いつもの読売俳壇、歌壇からです。2023年の晩秋から24年の2月ごろにかけて、讀売紙上に掲載された作品からです。
読売俳壇も、読売歌壇も、それぞれ4人ずつの選者の先生がいて、投稿されてきた作品から、お一人が10作品を選ばれます。そして、その中の特に優れた3作品には[評]をお書きになります。
今回、私がとりあげた作品で、先生方の[評]が付いていたのは、なんと2作品だけでした。
私には作品として優れているかどうかを判断する力量はありません。私が取り上げたのは、私の感性に響いたかどうか、だけなのです。
作品が詠んだ対象(例えば旅)を私も好きとか、対象(例えば子ども)のとらえ方が面白いとか、作品の情感にきゅんとするとか ── まあ、そういう感じです。私の個人的な感性が基準なのです。
感性は、人それぞれです。
しかし、こうして、句作、作歌に努力している方々の作品に触れると、私にも作品への共感の心が生まれ、そこに新しい発見の喜びがあり、影響を受けて、昨日までとは少し違う新しい感性が生まれてくるように思います。生きるということは、そういうことだと思います。
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<俳壇から>
〇 バレーリーナ 始めましたと 落葉かな (塩尻市/神戸千寛さん)
秋も深まって、ひらひらと落ちてくる落ち葉たち。擬人法が可愛いですね。
(フランスのランスの公園で)
ヨーロッパの秋に紅葉を見ることは少なく、ほとんど黄葉です。でも、それはそれでロマンチックです。
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〇 湖の 晴れて義仲寺 時雨けり (八王子市/徳永松雄さん)
(義仲寺の門)
私も、2022年3月に訪ねました。2度目なのですが、昔、車で湖を巡ったときにちょっと立ち寄った1回目のことは、あまり覚えていません。
受付で、義仲寺(ギチュウジ)の説明書をいただきました。それによると、……
古くは、琵琶湖に面して建っていたそうです。
1180年、平家討伐の兵を信濃に挙げた木曽義仲は、北陸路で平氏の大軍を破って、京都に入ります。しかし、翌年、鎌倉に発した源範頼、義経軍と戦い、この地で討ち死にしました。
それから年月を経て、美しい尼僧が義仲の塚のほとりに草庵を結び、日々供養して過ごしたと伝えられています。
尼の没後、彼女の庵は、「無名庵」或いは「巴寺」と言われ、また、「木曽塚」「木曽寺」「義仲寺」と呼ばれるようになりました。
戦国の頃にはすっかり荒廃していましたが、近江国守佐々木氏が「源氏の御将軍の墳墓を荒れるにまかすはしのびない」と、寺を一度、再建したそうです。
ずっと後世のものですが、寺の庭には、木曽義仲の墓石が整えられています。
(木曽義仲の墓)
江戸時代、元禄期、松尾芭蕉はこの寺を(木曽義仲を)愛し、旅から帰るとこの寺を訪ね、再建された無名庵に滞在しました。
「行春をあふみの人とおしみける」(芭蕉)。
今、庭には、数多くの句碑が立っていて、さながら芭蕉翁を慕う俳人たちの聖地のよう。
その一つ。芭蕉の弟子の一人で、伊勢の俳人又玄(ユウゲン)は、無名庵に滞在中の芭蕉を訪ね、共に泊まりました。そのときの作、
「木曽殿と背中合せの寒さかな」(又玄)。
1694年、芭蕉は旅の途次、大阪で逝去しますが、遺言により、去来、其角ら門人たちは遺骸を川舟に乗せて淀川を遡り、琵琶湖の畔の義仲寺に運んで、葬儀を挙げ、埋葬しました。
(芭蕉翁の墓)
翁堂には、芭蕉や門人の姿を写した木彫が祀られています。
また、小さな巴塚もありました。
(翁堂)
明治・大正を経て、戦前、寺は再び荒廃していましたが、戦後になって再建され、また、境内全域が国の史跡に指定されました。
さて、冒頭の「湖の 晴れて義仲寺 時雨けり」の句。
義仲寺は時雨ていたが、参詣を終えて湖に出てみると、琵琶湖の湖面は晴れて明るかったということでしょうか。
(琵琶湖と比良の山並み)
歳時記に、「時雨」は、「山から山へあたかも夕立のように移動しながら降ったり、対岸は日が当たっているくせに、こちら側が降っていたり、なかなかに趣が深い」とあります。
また、俳句を作る人なら常識なのでしょうが、芭蕉翁の忌日を「時雨忌」と言うそうで、現在は毎年11月の第2土曜日に、このお寺で法要が営まれるそうです。そういうことが、この句には含まれているのでしょう。
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〇 冬はつとめて 明けの明星 消えるまで (さいたま市/関根博さん)
正木ゆう子先生評)「清少納言の『冬は早朝が良い』という言に、若い頃は『寒いのに』と思ったものだが、今は深く肯(ウナヅ)く。冬の早朝ほど清々しく美しいものはない。金星が太陽の光に消えるまで」。
今、『光る君へ』が放送されています。平安時代をドラマに映像化するのはムリだろうと危ぶんでいましたが、宮中や貴族の邸宅も、登場人物の衣装、或いは小道具などもうまく作られていて、さすがはNHKと感心しました。これは民放ではムリですね。
それに、あれこれとデフォルメされてはいますが、人間ドラマとしてもなかなか面白い。
私は歴史上の人物として、藤原道長にも紫式部にも興味があって、おぼろながらも私なりに人物の輪郭があります。その私のイメージを壊さなければ、歴史的にはわからないことがいっぱいあるので(紫式部など、名さえわからない)、フィクション(虚構)で描いてもらって結構と思っていました。ドラマでは、道長も、紫式部も、私のイメージする人物像なので、安心して、楽しく見ています。
『蜻蛉日記』を書いた道綱の母も、紫式部のライバル、『枕草子』の清少納言も登場します。
清少納言は漢詩文の知識をひけらかしたり、男性貴族をおちょくったりするところがありますが、それでも、彼女の文章のきりっとした美しさは素晴らしく、日本語の最高峰の一つだと私は思います。
「冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにはあらず、…… いと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし」。
西暦1000年頃の世界に、このような繊細で美しい感性は、他にありません。
話は変わりますが、正木ゆう子先生が読売文学賞を受賞されました。そのことを伝える讀賣新聞のコーナーに紹介されていた正木先生の句。
兄の死の のちの嫂(アニヨメ) すみれ草
説明の中に、正木先生に俳句を勧めてくれたお兄さんは49歳の若さで亡くなったとありました。「すみれ草」が愛おしい。
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<歌壇から>
〇 ローカル線に 遍路姿の 異国人 みずほの国の 秋を見つめて (前橋市/西村晃さん)
(雁)
日本人以上に、この列島の歴史や、文化、伝統を深く理解し、愛してくれる異国人がいます。
私たちも異国を旅するとき、その国について最低限の勉強をし、その歴史や文化に敬意をもって、見学したいものです。
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〇 老いるとは 忙しき日々よ 為(ナ)さねばの 半分もなせず 夕陽は沈む (大津市/吉川万代さん)
本当に、私も日々がそのとおりです。
でも、生きるということは、前を向いていること。興味・関心があり、何かに面白さを感じて、日々、生きることが一番だと思います。
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〇 まっすぐな 道もジグザク 帰りゆく シジミチョウの ようなランドセル (大和郡山市/大津穂波さん)
「ランドセル」でとらえた子どもの小さな姿が面白いです。「シジミチョウ」の喩えも素晴らしい。
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〇 初しぐれ ななめに叩く 畦道を 二人っきりの 登校班行く (浜松市/久野茂樹さん)
畦道を行く「二人っきりの登校班」がいいですね。ちょっと安藤広重の浮世絵が浮かんできました。
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〇 本名で 最期を迎ふ そのことが 逃亡の果ての 願ひなりけり (伊勢原市/佐藤治代さん)
小池光先生評) 「五十年近く逃亡していた連続爆破事件の犯人を名乗る男。本名を告げて、その数日後に病死した。最期に本名を明かしたことはいろいろなことを考えさせるおもい歌」。
名無しの「我」ではなく、最期は「なにがしの誰べえ」という名をもつ人として、死んでいきたかったのでしょう。
遠い日、まだ若くて、自分が思っているよりも遥かに他の影響を受けやすかった。にもかかわらず、観念の中で、自我は国を超え、世界に飛翔すると考えていた。
長い歳月を経て、年を取り、死を前にして、祖先から継承された姓と、親が付けてくれた名をもつ「我」に戻った。
遠くへ飛翔するのも我。しかし、親が付けてくれた名をもつのも我。
若者よ、ゆっくりと歩け。いたずらに先走らぬように。
(大糸線から安曇野)
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