( 雪の残る気多大社 )
昨秋、能登半島をめぐるツアーに参加した。
秋も深まり、年を越え、寒さが一段とこたえるようになったころ、寒いときには寒い所へ行くのが一番だと、再度北陸への2泊3日の旅に出た。
今回の旅の目的は、秋に参加したツアーが素通りした能登の国の一の宮である気多(ケタ)大社に参拝すること。
あとは、…… できたら、雨晴(アマハラシ)海岸から、冬の立山連峰を望めたらいいなあ。しかし、これは、お天気しだいだから、あまり期待しない。冬の北陸のイメージは、吹雪や大雪だ。
もう一つある。昔、出張で行って、夜、富山駅前の居酒屋で食べた白エビやブリの刺身がびっくりするほど新鮮で美味しかった。あれをもう一度。「お酒は "熱め" の燗がいい」。
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< 特急に乗り遅れる >
1月21日(月)。
今日は、七尾線の羽咋(ハクイ)駅で下車して、能登一の宮の気多(ケタ)大社に参拝し、そのあと、ローカル線を乗り換え、乗り換え、乗り換えして、雨晴(アマハラシ)駅のそばの「磯はなび」という宿に泊まる。
ところが出だしでつまづいた。大和路線が遅れ、タッチの差で、大阪発の特急サンダーバードに乗り遅れた。
今回の旅はローカル線の乗り継ぎが多く、綿密に計画を組んでいたのだが、全て大阪駅のプラットフォームでやり直しに。
それでも、宿に1時間遅れで着く計画を作り直した。スマホは便利だ。
当初の計画より30分遅れのサンダーバードに乗った。
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< 七尾線に乗る >
琵琶湖の北岸あたりから雪景色になることを期待していたが、積雪はなく、ぽかぽかと暖房の効いた車内で読書して過ごし、早い目の昼飯を食べた。
12時過ぎ、金沢駅で七尾線に乗り換える。当初の予定なら、ここで特急に乗り換えられるはずだったが、大阪で乗り遅れて、羽咋まで1時間弱かけのんびりと行く。
( 七尾線の車中 )
どこにでもあるローカル線ののどかな車両だが、女子高生が勉強しているのがいい。
七尾線は、金沢から日本海に沿って北上し、羽咋で方向を変えて、能登半島を西から東へと横断。波静かな七尾湾の和倉温泉まで行く。
一、二日前に降ったらしい積雪が、薄く田野を覆っていた。
この曇天では、雨晴海岸からの立山連峰の雄姿は、望むべくもない。だが、それは最初からあまり期待していない。人生、あまり欲張らない方がいい。
( うっすらと雪景色の田野 )
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< 「羽咋」の名のいわれを聞く >
羽咋駅で下車した。次に乗り継ぐ列車まで1時間足らず。本数の少ない路線バスを待つ余裕はないので、駅前からタクシーに乗って気多大社を目指した。
タクシーの運転手は心得て、運転しながら付近の観光案内をしてくれる。
それで、ふと、「羽咋(ハクイ)って、ずいぶん珍しい地名ですが、何か名のいわれがあるんですか」と聞いてみた。すると、運転手のおじさんは一呼吸おいて、「こんな風に聞いています」と、話してくれた。
昔、この地方に巨大な怪鳥が出現し、村人を襲い、凶作が続き、疫病が蔓延して、村は疲弊した。
このとき第11代の垂仁(スイニン)天皇が、その第10皇子の磐衝別(イワツク ワケノ) 命(ミコト)を派遣した。「岩を衝く」というのだから、勇猛な皇子だったに違いない。
垂仁天皇は、第10代の崇神天皇とともに、実在した可能性が高いとされる最も古えの大王である。記紀によると、若いときから英名の誉れが高い。
磐衝別命は供として連れてきた3頭の犬とともにこの怪鳥と戦い、矢で射、剣を振るって、ついに怪鳥を倒した。だが、この戦いのなかで、3頭の犬は死んだ。
犬は怪鳥の羽に喰らいつき、最期まではなさなかったという。
羽に喰らいついてはなさなかった犬を称えて、「羽咋」の名が生まれた …… のだそうだ。
…… 聞いてみるものだ。「ハクイ」という地名が「羽咋」になった。
磐衝別命はそのままこの地に住み着き、子孫は羽咋君(ハクイノキミ)を名乗って、国造(クニノミヤツコ)になった。
羽咋駅の近くに羽咋一族の墳墓群があるそうだ。
そのなかの磐衝別命の墓と伝えられる墳墓は100mの前方後円墳で、陵墓参考地に指定されている。また、犬を弔った水犬塚や、命(ミコト)の剣を埋めた剣塚などもあるとのこと。
記紀によれば、畿内を掌握した第10代崇神天皇は、叔父や従弟を四道将軍に任命して北陸道、東海道、山陽道、山陰道に派遣した。それに続く第11代垂仁天皇のときにも、不穏な動きのある豪族の制覇行があって、この話もその一つが伝説化したのもしれないと想像したりした。
山陽道に派遣された吉備津彦命は桃太郎伝説となった。桃太郎はイヌ、サル、キジを率いたが、この地の話で磐衝別命はイヌ3頭を率いた。サルやキジより、現実感がある。
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< 気多大社に参拝する >
車は二の鳥居の前に着き、運転手に見送られて参道を歩き、拝殿へと向かう。
右手に社務所があり、左手に手水舎。正面には安土桃山時代の神門。最近降ったらしい雪が、神門の屋根を白く覆っている。ここが能登の国の一の宮だ。
( 気多大社神門 )
日陰に残雪が残り、人気のない、しんとした雰囲気のなか、拝殿にて参拝した。
( 境内図 … 「入らずの森」 )
拝殿、本殿の奥は森になっており、森の中に奥社があるらしい。
だが、この神社の森は「入らずの森」とされ、神官でさえ、年1回、大晦日の夜に松明をもって入り、神事を行うだけだ。
1万坪の原生林は、タブ、ツバキ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹が密生し、国の天然記念物に指定されている。
( 森を垣間見る )
これもタクシーの運転手の話だが、昭和天皇の行幸があったとき、天皇はお迎えした金沢大学の植物学の先生とこの森に入られた。ところが、いつまでたっても出てこられず、石川県警やSPの人たちは、禁断の森の中へ様子を見に入るわけにもいかず、ずいぶん気をもんだそうだ。
二の鳥居まで戻り、タクシーに乗る。
参道は二の鳥居からそのまままっすぐ南へ延びて、途中、国道を横切り、海に到る。そこには海に向かって立つ一の鳥居がある。海に開かれた神社なのだ。能登は、そういう所だ。
祭神は大己貴(オオナムチノ)命。別名、オオクニヌシ。入らずの森の奥社に祀られているのは、スサノオとその妻クシナダヒメ。
遠い古代において、出雲の政治的影響力は日本海に沿い、北陸に及んでいた。古事記にも、オオナムチが北陸のヒメと結婚する話が出てくる。
オオナムチ(オオクニヌシ/オオモノヌシ)を祭神とする出雲系の神社の広がりを見れば、茫々とした古代もほんのわずか垣間見ることができるように思う。中部地方の諏訪湖のそばの諏訪大社も、初期ヤマト王権が尊崇した大和の三輪山をご神体とする大神神社も、縄文時代からある神祀りの場だったが、その後のある時期から出雲系の神を祀っている。こうしたことから、出雲の勢力圏の広がりを推測できる。そうすると、ヤマト王権への「国譲り」神話も、何らかの史実の反映ではないかと思われてくる。少なくとも、「国譲り」の「国」は出雲一国のこととは思われない。
タクシーの運転手は、列車の時間までまだ余裕があるからと、日本海の海岸に寄り道してくれた。
( 雪の残る日本海 )
雪の残る砂浜へ下りていくサーファーがいた。曇天の暗い海だが、意外に波は良いのかもしれない。
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< 雨晴海岸は曇っていた >
七尾線で「津幡(ツバタ)」までもどって、とやま鉄道に乗り換える。
さらに、「高岡」で40分の待ち合せをして、氷見線に乗り換えた。あと少しだ。
氷見線の車内に、雨晴海岸から望む立山連峰の写真が吊られている。この景色を見ることができたらいいなあ。だが、曇天である。
( 氷見線の車内 )
ほどなく列車は富山湾に沿って北上する。
あっ、見えた。
( 車窓から )
だが、すぐに暗い雲に隠れた。
人けのない「雨晴」駅に着く。
( 雨晴駅 )
小さな駅舎を出て、海岸に降りてみるが、小雨まで降ってきた。
やむなく、宿に電話し、迎えに来てもらう。もう午後5時だ。
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こ゚の夜泊った「磯はなび」は丘の上にあり、立山連峰は見えなくても、波静かな富山湾と能登の山並みを一望にして、素晴らしい。
夕食のレストランで、若い女子が飲み物の注文を聞きに来た。「生ビールと燗酒を」「……?? キリンとか、アサヒとかありますが、…… カン酒はありません」「……??」。しばらくやりとりして、「熱カンはあります」「……(笑い)……、では、熱燗を。でも、あまり熱すぎないように」。
どうも、「缶酒」と思ったらしい。
日本は日本酒ばなれが進んでいるが、日本酒ほど旨い酒はない。ワインも美味しいが、果実酒は飽きる。それに、体が冷える。日本酒は温めて飲めば、体にもやさしい。温めて飲んで旨い酒は、世界でも限られている。
しかし、最近、「熱燗」という言葉が使われるようになり、日本酒を知らない居酒屋の女子が、熱湯に近い酒をもってくるようになった。それで、居酒屋で「熱燗」という言葉は使わないようにしている。「燗酒」が通用しないのなら、これからは「お酒を燗にしてください」と言うことに。
海の幸の食事がとても美味しかった。若い人には量的にもの足りないかもしれないが、私には十分。生きのよい、美味しいものを、少量ずついただくのが良い。