのような国ポルトガルのことである。遠い。
ところが、旅行社のツアーの行程表を見ると、フランクフルト空港でなんと5、6時間も乗り継ぎ待ちをして、リスボンに着くのは深夜である。帰りの飛行機も、早朝6時ごろの飛行機に乗るから、その日はホテルを朝3、4時に出発することになる。
もっと便利な飛行便はないのだろうか??
南北に細長く、しかも、鉄道網が張り巡らされているとはいえないポルトガルを観光するには、ツアーに入って観光バスで回る方が明らかに効率的だろう。
だが ……、私には、ロカ岬以外にもう一つ、どんなツアーも行かない、およそ「観光地」の要件を満たさない、荒涼とした、ある岬へのあこがれがあった。
サグレス岬。
ユーラシア大陸の最西端はロカ岬だが、最西南端は、サグレス岬である。
そこは、荒涼とした地で、今はほとんど何も残っていないが、15世紀、エンリケ航海王子が世界最初の航海学校(研究所)をつくり、世界の果てに思い馳せた岬である。
岬の遥か先には、アフリカ大陸の北端がある。そのアフリカ大陸の西岸を進みに進んで行けば、いつかは大陸の南端を回り、インドに行きつくに違いない。
「ユーラシア大陸の最西端ポルトガルへの旅」の二つ目の目的地は、エンリケ王子のサグレス岬である。
サグレス岬へ行くとしたら、…… 自力で行くしかない。
迷った末、自力の旅を選んだ。
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< 110点の旅でした >
今回の旅を評価すれば、この二つの岬に行けたから、それだけで十分満足の80点。
その他は、プラスアルファで、減点法ではなく、加点法。その他の中では、トマールとポルトがとても良かったから、20点×2で、満点をオーバーして120点。
それ以外にも、現地の日帰りツアーに入って主な名所・旧跡を回ったし、もちろんリスボン市内も、1日を当てて散策できたから、それらを合わせて、さらにプラス20点。
ただし、…… リスボンのチンチン電車の中で、ロマのおばさんにスマホをスリ盗られたから (えっ、疲れていて、すっかり油断した!! 悔しい )、 これは減点でマイナス30点。
それでも、差し引き110点の、満足すべき旅でした。
(スマホには黒い皮のカバーを付けていたから、感触からして財布だと思ったに違いない。お互いにがっかりだ)。
(リスボン名物の路面電車)
ヨーロッパの多くの都市は、環境保護の観点からトラムを復活させ、その瀟洒な姿が街並みに溶け込んでステキである。だが、貧しいリスボンは昔ながらの路面電車。でも、それがかえって人気を呼び、観光客でいつも満員になる。すなわち、スリの活躍の場となる。
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< エンリケ航海王子のこと >
エンリケ (英語ではヘンリー) 航海王子については、何も知らなかった。遥か昔、高校の世界史で習ったのかもしれない。しかし、ヴァスコ・ダ・ガマは覚えているが、エンリケは知らない。
知ったのは、司馬遼太郎 『街道をゆく 南蛮の道Ⅱ』 を読んだときである。読んで、エンリケという人に、強く心惹かれた。孤独を愛する、ストイックな男子なら、誰でも彼に心惹かれるだろう。
今まで、このブログで、司馬遼太郎の文章を何度も引用した。話題が一致すれば、私のつたない文章より、国民的大作家の、簡潔にして豊かな文章力にゆだねたほうが良い。
だが、今回の旅は、旅の動機そのものが、司馬遼太郎の著作に発する。故に、今回の旅のうち、リスボン及びサグレス岬への旅の部分は、自ずから司馬遼太郎の旅の追体験でもあった。
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以下、司馬遼太郎 『南蛮の道Ⅱ』 から。 ※ ただし、(年数) は、ブログ筆者が付けた。
「私がポルトガルにきたのは、信じがたいほどの勇気をもって、それまでただむなしく水をたたえていた海洋というものを世界史に組み入れてしまった人々の跡を見るためであったが、この大膨張をただ一人に象徴させるとすれば、エンリケ (1394~1460) 以外にない。かれの死後、艦隊をひきいてインド洋に出て行った (カルカッタ到達 1498年) ヴァスコ・ダ・ガマは、エンリケの結果にすぎない。
ガマの大航海の結果がやがては日本に対する鉄砲の伝来となり(1543年)、つづいてフランシスコ・ザヴィエルの渡来になる(1549年)。また日本に南蛮文化の時代を招来し、そのうえ南蛮風の築城法が加味された大坂城 (1589年) が出現する契機ともなった。瀬戸内海をへてその奥座敷ともいうべき大坂湾に入ってくる南蛮船に対し、貿易家である秀吉が日本の国家的威容を見せようとしたのが、巨大建造物の造営の一目的だったことは、たれもが想像できる。
それより前、秀吉以上に南蛮文化の正確な受けとめ手であった織田信長は、近江の安土城 (1576年) にあって大坂の地を欲し、石山本願寺に退去を命じ、これと激しく戦った。ようやくその湾頭の地を手に入れたものの、ほどなく非業にたおれた (1582年)。
大坂に出るべくあれほどに固執した信長の意図は、想像するに、ポルトガル人たちから、リスボンの立地条件についてきいていたからであろう。リスボンは首都にして港湾を兼ね、世界中の珍貨が、居ながらにして集まるようにできている。信長にすれば、『首都はそうあらねばならない』と思ったにちがいなく、その思想を秀吉がひきうつしに相続した」。
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「残されている晩年のエンリケの肖像は、山林の修行僧のように内面的な顔をしている。面長で、頬は削げ、手入れした形跡のない口ひげがまばらに生え、眉もうすい。両眼は、どこを見ているわけでもない。偏執的とまでいかなくても、ただ一つのことに集中できる性格をあらわしている。服装は粗末で、つば広の黒い帽子をかぶり、僧が日常着る法衣 (ロープ) のようなものを着ているが、その服装どおり、かれは生涯妻をめとらず、女性と無縁だった。
(サグレス岬に立つエンリケ航海王子)
ちなみに、エンリケは航海王子とのちによばれながら、海洋経験は若いころに2度ばかりアフリカに渡っただけのことで、みずから操船したことは一度もなかった。かれは海洋教育の設計者であり、航海策の立案者であり、推進者であった。かれの偉大さは、むしろ海に出なかった、"航海者"であるというところにある」。
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ふーむ。その気質は、昔、映画で観たイギリス人「アラビアのローレンス」を思わせる。エンリケの母はイギリスの王族で、父である若きポルトガル王に輿入れしてきた。(続く)