ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

カッパドキアへ … トルコ紀行(9)

2018年08月14日 | 西欧旅行…トルコ紀行

   ( キャラバン・サライの門 )

第6日目 5月18日 

 今朝はゆっくりと、9時に出発する。朝、荷造りをしてバスに乗り込むには、9時より早いと、あわただしい。9時より遅いと、気分がダレる。もちろん、団体行動だから、そういうことは人前で言わない。

 今日は、コンヤから北東へ進路を取り、カッパドキアまで250キロ、約3時間のバスの旅だ。

 陽光輝く明るいエーゲ海地方から、だんだんとアナトリア(小アジア)の奥深くへ入っていくという感がある。

          ★

キャラバン・サライを経て、カッパドキアへ >

 コンヤから1時間半ほど、スルタン・ハンという町のキャラバン・サライ(隊商宿)に寄った。

 もちろん、これまでのヨーロッパの旅で、キャラバン・サライ(隊商宿)を見たことはない。トルコでは各地に残っていて、その中でもスルタン・ハンは交易の重要な中継地だったから、この地のキャラバン・サライは最大規模なのだそうだ。セルジューク時代の13世紀の建造である。

    ( キャラバン・サライの城壁 )

 「城塞」と言ってよいほどの、高く、頑丈な城壁に囲まれ、装飾が施された門があった。盗賊集団に襲撃される心配もあって、堅固に造られている。 

 城壁の中は、庭と回廊があって、宿泊用の部屋が並ぶ。石造りの個室だから、牢獄のように堅固で殺風景な感もあるが、当時は家具・調度品も置かれていたのだろう。そのほか、食堂、ハマム(公衆浴場)、礼拝堂、ラクダを休ませる場所などもあったそうだ。 

   ( 城壁内の回廊 )

 ガイドのDさんの話では、隊商の一行は、夏は1日40キロ、冬は20~30キロのペースで歩いたそうだ。唐の長安から東ローマ帝国のコンスタンチノープルまでの間、その土地土地の特色ある商品が買われ、運ばれて、別の地域で売られた。商品は、隊商たちによって、いくつもの民族を越え、価値を高めながら、遥々と旅をした。

 シルクロードの終着点のコンスタンノーブルや黒海沿岸の港には、ヴェネツィアやジェノヴァの商船が盛んに入港し、遥々と陸路を運ばれてきた商品を、海上ルートでヨーロッパに運んで巨利を得た。

 今は豊かなアナトリアの高速道路を、丘を越え野を越えて、バスは走る。

 このあたり、車が少ないせいか、道路の真ん中、追い越し車線の上を堂々と走るトラックもいる。日本のパトカーは神出鬼没だが、トルコのパトカーは現れそうにない。

  ( 丘を越え、野を越えて )

 町に入り、信号で停まると、停車した車の間を、パンを売るおじさんがやって来た。美味しそうだ。

   ( パンを売るおじさん )

 トルコでよく見られる光景というわけではない。たまたま目に入って、シャッターをきった。 

 トルコも、ヨーロッパ圏も、肉料理や野菜サラダなどより、パンが美味しい、と思う。栄養の偏りを気にしなくてよいなら、1日3回、パンとワインでよいくらいだ。

 ただ、この日レストランで昼食に食べたマスは美味しかった。シンプルに塩で焼いただけだが、塩加減といい、パリパリのほっこり感といい、最高だった。私だけではない。一行の皆さん、感激していた。久しぶりに日本の焼き魚の味だ。(ヨーロッパのツアーに入ると、1回は「マス料理」が出るが、日本人には不人気だ)。

   車窓に、ハサン山が見えた。標高3268m。「トルコ富士です」とガイドのDさん。ここはほとんどカッパドキアだ。

   ( 車窓からハサン山 )

 カッパドキア地方には、標高3916mのエルジェス山という名峰もある。この「トルコ紀行」の第1回に紹介した偉大な建築家シナンの生まれ故郷はそのあたりとか。

 やがて、カッパドキアらしい風景が、突然、現れた。

        ★

 カッパドキアのこと >

 カッパドキアが行政上どの範囲を指すかは、時代によって大きく変遷したらしい。が、そういう難しいことは置いといて …

 現在のトルコは、まずイスタンブールを中心とした小さなヨーロッパ側と、広大なアジア(アナトリア)側に分けられる。

 広い方のアナトリア地方を更に分ければ、6つの地域になる。

 エーゲ海地方と、その南の地中海地方は、風土も文明も想像がつく。ヨーロッパ的だ。

 それ以外は、中央アナトリア地方、イラク、シリアと国境を接する南東アナトリア地方、ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接する東アナトリア地方、緑豊かな黒海地方 となる。

 そのなかで、我々外国人観光客が思い描くカッパドキアは、中央アナトリア地方だ。

 山岳・高原地帯で、夏と冬の寒暖差が激しい内陸型気候。そこに大奇岩地帯が広がっている。

 カッパドキアのこの景観は、エルジェス山やハサン山の噴火によって噴出された火山灰や熔岩が、地学的な年月を経て、凝灰岩や熔岩層となり、洪水、風、雨、雪などによって浸食・風化されて、固い凝灰岩のみが奇怪な形象として残ったものである。

 この地には、4世紀ごろから12、13世紀にかけ、迫害を避けてこの大奇岩地帯に逃げ込み、洞窟教会や住居をつくって暮らしたキリスト教の修道士や信徒たちがいた。

 彼らが残した遺跡を含め、この大奇岩地帯が、ユネスコ文化遺産に「ギヨレメ国立公園とカッパドキアの岩石遺跡群」として登録されている。

 カッパドキア地方の人間の歴史は、驚くほどに遡る。それは、様々な民族が交差したトルコの歴史そのものである。

 トルコにできた最初の王国は、BC15~12世紀のヒッタイト王国で、カッパドキアはその中心であった。人類史上初めて鉄で武装した集団である。

 BC6世紀には、東方で興ったペルシャの1州となった。

 アレキサンダー大王の東征のあと、独立王国も建てられたが、AD17年にはローマ帝国の属州として併合される。州都はカエサリア(現カイセリ)だった。

 ローマの分裂後は、東ローマ帝国領となる。

 岩窟に人が住み始めたのは4世紀ごろで、初期キリスト教の時代に、迫害を逃れて地下洞窟に隠れ住んだのが始まりだ。

 なお、4世紀のカッパドキアからは、キリスト教界では著名な3人の神学者が出ている。彼らはアリウス派を異端とする論陣を張って、キリスト教神学に名を残した。

 1071年、東ローマ帝国がセルジューク朝との戦いに敗れ、イスラム教徒の遊牧民が多数入ってきて、アナトリアを支配した。

 こういう状況を背景にして、この時代から13世紀にかけても、この荒涼とした大奇岩地帯に逃げ込んでキリスト教信仰を守ろうとした人々がいた。彼らは数多くの洞窟住居や洞窟教会を造ったから、その跡が多数残っている。

 このあと、そして明日1日もかけて、カッパドキアを観光した。

 

 

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