< 皇帝ユスティニアヌスと皇后テオドーラのモザイク画>
ガラ・ブラキディア廟と同じ敷地内にサン・ヴィターレ聖堂がある。
東ゴート王国のテオドリックの時代に着工され(527年)、ビザンティン帝国のユスティニアヌス皇帝の時代に完成した(547年)。
サン・ヴィターレは、この地で殉教した聖人の名。
八角形の建物で、集中式の聖堂である。
なぜ八角形なのか?? 『大聖堂のコスモロジー』によると、神はこの世を創造し、7日目に休んだ。8という数字は、新しい始まりであり、復活と新生を意味するのだそうだ。
(サン・ヴィターレ聖堂)
今日も、アフリカの砂漠に発生し、途中で地中海の海水をたっぷり吸収した熱風がイタリア半島にやってきて、非常にむし暑い。今回、ヴェネツィアに来た時から、この暑さに苦しめられている。日本の夏でも経験しないようなむし暑さだ。シャツも汗に濡れている。
だが、思ったより広い聖堂の中は、空気がひんやりして心地よかった。中高年の見学者はみんなほっとしてベンチに腰掛け、坐ったまま遠くのモザイク画を見上げている。でも、ベンチからは遠すぎる。
モザイク画はどれも美しかった。その中でも、2枚の向き合ったモザイク画に目がとまった。
聖なる内陣の壁の中央の絵は、イエス・キリストを真ん中に、天使と殉教者のサン・ヴィターレが描かれている。
その絵の下の段の横に、ユスティニアヌス大帝の一群と、皇后テオドーラの一群が、向き合った位置に描かれていた。西欧カソリックの世界では、俗人である皇帝や皇后が内陣に描かれることはないだろう。ここは東ローマ(ビザンティン)帝国の影響下の世界なのだ。
全員が正面を向いて、一列で立っている。だが、立体的に描いてみせたルネッサンスの絵画よりも、私にはこういう絵の方が好ましい。
絵とは二次元世界に形と色彩で構成した美術である。マチスもピカソも、結局、二次元的な形と色の世界に戻った。
(ユスティニアヌス帝と廷臣たち)
この2枚の絵について、後に、NHK文化センターの講義で解説を聞くことができた。
皇帝ユスティニアヌスが手に持っているのは聖杯。皇帝のすぐ左側の人物がイタリア半島を東ローマ世界に取り戻した将軍のベリサリウス。皇帝のすぐ右には、後で付け加えて描かせたもう1人の将軍が覗いているが、それ以外、右側は聖職者だ。皇帝の横の聖職者は新任の大司教。何と!! 自分の上に自分の名を書かせている。前の聖職者の絵を塗りつぶして自分を描かせたことが、修復のときにわかった。
向かい合ったもう1枚のモザイク画は「テオドーラ皇后と女官たち」。
(テオドーラ皇后と女官たち)
皇后テオドーラはサーカスの踊子だったという。ユスティニアヌスに見染められ、相当の身分違いだが、后に迎えられた。
皇帝がまだ若い頃、首都コンスタンティノープルで、些細なことから民衆の大暴動が起きた。軍隊を出動させても止めようがなく、皇帝はもう駄目だとあきらめ逃げ出そうとした。そのとき、テオドーラは夫を叱咤し、激励して、そのため皇帝は踏みとどまり、ついに暴動を鎮圧した。そのとき逃げ出していたら、後に「大帝」と呼ばれ、歴史に名を残す皇帝にはなれなかっただろう。
そう思いながら眺めると、なるほど、少々きつそうな顔をしている。
それよりも、テオドーラから右に2人目の女性が美しい。どういう人なのか、ずっとわからなかったが、NHK文化センターの講義で知ることができた。皇后のすぐ右隣の女性は、将軍ベリサリウスの妻のアントニア。美しい人は、その娘のヨアンニナ。左手の指が隣の母に触れているのは、母娘関係を表すそうだ。
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<街で出会った日本人留学生>
サン・ヴィターレ聖堂を出て、街を歩いた。自分の位置が地図上のどこかわからなくなっていた。道を行く人は、観光客も、夕食の買い出しに出たマダムたちも、みんな建物の日陰になった片側を歩いている。とにかく暑く、体力を消耗した。
道の脇に小さな広場があり、建物の日陰になった石段に、観光客が三々五々、坐って休んでいた。その中に、この街で初めてだが、東洋系の若い女性がいるのが目についた。とにかくひと休みし、何よりも地図をじっくり見たい。「日本人ですか??」と声をかけたら、そうだと言う。横に坐らせてもらった。
それから、思いがけずも1時間ほど、涼しい日陰で話をした。
数日ぶりの日本語の会話はなつかしかった。意識していないが、たまたま日本人がいて日本語で話をすると、日本語に飢えていた自分に気づく。この感じは、異国で一人旅をしてみないとわからない。
彼女にとっては本当に久しぶりの母国語での会話で、本人は意識していないだろうが、ほとんど彼女がしゃべり、私は聞いていた。
日本で建築事務所に勤めていたが、これからの日本は、30年でスクラップし建て替えるという使い捨て型の持ち家制度の時代は終わるだろうと思った。良い家を建て、リフォームしながら長く住む時代になるに違いない。リフォームの文化は日本にはあまりない。それで、イタリアに行って勉強しようと考えた。
留学するなら、ローマやミラノのような大都市ではなく、あまり知られていない、しかも文化の香りのある町にしたいと思って、ラヴェンナの語学学校を選んだ。学校から、モザイク画などの工房に入ることもできる。
節約するため、1部屋をカーテンで仕切って4人でシェアしている。みんな、国籍が違うけど、コミュニケーションはみんな頑張ってイタリア語。夏休みには誰かの家に遊びに行くつもりだ。多分、スイスになりそうだ。
ラヴェンナには、調べたけど、日本人は1人も住んでいない。
午後、自分の授業があるので、出てきて、途中で昼食のピザを買って、今、ここで食べたところだ。
そんな話だった。
日本にもこういう若い女性が育っていることに感銘を受けた。自分のような世代と違って、若い彼女は軽々と日本海とユーラシア大陸を跳躍し、単身、異国で勉強している。日本の未来も捨てたものではない。
授業は1コマだから、終わったらモザイクの美しい教会を案内して回りますよと言ってくれたが、夜にならないうちにヴェネツィアに帰りたいからと断った。
駅まで連れて行ってもらって、彼女は学校へ、私はタクシーで郊外のサンタ・ポリナーレ教会へ向かった。
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<大聖堂の心和む牧歌的なモザイク画>
海外旅行でどこかの町を訪れたとき、もちろん効率的な回り方も考えるが、基本は見たいものから見て回ることにしている。一番見たいものを後回しにして、その結果、後悔するようなことにはなりたくない。他で思わぬ時間をとってしまい、閉館時間に間に合わなかったとか、観光の途中でパスポートをスラれて、観光を中止して警察署に行かねばならなくなったとか。異国の警察署の体験も悪くはないが(2度も経験しました)、一番見たいものを見ずに帰るのは、やはり残念である。
ラヴェンナの3番目は、郊外のサンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂。
駅前からバスもあるのだろうが、知らない土地のバスの路線はわかりにくい。その路線の停留所は駅前のどこにあるのかとか、何という名の停留所で降りるのかとか、乗り越してしまったらどうしようとか。
多分、5、6キロの距離だから、タクシー代はたいしたことはない。ただ、ガイドブックには、イタリアのタクシーのなかにはぼったくりをする運転手がいるから気を付けてと書いてある。
しかし、駅前から乗ったタクシーの運転手は感じの良い青年で、大聖堂に着くと、ちょっと昼寝するから見学が終わるまで待つよと言ってくれ、駅前に帰ったときに、待ち時間なしの往復の料金しか請求しなかった。それで、降りるとき、こちらもチップをはずんだら、「ありがとう。いい旅を」と握手を求められた。
サンタアポリナーレは、ラヴェンナに初めてキリスト教を広め、殉教した聖人らしい。その墓の上に最初は小さな礼拝堂が造られ、6世紀前半に現在の大聖堂が建てられた。
中に入ると、身廊と側廊を隔てる石柱が奥へ向かってずらっと並ぶパジリカ様式の聖堂だった。装飾らしい装飾はない。その奥の内陣の半円球の壁面に、目指すモザイク画があった。グラビアの写真を見て、いつか、ぜひとも実物を見たいと思っていた。
(サンタポッリナーレ・イン・クラッセ聖堂)
聖アポリナーレを中心に、野の花と、樹木と、羊。牧歌的な緑の大地が描かれている。
多分、ガッラ・プラチーディア廟のモザイク画も、このようなメルヘンチックなトーンなのだろう。磔刑のキリストや、貴婦人のようなマリア像と比べて、異教徒でも心がやすらぎ、いつまでも見ていたいと思う絵だった。
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<壁面の奥行きを使った長い行列のモザイク画>
タクシーで駅前に戻り、帰りの列車までに十分、時間があったので、サンタポッリナーレ・ヌォーヴォ聖堂へ行った。駅前からの行き方は、さっきの留学生の女性に教えてもらっていた。
この聖堂は、東ゴード王国をつくったテオドリクス王の宮廷聖堂として、504年に完成し、奉献された。
「パジリカ式聖堂は、入口から、半円で突出する祭室に向かう、水平的方向性が強調された空間構成であることがわかる」(馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』)。
聖堂の中に入ると、身廊と側廊を隔てる22本の円柱が正面の祭室に向かってずらっと並び、奥行きが深い。
圧倒的なのは、円柱列の上の壁面を飾るモザイク画だ。
右側の壁面には、26人の殉教者の長い列が、奥の玉座のキリストに向かって進んでいる。1人1人は、似ているが、みな違う。
そして、左側の壁面には22人の殉教聖女たちの長い列が、奥の祭室方向に進んでいるように描かれている。
聖女たちの上の壁には、イエスの誕生を祝うためにベツレヘムを訪れた東方3博士。
(サンタポッリナーレ・ヌォーヴォ聖堂)
この聖堂の中に一歩入って起きる感動は、その絵画的構成力がもたらすものである。
ラヴェンナの最後に、もう一つ、良い絵に出合った。旅先で見る絵も、一期一会である。
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充実した1日だった。列車を乗り継いでヴェネツィアのサンタ・ルチア駅に帰ると、橙色の雲の向こうにちょうど太陽が沈んだ。
今夜もホテルの近くのリオ(小運河)のそばのレストランで、3夜続けて、晩飯を食べた。レストランのマスターとも、今夜でお別れだ。
最初はお互いに言葉が通じなくて困った。メニューを見てもわからなかった。それでも面倒くさがらず、丁寧に応対してくれた。「トマト」だけは通じて、お互いにっこりした。指さされた箇所を見ると、トマトと書いてある。ローマ字だ。トマトを使った料理だった。2日目は、他の客の料理を運びながら、「また来てくれたの」という風にさりげなくウインクしてくれた。
旅は一期一会。物静かな良い人だ。
日中、体中の汗が出た。ビールを飲んでも渇きは治まらなかったが、冷えた白ワインは命の水にように渇きを癒してくれた。
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<ヴェネツィアからパリへ>
ヴェネツィアに魅せられて、今回は3度目の訪問だった。
3度目のヴェネツィアで3、4日も過ごすと、15.16世紀の閉ざされた空間にだんだんに息苦しさを感じるようになった。この街は化石のような町。或いは、テーマパークのような町と言ってもいい。16世紀の仮想現実の空間である。
それに、6月のヴェネツィアは、広場や路地に欧米や中東からやって来た観光客があふれ、若者や少年がリオ(小運河)で花火をしたりして夜遅くまで騒ぐのも、気もちをしんどくさせた。
飛行機でパリに移動し、セーヌ川の橋の上に立ったとき、空が広いと感じた。
パリの街角で聞こえてくるアコーデオン弾きのおじさんのシャンソンの音色が軽やかで、心地良かった。このとき初めてパリを美しいと感じた。
これでヴェネツィアから卒業だなと思った。